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中東・イスラエルってどんな国?~エルサレムを実効支配するユダヤ人国家、イスラエル

中東・イスラエルってどんな国?~エルサレムを実効支配するユダヤ人国家、イスラエル

イスラエルの国旗の青と白は礼拝用のショールの色で、中央にユダヤを象徴するダビデの星を配置しています。19世紀末のシオニスト会議で、原型が発表されました。三大宗教の聖地であるエルサレムは、イスラエルが実効支配する国際社会未承認の首都です。エルサレムの旧市街地には、嘆きの壁というユダヤ教最大の聖地があります。   約束の地よ、我らは帰ってきた。二千年の時を経て達成された、悲願のユダヤ人国家建設。 政体:共和制人口:1879万人※東エルサレムを含む(大阪府くらい)面積:2万1640㎢(岐阜県の2倍くらい)首都:エルサレム(国際社会は未承認)大都市:エルサレム、テルアビブ、ハイファ通貨:新シュケル言語:ヘブライ語、アラビア語宗教:ユダヤ教(多数)、イスラム教石油:ほとんど出ない 1人あたりのGDP:49,840USドル(約543万円)イスラエルはドイツの賠償金、アメリカの支援、送金などの資本を先端技術研究にあて、ITを中心に世界レベルへ急成長しています。 国名の由来:「神と闘う」創世記でヤコブが天使と格闘した後にイスラエルと名づけられ、その名がとられました。神との争い、神の勝利など意味は諸説あります。 国民性トリビア:金曜日の夜からはユダヤの安息日「シャバット」で、イスラエル人は仕事だけでなく料理もしません。   変わるイスラエルとアラブ 紀元前にユダヤ人王国が黄金期を迎えるも、やがてローマに攻められて滅び、2世紀以降に本格的な民族離散(ディアスポラ)が始まります。強い望郷の念は、旧約聖書にある「約束の地」への帰還として二千年にわたり語り継がれました。そして富を蓄えた19世紀後半に転機が訪れます。 シオニズムが盛んになり、イスラエルが誕生する 近代化の成熟過程にあった欧州では、自民族による主権国家を造る「ナショナリズム」が広がったのです。彼らは少数派のユダヤ人を迫害しました。するとユダヤ人の民族意識に火が付きます。富裕層はユダヤ人の「帰還」事業(農民としての入植)を支援し、同時期にユダヤ人国家建設運動「シオニズム」が登場します。 国家建設は第一次大戦でオスマン帝国が負け、この地の支配者が消えると一気に現実味を帯びます。シオニズムが声高に叫ばれ、欧州のユダヤ人の移住が加速しました。それが先住のアラブ人(パレスチナ人)との衝突を引き起こしました。オスマン帝国に代わりこの地を統治したイギリスは、衝突を抑えられず解決を国連に委ねます。国連はこの地をユダヤ人とアラブ人で二分する策を提案、そうして1948年にユダヤ人国家イスラエルが誕生しました。 イスラエル建国したと同時に中東戦争が勃発 当然アラブは反発し、イスラエル建国翌日に第一次中東戦争が勃発します。イスラエルが足並みがそろわないアラブを下します。その後両者は戦争をさらに3度繰り返すことになりました。イスラエルは1993年にパレスチナの暫定自治を認めるオスロ合意を締結しますが、溝は埋まらず今も和平が進んでいません。 この間にイスラエルはIT国家として世界を席巻するようになりました。アラブの一部の国は経済協力のため、またイランに備えるため、イスラエルとの関係を正常化させています。宿命の敵は、戦略とビジネスのパートナーとなるのでしょうか。   イスラエルを知るキーワード キーワード①:テルアビブ イスラエルの経済の中心。ヤッファ港郊外にユダヤ人移民がテルアビブの街を造り、やがて2つが合体しました。市場やビーチが人気ですが、稀にテロが発生します。 キーワード②:エルサレムにある嘆きの壁 ユダヤ王ヘロデが改築したエルサレム神殿を、反乱を鎮めに来たローマ軍が紀元70年に破壊しました。残った西壁がユダヤの聖地となりました。 キーワード③:ネゲブ核研究所 1950年代にフランスの援助で造られました。平和利用のためとされますが、イスラエルが核兵器を保有しているのは公然の秘密です。 キーワード④:点滴灌漑 イスラエルの先端農業企業が開発した、少量の水で作物を育てる仕組み。イスラエルのネゲブ砂漠でのブドウ栽培とワイン製造という奇跡を成し遂げました。 キーワード⑤:ゴラン高原ワイン 第三次中東戦争以降、ゴラン高原を実効支配中。ここで入植者が生産するワインは、国際的な評価も高いです。さぞかし美味なことでしょう。

中東・イスラエルってどんな国?~エルサレムを実効支配するユダヤ人国家、イスラエル

イスラエルの国旗の青と白は礼拝用のショールの色で、中央にユダヤを象徴するダビデの星を配置しています。19世紀末のシオニスト会議で、原型が発表されました。三大宗教の聖地であるエルサレムは、イスラエルが実効支配する国際社会未承認の首都です。エルサレムの旧市街地には、嘆きの壁というユダヤ教最大の聖地があります。   約束の地よ、我らは帰ってきた。二千年の時を経て達成された、悲願のユダヤ人国家建設。 政体:共和制人口:1879万人※東エルサレムを含む(大阪府くらい)面積:2万1640㎢(岐阜県の2倍くらい)首都:エルサレム(国際社会は未承認)大都市:エルサレム、テルアビブ、ハイファ通貨:新シュケル言語:ヘブライ語、アラビア語宗教:ユダヤ教(多数)、イスラム教石油:ほとんど出ない 1人あたりのGDP:49,840USドル(約543万円)イスラエルはドイツの賠償金、アメリカの支援、送金などの資本を先端技術研究にあて、ITを中心に世界レベルへ急成長しています。 国名の由来:「神と闘う」創世記でヤコブが天使と格闘した後にイスラエルと名づけられ、その名がとられました。神との争い、神の勝利など意味は諸説あります。 国民性トリビア:金曜日の夜からはユダヤの安息日「シャバット」で、イスラエル人は仕事だけでなく料理もしません。   変わるイスラエルとアラブ 紀元前にユダヤ人王国が黄金期を迎えるも、やがてローマに攻められて滅び、2世紀以降に本格的な民族離散(ディアスポラ)が始まります。強い望郷の念は、旧約聖書にある「約束の地」への帰還として二千年にわたり語り継がれました。そして富を蓄えた19世紀後半に転機が訪れます。 シオニズムが盛んになり、イスラエルが誕生する 近代化の成熟過程にあった欧州では、自民族による主権国家を造る「ナショナリズム」が広がったのです。彼らは少数派のユダヤ人を迫害しました。するとユダヤ人の民族意識に火が付きます。富裕層はユダヤ人の「帰還」事業(農民としての入植)を支援し、同時期にユダヤ人国家建設運動「シオニズム」が登場します。 国家建設は第一次大戦でオスマン帝国が負け、この地の支配者が消えると一気に現実味を帯びます。シオニズムが声高に叫ばれ、欧州のユダヤ人の移住が加速しました。それが先住のアラブ人(パレスチナ人)との衝突を引き起こしました。オスマン帝国に代わりこの地を統治したイギリスは、衝突を抑えられず解決を国連に委ねます。国連はこの地をユダヤ人とアラブ人で二分する策を提案、そうして1948年にユダヤ人国家イスラエルが誕生しました。 イスラエル建国したと同時に中東戦争が勃発 当然アラブは反発し、イスラエル建国翌日に第一次中東戦争が勃発します。イスラエルが足並みがそろわないアラブを下します。その後両者は戦争をさらに3度繰り返すことになりました。イスラエルは1993年にパレスチナの暫定自治を認めるオスロ合意を締結しますが、溝は埋まらず今も和平が進んでいません。 この間にイスラエルはIT国家として世界を席巻するようになりました。アラブの一部の国は経済協力のため、またイランに備えるため、イスラエルとの関係を正常化させています。宿命の敵は、戦略とビジネスのパートナーとなるのでしょうか。   イスラエルを知るキーワード キーワード①:テルアビブ イスラエルの経済の中心。ヤッファ港郊外にユダヤ人移民がテルアビブの街を造り、やがて2つが合体しました。市場やビーチが人気ですが、稀にテロが発生します。 キーワード②:エルサレムにある嘆きの壁 ユダヤ王ヘロデが改築したエルサレム神殿を、反乱を鎮めに来たローマ軍が紀元70年に破壊しました。残った西壁がユダヤの聖地となりました。 キーワード③:ネゲブ核研究所 1950年代にフランスの援助で造られました。平和利用のためとされますが、イスラエルが核兵器を保有しているのは公然の秘密です。 キーワード④:点滴灌漑 イスラエルの先端農業企業が開発した、少量の水で作物を育てる仕組み。イスラエルのネゲブ砂漠でのブドウ栽培とワイン製造という奇跡を成し遂げました。 キーワード⑤:ゴラン高原ワイン 第三次中東戦争以降、ゴラン高原を実効支配中。ここで入植者が生産するワインは、国際的な評価も高いです。さぞかし美味なことでしょう。

