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紙の地図とWEB地図は何が違う?紙の地図から読み解く「街のカラー」

紙の地図とWEB地図は何が違う?紙の地図から読み解く「街のカラー」

執筆:少年B 地図は、いったい何のためにあるのでしょうか。この記事を読んでいるあなたは「迷わないようにするため」とか「周囲のお店を把握するため」と答えるのではないでしょうか。少なくとも、わたしはそう思っていました。しかし、存在しない街の地図を描き続ける空想地図作家の今和泉隆行さんは「地図を見ると、人々の生活や風景の変化がわかる」と言います。えっ、一体どういうこと……?今回はそんな今和泉さんに、知られざる地図の秘密や、新たな地図の楽しみかたまで、ぜんぶ聞いてきました。 ※記事内の地図は最新のものではございません。 今和泉 隆行(いまいずみ たかゆき)1985年生まれ。7歳の頃から実在しない都市の地図=空想地図を描き続けている「空想地図作家」。地図デザイン、テレビドラマの地理監修・地図制作にも携わる他、地図を通じた人の営みを読み解き、新たな都市の見方、伝え方作りを実践している。(X:@chi_ri_jin) 聞き手:少年B1985年生まれのフリーライター。地図自体に造詣が深いわけではないが、地図を見ながら「こことここの間に道路ができたら便利だなぁ」などと妄想を膨らませるのが趣味のひとつ。(X:@raira21) 地図の役割は変化する 少年B:こんにちは! 今日は新しい地図の楽しみかたを教えてもらいにきました。では、さっそくGoogleマップを開いていきましょうか。 今和泉:あ、ちょっと待ってください。今のGoogleマップだと、地図を楽しむのにはちょっと不向きかもしれません。 少年B:ええっ!? じゃあどんな地図がいいんですか? 今和泉:今回は昭文社のこの本、「街の達人」を使いましょうか。今のGoogleマップは「情報の背景」に徹しているので、見た目の情報量は薄くなっているんです。いいとかわるいではなくて、ですよ。 少年B:情報の背景??? 今和泉:WEB地図は「検索するための地図」なんです。目的地や経路を表示するためのものなので、検索結果が映えるよう、地図としての情報は薄くしているんです。だって、A地点からB地点に行くための経路や目的地を探しているのに、他の情報でゴチャゴチャしてたら見づらいじゃないですか。 少年B:確かに……! ▲© Google 現在のGoogleマップは、検索情報を目立たせるため、あえて情報を薄くしているという 今和泉:なので、検索結果がない状態では情報が少ないんです。逆に、地図会社の作る紙の地図は、検索をしない時代の「全部乗せ」なんです。見比べてみると全然違うのでおもしろいですよ。 少年B:WEB地図がピザ生地にお好みでトッピングをしていくカスタマイズだとすると、紙の地図はウルトラスーパーデラックス、みたいなイメージですね。 今和泉:そうです。実は、空想地図を描いている人たちは、「Googleマップは実用的に使うくらいだったけど、昭文社の都市地図を読み、描くことに開眼した」みたいな人がけっこう多いんです。 少年B:ええっ!? そうなんですか??? 今和泉:紙の地図は情報量の多いグラフィックとして、「美しい」「こういうものを描きたい!」となるんだと思います。Googleマップはとても便利ですけど、検索情報を入れないとプレーンのピザ生地なので、それを「描きたい!」とはあんまり思わないんでしょうね。 でも、実はそんなGoogleマップにも紙の地図の影響があったのをご存じですか? 少年B:えっ、知らないです! そんなものがあるんですか!? 今和泉:最近はなくなってしまったんですが、初期のGoogleマップはコンビニなどのロゴを載せていたんですよ。これは、日本チームの発案だそうです。元々、お店のロゴを載せていたのは、それこそマップルなどの紙の地図。紙地図の文化がWEB地図にも伝わっていったんですね。 ▲2006年のGoogleマップ。コンビニのアイコンが見える © Google...

紙の地図とWEB地図は何が違う?紙の地図から読み解く「街のカラー」

執筆:少年B 地図は、いったい何のためにあるのでしょうか。この記事を読んでいるあなたは「迷わないようにするため」とか「周囲のお店を把握するため」と答えるのではないでしょうか。少なくとも、わたしはそう思っていました。しかし、存在しない街の地図を描き続ける空想地図作家の今和泉隆行さんは「地図を見ると、人々の生活や風景の変化がわかる」と言います。えっ、一体どういうこと……?今回はそんな今和泉さんに、知られざる地図の秘密や、新たな地図の楽しみかたまで、ぜんぶ聞いてきました。 ※記事内の地図は最新のものではございません。 今和泉 隆行(いまいずみ たかゆき)1985年生まれ。7歳の頃から実在しない都市の地図=空想地図を描き続けている「空想地図作家」。地図デザイン、テレビドラマの地理監修・地図制作にも携わる他、地図を通じた人の営みを読み解き、新たな都市の見方、伝え方作りを実践している。(X:@chi_ri_jin) 聞き手:少年B1985年生まれのフリーライター。地図自体に造詣が深いわけではないが、地図を見ながら「こことここの間に道路ができたら便利だなぁ」などと妄想を膨らませるのが趣味のひとつ。(X:@raira21) 地図の役割は変化する 少年B:こんにちは! 今日は新しい地図の楽しみかたを教えてもらいにきました。では、さっそくGoogleマップを開いていきましょうか。 今和泉:あ、ちょっと待ってください。今のGoogleマップだと、地図を楽しむのにはちょっと不向きかもしれません。 少年B:ええっ!? じゃあどんな地図がいいんですか? 今和泉:今回は昭文社のこの本、「街の達人」を使いましょうか。今のGoogleマップは「情報の背景」に徹しているので、見た目の情報量は薄くなっているんです。いいとかわるいではなくて、ですよ。 少年B:情報の背景??? 今和泉:WEB地図は「検索するための地図」なんです。目的地や経路を表示するためのものなので、検索結果が映えるよう、地図としての情報は薄くしているんです。だって、A地点からB地点に行くための経路や目的地を探しているのに、他の情報でゴチャゴチャしてたら見づらいじゃないですか。 少年B:確かに……! ▲© Google 現在のGoogleマップは、検索情報を目立たせるため、あえて情報を薄くしているという 今和泉:なので、検索結果がない状態では情報が少ないんです。逆に、地図会社の作る紙の地図は、検索をしない時代の「全部乗せ」なんです。見比べてみると全然違うのでおもしろいですよ。 少年B:WEB地図がピザ生地にお好みでトッピングをしていくカスタマイズだとすると、紙の地図はウルトラスーパーデラックス、みたいなイメージですね。 今和泉:そうです。実は、空想地図を描いている人たちは、「Googleマップは実用的に使うくらいだったけど、昭文社の都市地図を読み、描くことに開眼した」みたいな人がけっこう多いんです。 少年B:ええっ!? そうなんですか??? 今和泉:紙の地図は情報量の多いグラフィックとして、「美しい」「こういうものを描きたい!」となるんだと思います。Googleマップはとても便利ですけど、検索情報を入れないとプレーンのピザ生地なので、それを「描きたい!」とはあんまり思わないんでしょうね。 でも、実はそんなGoogleマップにも紙の地図の影響があったのをご存じですか? 少年B:えっ、知らないです! そんなものがあるんですか!? 今和泉:最近はなくなってしまったんですが、初期のGoogleマップはコンビニなどのロゴを載せていたんですよ。これは、日本チームの発案だそうです。元々、お店のロゴを載せていたのは、それこそマップルなどの紙の地図。紙地図の文化がWEB地図にも伝わっていったんですね。 ▲2006年のGoogleマップ。コンビニのアイコンが見える © Google...