【京都府】祇園の町並みが今の形になったのは発展は20世紀になってからだった!?

【京都府】祇園の町並みが今の形になったのは発展は20世紀になってからだった!?

古都の趣を感じられる祇園は、茶屋や料亭が並ぶ人気のスポットです。しかし、現在の形になってから、まだ100年程度しか経っていないという事実があります。   祇園の町並みは重要伝統的建造物群保存地区に指定されている 東山区に位置する祇園は、四条通を中心として鴨川、東大路通、建仁寺までの範囲に広がっています。その一角である新橋通は国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されており、京都有数の花街です。 祇園の名前の由来 祇園という名前は、八坂神社に由来します。創建当時の八坂神社は釈迦(しゃか)が説法をした祇園精舎から取って「祇園社」、門前町は「祇園」と名づけられたといいます。 祇園の変遷とその名残 1202年にが建仁寺が開山すると、祇園の大部分は境内に組み込まれました。しかし、明治維新で神仏分離政策がとられ、寺領のほとんどが没収となり、祇園社も八坂神社と名を変えます。国宝に指定された社殿が寺院の本堂のように本殿と拝殿を兼ね備えた形なのも、神仏習合時代の名残とされています。   祇園の町並みが今のようになったのは江戸時代以降 そんな祇園は寺社の興隆とともに発展したとされやすいですが、繁華街になったのは江戸時代以降です。祇園のメインストリートである四条通はかつての平安京の四条大路で、全幅は8mほど。現在のような大通りではありませんでした。拡張されたのは明治時代の後期です。 祇園のメインストリート四条通に市電敷設 当時の京都市は、産業復活を目指して「京都市三大事業」を計画しました。その1つである市電敷設による交通網の整備で、1906年に四条通も京都市電四条線の線路設置が決定しました。これにより、四条通の道幅も8mから20m(現在は22m)に大幅拡張。建造物の大部分も建て直されていきました。 四条通拡張に合わせて八坂神社の西楼門も移動 八坂神社の西楼門(にしろうもん)も、1913年に四条通の拡張にともない、門を東に6m、北に3m移動しています。花見小路通も、大正時代に発展したもの。四条通での茶屋営業が禁止となって店舗が移ってきた結果、京都一の花街になりました。『忠臣蔵』の大石内蔵助が豪遊したことでも有名な一力亭(いちりきてい)も、四条通に面していた玄関を、花見小路通方面に変えています。 祇園の代表的町並みの花街 花街としての祇園は、1881年に東部が分離され「祇園甲部」と「祇園東」になります。このほかにも宮川筋二丁目から六丁目のあたりが「宮川町」、四条通から三条通の1筋南まで通じる細い通りが「先斗町(ぽんとちょう)」、上京区の北野天満宮に近接する繁華街に「上七軒(かみしちけん)」があり、これらは五花街と呼ばれています。 歌舞練場に集う芸妓・舞妓 このうち祇園東以外には「歌舞練場」という芸妓・舞妓の劇場があり、「都をどり」「京おどり」「鴨川をどり」「北野をどり」などの舞踏公演のほか、歌や舞踊の練習場として利用されています。   祇園祭は疫病退散からはじまった 八坂神社の祭礼として毎年7月に行われるのが祇園祭です。869年全国で疫病が流行した際、広大な庭園だった神泉苑に当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、牛頭天王(ごずてんのう)らの神を迎えて災厄退散を祈ったことがはじまりとされています。17日と24日の山鉾巡行が有名ですが、祭礼自体は1日から31日まで日程が組まれていて、まさに京都の夏の風物詩となっています。

【京都府】祇園の町並みが今の形になったのは発展は20世紀になってからだった!?

古都の趣を感じられる祇園は、茶屋や料亭が並ぶ人気のスポットです。しかし、現在の形になってから、まだ100年程度しか経っていないという事実があります。   祇園の町並みは重要伝統的建造物群保存地区に指定されている 東山区に位置する祇園は、四条通を中心として鴨川、東大路通、建仁寺までの範囲に広がっています。その一角である新橋通は国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されており、京都有数の花街です。 祇園の名前の由来 祇園という名前は、八坂神社に由来します。創建当時の八坂神社は釈迦(しゃか)が説法をした祇園精舎から取って「祇園社」、門前町は「祇園」と名づけられたといいます。 祇園の変遷とその名残 1202年にが建仁寺が開山すると、祇園の大部分は境内に組み込まれました。しかし、明治維新で神仏分離政策がとられ、寺領のほとんどが没収となり、祇園社も八坂神社と名を変えます。国宝に指定された社殿が寺院の本堂のように本殿と拝殿を兼ね備えた形なのも、神仏習合時代の名残とされています。   祇園の町並みが今のようになったのは江戸時代以降 そんな祇園は寺社の興隆とともに発展したとされやすいですが、繁華街になったのは江戸時代以降です。祇園のメインストリートである四条通はかつての平安京の四条大路で、全幅は8mほど。現在のような大通りではありませんでした。拡張されたのは明治時代の後期です。 祇園のメインストリート四条通に市電敷設 当時の京都市は、産業復活を目指して「京都市三大事業」を計画しました。その1つである市電敷設による交通網の整備で、1906年に四条通も京都市電四条線の線路設置が決定しました。これにより、四条通の道幅も8mから20m(現在は22m)に大幅拡張。建造物の大部分も建て直されていきました。 四条通拡張に合わせて八坂神社の西楼門も移動 八坂神社の西楼門(にしろうもん)も、1913年に四条通の拡張にともない、門を東に6m、北に3m移動しています。花見小路通も、大正時代に発展したもの。四条通での茶屋営業が禁止となって店舗が移ってきた結果、京都一の花街になりました。『忠臣蔵』の大石内蔵助が豪遊したことでも有名な一力亭(いちりきてい)も、四条通に面していた玄関を、花見小路通方面に変えています。 祇園の代表的町並みの花街 花街としての祇園は、1881年に東部が分離され「祇園甲部」と「祇園東」になります。このほかにも宮川筋二丁目から六丁目のあたりが「宮川町」、四条通から三条通の1筋南まで通じる細い通りが「先斗町(ぽんとちょう)」、上京区の北野天満宮に近接する繁華街に「上七軒(かみしちけん)」があり、これらは五花街と呼ばれています。 歌舞練場に集う芸妓・舞妓 このうち祇園東以外には「歌舞練場」という芸妓・舞妓の劇場があり、「都をどり」「京おどり」「鴨川をどり」「北野をどり」などの舞踏公演のほか、歌や舞踊の練習場として利用されています。   祇園祭は疫病退散からはじまった 八坂神社の祭礼として毎年7月に行われるのが祇園祭です。869年全国で疫病が流行した際、広大な庭園だった神泉苑に当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、牛頭天王(ごずてんのう)らの神を迎えて災厄退散を祈ったことがはじまりとされています。17日と24日の山鉾巡行が有名ですが、祭礼自体は1日から31日まで日程が組まれていて、まさに京都の夏の風物詩となっています。

【福岡県・山口県】関門トンネルの歴史は苦難の連続!~世界に誇る海底トンネルは日本独自の技術の集結~

【福岡県・山口県】関門トンネルの歴史は苦難の連続!~世界に誇る海底トンネルは日本独自の技術の集結~

海底にトンネルを掘る…その作業がどれほど大変だったのか私たちには想像もつかない。しかしそれを成し遂げ、後世に残した人々がいることを忘れてはいけない。   関門海峡のルート 本州と九州を隔てる関門海峡には4つのルートが存在し、年代順に紹介すると昭和17(1942)年開通の鉄道トンネル、昭和33(1958)年開通の国道トンネル、昭和48(1973)年開通の関門橋、そして昭和50(1975)年開通の新関門トンネルです。 今でこそ世界に誇る日本の掘削技術ですが、建設が計画された当時は試練、苦難、危険の連続でした。 関門トンネルの歴史は苦難に満ちた”魔海”を掘り抜く大工事にあった! 関門国道トンネルは“魔海”と言われた関門海峡の底を掘り抜く大工事で、昭和12(1937)年に調査工事に着手、戦争による休止期間を含めて、21年にわたる国を挙げた一大事業でした。 実は、それ以前に内務省土木局(現在の国土交通省)では、昭和8(1933)年から関門連絡道路の調査を始め、中央支間長720mの吊橋の設計を昭和11(1936)年度に完了していたのですが、軍の反対で実現を見るに至りませんでした。一方で、神戸土木出張所から着任して間もない加藤伴平氏が中心となり海底道路トンネルの計画を昭和9(1934)年頃から進めていました。当時開通していた道路トンネルの数は少なく、トンネル建設経験者が少なかったが故、突然海底道路トンネルの計画を任された加藤技師の苦労は、並々ならぬものであったことがうかがわれます。   関門トンネルの歴史は日本の自動車専用トンネル工事の歴史でもある 鉄道分野においては多くのトンネル実績を持っていましたが、そのほとんどが単線トンネルであり、断面が大きい複線断面のトンネルは昭和9年に丹那(たんな)が開通したのみで、自動車専用に近いトンネルは勿論、機械換気設備を施した道路トンネルは一本も存在しませんでした。また、トンネルの断面を決める当時の構造令は、現在のように細かいところまで規定しておらず、幅員も国道は7.5mでその中に、自動車のほか牛馬車、荷車、自転車、人の混合交通であり、自動車専用という考えはありませんでした。 関門トンネルの開通は国民に強く望まれていた 関門海峡早鞆(はやとも)ノ瀬戸は、その幅わずか700mに過ぎませんが、瀬戸内海ののど部に位置するため潮の流れが速く、本州と九州の隔たりを一層大きいものにしていました。これを海底隧道によって直接結ぶことは国民の久しく念願していたところであり、自動車交通の発達に伴い、道路隧道の速やかなる開通が切に望まれていました。   関門トンネルの歴史と苦難:掘削工事 そんな中で十分な予算も得られず始まったトンネル建設は、当然ながら困難を極めました。 関門トンネルの掘削工事での苦難①:洞窟から吹き出る水の止水に3日間 最初の壁は、昭和15(1940)年に遭遇した「洞窟」です。 花崗岩層と3つの断層破砕帯を抜いて石灰岩層に入り、立坑から200mのあたりに差し掛かったとき、突然前面の岩盤が揺らぎ出したと思う間もなく、ものすごい勢いで水が噴き出してきました。見ると直径1mばかりの穴がぽっくりと口を開けています。慌ててコンクリートの塊を投げ入れて口を塞ぎ、セメント180袋に火山灰を混ぜたものを3日間注入してようやく水が止まりました。調査の結果、この穴は前後に無限に続いていることが分かり、鍾乳洞と思われました。 関門トンネルの掘削工事での苦難②:手作業での断層破砕帯の掘削 次に問題となったのは、昭和16年に対面した「断層破砕帯(だんそうはさいたい)」です。断層破砕帯とは、地震を引き起こす断層が発生し、その付近に玢岩(ひんがん)が分布する帯状地質をいいます。断層破砕帯の掘削は、落盤を防ぐために厚い松板を天井に打ち込み、これを支保工(しほこう)で支えるという手作業の「縫い地工法」で掘り進めるしかありませんでした。 関門トンネルの歴史と苦難:事故による犠牲 その後も、昭和20(1945)年には空襲に遭い陸上諸施設を破壊され、昭和22(1947)年にはマッカーサーが工事中止令を発令するなど計画当初には想像もしなかったような出来事が続きました。 関門トンネルの工事事故による苦難①:爆破事故 さらに昭和27(1952)年8月、大きな掘削面をもつ作業鋼製架台ジャンボーを使いダイナマイトの準備を行っている最中、電気アースの不良により爆破事故が発生しました。作業員は高能率のジャンボーに期待していましたが、死亡事故となってしまったため従来の工法に戻すこととなり、またしても工事は遅れることになりました。 関門トンネルの工事事故による苦難②:地滑りによる大事故 完全開通まで5年となった昭和28(1953)年11月、下関側の椋野(むくの)立坑工事現場の地滑りで2人が生き埋めとなる大事故が発生しました。 この換気立坑は建設会社の間組(はざまぐみ)に請け負わせていたもので、できあがった直径10mのコンクリートの井筒を40mの深さに埋め込んでいたとき、前夜からの雨で緩んでいた地盤が突然地滑りを起こし、重さ800tもあろうかというコンクリートの井筒が、穴に吸い込まれるように落ちて行きました。穴の周縁に立っていた十数人の作業員は地面が動きだしたため這うようにして難を逃れますが、逃げ遅れた3人が巻き込まれてしまいました。 本州と九州を結ぶ大切な関門国道トンネルですが、完成までは苦難の連続であり、建設工事は21年の長きにわたり、その間に失った人命は53名にも上ります。  ...