伊能忠敬の実測によって完成した近代日本地図

伊能忠敬の実測によって完成した近代日本地図

江戸時代に千葉県域が生んだ偉人といえば、もちろん伊能忠敬(いのうただたか)を忘れてはなりません。江戸時代後期、忠敬はみずからの足で日本全国をくまなく歩き回り、実測に基づく日本地図を作成しました。日本最初の近代地図は、忠敬の死後に完成することになりますが、いうなれば忠敬は「日本地図の父」。忠敬がどのようにして偉業を成し遂げたのか、その足跡を追ってみましょう。 伊能忠敬の商人・名主としての手腕 1745(延享2)年、伊能忠敬は上総国山辺郡小関村(やまのべぐんこせきむら)(九十九里町小関)に生を受けました。長じて17歳になると、香取郡佐原村(香取市佐原)の豪商・伊能家の婿養子になります。伊能家は佐原で地主、酒造、米相場、運搬業、金融業など多角的な経営をしていましたが、伊能忠敬はそこで商才を発揮。伊能家を資産3万両(約45億円)の大豪商へと押し上げました。 1781(天明元)年、伊能忠敬は名主(なぬし)となると、その直後に天明の大飢饉が起こります。すると、窮民救済のために民政に力を注ぎ、また、利根川の築堤普請でも工費を安くまとめるなど手腕を発揮しました。この頃、伊能忠敬は名字帯刀が許され、村方後見にも任じられていました。 38歳のときに妻ミチを亡くした伊能忠敬は、後妻にも先立たれ、49歳にして隠居を決意。家督を長男に譲るのでした。 「下総の小江戸」佐原 佐原は利根川の支流・小野川の河口部に開かれた小さな村でしたが、江戸時代に幕府の天領(直轄地)となりました。利根川東遷事業やそれにともなう新田開発では物資集積場として注目され、さらに、九十九里浜から利根川へと河川が接続され物資の運搬ルートが確立すると、流通拠点として大きく発展。1768(明和5)年には戸数1322軒、人口5085人と「下総の小江戸」と称されるほどの繁栄を見せました。 こうした富裕な村で財を成した伊能家のような豪商が、豊かな経済力を背景に地域文化を育んだことも、伊能忠敬のような人材を出す素地となったと考えられます。 千葉県香取市佐倉にある伊能忠敬旧居 伊能忠敬50歳の転機 ここで伊能忠敬にとっての転機が訪れます。50歳になった伊能忠敬は、幼少時より興味を抱いていた暦学を学ぶため、江戸に出て幕府天文方の高橋至時(たかはしよしとき)に弟子入りしたのです。このとき至時は31歳。伊能忠敬は19歳年下の師匠に礼を尽くし、暦学や天体観測を学び始めました。 近年、伊能忠敬を「中高年の星」とセカンドキャリアの面で賞賛する気運があるのは、彼が50歳になってから学問の道に入ったことを評価してのことです。 伊能忠敬が正確な暦のために志した測量と地図作成 師匠の至時は1797(寛政9)年に「寛政暦」を完成させましたが、その完成度に満足していませんでした。正確な暦をつくるには地球の大きさや日本各地の緯度や経度を知る必要があり、そのためには「江戸と蝦夷地(えぞち)(北海道)の緯度差と距離を測ればいい」という結論に至ります。 かくして伊能忠敬は、子午線一度の正確な実測値(緯度)を割り出すため、測量と地図作成を志すようになります。 伊能忠敬が蝦夷地測量を志した当時の北方情勢とは ちょうどこの頃、蝦夷地にはロシア船が来航するようになっていました。日本の貨物船が襲われる事案が続き、幕府は危機感を募らせていた最中でした。それまで幕府は、蝦夷地の管理を松前藩に委ねていたが直轄地にすることを決定。こうした北方情勢の緊張から、幕府も蝦夷地の正確な地図を求めるようになっていました。 かくして、「地図作成」という名目を掲げつつ、子午線一度の実測値をつかむ野望を秘め、至時は蝦夷地の海岸線の測量を幕府に願い出て、伊能忠敬を推薦するのでした。 伊能忠敬は55歳で測量の旅へ! しかし、幕府からはすんなりと許可は下りませんでした。商人上がりで実績がなく、さらに高齢の伊能忠敬は、適任であると思われなかったのです。 測量にかかる実費を伊能忠敬が負担するなどを条件に、ようやく幕府から許可が下り、伊能忠敬が江戸の深川黒江町(東京都江東区門前仲町)の自宅を発って測量の旅に出たのは 1800(寛政12)年閏4月のこと。伊能忠敬は55歳になっていました。 千葉県香取市佐倉にある伊能忠敬記念館では実際に使われた貴重な測量器具を見ることができる 伊能忠敬の第1次測量:蝦夷地と東北の測量 この測量は180日以上にもおよび、そこで得られたデータをもとに蝦夷地と東北の地図22 枚が作成され、子午線一度を27里と計算しました。 ちなみに伊能忠敬は、この旅で幕府からの手当てが20両出たとはいえ、道具代や支度代を除いて約80両も負担しています。   伊能忠敬の第2次測量:測量は驚異の正確さだった! 翌年の第2次測量は242日間におよびました。場所は、伊豆以北の関東・東北の東海岸と東北道で、今度は子午線一度を28.2里(約110㎞)と実測。これは現在のメートル法に換算しても、誤差0.2%程度という驚異の正確さでした。...

伊能忠敬の実測によって完成した近代日本地図

江戸時代に千葉県域が生んだ偉人といえば、もちろん伊能忠敬(いのうただたか)を忘れてはなりません。江戸時代後期、忠敬はみずからの足で日本全国をくまなく歩き回り、実測に基づく日本地図を作成しました。日本最初の近代地図は、忠敬の死後に完成することになりますが、いうなれば忠敬は「日本地図の父」。忠敬がどのようにして偉業を成し遂げたのか、その足跡を追ってみましょう。 伊能忠敬の商人・名主としての手腕 1745(延享2)年、伊能忠敬は上総国山辺郡小関村(やまのべぐんこせきむら)(九十九里町小関)に生を受けました。長じて17歳になると、香取郡佐原村(香取市佐原)の豪商・伊能家の婿養子になります。伊能家は佐原で地主、酒造、米相場、運搬業、金融業など多角的な経営をしていましたが、伊能忠敬はそこで商才を発揮。伊能家を資産3万両(約45億円)の大豪商へと押し上げました。 1781(天明元)年、伊能忠敬は名主(なぬし)となると、その直後に天明の大飢饉が起こります。すると、窮民救済のために民政に力を注ぎ、また、利根川の築堤普請でも工費を安くまとめるなど手腕を発揮しました。この頃、伊能忠敬は名字帯刀が許され、村方後見にも任じられていました。 38歳のときに妻ミチを亡くした伊能忠敬は、後妻にも先立たれ、49歳にして隠居を決意。家督を長男に譲るのでした。 「下総の小江戸」佐原 佐原は利根川の支流・小野川の河口部に開かれた小さな村でしたが、江戸時代に幕府の天領(直轄地)となりました。利根川東遷事業やそれにともなう新田開発では物資集積場として注目され、さらに、九十九里浜から利根川へと河川が接続され物資の運搬ルートが確立すると、流通拠点として大きく発展。1768(明和5)年には戸数1322軒、人口5085人と「下総の小江戸」と称されるほどの繁栄を見せました。 こうした富裕な村で財を成した伊能家のような豪商が、豊かな経済力を背景に地域文化を育んだことも、伊能忠敬のような人材を出す素地となったと考えられます。 千葉県香取市佐倉にある伊能忠敬旧居 伊能忠敬50歳の転機 ここで伊能忠敬にとっての転機が訪れます。50歳になった伊能忠敬は、幼少時より興味を抱いていた暦学を学ぶため、江戸に出て幕府天文方の高橋至時(たかはしよしとき)に弟子入りしたのです。このとき至時は31歳。伊能忠敬は19歳年下の師匠に礼を尽くし、暦学や天体観測を学び始めました。 近年、伊能忠敬を「中高年の星」とセカンドキャリアの面で賞賛する気運があるのは、彼が50歳になってから学問の道に入ったことを評価してのことです。 伊能忠敬が正確な暦のために志した測量と地図作成 師匠の至時は1797(寛政9)年に「寛政暦」を完成させましたが、その完成度に満足していませんでした。正確な暦をつくるには地球の大きさや日本各地の緯度や経度を知る必要があり、そのためには「江戸と蝦夷地(えぞち)(北海道)の緯度差と距離を測ればいい」という結論に至ります。 かくして伊能忠敬は、子午線一度の正確な実測値(緯度)を割り出すため、測量と地図作成を志すようになります。 伊能忠敬が蝦夷地測量を志した当時の北方情勢とは ちょうどこの頃、蝦夷地にはロシア船が来航するようになっていました。日本の貨物船が襲われる事案が続き、幕府は危機感を募らせていた最中でした。それまで幕府は、蝦夷地の管理を松前藩に委ねていたが直轄地にすることを決定。こうした北方情勢の緊張から、幕府も蝦夷地の正確な地図を求めるようになっていました。 かくして、「地図作成」という名目を掲げつつ、子午線一度の実測値をつかむ野望を秘め、至時は蝦夷地の海岸線の測量を幕府に願い出て、伊能忠敬を推薦するのでした。 伊能忠敬は55歳で測量の旅へ! しかし、幕府からはすんなりと許可は下りませんでした。商人上がりで実績がなく、さらに高齢の伊能忠敬は、適任であると思われなかったのです。 測量にかかる実費を伊能忠敬が負担するなどを条件に、ようやく幕府から許可が下り、伊能忠敬が江戸の深川黒江町(東京都江東区門前仲町)の自宅を発って測量の旅に出たのは 1800(寛政12)年閏4月のこと。伊能忠敬は55歳になっていました。 千葉県香取市佐倉にある伊能忠敬記念館では実際に使われた貴重な測量器具を見ることができる 伊能忠敬の第1次測量:蝦夷地と東北の測量 この測量は180日以上にもおよび、そこで得られたデータをもとに蝦夷地と東北の地図22 枚が作成され、子午線一度を27里と計算しました。 ちなみに伊能忠敬は、この旅で幕府からの手当てが20両出たとはいえ、道具代や支度代を除いて約80両も負担しています。   伊能忠敬の第2次測量:測量は驚異の正確さだった! 翌年の第2次測量は242日間におよびました。場所は、伊豆以北の関東・東北の東海岸と東北道で、今度は子午線一度を28.2里(約110㎞)と実測。これは現在のメートル法に換算しても、誤差0.2%程度という驚異の正確さでした。...