【福岡県・山口県】関門トンネルの歴史は苦難の連続!~世界に誇る海底トンネルは日本独自の技術の集結~

海底にトンネルを掘る…その作業がどれほど大変だったのか私たちには想像もつかない。しかしそれを成し遂げ、後世に残した人々がいることを忘れてはいけない。   関門海峡のルート 本州と九州を隔てる関門海峡には4つのルートが存在し、年代順に紹介すると昭和17(1942)年開通の鉄道トンネル、昭和33(1958)年開通の国道トンネル、昭和48(1973)年開通の関門橋、そして昭和50(1975)年開通の新関門トンネルです。 今でこそ世界に誇る日本の掘削技術ですが、建設が計画された当時は試練、苦難、危険の連続でした。 関門トンネルの歴史は苦難に満ちた”魔海”を掘り抜く大工事にあった! 関門国道トンネルは“魔海”と言われた関門海峡の底を掘り抜く大工事で、昭和12(1937)年に調査工事に着手、戦争による休止期間を含めて、21年にわたる国を挙げた一大事業でした。 実は、それ以前に内務省土木局(現在の国土交通省)では、昭和8(1933)年から関門連絡道路の調査を始め、中央支間長720mの吊橋の設計を昭和11(1936)年度に完了していたのですが、軍の反対で実現を見るに至りませんでした。一方で、神戸土木出張所から着任して間もない加藤伴平氏が中心となり海底道路トンネルの計画を昭和9(1934)年頃から進めていました。当時開通していた道路トンネルの数は少なく、トンネル建設経験者が少なかったが故、突然海底道路トンネルの計画を任された加藤技師の苦労は、並々ならぬものであったことがうかがわれます。   関門トンネルの歴史は日本の自動車専用トンネル工事の歴史でもある 鉄道分野においては多くのトンネル実績を持っていましたが、そのほとんどが単線トンネルであり、断面が大きい複線断面のトンネルは昭和9年に丹那(たんな)が開通したのみで、自動車専用に近いトンネルは勿論、機械換気設備を施した道路トンネルは一本も存在しませんでした。また、トンネルの断面を決める当時の構造令は、現在のように細かいところまで規定しておらず、幅員も国道は7.5mでその中に、自動車のほか牛馬車、荷車、自転車、人の混合交通であり、自動車専用という考えはありませんでした。 関門トンネルの開通は国民に強く望まれていた 関門海峡早鞆(はやとも)ノ瀬戸は、その幅わずか700mに過ぎませんが、瀬戸内海ののど部に位置するため潮の流れが速く、本州と九州の隔たりを一層大きいものにしていました。これを海底隧道によって直接結ぶことは国民の久しく念願していたところであり、自動車交通の発達に伴い、道路隧道の速やかなる開通が切に望まれていました。   関門トンネルの歴史と苦難:掘削工事 そんな中で十分な予算も得られず始まったトンネル建設は、当然ながら困難を極めました。 関門トンネルの掘削工事での苦難①:洞窟から吹き出る水の止水に3日間 最初の壁は、昭和15(1940)年に遭遇した「洞窟」です。 花崗岩層と3つの断層破砕帯を抜いて石灰岩層に入り、立坑から200mのあたりに差し掛かったとき、突然前面の岩盤が揺らぎ出したと思う間もなく、ものすごい勢いで水が噴き出してきました。見ると直径1mばかりの穴がぽっくりと口を開けています。慌ててコンクリートの塊を投げ入れて口を塞ぎ、セメント180袋に火山灰を混ぜたものを3日間注入してようやく水が止まりました。調査の結果、この穴は前後に無限に続いていることが分かり、鍾乳洞と思われました。 関門トンネルの掘削工事での苦難②:手作業での断層破砕帯の掘削 次に問題となったのは、昭和16年に対面した「断層破砕帯(だんそうはさいたい)」です。断層破砕帯とは、地震を引き起こす断層が発生し、その付近に玢岩(ひんがん)が分布する帯状地質をいいます。断層破砕帯の掘削は、落盤を防ぐために厚い松板を天井に打ち込み、これを支保工(しほこう)で支えるという手作業の「縫い地工法」で掘り進めるしかありませんでした。 関門トンネルの歴史と苦難:事故による犠牲 その後も、昭和20(1945)年には空襲に遭い陸上諸施設を破壊され、昭和22(1947)年にはマッカーサーが工事中止令を発令するなど計画当初には想像もしなかったような出来事が続きました。 関門トンネルの工事事故による苦難①:爆破事故 さらに昭和27(1952)年8月、大きな掘削面をもつ作業鋼製架台ジャンボーを使いダイナマイトの準備を行っている最中、電気アースの不良により爆破事故が発生しました。作業員は高能率のジャンボーに期待していましたが、死亡事故となってしまったため従来の工法に戻すこととなり、またしても工事は遅れることになりました。 関門トンネルの工事事故による苦難②:地滑りによる大事故 完全開通まで5年となった昭和28(1953)年11月、下関側の椋野(むくの)立坑工事現場の地滑りで2人が生き埋めとなる大事故が発生しました。 この換気立坑は建設会社の間組(はざまぐみ)に請け負わせていたもので、できあがった直径10mのコンクリートの井筒を40mの深さに埋め込んでいたとき、前夜からの雨で緩んでいた地盤が突然地滑りを起こし、重さ800tもあろうかというコンクリートの井筒が、穴に吸い込まれるように落ちて行きました。穴の周縁に立っていた十数人の作業員は地面が動きだしたため這うようにして難を逃れますが、逃げ遅れた3人が巻き込まれてしまいました。 本州と九州を結ぶ大切な関門国道トンネルですが、完成までは苦難の連続であり、建設工事は21年の長きにわたり、その間に失った人命は53名にも上ります。  ...

【山口県】宇部興産専用道路は約32kmと私道として長さ日本一

【山口県】宇部興産専用道路は約32kmと私道として長さ日本一

高速道路に負けない幅員、トンネル、全長1kmを超える橋を有する宇部興産(うべこうさん)専用道路。膨大なセメント材料の輸送に耐え、日本の産業を半世紀以上支えています。   宇部興産専用道路はセメント工場や港へ荷物を運ぶために造られた市道 宇部興産専用道路は、美祢市伊佐(みねしいさ)からいったん東に進んで南下。中国自動車道としばらく並走した後、山あいや住宅地のそばを通過し、山陽新幹線をまたいで宇部市の市街地に入ります。 海岸近くに出たら厚東川(ことうがわ)河口にかかる興産大橋(こうさんおおはし)を渡り、小串(おぐし)地区に集中する工場に入るルートです。伊佐セメント工場で製造されるセメントの半製品(クリンカー)や伊佐鉱山で採取される石灰石を宇部のセメント工場や港へ、逆に宇部港に荷揚げされたセメント製造用の石灰などを伊佐の工場にそれぞれ輸送します。 1968(昭和43)年から順次部分供用され、1982(昭和57)年の興産大橋(全長1020m)の完成をもって全線開通しました。大半が片側2車線で、高速道にも引けをとりません。設計施工・建材製造の全てを、宇部興産株式会社とグループ企業でまかないました。   宇部興産専用道路は県道山口宇部線(宇部湾岸線)の一部として山口県が購入 もともとクリンカーなどの輸送は、国鉄美祢線の貨物列車を利用していました。しかし昭和30年代に入りセメント需要が急増する中、列車貨物輸送では十分対応できなくなり、安定輸送に支障が出始めました。 そこで沿道の私有地を買収するなどして自前で道路を建設することになりました。全通後、宇部市の一部区間1.5kmについては山口県が4車線のうち片側2車線を購入。以降、車線を完全分断したうえで県道山口宇部線(宇部湾岸線)の一部として国道190号を結ぶアクセス道に使用しています。 地方公共団体が企業所有の道路を購入したのは全国でも珍しく、山口県にとってはアクセス道を新設した場合に比べ建設費や工事期間が大幅に圧縮できるメリットがありました。   宇部興産専用道路は、日本の公道では走れない超大型車両の通行が可能 宇部興産専用道路は一般の車両は通行できませんが、私道であることから道路交通法などの適用を受けません。このため日本の公道では走れない、超大型車両の通行が可能です。輸送の主役は、公道で走行が認められているフルトレーラーの長さの2倍近い、全長30mに及ぶダブルストレーラー。2両編成で積載量は80tないし88tを誇ります。公道を走行できるダンプカーは大型でも10t積み程度のため効率よく輸送でき、その分環境への負荷が低減できます。 通常のナンバープレートが付いていない水色の巨大なボディーが1日に30台、美祢~宇部を10往復します。1日に運ぶクリンカーは1.2万t、石灰石は1.4万tに上ります。それでも輸送量は、ピーク時の1990年代後半に比べればやや減少傾向にあるといいます。 輸送に関わる乗務員は80人。通常の運転免許だけでなく社内の講習会を受講してライセンスを取ることが義務付けられています。社内ルールは道路交通法以上に厳しく、時速70km以上は違反となります。車間距離を一定にとることやトンネル内点灯など細かくルールが決められ、違反によってはライセンス取り消し処分もあります。 特にスピード違反には厳しいのです。ダブルストレーラーは自重だけで40t、荷を積んだら120t以上になるため、沿線住宅への騒音の心配が大きいからです。   宇部興産専用道路はイベントや映画のロケ、自転車競技に使用された 私道だけに、所有する宇部興産株式会社が認めればさまざまな使い方が可能で、これまでも映画やテレビドラマのロケなどに使われました。 1994(平成6)年に開催された広島アジア競技大会では、北部分の船木(ふなき)ICから伊佐トンネル南口までの12kmが自転車競技に使用されました。官民でつくる宇部・美祢・山陽小野田(さんようおのだ)産業観光推進協議会は、2007(平成19)年度から美祢、宇部市のセメント産業の現場を巡るバスツアー「セメントの道」を始めました。鉱山見学ももちろんですが、普段は立ち入ることができない宇部興産専用道路をバスで走れることも、貴重な体験として人気を集めています。  

【山口県】宇部興産専用道路は約32kmと私道として長さ日本一

高速道路に負けない幅員、トンネル、全長1kmを超える橋を有する宇部興産(うべこうさん)専用道路。膨大なセメント材料の輸送に耐え、日本の産業を半世紀以上支えています。   宇部興産専用道路はセメント工場や港へ荷物を運ぶために造られた市道 宇部興産専用道路は、美祢市伊佐(みねしいさ)からいったん東に進んで南下。中国自動車道としばらく並走した後、山あいや住宅地のそばを通過し、山陽新幹線をまたいで宇部市の市街地に入ります。 海岸近くに出たら厚東川(ことうがわ)河口にかかる興産大橋(こうさんおおはし)を渡り、小串(おぐし)地区に集中する工場に入るルートです。伊佐セメント工場で製造されるセメントの半製品(クリンカー)や伊佐鉱山で採取される石灰石を宇部のセメント工場や港へ、逆に宇部港に荷揚げされたセメント製造用の石灰などを伊佐の工場にそれぞれ輸送します。 1968(昭和43)年から順次部分供用され、1982(昭和57)年の興産大橋(全長1020m)の完成をもって全線開通しました。大半が片側2車線で、高速道にも引けをとりません。設計施工・建材製造の全てを、宇部興産株式会社とグループ企業でまかないました。   宇部興産専用道路は県道山口宇部線(宇部湾岸線)の一部として山口県が購入 もともとクリンカーなどの輸送は、国鉄美祢線の貨物列車を利用していました。しかし昭和30年代に入りセメント需要が急増する中、列車貨物輸送では十分対応できなくなり、安定輸送に支障が出始めました。 そこで沿道の私有地を買収するなどして自前で道路を建設することになりました。全通後、宇部市の一部区間1.5kmについては山口県が4車線のうち片側2車線を購入。以降、車線を完全分断したうえで県道山口宇部線(宇部湾岸線)の一部として国道190号を結ぶアクセス道に使用しています。 地方公共団体が企業所有の道路を購入したのは全国でも珍しく、山口県にとってはアクセス道を新設した場合に比べ建設費や工事期間が大幅に圧縮できるメリットがありました。   宇部興産専用道路は、日本の公道では走れない超大型車両の通行が可能 宇部興産専用道路は一般の車両は通行できませんが、私道であることから道路交通法などの適用を受けません。このため日本の公道では走れない、超大型車両の通行が可能です。輸送の主役は、公道で走行が認められているフルトレーラーの長さの2倍近い、全長30mに及ぶダブルストレーラー。2両編成で積載量は80tないし88tを誇ります。公道を走行できるダンプカーは大型でも10t積み程度のため効率よく輸送でき、その分環境への負荷が低減できます。 通常のナンバープレートが付いていない水色の巨大なボディーが1日に30台、美祢~宇部を10往復します。1日に運ぶクリンカーは1.2万t、石灰石は1.4万tに上ります。それでも輸送量は、ピーク時の1990年代後半に比べればやや減少傾向にあるといいます。 輸送に関わる乗務員は80人。通常の運転免許だけでなく社内の講習会を受講してライセンスを取ることが義務付けられています。社内ルールは道路交通法以上に厳しく、時速70km以上は違反となります。車間距離を一定にとることやトンネル内点灯など細かくルールが決められ、違反によってはライセンス取り消し処分もあります。 特にスピード違反には厳しいのです。ダブルストレーラーは自重だけで40t、荷を積んだら120t以上になるため、沿線住宅への騒音の心配が大きいからです。   宇部興産専用道路はイベントや映画のロケ、自転車競技に使用された 私道だけに、所有する宇部興産株式会社が認めればさまざまな使い方が可能で、これまでも映画やテレビドラマのロケなどに使われました。 1994(平成6)年に開催された広島アジア競技大会では、北部分の船木(ふなき)ICから伊佐トンネル南口までの12kmが自転車競技に使用されました。官民でつくる宇部・美祢・山陽小野田(さんようおのだ)産業観光推進協議会は、2007(平成19)年度から美祢、宇部市のセメント産業の現場を巡るバスツアー「セメントの道」を始めました。鉱山見学ももちろんですが、普段は立ち入ることができない宇部興産専用道路をバスで走れることも、貴重な体験として人気を集めています。  

【東京都】「江東デルタ」東京の海抜ゼロメートル地帯~荒川と隅田川に囲まれた低地~

【東京都】「江東デルタ」東京の海抜ゼロメートル地帯~荒川と隅田川に囲まれた低地~

東京の東部、隅田川や江戸川周辺の地域は、歴史的経緯もあって低地帯となっており、頻発するようになった大規模水害への対策が急がれています。   江東デルタ一帯は東京の中でも水害リスクが高い 東京都を地形で見ると、西部の山地、中央部の丘陵地と台地、東部の低地と大きく三分割できます。このうち東部低地帯は、荒川と隅田川に挟まれたいわゆる「江東デルタ」を中心に、海抜ゼロメートル地帯が広がり、水害リスクの高い地域として知られています。 海抜ゼロメートル地帯とは、土地の標高が満潮時の海水面と同じレベルか、それ以下の土地のこと。洪水などの水害が発生しやすく、いったん浸水すると排水が難しいため、復旧に時間がかかってしまいます。   江東デルタ一帯は大規模な水害対策と開発が行われてきた 東京の東部低地帯は、その昔、利根川や荒川などの河口部の湿地および浮洲(うきす)でした。しかし、徳川家康の関東移封以後、大規模な治水対策と低湿地の開発が行われ、次第に海側に拡張されてきました。 治水対策として利根川や荒川のつけ替えも行われ、東京湾に流れ込んでいた利根川は、文禄3(1594)年から瀬替工事が行われ、承応3(1654)年には千葉県銚子市から太平洋に注ぐようになりました。   江東デルタと荒川の治水事業 一方、利根川の支流だった荒川は、寛永6(1629)年に利根川から切り離され、隅田川に接続されました。 また、大正2(1913)年からは、17年かけて約22kmの人工河川「荒川放水路」の開削が行われました。現在は、この荒川放水路が荒川の本流とされ、岩淵水門から分岐する旧荒川が「隅田川」と定められています。 荒川周辺地域の地盤沈下 治水対策が進められる一方、この地域では産業用水の汲み上げや水溶性天然ガスの採取が盛んに行われるようになったのです。その結果、地盤沈下が発生し始め、昭和40年代まで年々進行し、その区域も拡大していきます。 また、戦後復興で地盤沈下を考慮しない市街化と過密化も進行し、海抜ゼロメートル以下のエリアに広域な市街地が形成されたのです。 危機感を持った東京都は、地下水の揚水規制や天然ガス採取の停止などを実施。すると 昭和48(1973)年頃から地盤沈下は急速に減少し、現在ではほぼ停止しています。しかし、もっとも沈下した江東区南砂2丁目では、累計沈下量は約4.5mにも達しています。 出典:東京都建設局のHPを元に作成 東京の東部低地帯の地盤高を海水面との比較で示した図。西側の山の手台地にくらべ、荒川・隅田川流域の東側には地盤高の低い地域が広がっているのがわかります。 「A.P.」とは、「Arakawa Pe(il 荒川工事基準面)」の略で、荒川水系に使用されている水位の表示方法。A.P.±0mは、東京湾の干潮時の海水面の高さとほぼ同じで、満潮時には約2m高くなります。つまり、A.P.+2m以下の地域の居住者は、河岸堤防・海岸堤防がなければ、毎日海水に浸かる場所で生活をしていることになります。そのため、河川の氾濫だけでなく、津波や高潮などによっても甚大な被害が発生する可能性は高いのです。 出典:東京都建設局のHPを元に作成 上記の平面図に示された赤線部で切ったときの断面図。A.P.±0mは東京湾の干潮時の海水面の高さとほぼ同じです。江東デルタは河川の平常時の水位より低い地帯が多く、平時から河岸堤防に守られています。   江東デルタをはじめ、東京の水害対策は大きな課題 近年は地球温暖化の影響もあって大規模水害が各地で発生しており、東京においても水害対策が喫緊の課題となっています。 海抜ゼロメートル地帯である江東5区(墨田区、江東区、足立区、葛飾区、江戸川区)で大規模 水害が発生すれば、床上浸水となる想定区域内の居住人口は250万人におよび、浸水が2週間以上続く地域があることも予測されています。...