大阪の旧街道の痕跡~大阪から西国・京都・熊野へ!~

大阪の旧街道の痕跡~大阪から西国・京都・熊野へ!~

飛鳥時代以降、難波と都を結ぶ街道が整備されました。摂津からは熊野三山や高野山へ参拝するための街道も設けられました。府下にある旧街道をたどってみましょう。   旧街道は大阪の繁栄を支えた 大阪湾や淀川、大和川があり、物資の集散地であった大阪。舟で運ばれた大量の荷物は船着場で牛馬や荷車に乗せ換えられて陸上を運ばれました。 陸上交通の拠点となる街道の発展に影響をおよぼしたのは、都の位置と宗教施設の場所です。   【大阪の旧街道】奈良から九州までを結んだ山陽道 飛鳥時代に大和国(現・奈良県)から西の九州・大宰府へ向かう幹線道路として設けられたのが、山陽道(のちの西国街道)です。摂津を東西に横断する山陽道には、芥川(現・高槻市)や郡山(現・茨木市)、瀬川(現・箕面市)などの宿駅が設けられました。 【大阪の旧街道】のちの世まで繫栄した暗越奈良街道 奈良時代には、大和と難波(現・大阪市)を結ぶ東西方向の街道が重視され、丹比道(たじひみち)(のちの竹内街道)や大津道(のちの長尾街道)など複数の街道が整備されました。そのうちの1つが、難波と平城京を最短距離(約35㎞)で結ぶ暗越(くらがりごえ)奈良街道です。 奈良時代には、唐や新羅の外国使節団もこの街道を行き来したといいます。江戸時代には大名の参勤路としても利用されました。最盛期に16の旅籠が軒を連ねたのは、街道唯一の宿場町「松原宿」(現・東大阪市)です。 暗越奈良街道は伊勢参りにも使われた また、大和郡山藩(現・奈良県大和郡山市)の本陣が暗峠(くらがりとうげ)(現・東大阪市と奈良県生駒市の境)の村に置かれました。江戸時代中期から後期には、庶民が使う伊勢参りの街道としても使われたそうです。 旧街道の風情が残る暗峠   【大阪の旧街道】大阪と平安京を繋いだ三島道 三島道は、平安京と摂津国府(現・大阪市天王寺区または中央区)や河内国府(現・藤井寺(ふじいでら)市)をつなぐ街道として整備されました。難波から北上して太田宿(現・茨木市)あたりで山陽道と合流したと考えられています。 【大阪の旧街道】大阪から高野山への参拝道・高野街道 高野街道は都や摂津を始点とする、高野山への参拝道として整備されました。いくつかのルートがあり、それぞれに名前がつけられています。 高野街道のうち、もっとも東に位置する東高野街道は京と河内国府を結ぶ道路として重用されました。 816年に弘法大師が高野山に金剛峯寺を開基すると、貴族たちに高野山への参詣が流行。その後、庶民にも仏教信仰が広がり、東高野街道は参拝道としてぎわいました。 江戸時代には、枚方(現・枚方市)や守口(現・守口市)に宿駅が設けられ、物資や人が往来したといいます。 羽曳野の誉田八幡宮あたりの東高野街道   【大阪の旧街道】大阪から熊野三山へつながる熊野街道 熊野街道は摂津を南へ縦断し、熊野三山(和歌山県田辺市、新宮市、那智勝浦町)へ向かう街道です。平安時代中期から鎌倉時代にかけては、蟻(あり)の行列にたとえて「蟻の熊野詣」と呼ばれる光景が見られたそうです。 大阪府下の旧街道と現在の交通網を比べてみよう 「大阪を歩こう」webサイトの図を元に作成 大阪の旧街道は奈良時代や平安時代につくられたものが多く、現在も府内に残っています。   府下を縦横断する旧街道はこのほかにもあります。律令時代や江戸時代の地図と現在の地図を見比べながら、当時の旅を想像するのも楽しいでしょう。...

大阪の旧街道の痕跡~大阪から西国・京都・熊野へ!~

飛鳥時代以降、難波と都を結ぶ街道が整備されました。摂津からは熊野三山や高野山へ参拝するための街道も設けられました。府下にある旧街道をたどってみましょう。   旧街道は大阪の繁栄を支えた 大阪湾や淀川、大和川があり、物資の集散地であった大阪。舟で運ばれた大量の荷物は船着場で牛馬や荷車に乗せ換えられて陸上を運ばれました。 陸上交通の拠点となる街道の発展に影響をおよぼしたのは、都の位置と宗教施設の場所です。   【大阪の旧街道】奈良から九州までを結んだ山陽道 飛鳥時代に大和国(現・奈良県)から西の九州・大宰府へ向かう幹線道路として設けられたのが、山陽道(のちの西国街道)です。摂津を東西に横断する山陽道には、芥川(現・高槻市)や郡山(現・茨木市)、瀬川(現・箕面市)などの宿駅が設けられました。 【大阪の旧街道】のちの世まで繫栄した暗越奈良街道 奈良時代には、大和と難波(現・大阪市)を結ぶ東西方向の街道が重視され、丹比道(たじひみち)(のちの竹内街道)や大津道(のちの長尾街道)など複数の街道が整備されました。そのうちの1つが、難波と平城京を最短距離(約35㎞)で結ぶ暗越(くらがりごえ)奈良街道です。 奈良時代には、唐や新羅の外国使節団もこの街道を行き来したといいます。江戸時代には大名の参勤路としても利用されました。最盛期に16の旅籠が軒を連ねたのは、街道唯一の宿場町「松原宿」(現・東大阪市)です。 暗越奈良街道は伊勢参りにも使われた また、大和郡山藩(現・奈良県大和郡山市)の本陣が暗峠(くらがりとうげ)(現・東大阪市と奈良県生駒市の境)の村に置かれました。江戸時代中期から後期には、庶民が使う伊勢参りの街道としても使われたそうです。 旧街道の風情が残る暗峠   【大阪の旧街道】大阪と平安京を繋いだ三島道 三島道は、平安京と摂津国府(現・大阪市天王寺区または中央区)や河内国府(現・藤井寺(ふじいでら)市)をつなぐ街道として整備されました。難波から北上して太田宿(現・茨木市)あたりで山陽道と合流したと考えられています。 【大阪の旧街道】大阪から高野山への参拝道・高野街道 高野街道は都や摂津を始点とする、高野山への参拝道として整備されました。いくつかのルートがあり、それぞれに名前がつけられています。 高野街道のうち、もっとも東に位置する東高野街道は京と河内国府を結ぶ道路として重用されました。 816年に弘法大師が高野山に金剛峯寺を開基すると、貴族たちに高野山への参詣が流行。その後、庶民にも仏教信仰が広がり、東高野街道は参拝道としてぎわいました。 江戸時代には、枚方(現・枚方市)や守口(現・守口市)に宿駅が設けられ、物資や人が往来したといいます。 羽曳野の誉田八幡宮あたりの東高野街道   【大阪の旧街道】大阪から熊野三山へつながる熊野街道 熊野街道は摂津を南へ縦断し、熊野三山(和歌山県田辺市、新宮市、那智勝浦町)へ向かう街道です。平安時代中期から鎌倉時代にかけては、蟻(あり)の行列にたとえて「蟻の熊野詣」と呼ばれる光景が見られたそうです。 大阪府下の旧街道と現在の交通網を比べてみよう 「大阪を歩こう」webサイトの図を元に作成 大阪の旧街道は奈良時代や平安時代につくられたものが多く、現在も府内に残っています。   府下を縦横断する旧街道はこのほかにもあります。律令時代や江戸時代の地図と現在の地図を見比べながら、当時の旅を想像するのも楽しいでしょう。...