【東京都】「江東デルタ」東京の海抜ゼロメートル地帯~荒川と隅田川に囲まれた低地~

東京の東部、隅田川や江戸川周辺の地域は、歴史的経緯もあって低地帯となっており、頻発するようになった大規模水害への対策が急がれています。   江東デルタ一帯は東京の中でも水害リスクが高い 東京都を地形で見ると、西部の山地、中央部の丘陵地と台地、東部の低地と大きく三分割できます。このうち東部低地帯は、荒川と隅田川に挟まれたいわゆる「江東デルタ」を中心に、海抜ゼロメートル地帯が広がり、水害リスクの高い地域として知られています。 海抜ゼロメートル地帯とは、土地の標高が満潮時の海水面と同じレベルか、それ以下の土地のこと。洪水などの水害が発生しやすく、いったん浸水すると排水が難しいため、復旧に時間がかかってしまいます。   江東デルタ一帯は大規模な水害対策と開発が行われてきた 東京の東部低地帯は、その昔、利根川や荒川などの河口部の湿地および浮洲(うきす)でした。しかし、徳川家康の関東移封以後、大規模な治水対策と低湿地の開発が行われ、次第に海側に拡張されてきました。 治水対策として利根川や荒川のつけ替えも行われ、東京湾に流れ込んでいた利根川は、文禄3(1594)年から瀬替工事が行われ、承応3(1654)年には千葉県銚子市から太平洋に注ぐようになりました。   江東デルタと荒川の治水事業 一方、利根川の支流だった荒川は、寛永6(1629)年に利根川から切り離され、隅田川に接続されました。 また、大正2(1913)年からは、17年かけて約22kmの人工河川「荒川放水路」の開削が行われました。現在は、この荒川放水路が荒川の本流とされ、岩淵水門から分岐する旧荒川が「隅田川」と定められています。 荒川周辺地域の地盤沈下 治水対策が進められる一方、この地域では産業用水の汲み上げや水溶性天然ガスの採取が盛んに行われるようになったのです。その結果、地盤沈下が発生し始め、昭和40年代まで年々進行し、その区域も拡大していきます。 また、戦後復興で地盤沈下を考慮しない市街化と過密化も進行し、海抜ゼロメートル以下のエリアに広域な市街地が形成されたのです。 危機感を持った東京都は、地下水の揚水規制や天然ガス採取の停止などを実施。すると 昭和48(1973)年頃から地盤沈下は急速に減少し、現在ではほぼ停止しています。しかし、もっとも沈下した江東区南砂2丁目では、累計沈下量は約4.5mにも達しています。 出典:東京都建設局のHPを元に作成 東京の東部低地帯の地盤高を海水面との比較で示した図。西側の山の手台地にくらべ、荒川・隅田川流域の東側には地盤高の低い地域が広がっているのがわかります。 「A.P.」とは、「Arakawa Pe(il 荒川工事基準面)」の略で、荒川水系に使用されている水位の表示方法。A.P.±0mは、東京湾の干潮時の海水面の高さとほぼ同じで、満潮時には約2m高くなります。つまり、A.P.+2m以下の地域の居住者は、河岸堤防・海岸堤防がなければ、毎日海水に浸かる場所で生活をしていることになります。そのため、河川の氾濫だけでなく、津波や高潮などによっても甚大な被害が発生する可能性は高いのです。 出典:東京都建設局のHPを元に作成 上記の平面図に示された赤線部で切ったときの断面図。A.P.±0mは東京湾の干潮時の海水面の高さとほぼ同じです。江東デルタは河川の平常時の水位より低い地帯が多く、平時から河岸堤防に守られています。   江東デルタをはじめ、東京の水害対策は大きな課題 近年は地球温暖化の影響もあって大規模水害が各地で発生しており、東京においても水害対策が喫緊の課題となっています。 海抜ゼロメートル地帯である江東5区(墨田区、江東区、足立区、葛飾区、江戸川区)で大規模 水害が発生すれば、床上浸水となる想定区域内の居住人口は250万人におよび、浸水が2週間以上続く地域があることも予測されています。...

【海外】現在のイランの成り立ちの背景を知る~中東の地域大国イランは革命輸出国!?

【海外】現在のイランの成り立ちの背景を知る~中東の地域大国イランは革命輸出国!?

アメリカ・イスラエルのイラン攻撃に端を発し、中東全体を巻き込んでの紛争となっているイラン情勢。 紛争は地政学リスクを高める大きな要因となります。紛争の多発地域としては中東が挙げられますが、以前からその多くに絡んでいるのがイランです。 イランは〝革命〞を輸出する国 1979年、イランではイスラム教シーア派によるイスラム革命が起こり、最高指導者ホメイニ師を頂点とする政教一致のイスラム共和国が誕生します。そして革命を自国のみで終わらせず、各地に波及させようと、〝革命の輸出〞を開始しました。 革命の輸出とは、具体的には各地のシーア派勢力などに武器を供与したり軍事訓練を施すなどして、反体制運動を支援します。たとえばパレスチナのガザ地区を支配するイスラム組織ハマスやレバノンのシーア派組織ヒズボラは、イランとのつながりが深い組織として有名です。 革命を輸出するイランVSアメリカ そうしたイランのやり方に憤るアメリカは、1984年に同国を「テロ支援国家」に指定。2002年には当時のブッシュ大統領がイラク、北朝鮮とともに「悪の枢軸」と呼んで批判しました。 しかし、その後もイランは革命の輸出をやめません。ホメイニ師の後継者ハメネイ師は、イラクのサダム・フセイン政権が2003年のイラク戦争で崩壊すると、同国内にシーア派の民兵組織をつくって活動させました。さらに2010年からのアラブの春でシリアが内戦状態に陥ると、シーア派の一派であるアサド政権への支援を強化します。こうしてイランはイラク、シリア、レバノン、パレスチナと続くシーア派の多い三日月地帯で影響力を広げようとしてきたのです。   革命を輸出するイランの2020年代の新たな動き 地政学的にイランをみた場合、ペルシャ湾の西側のスンニ派大国サウジアラビアとは、中東での反米・親米の両巨頭として対立関係にあります。そのため、両国がともに影響力を行使できる位置にあるホルムズ海峡では緊張関係が続いています。 また、イランはイスラエルとも犬猿の仲です。イスラエルはイランの核開発を警戒して核科学者を暗殺したり、核関連施設を攻撃したりしたといわれています。イランもパレスチナのハマスを支援し、ロケット弾などでイスラエルを攻撃させています。 そして最近では、同じ反欧米のロシア、中国と軍事・経済での協力関係を強化。2022年1月、ウクライナ侵攻の1ヵ月前には、イランのライシ大統領がロシアを訪問し、プーチン大統領と会談しました。中国との協力も着々と進めており、中・ロ・イの「反米枢軸」を固めようとする動きが活発化しています。   中東におけるイランの立ち位置 イラン対イスラエル(対立)イランは「イスラエルの殲滅」を国是のひとつとして掲げている。 イランとロシア&中国(協力関係)反欧米のロシア、中国とイランは協力関係を強化している。 イランからシリアへ(革命の輸出)内戦が続くシリアのアサド政権(シーア派の一派)を支援。 イランからパレスチナへ(革命の輸出)イスラエルと対立するイスラム組織ハマスを支援。 イランからレバノンへ(革命の輸出)イスラエルと対立するシーア派組織ヒズボラを支援。 イラン対サウジアラビア(対立)イランはシーア派大国、サウジアラビアはスンニ派大国として対立。