【埼玉県】秩父盆地はかつて古秩父湾という海でクジラも泳いでいた!

【埼玉県】秩父盆地はかつて古秩父湾という海でクジラも泳いでいた!

四方をぐるりと山地に囲まれている秩父盆地は、かつて古秩父湾という海でした。にわかに信じがたいのですが、地層や化石が土地の歴史を物語っています。   秩父盆地から海棲生物の化石が採取される理由とは? 秩父盆地は、北を上武(じょうぶ)山地、西と南を奥秩父山地、そして東を外秩父山地に取り囲まれた1辺12㎞ほどの正方形に近い形状をしています。そしてこの盆地では、チチブクジラ、チチブサワラ、チチブホタテ……いずれも「秩父」がついた海棲生物の化石が採取されています。 しかしなぜ、海なし県の埼玉、しかも山中の秩父で海なのでしょうか。答えは簡単、かつての秩父には古秩父湾(こちちぶわん)という海が広がっていたのです。   秩父盆地と古秩父湾の歴史は日本列島の歴史そのもの! 古秩父湾の歴史は、日本列島の歴史そのものに関係します。 日本列島ができ始めたのは約2500万年前。プレート運動によって、ユーラシア大陸の東端で地殻が引き伸ばされ、約1900万年前には大陸から分離し日本海が拡大していきました。このとき西南日本と東北日本が観音開きのように移動し、約1500万年前におよそ現在地に達して日本列島の原型ができあがりました。 当初の列島は今よりも小さい島々からなり、関東山地を中心にした地域もそのひとつで、周囲には海が広がっていました。 この海に面していた場所が秩父盆地の西縁で、今の秩父盆地は全域が海の底にありました。そして、この湾(海)を古秩父湾と呼んでいます。秩父盆地に海の時代の堆積物、クジラなどの化石が残っているのは当然のことなのです。 秩父盆地と古秩父湾の歴史:古秩父湾の誕生から多種多様な生物が暮らす豊かな浅海へ 古秩父湾が誕生したのは約1700万年前。現在の秩父盆地付近には浅瀬が広がっていましたが、関東山地からの土砂が堆積し、やがて湾ができあがります。 約1600万年前には日本列島の広範囲で沈降する大きな地殻変動があり、古秩父湾も全域が深海に沈みました。取方(とりかた)の大露頭(だいろとう)に見られる「タービダイト」と呼ばれる地層は、このときに生じた海底の土砂崩れによる堆積層です。なお、この沈降期に堆積した土砂の厚さは約2000mに及んでいます。 約1550万年前、古秩父湾の東側が隆起し始めます。こうして湾の東西から土砂が流れ込み、湾内に堆積していくことで再び湾内には浅海が形成されました。そして、この浅海には多種多様な生物が暮らしました。浅海を泳ぐクジラやサメ、沿岸部にいるカニやウニ、貝、パレオパラドキシアなどです。 秩父盆地と古秩父湾の歴史:古秩父湾の消滅と陸地化で誕生した秩父盆地 その後も相対的に山地の隆起、盆地の沈降が続いたことで、約1500万年前、海に続いていた湾の東側が閉ざされます。ついに、古秩父湾の時代が幕を閉じたのです。 こうして陸地になった秩父盆地には、荒川が運んできた土砂が堆積し、荒川はまた、流路を変えながら河岸段丘や氾濫原(はんらんげん)をつくりました。   秩父盆地の各所に残る古秩父湾の歴史 秩父盆地の各所には、秩父帯と呼ばれる中生代の古い地層と古秩父湾に堆積した新生代の地層の境目(不整合)や浅海の時代を物語る露頭があり、現在も観察が可能です。   秩父盆地の地層①:犬木の不整合 下部は恐竜の時代、約1億年前(中生代白亜紀)に堆積した黒色泥岩で、上の白色をした砂岩層は約1700万年前、古秩父湾の時代(新生代新第三紀)に堆積した地層です。 両者には1億年以上の時間差がありますが、こうした地層の関係を不整合といいます。境目、不整合面の上には礫岩が多く含まれ、これを基底礫岩と呼びます。また、明確な断層も観察できます。 付近ではパレオパラドキシアの化石も発見されるなど、古秩父湾に多様な海棲ほ乳類が暮らしていたことを物語っています。 秩父盆地の地層②:前原の不整合 黒色をした下部の層は約1億7000万年前(中生代ジュラ紀)に堆積した黒色泥岩。上は、古秩父湾が誕生した頃(約1700万年前)に堆積した砂岩(礫岩)層。ふたつの地層は、1億5000万年近い時間差がある不整合面で接しています。至近の砂岩ではカキの化石が豊富に見られ、この地が古秩父湾の岩礁で、きれいな水をたたえた浅海が広がっていたことを示唆しています。 秩父盆地の地層③:お船岩 秩父札所32番「法性寺」(小鹿野町船若)にある、砂岩(新生代中新世前期〜中期)が侵食されて北北東に突き出る形になった断崖。大きな船のへさきを連想させることから命名されました。...

【埼玉県】秩父盆地はかつて古秩父湾という海でクジラも泳いでいた!

四方をぐるりと山地に囲まれている秩父盆地は、かつて古秩父湾という海でした。にわかに信じがたいのですが、地層や化石が土地の歴史を物語っています。   秩父盆地から海棲生物の化石が採取される理由とは? 秩父盆地は、北を上武(じょうぶ)山地、西と南を奥秩父山地、そして東を外秩父山地に取り囲まれた1辺12㎞ほどの正方形に近い形状をしています。そしてこの盆地では、チチブクジラ、チチブサワラ、チチブホタテ……いずれも「秩父」がついた海棲生物の化石が採取されています。 しかしなぜ、海なし県の埼玉、しかも山中の秩父で海なのでしょうか。答えは簡単、かつての秩父には古秩父湾(こちちぶわん)という海が広がっていたのです。   秩父盆地と古秩父湾の歴史は日本列島の歴史そのもの! 古秩父湾の歴史は、日本列島の歴史そのものに関係します。 日本列島ができ始めたのは約2500万年前。プレート運動によって、ユーラシア大陸の東端で地殻が引き伸ばされ、約1900万年前には大陸から分離し日本海が拡大していきました。このとき西南日本と東北日本が観音開きのように移動し、約1500万年前におよそ現在地に達して日本列島の原型ができあがりました。 当初の列島は今よりも小さい島々からなり、関東山地を中心にした地域もそのひとつで、周囲には海が広がっていました。 この海に面していた場所が秩父盆地の西縁で、今の秩父盆地は全域が海の底にありました。そして、この湾(海)を古秩父湾と呼んでいます。秩父盆地に海の時代の堆積物、クジラなどの化石が残っているのは当然のことなのです。 秩父盆地と古秩父湾の歴史:古秩父湾の誕生から多種多様な生物が暮らす豊かな浅海へ 古秩父湾が誕生したのは約1700万年前。現在の秩父盆地付近には浅瀬が広がっていましたが、関東山地からの土砂が堆積し、やがて湾ができあがります。 約1600万年前には日本列島の広範囲で沈降する大きな地殻変動があり、古秩父湾も全域が深海に沈みました。取方(とりかた)の大露頭(だいろとう)に見られる「タービダイト」と呼ばれる地層は、このときに生じた海底の土砂崩れによる堆積層です。なお、この沈降期に堆積した土砂の厚さは約2000mに及んでいます。 約1550万年前、古秩父湾の東側が隆起し始めます。こうして湾の東西から土砂が流れ込み、湾内に堆積していくことで再び湾内には浅海が形成されました。そして、この浅海には多種多様な生物が暮らしました。浅海を泳ぐクジラやサメ、沿岸部にいるカニやウニ、貝、パレオパラドキシアなどです。 秩父盆地と古秩父湾の歴史:古秩父湾の消滅と陸地化で誕生した秩父盆地 その後も相対的に山地の隆起、盆地の沈降が続いたことで、約1500万年前、海に続いていた湾の東側が閉ざされます。ついに、古秩父湾の時代が幕を閉じたのです。 こうして陸地になった秩父盆地には、荒川が運んできた土砂が堆積し、荒川はまた、流路を変えながら河岸段丘や氾濫原(はんらんげん)をつくりました。   秩父盆地の各所に残る古秩父湾の歴史 秩父盆地の各所には、秩父帯と呼ばれる中生代の古い地層と古秩父湾に堆積した新生代の地層の境目(不整合)や浅海の時代を物語る露頭があり、現在も観察が可能です。   秩父盆地の地層①:犬木の不整合 下部は恐竜の時代、約1億年前(中生代白亜紀)に堆積した黒色泥岩で、上の白色をした砂岩層は約1700万年前、古秩父湾の時代(新生代新第三紀)に堆積した地層です。 両者には1億年以上の時間差がありますが、こうした地層の関係を不整合といいます。境目、不整合面の上には礫岩が多く含まれ、これを基底礫岩と呼びます。また、明確な断層も観察できます。 付近ではパレオパラドキシアの化石も発見されるなど、古秩父湾に多様な海棲ほ乳類が暮らしていたことを物語っています。 秩父盆地の地層②:前原の不整合 黒色をした下部の層は約1億7000万年前(中生代ジュラ紀)に堆積した黒色泥岩。上は、古秩父湾が誕生した頃(約1700万年前)に堆積した砂岩(礫岩)層。ふたつの地層は、1億5000万年近い時間差がある不整合面で接しています。至近の砂岩ではカキの化石が豊富に見られ、この地が古秩父湾の岩礁で、きれいな水をたたえた浅海が広がっていたことを示唆しています。 秩父盆地の地層③:お船岩 秩父札所32番「法性寺」(小鹿野町船若)にある、砂岩(新生代中新世前期〜中期)が侵食されて北北東に突き出る形になった断崖。大きな船のへさきを連想させることから命名されました。...

【神奈川県】箱根登山鉄道にトンネルや急カーブが多いのはなぜ?~神奈川県の鉄道~

【神奈川県】箱根登山鉄道にトンネルや急カーブが多いのはなぜ?~神奈川県の鉄道~

箱根登山鉄道はトンネル、急カーブが連続し散水しながら列車が走ります。それには日本一の登山鉄道ならではの、やさしい理由がありました。   箱根登山鉄道は自然と共存する 小田原~強羅(ごうら)を結ぶ箱根登山鉄道鉄道線(正式な路線名)の敷設計画が立てられたのは1910(明治43)年。免許交付の際、国から提示された条件が「自然を損なわない」ことでした。 箱根登山鉄道はスイスの登山鉄道に倣って敷設された 箱根登山鉄道は、当初予定された125パーミル(1㎞で125mの高低差)もの急勾配をアプト式で箱根山を登る案も、その勾配の厳しさに加え、自然の景観を損なう恐れがあることから方針変更。当時走っていたスイスの登山鉄道を参考に計画が見直されました。 箱根登山鉄道は自然景観に溶け込むように こうして箱根の自然景観を考慮し建設されたのが、現在の箱根登山鉄道鉄道線でした。箱根の自然を守るための措置は、今も路線に見られる大きな特徴となっています。   箱根登山鉄道のトンネル・急カーブは自然や温泉脈を守るため 1919(大正8)年6月に開業した箱根湯本~強羅間(8.9㎞)の約3分の1はトンネル区間で、トンネルの数たるや13を数えました。山岳区間のトンネルは勾配を緩和、短絡させる目的がありますが、箱根登山鉄道の場合は、何よりもまず自然を損なわないことを優先しています。 いっぽう、宮ノ下~強羅間の2カ所のトンネル計画は中止されました。これはトンネルの掘削により、付近の蛇骨川(じゃこつがわ)の温泉脈に悪影響を及ぼすことがわかったため。代わって急カーブの連続する迂回ルートが敷かれましたが、この急カーブも自然を損なうことなく、山肌を縫うように走るための措置でした。沿線に最急半径30mに及ぶ急カーブが多数あるのはこうした理由からです。 箱根登山鉄道は湧き水を散水しながら走行 しかし、あまりの急カーブはレールの摩耗を早めてしまいます。通常の鉄道ではレールに塗油して対処しますが、勾配線区の箱根登山鉄道では安全確保のため、車輪の踏面に列車から散水してレールの摩耗を防いでいます。各車両の端部には容量350リットルの水タンクが2個設けられており、箱根湯本~強羅間の1往復でほぼ空になるといいます。おもに箱根湯本駅で給水され、その水は箱根の山々からの湧き水を利用しています。 箱根登山鉄道は急勾配をスイッチバックで乗り越える ところで、箱根登山鉄道最大の特色は、最急80パーミルにもなる急勾配です。車輪とレールの粘着力に頼った運転としては、これが日本でもっとも急な鉄道です。    国土地理院色別標高図を元に作成   箱根登山鉄道は小田原を起点に強羅までの15㎞を11駅で結びます。最急80パーミルの急勾配、急カーブ、スイッチバックで有名です。強羅駅から早雲山駅までの1.2㎞は箱根登山ケーブルカー(箱根登山鉄道鋼索線)が走り、早雲山から大涌谷などを経て桃源台までの約4㎞を箱根ロープウェイが結んでいます。桃源台駅には芦ノ湖の観光船乗り場があります。3線とも小田急グループ。なお、箱根火山の活発化により、2019年7月末日現在、ロープウェイは運休中です。 上に掲載した色別標高図を見ると、自然景観保護のため等高線(同じ色合い)に沿いつつも、これを斜めに急勾配で乗り越え、標高を稼いでいるのがわかるでしょう。急勾配だけで越えられなくなった場合には、ジグザグに折り返すスイッチバックで難所を克服しています。実際、出山信号場(塔ノ沢~大平台間)、大平台駅、上大平台信号場(大平台~宮ノ下間)と3カ所のスイッチバックが設けられています。   箱根登山鉄道に小田急線が乗り入れ 箱根登山鉄道は、1935(昭和10)年に小田原~箱根湯本間の軌道線を廃止し、鉄道線を開業。1950(昭和25)年8月からは小田急線も乗り入れていますが、当初、小田急線は別線で箱根湯本とを結ぶ計画でした。これをレール幅の異なる2社の線路を3線軌条にし、箱根登山鉄道と同一線での乗り入れとした理由は、それがもっとも合理的だったし、自然を損なわないための配慮でもあったことはいうまでもありません。   『神奈川のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。第1弾は神奈川県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【神奈川県】箱根登山鉄道にトンネルや急カーブが多いのはなぜ?~神奈川県の鉄道~