【海外】現在のイランの成り立ちの背景を知る~中東の地域大国イランは革命輸出国!?

アメリカ・イスラエルのイラン攻撃に端を発し、中東全体を巻き込んでの紛争となっているイラン情勢。 紛争は地政学リスクを高める大きな要因となります。紛争の多発地域としては中東が挙げられますが、以前からその多くに絡んでいるのがイランです。 イランは〝革命〞を輸出する国 1979年、イランではイスラム教シーア派によるイスラム革命が起こり、最高指導者ホメイニ師を頂点とする政教一致のイスラム共和国が誕生します。そして革命を自国のみで終わらせず、各地に波及させようと、〝革命の輸出〞を開始しました。 革命の輸出とは、具体的には各地のシーア派勢力などに武器を供与したり軍事訓練を施すなどして、反体制運動を支援します。たとえばパレスチナのガザ地区を支配するイスラム組織ハマスやレバノンのシーア派組織ヒズボラは、イランとのつながりが深い組織として有名です。 革命を輸出するイランVSアメリカ そうしたイランのやり方に憤るアメリカは、1984年に同国を「テロ支援国家」に指定。2002年には当時のブッシュ大統領がイラク、北朝鮮とともに「悪の枢軸」と呼んで批判しました。 しかし、その後もイランは革命の輸出をやめません。ホメイニ師の後継者ハメネイ師は、イラクのサダム・フセイン政権が2003年のイラク戦争で崩壊すると、同国内にシーア派の民兵組織をつくって活動させました。さらに2010年からのアラブの春でシリアが内戦状態に陥ると、シーア派の一派であるアサド政権への支援を強化します。こうしてイランはイラク、シリア、レバノン、パレスチナと続くシーア派の多い三日月地帯で影響力を広げようとしてきたのです。   革命を輸出するイランの2020年代の新たな動き 地政学的にイランをみた場合、ペルシャ湾の西側のスンニ派大国サウジアラビアとは、中東での反米・親米の両巨頭として対立関係にあります。そのため、両国がともに影響力を行使できる位置にあるホルムズ海峡では緊張関係が続いています。 また、イランはイスラエルとも犬猿の仲です。イスラエルはイランの核開発を警戒して核科学者を暗殺したり、核関連施設を攻撃したりしたといわれています。イランもパレスチナのハマスを支援し、ロケット弾などでイスラエルを攻撃させています。 そして最近では、同じ反欧米のロシア、中国と軍事・経済での協力関係を強化。2022年1月、ウクライナ侵攻の1ヵ月前には、イランのライシ大統領がロシアを訪問し、プーチン大統領と会談しました。中国との協力も着々と進めており、中・ロ・イの「反米枢軸」を固めようとする動きが活発化しています。   中東におけるイランの立ち位置 イラン対イスラエル(対立)イランは「イスラエルの殲滅」を国是のひとつとして掲げている。 イランとロシア&中国(協力関係)反欧米のロシア、中国とイランは協力関係を強化している。 イランからシリアへ(革命の輸出)内戦が続くシリアのアサド政権(シーア派の一派)を支援。 イランからパレスチナへ(革命の輸出)イスラエルと対立するイスラム組織ハマスを支援。 イランからレバノンへ(革命の輸出)イスラエルと対立するシーア派組織ヒズボラを支援。 イラン対サウジアラビア(対立)イランはシーア派大国、サウジアラビアはスンニ派大国として対立。

【東京都】渋谷の地形を解き明かす!都心には「谷底の街」があった!?渋谷は谷が密集してできた街だった

【東京都】渋谷の地形を解き明かす!都心には「谷底の街」があった!?渋谷は谷が密集してできた街だった

東京の街を象徴する渋谷駅前のスクランブル交差点。交差点は谷底で、交差点の近くを渋谷川が流れています。渋谷は谷底の街として発展してきました。   渋谷の地形はスリバチ状の地形の典型 渋谷の街を一度でも歩いたことがある人なら、坂が多い街だと感じたことがあるのではないでしょうか。初めて渋谷駅に行った人は、なぜ地下鉄の電車がビルの3階から飛び出すように出てくるのか、不思議に思ったでしょう。 これらは、渋谷駅が坂と坂の谷間にあるために起きた現象です。渋谷は典型的なスリバチ状の街なのです。坂や谷は東京のあちこちにありますが、渋谷のように、街のもっとも低いところを中心にできた繁華街は珍しいのです。 渋谷は道玄坂、宮益坂、金王坂(こんのうざか)の坂に囲まれ、桜丘町、鶯谷町(うぐいすだにちょう)、南平台町(なんぺいだいちょう)など台地や谷にちなんだ地名があります。   渋谷の地形はスリバチ状の「谷底」 スリバチ状の渋谷を高さから見ると、谷底の渋谷駅付近は海抜約15m、東側の宮益坂上は約34m、西側の道玄坂上は約32m、北側の公園通りの先の区役所付近は約33mとなっています。 地下鉄銀座線は宮益坂上の標高約34mから渋谷駅方面に進めば、海抜約15mの渋谷駅では自然と地上に顔を出すことになります。ビルの3階から地下鉄の電車が出てくるのは谷底の街の象徴的な風景です。坂の街のビルでは、坂上の1階から入ってそのまま坂下まで歩いてきて出口を出ようとすると、そこは3階だったということが起きます。   渋谷の地形と街の発展 渋谷は古くから発展した街ではなく、明治の初めまでは農村の風景が広がっていました。 街として発展するのは、明治の半ばに代々木や駒場に旧陸軍の施設ができ、道玄坂が兵隊の散策地となり、道玄坂に商店ができた頃からです。繁華街としてにぎわっても、坂が多く都市計画の青写真を作るのは難しかったようで、アメーバ的に発展してきました。   渋谷の地形ならではの水害 渋谷はスリバチの街であるとともに、川も大きく影響した街です。 スクランブル交差点はJRの線路が近く、ガード下はいわゆるアンダーパスで、ガードと道路までの高さをつくるため、周囲より一段と低くしました。このため、アンダーパスは突然の集中豪雨のとき、水たまりができ、周囲にたびたび被害をもたらしました。近くを渋谷川が流れていたから、排水にも限界があったのです。 この問題を解決するため、2020年夏、大雨が降っても水たまりができないように、地下に巨大な水槽が完成しました。ガードから近い明治通りの地下にできましたが、そこは現在渋谷川が流れているところです。それまで渋谷川はJRの線路そばの地下を流れていたものを、明治通り寄りに流れを変え、その一環として巨大な水槽を造りました。都会の川の氾濫を防ぐことも都市計画の重要な課題のひとつです。   渋谷の地形の主要、渋谷川が街の開発に及ぼした影響 渋谷川の源流はいくつかあります。おもな源流は明治神宮内苑の池、新宿御苑の池、そして代々木八幡方面を源流とする河骨(こうほね)川や宇田川があります。これらの川がひとつにまとまるのが明治通り近くの宮下公園付近です。 渋谷川は暗渠(あんきょ)になり、川が顔を出すのは国道246号を過ぎたところです。すでに閉店した渋谷駅前にあった東急百貨店東館の下を渋谷川が流れていたので、地下に売り場をつくることができませんでした。また、西武百貨店のA館とB館をつなぐ通路を地下につくれなかったのは、A館とB館の間の地下を宇田川が流れているからです。 渋谷の街は、歴史的ともいえる大規模な再開発が続いています。2020年夏にはJR埼京線のホームが山手線の線路と隣接するところに移動しました。新しい高層ビルの完成が続き、さらに新しいビルの建設が進み、計画が完成するのは2027年といわれています。   渋谷の地形は谷を生かしながら発展を続ける このように渋谷は新しい商業施設や駅前のビル建設で大きく飛躍しています。しかし、坂道に囲まれた地形まで変えることはできません。街は谷底の地形を生かしながら発展していく、それが渋谷という街なのです。