箱根登山鉄道はトンネル、急カーブが連続し散水しながら列車が走ります。それには日本一の登山鉄道ならではの、やさしい理由がありました。   箱根登山鉄道は自然と共存する 小田原~強羅(ごうら)を結ぶ箱根登山鉄道鉄道線(正式な路線名)の敷設計画が立てられたのは1910(明治43)年。免許交付の際、国から提示された条件が「自然を損なわない」ことでした。 箱根登山鉄道はスイスの登山鉄道に倣って敷設された 箱根登山鉄道は、当初予定された125パーミル(1㎞で125mの高低差)もの急勾配をアプト式で箱根山を登る案も、その勾配の厳しさに加え、自然の景観を損なう恐れがあることから方針変更。当時走っていたスイスの登山鉄道を参考に計画が見直されました。 箱根登山鉄道は自然景観に溶け込むように こうして箱根の自然景観を考慮し建設されたのが、現在の箱根登山鉄道鉄道線でした。箱根の自然を守るための措置は、今も路線に見られる大きな特徴となっています。   箱根登山鉄道のトンネル・急カーブは自然や温泉脈を守るため 1919(大正8)年6月に開業した箱根湯本~強羅間(8.9㎞)の約3分の1はトンネル区間で、トンネルの数たるや13を数えました。山岳区間のトンネルは勾配を緩和、短絡させる目的がありますが、箱根登山鉄道の場合は、何よりもまず自然を損なわないことを優先しています。 いっぽう、宮ノ下~強羅間の2カ所のトンネル計画は中止されました。これはトンネルの掘削により、付近の蛇骨川(じゃこつがわ)の温泉脈に悪影響を及ぼすことがわかったため。代わって急カーブの連続する迂回ルートが敷かれましたが、この急カーブも自然を損なうことなく、山肌を縫うように走るための措置でした。沿線に最急半径30mに及ぶ急カーブが多数あるのはこうした理由からです。 箱根登山鉄道は湧き水を散水しながら走行 しかし、あまりの急カーブはレールの摩耗を早めてしまいます。通常の鉄道ではレールに塗油して対処しますが、勾配線区の箱根登山鉄道では安全確保のため、車輪の踏面に列車から散水してレールの摩耗を防いでいます。各車両の端部には容量350リットルの水タンクが2個設けられており、箱根湯本~強羅間の1往復でほぼ空になるといいます。おもに箱根湯本駅で給水され、その水は箱根の山々からの湧き水を利用しています。 箱根登山鉄道は急勾配をスイッチバックで乗り越える ところで、箱根登山鉄道最大の特色は、最急80パーミルにもなる急勾配です。車輪とレールの粘着力に頼った運転としては、これが日本でもっとも急な鉄道です。    国土地理院色別標高図を元に作成   箱根登山鉄道は小田原を起点に強羅までの15㎞を11駅で結びます。最急80パーミルの急勾配、急カーブ、スイッチバックで有名です。強羅駅から早雲山駅までの1.2㎞は箱根登山ケーブルカー(箱根登山鉄道鋼索線)が走り、早雲山から大涌谷などを経て桃源台までの約4㎞を箱根ロープウェイが結んでいます。桃源台駅には芦ノ湖の観光船乗り場があります。3線とも小田急グループ。なお、箱根火山の活発化により、2019年7月末日現在、ロープウェイは運休中です。 上に掲載した色別標高図を見ると、自然景観保護のため等高線(同じ色合い)に沿いつつも、これを斜めに急勾配で乗り越え、標高を稼いでいるのがわかるでしょう。急勾配だけで越えられなくなった場合には、ジグザグに折り返すスイッチバックで難所を克服しています。実際、出山信号場(塔ノ沢~大平台間)、大平台駅、上大平台信号場(大平台~宮ノ下間)と3カ所のスイッチバックが設けられています。   箱根登山鉄道に小田急線が乗り入れ 箱根登山鉄道は、1935(昭和10)年に小田原~箱根湯本間の軌道線を廃止し、鉄道線を開業。1950(昭和25)年8月からは小田急線も乗り入れていますが、当初、小田急線は別線で箱根湯本とを結ぶ計画でした。これをレール幅の異なる2社の線路を3線軌条にし、箱根登山鉄道と同一線での乗り入れとした理由は、それがもっとも合理的だったし、自然を損なわないための配慮でもあったことはいうまでもありません。   『神奈川のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。第1弾は神奈川県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

ちょっと昔の地図さんぽ 【東京都江東区 深川・木場】~堀と水路の街から公園へ

ちょっと昔の地図さんぽ 【東京都江東区 深川・木場】~堀と水路の街から公園へ

執筆:オフィス プラネイロ   古い地図には様々な情報が描かれています。昔そこに何があったのか、どんな街だったのか、どんな風景だったのか…昔を知ることは、今を知ること、未来を考えることにもつながります。ちょっと昔の地図に、ちょっと想像を巡らせて、昭和・平成時代に思いを馳せてみませんか?時代は前回の東京オリンピックから5年後の1969(昭和44)年、東京・江東区の深川付近を訪ねてみましょう。 江東区に多数あった、謎の「水路」 その正体とは? 1969年発行 区分地図 江東区/昭文社 より 江東区深川は、隅田川の東側に位置し、古くから開けた工場や住宅が立ち並ぶエリアでした。この1969年発行の地図でも、既に整然と街路が整備された街並みが、見て取れます。 さて、この辺りを更に詳しく眺めていると、謎の「水路」や「堀」のようなものが集中する一帯がありました。地図上の水色で表現されている部分(赤枠で囲みました)です。これは、何の施設でしょうか?しかも、形状がかわっています。 1969年発行 区分地図 江東区/昭文社 より 東京に長くお住まいの方や、歴史にお詳しい方なら、直ぐにピンとくるでしょう。ヒントは、地図にある「木場」という町名です。・・・というか、もうほぼ答えですね。実は、これらの「堀」のようなものは「貯木場」なんです。当時の深川には、この貯木場があちこちにありました。 1969年発行 区分地図 江東区/昭文社 より 付近の別の場所には、ズバリ、このような「東京営林署」の施設もありました。 貯木場とは、伐採した木材を保管しておく場所のことです。この貯木場には、大きく分けると「陸上貯木場」と「水中貯木場」の2種類があります。ここで見られるのは水中貯木場の方になります。 「水中で木は腐らないの?」 水中貯木の意外な長所とは? 昭和40年代の貯木風景/PIXTA ところで、水中で長く保管していて、木は腐ってしまわないのでしょうか? 結論から言えば、腐りません。そもそも、腐敗するには十分な「酸素」が必要なのですが、水中にはそれが無いからです。また、水中に保管した木は、乾燥した際にきれいに水分が抜け、良質の木材になるそうです。これも意外ですね。 実はもう一つ、水中貯木には、陸上に比べて大きな利点があります。これが、水中貯木が普及した最大の要因もかもしれません。 江戸時代では、陸上で木材を移動させるのは、すべて家畜か人力に頼るしか手段がありませんでした。現代なら重機を使えば簡単ですが、重量のある木を動かすのは、当時は大変な労力だったのです。 一方、これが水の上ならどうでしょう。水に浮かんだ状態なら、木を簡単に動かしたり、整理することが可能になります。つまり、大きな利点とは「木材の移動が楽!」ということなのです。このような利便性から、水中貯木場は、海や河川に近い場所に数多く設置されていくことになりました。 では、どのような経緯で、ここ深川に、この水中貯木場が集まるようになったのでしょうか。 深川木場誕生のきっかけは、意外? な理由でした 江戸の木場の歴史は、徳川家康が江戸幕府をひらいた頃に始まります。 江戸城や大名屋敷など新しい街の建設には、大量の木材が必要でした。当初は現在の日本橋付近に、材木商と木置き場が集められていたようです。しかし、度重なる江戸の大火災で、これらの材木が延焼の原因とされてしまいます。この当時の木材は「水中」ではなく、主に「陸上」に大量に保管されていたようです。このため、ひとたび火がつけば、大規模火災の要因となりかねませんでした。「江戸の中心部に陸上の木置き場があると、火事のとき危険だ」という訳です。 そのような背景があって、この「木置き場」は、江戸の中心から離れた水中保管できる場所へ、移転を余儀なくされます。いくつかの移転ののち、現在の江東区木場付近に落ち着きました。これがかつての「深川木場」です。1701(元禄14)年のことでした。 やがて、江戸の街の人口膨張、産業発展ともに、木材の需要は増加していきます。それに伴い、深川木場は発展を遂げていきます。明治維新以降、江戸が東京となってからも、250年以上もの間、東京の木材需要を支えて続けてきました。...

ちょっと昔の地図さんぽ 【東京都江東区 深川・木場】~堀と水路の街から公園へ

執筆:オフィス プラネイロ   古い地図には様々な情報が描かれています。昔そこに何があったのか、どんな街だったのか、どんな風景だったのか…昔を知ることは、今を知ること、未来を考えることにもつながります。ちょっと昔の地図に、ちょっと想像を巡らせて、昭和・平成時代に思いを馳せてみませんか?時代は前回の東京オリンピックから5年後の1969(昭和44)年、東京・江東区の深川付近を訪ねてみましょう。 江東区に多数あった、謎の「水路」 その正体とは? 1969年発行 区分地図 江東区/昭文社 より 江東区深川は、隅田川の東側に位置し、古くから開けた工場や住宅が立ち並ぶエリアでした。この1969年発行の地図でも、既に整然と街路が整備された街並みが、見て取れます。 さて、この辺りを更に詳しく眺めていると、謎の「水路」や「堀」のようなものが集中する一帯がありました。地図上の水色で表現されている部分(赤枠で囲みました)です。これは、何の施設でしょうか?しかも、形状がかわっています。 1969年発行 区分地図 江東区/昭文社 より 東京に長くお住まいの方や、歴史にお詳しい方なら、直ぐにピンとくるでしょう。ヒントは、地図にある「木場」という町名です。・・・というか、もうほぼ答えですね。実は、これらの「堀」のようなものは「貯木場」なんです。当時の深川には、この貯木場があちこちにありました。 1969年発行 区分地図 江東区/昭文社 より 付近の別の場所には、ズバリ、このような「東京営林署」の施設もありました。 貯木場とは、伐採した木材を保管しておく場所のことです。この貯木場には、大きく分けると「陸上貯木場」と「水中貯木場」の2種類があります。ここで見られるのは水中貯木場の方になります。 「水中で木は腐らないの?」 水中貯木の意外な長所とは? 昭和40年代の貯木風景/PIXTA ところで、水中で長く保管していて、木は腐ってしまわないのでしょうか? 結論から言えば、腐りません。そもそも、腐敗するには十分な「酸素」が必要なのですが、水中にはそれが無いからです。また、水中に保管した木は、乾燥した際にきれいに水分が抜け、良質の木材になるそうです。これも意外ですね。 実はもう一つ、水中貯木には、陸上に比べて大きな利点があります。これが、水中貯木が普及した最大の要因もかもしれません。 江戸時代では、陸上で木材を移動させるのは、すべて家畜か人力に頼るしか手段がありませんでした。現代なら重機を使えば簡単ですが、重量のある木を動かすのは、当時は大変な労力だったのです。 一方、これが水の上ならどうでしょう。水に浮かんだ状態なら、木を簡単に動かしたり、整理することが可能になります。つまり、大きな利点とは「木材の移動が楽!」ということなのです。このような利便性から、水中貯木場は、海や河川に近い場所に数多く設置されていくことになりました。 では、どのような経緯で、ここ深川に、この水中貯木場が集まるようになったのでしょうか。 深川木場誕生のきっかけは、意外? な理由でした 江戸の木場の歴史は、徳川家康が江戸幕府をひらいた頃に始まります。 江戸城や大名屋敷など新しい街の建設には、大量の木材が必要でした。当初は現在の日本橋付近に、材木商と木置き場が集められていたようです。しかし、度重なる江戸の大火災で、これらの材木が延焼の原因とされてしまいます。この当時の木材は「水中」ではなく、主に「陸上」に大量に保管されていたようです。このため、ひとたび火がつけば、大規模火災の要因となりかねませんでした。「江戸の中心部に陸上の木置き場があると、火事のとき危険だ」という訳です。 そのような背景があって、この「木置き場」は、江戸の中心から離れた水中保管できる場所へ、移転を余儀なくされます。いくつかの移転ののち、現在の江東区木場付近に落ち着きました。これがかつての「深川木場」です。1701(元禄14)年のことでした。 やがて、江戸の街の人口膨張、産業発展ともに、木材の需要は増加していきます。それに伴い、深川木場は発展を遂げていきます。明治維新以降、江戸が東京となってからも、250年以上もの間、東京の木材需要を支えて続けてきました。...

【大阪府】3府県境を探索!大阪に隣接する京都・兵庫・奈良・和歌山との境目ってどんなところ?

【大阪府】3府県境を探索!大阪に隣接する京都・兵庫・奈良・和歌山との境目ってどんなところ?

3府県境を探検①:大阪・兵庫・京都の3府県境は標高730mという高地にある まず①の3府県境から見てみましょう。京都府、兵庫県の各境界と重なる地点は、府最北端の能勢町にある舩谷山(ふなたにやま)(標高730m)の山頂に近い場所にあります。 尾根筋に設けられた深山(みやま)参道が大阪府と京都府(南丹市)、兵庫県(丹波篠山市)との府境界となっており、さらに3府県境に沿った尾根筋の分岐点になっています。徒歩で到達できるその地点付近には、3府県境を示す小さな案内板と「三国交点」を示す杭があるだけです。 大阪・兵庫・京都の3府県境 国土地理院標準地図を元に作成 大阪府能勢町と京都府南丹市の境界に北摂山系の最高峰深山(標高730m)があります。その南西に位置する舩谷山の山頂近くが3府県境となります。 3府県境を探検②:大阪・京都・奈良の3府県境が交わる「三国境」 ②大阪・京都・奈良の3府県境は、枚方市と京都府京田辺市、奈良県生駒市の3つの自治体が交わる点にあたります。旧河内国(大阪)・山城国(京都)・大和国(奈良)の交わる地点なので、「三国境」と呼ばれます。 この3府県境は、徒歩でしか入れない山道にあります。竹が生い茂る山林に三国境を示す案内があるので分け入って進んでいくと、3府県境を記す簡易な案内板が木にくくりつけられていました。ただしこの位置は正確でなく、実際の場所もよくわかっていません。 大阪・京都・奈良の3府県境 国土地理院標準地図を元に作成 京田辺市や生駒市から3府県境を目指す場合、京都府と奈良県の府県境にある笠上神社(京田辺市高船里)から北へ約20分歩けば到着します。 大阪と奈良の府県境にある「酷道」 ちなみに、大阪府東大阪市と奈良県生駒市の府県境は、暗峠(くらがりとうげ)を抜ける国道308号上にあります。暗峠には石畳が残っており、国道の舗装が石畳なのは国内でこの地区だけらしいといわれます。ところが、急な坂道が続き、車がすれ違うことが難しいほどの道幅から一部では「酷道」と呼ばれています。 3府県境を探検③:大阪・和歌山・奈良の3府県境は自然歩道上に存在 ③大阪・和歌山・奈良の3府県境は、河内長野市と和歌山県橋本市、奈良県五條市の自治体が交わる点に位置します。その点は、大阪と奈良を結ぶ全長45㎞の長距離自然歩道「ダイヤモンドトレール(ダイトレ)」の途中に発見できました。 南海電鉄高野線の紀見峠駅(橋本市)を始点とした場合、案内に従って河内長野市と橋本市の境に位置する紀見峠へ進みます。そこからダイトレに入り、神福山(じんぷくさん)(標高792m)に向かってひたすら歩きます。杉尾峠を通過し、行者杉に囲まれたお堂が見えてくれば、そこが3府県境です。ただし案内板や杭はありません。 紀見峠駅からダイトレの途中にある3府県境まで、所要時間は約2時間。自然歩道はきちんと整備されているので、誰でも気軽に歩くことができます。 国土地理院標準地図を元に作成 3府県境がある自然歩道「ダイヤモンドトレール」は、金剛葛城山系の稜線に沿って整備されています。この地図内では府県境とほぼ一致します。 『大阪のトリセツ』好評発売中! 大阪府の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。大阪府の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【大阪府】3府県境を探索!大阪に隣接する京都・兵庫・奈良・和歌山との境目ってどんなところ?

3府県境を探検①:大阪・兵庫・京都の3府県境は標高730mという高地にある まず①の3府県境から見てみましょう。京都府、兵庫県の各境界と重なる地点は、府最北端の能勢町にある舩谷山(ふなたにやま)(標高730m)の山頂に近い場所にあります。 尾根筋に設けられた深山(みやま)参道が大阪府と京都府(南丹市)、兵庫県(丹波篠山市)との府境界となっており、さらに3府県境に沿った尾根筋の分岐点になっています。徒歩で到達できるその地点付近には、3府県境を示す小さな案内板と「三国交点」を示す杭があるだけです。 大阪・兵庫・京都の3府県境 国土地理院標準地図を元に作成 大阪府能勢町と京都府南丹市の境界に北摂山系の最高峰深山(標高730m)があります。その南西に位置する舩谷山の山頂近くが3府県境となります。 3府県境を探検②:大阪・京都・奈良の3府県境が交わる「三国境」 ②大阪・京都・奈良の3府県境は、枚方市と京都府京田辺市、奈良県生駒市の3つの自治体が交わる点にあたります。旧河内国(大阪)・山城国(京都)・大和国(奈良)の交わる地点なので、「三国境」と呼ばれます。 この3府県境は、徒歩でしか入れない山道にあります。竹が生い茂る山林に三国境を示す案内があるので分け入って進んでいくと、3府県境を記す簡易な案内板が木にくくりつけられていました。ただしこの位置は正確でなく、実際の場所もよくわかっていません。 大阪・京都・奈良の3府県境 国土地理院標準地図を元に作成 京田辺市や生駒市から3府県境を目指す場合、京都府と奈良県の府県境にある笠上神社(京田辺市高船里)から北へ約20分歩けば到着します。 大阪と奈良の府県境にある「酷道」 ちなみに、大阪府東大阪市と奈良県生駒市の府県境は、暗峠(くらがりとうげ)を抜ける国道308号上にあります。暗峠には石畳が残っており、国道の舗装が石畳なのは国内でこの地区だけらしいといわれます。ところが、急な坂道が続き、車がすれ違うことが難しいほどの道幅から一部では「酷道」と呼ばれています。 3府県境を探検③:大阪・和歌山・奈良の3府県境は自然歩道上に存在 ③大阪・和歌山・奈良の3府県境は、河内長野市と和歌山県橋本市、奈良県五條市の自治体が交わる点に位置します。その点は、大阪と奈良を結ぶ全長45㎞の長距離自然歩道「ダイヤモンドトレール(ダイトレ)」の途中に発見できました。 南海電鉄高野線の紀見峠駅(橋本市)を始点とした場合、案内に従って河内長野市と橋本市の境に位置する紀見峠へ進みます。そこからダイトレに入り、神福山(じんぷくさん)(標高792m)に向かってひたすら歩きます。杉尾峠を通過し、行者杉に囲まれたお堂が見えてくれば、そこが3府県境です。ただし案内板や杭はありません。 紀見峠駅からダイトレの途中にある3府県境まで、所要時間は約2時間。自然歩道はきちんと整備されているので、誰でも気軽に歩くことができます。 国土地理院標準地図を元に作成 3府県境がある自然歩道「ダイヤモンドトレール」は、金剛葛城山系の稜線に沿って整備されています。この地図内では府県境とほぼ一致します。 『大阪のトリセツ』好評発売中! 大阪府の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。大阪府の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

飛び地!分割‼ 越県合併⁉ 決断した3つの村の事情

飛び地!分割‼ 越県合併⁉ 決断した3つの村の事情

平成の大合併をはじめとした地域再編には複数の市町村が一緒になったり、一つの行政が複数に分かれたり、地域によってさまざまな理由で変化しました。今回はそんな地域再編に伴う3つの村について紹介します。 ※記事上の地図は位置関係を示すもので最新ではありません。 村がまるごと飛び地になった全国唯一の村 ~北山村の場合~ 地図を眺めていると奈良県に上北山村、下北山村という地名があり、さらに南には北山村という村があります。「上」「下」の下に北山村があるんだ!と思っていると、そこには「和歌山県」の文字が!? 『和歌山県?』 地図を見ても和歌山県とは接していません。何かの間違いなのでは?と不思議に思える北山村。本当に和歌山県なのでしょうか。  三重県と奈良県の県境に和歌山県の文字が! 北山ってどこにあるの? 和歌山県熊野地方は熊野古道や熊野大社で知られる地域です。熊野地方を流れる熊野川の支流に北山川には風光明媚な大峡谷で国の特別名勝「瀞峡」があります。その瀞峡の上流部に奥瀞峡と呼ばれる秘境があり、その地域一帯に北山はあります。 北山は平家ゆかりの地だった! 北山は北山郷といわれ、平氏の末族だったという言い伝えや平氏ゆかりの寺々が多数あります。また室町時代では禁闕の変(きんけつのへん)後、南朝方の北山の宮が潜匿(せんとく)されたという歴史もあります。 上組、下組に分かれていた北山郷は明治22年の市町村制の実施により上組は「上北山村」下組は「下北山村」になりました。 北から「上北山」「下北山」そして「北山」と地名が並ぶ 木材と筏師の村 北山村になった地域は、昔から林業が栄え、伐採した杉を水運を利用して北山川から熊野川を下って新宮まで運んでいました。川は激流のため筏師といわれる職人が存在し、当時の北山村は筏師が人口の大半を占めており、当時のブランド杉として伏見城や江戸城に使用されたと言い伝えもあります。 水運を利用して河口の町「新宮」へ そして全国唯一の飛び地の村が誕生した! 明治4年に廃藩置県が実施され、北山郷のうち上北山村と下北山村になった地域は奈良県に編入しました。 一方北山村になった地域では地理・歴史から見れば、林業によって新宮とは関係が強く、新宮が和歌山県に編入されたため、新宮との繋がりを重視した住民の意向を踏まえて和歌山県に編入されました。こうして和歌山県に全国で唯一の飛び地の村が誕生しまし、北山村は和歌山県で間違いはなかったのです。 平成の大合併で村ごと越県合併した唯一の村 ~山口村の場合~ 「木曽路はすべて山の中である」で有名な島崎藤村の「夜明け前」で知られる馬籠宿(まごめじゅく)。中山道を東京から進み、木曽路十一宿場の最後の宿場が馬籠宿です。 現在の馬籠宿は木曽路十一宿の中で唯一岐阜県にあります。しかし、以前は長野県の一部であり、平成の大合併によって馬籠宿のあった村が岐阜県中津川市と合併。その結果、長野県から岐阜県へと移りました。この馬籠宿のあった村が全国で唯一の越県合併をした山口村です。 中津川市と隣接していた山口村 昭和の大合併で村が分断! 越県合併だけでなく、注目されたのは山口村のある地域では過去にも越県合併によって大きく揺れたためです。 それは昭和28年から昭和36年までに市町村数はほぼ3分の1になった昭和の大合併といわれる時で当時は長野県神坂村が今回と同じく岐阜県中津川市と越県合併すべく進めていましたが、神坂村において賛成・反対に意見が真っ二つに分かれ、自治庁の調停の末、神坂村の峠、馬籠、荒町地区が長野県山口村に、残りの地域が岐阜県中津川市に編入し、神坂村は閉村しました。 神坂村を分断して長野県と岐阜県へ 平成の大合併で再び!...

飛び地!分割‼ 越県合併⁉ 決断した3つの村の事情

平成の大合併をはじめとした地域再編には複数の市町村が一緒になったり、一つの行政が複数に分かれたり、地域によってさまざまな理由で変化しました。今回はそんな地域再編に伴う3つの村について紹介します。 ※記事上の地図は位置関係を示すもので最新ではありません。 村がまるごと飛び地になった全国唯一の村 ~北山村の場合~ 地図を眺めていると奈良県に上北山村、下北山村という地名があり、さらに南には北山村という村があります。「上」「下」の下に北山村があるんだ!と思っていると、そこには「和歌山県」の文字が!? 『和歌山県?』 地図を見ても和歌山県とは接していません。何かの間違いなのでは?と不思議に思える北山村。本当に和歌山県なのでしょうか。  三重県と奈良県の県境に和歌山県の文字が! 北山ってどこにあるの? 和歌山県熊野地方は熊野古道や熊野大社で知られる地域です。熊野地方を流れる熊野川の支流に北山川には風光明媚な大峡谷で国の特別名勝「瀞峡」があります。その瀞峡の上流部に奥瀞峡と呼ばれる秘境があり、その地域一帯に北山はあります。 北山は平家ゆかりの地だった! 北山は北山郷といわれ、平氏の末族だったという言い伝えや平氏ゆかりの寺々が多数あります。また室町時代では禁闕の変(きんけつのへん)後、南朝方の北山の宮が潜匿(せんとく)されたという歴史もあります。 上組、下組に分かれていた北山郷は明治22年の市町村制の実施により上組は「上北山村」下組は「下北山村」になりました。 北から「上北山」「下北山」そして「北山」と地名が並ぶ 木材と筏師の村 北山村になった地域は、昔から林業が栄え、伐採した杉を水運を利用して北山川から熊野川を下って新宮まで運んでいました。川は激流のため筏師といわれる職人が存在し、当時の北山村は筏師が人口の大半を占めており、当時のブランド杉として伏見城や江戸城に使用されたと言い伝えもあります。 水運を利用して河口の町「新宮」へ そして全国唯一の飛び地の村が誕生した! 明治4年に廃藩置県が実施され、北山郷のうち上北山村と下北山村になった地域は奈良県に編入しました。 一方北山村になった地域では地理・歴史から見れば、林業によって新宮とは関係が強く、新宮が和歌山県に編入されたため、新宮との繋がりを重視した住民の意向を踏まえて和歌山県に編入されました。こうして和歌山県に全国で唯一の飛び地の村が誕生しまし、北山村は和歌山県で間違いはなかったのです。 平成の大合併で村ごと越県合併した唯一の村 ~山口村の場合~ 「木曽路はすべて山の中である」で有名な島崎藤村の「夜明け前」で知られる馬籠宿(まごめじゅく)。中山道を東京から進み、木曽路十一宿場の最後の宿場が馬籠宿です。 現在の馬籠宿は木曽路十一宿の中で唯一岐阜県にあります。しかし、以前は長野県の一部であり、平成の大合併によって馬籠宿のあった村が岐阜県中津川市と合併。その結果、長野県から岐阜県へと移りました。この馬籠宿のあった村が全国で唯一の越県合併をした山口村です。 中津川市と隣接していた山口村 昭和の大合併で村が分断! 越県合併だけでなく、注目されたのは山口村のある地域では過去にも越県合併によって大きく揺れたためです。 それは昭和28年から昭和36年までに市町村数はほぼ3分の1になった昭和の大合併といわれる時で当時は長野県神坂村が今回と同じく岐阜県中津川市と越県合併すべく進めていましたが、神坂村において賛成・反対に意見が真っ二つに分かれ、自治庁の調停の末、神坂村の峠、馬籠、荒町地区が長野県山口村に、残りの地域が岐阜県中津川市に編入し、神坂村は閉村しました。 神坂村を分断して長野県と岐阜県へ 平成の大合併で再び!...