【東京都】渋谷の地形を解き明かす!都心には「谷底の街」があった!?渋谷は谷が密集してできた街だった

東京の街を象徴する渋谷駅前のスクランブル交差点。交差点は谷底で、交差点の近くを渋谷川が流れています。渋谷は谷底の街として発展してきました。   渋谷の地形はスリバチ状の地形の典型 渋谷の街を一度でも歩いたことがある人なら、坂が多い街だと感じたことがあるのではないでしょうか。初めて渋谷駅に行った人は、なぜ地下鉄の電車がビルの3階から飛び出すように出てくるのか、不思議に思ったでしょう。 これらは、渋谷駅が坂と坂の谷間にあるために起きた現象です。渋谷は典型的なスリバチ状の街なのです。坂や谷は東京のあちこちにありますが、渋谷のように、街のもっとも低いところを中心にできた繁華街は珍しいのです。 渋谷は道玄坂、宮益坂、金王坂(こんのうざか)の坂に囲まれ、桜丘町、鶯谷町(うぐいすだにちょう)、南平台町(なんぺいだいちょう)など台地や谷にちなんだ地名があります。   渋谷の地形はスリバチ状の「谷底」 スリバチ状の渋谷を高さから見ると、谷底の渋谷駅付近は海抜約15m、東側の宮益坂上は約34m、西側の道玄坂上は約32m、北側の公園通りの先の区役所付近は約33mとなっています。 地下鉄銀座線は宮益坂上の標高約34mから渋谷駅方面に進めば、海抜約15mの渋谷駅では自然と地上に顔を出すことになります。ビルの3階から地下鉄の電車が出てくるのは谷底の街の象徴的な風景です。坂の街のビルでは、坂上の1階から入ってそのまま坂下まで歩いてきて出口を出ようとすると、そこは3階だったということが起きます。   渋谷の地形と街の発展 渋谷は古くから発展した街ではなく、明治の初めまでは農村の風景が広がっていました。 街として発展するのは、明治の半ばに代々木や駒場に旧陸軍の施設ができ、道玄坂が兵隊の散策地となり、道玄坂に商店ができた頃からです。繁華街としてにぎわっても、坂が多く都市計画の青写真を作るのは難しかったようで、アメーバ的に発展してきました。   渋谷の地形ならではの水害 渋谷はスリバチの街であるとともに、川も大きく影響した街です。 スクランブル交差点はJRの線路が近く、ガード下はいわゆるアンダーパスで、ガードと道路までの高さをつくるため、周囲より一段と低くしました。このため、アンダーパスは突然の集中豪雨のとき、水たまりができ、周囲にたびたび被害をもたらしました。近くを渋谷川が流れていたから、排水にも限界があったのです。 この問題を解決するため、2020年夏、大雨が降っても水たまりができないように、地下に巨大な水槽が完成しました。ガードから近い明治通りの地下にできましたが、そこは現在渋谷川が流れているところです。それまで渋谷川はJRの線路そばの地下を流れていたものを、明治通り寄りに流れを変え、その一環として巨大な水槽を造りました。都会の川の氾濫を防ぐことも都市計画の重要な課題のひとつです。   渋谷の地形の主要、渋谷川が街の開発に及ぼした影響 渋谷川の源流はいくつかあります。おもな源流は明治神宮内苑の池、新宿御苑の池、そして代々木八幡方面を源流とする河骨(こうほね)川や宇田川があります。これらの川がひとつにまとまるのが明治通り近くの宮下公園付近です。 渋谷川は暗渠(あんきょ)になり、川が顔を出すのは国道246号を過ぎたところです。すでに閉店した渋谷駅前にあった東急百貨店東館の下を渋谷川が流れていたので、地下に売り場をつくることができませんでした。また、西武百貨店のA館とB館をつなぐ通路を地下につくれなかったのは、A館とB館の間の地下を宇田川が流れているからです。 渋谷の街は、歴史的ともいえる大規模な再開発が続いています。2020年夏にはJR埼京線のホームが山手線の線路と隣接するところに移動しました。新しい高層ビルの完成が続き、さらに新しいビルの建設が進み、計画が完成するのは2027年といわれています。   渋谷の地形は谷を生かしながら発展を続ける このように渋谷は新しい商業施設や駅前のビル建設で大きく飛躍しています。しかし、坂道に囲まれた地形まで変えることはできません。街は谷底の地形を生かしながら発展していく、それが渋谷という街なのです。

【東京都】日本初の地下鉄は銀座線から始まった~東洋で初めて地下鉄が走った日本~

【東京都】日本初の地下鉄は銀座線から始まった~東洋で初めて地下鉄が走った日本~

日本初の地下鉄は、当初から現在につながる先端技術を取り入れていました。そして、資金不足で難航した区間延伸を助けた意外な相手とは!?   日本初の地下鉄には時代を先取りした技術が満載 日本の地下鉄の歴史を紐解くと、その始まりは、昭和2(1927)年に東京地下鉄道株式会社が開業した、浅草~上野2.2kmの区間になります。 開業初日の利用者は10万人にのぼり、現在とほぼ同じ3分間隔で運行されていました。しかも、10銭硬貨を投入すると通過できる自動改札機や、不燃性の鋼鉄製車両、赤信号を見落とした列車を自動的に止めるATS(自動列車停止装置)などのシステムが当初から導入されていたのですから、日本初の地下鉄はかなり先進的だったといえます。   日本初の地下鉄も開業後は資金難になるも沿線の百貨店の援助により延伸! 浅草~上野の開業は成功を収めましたが、その後の延伸工事には難題が待ち受けていました。地下鉄工事は地上を走る鉄道より建設費用がかさむため、資金調達の問題が浮上したからです。 当時は世界恐慌に見舞われた時期でもあり、社会情勢的にも向かい風。そのような状況下、手を差し伸べたのが、沿線の百貨店でした。まずは、地下鉄の集客効果に期待した三越が、駅の建設費用を全額負担する代わりに、本店と直結した駅の建設を提案。これが現在の「三越前」駅です。 上野の松坂屋、日本橋の髙島屋、銀座松屋、銀座三越などからも資金提供があったおかけで、日本橋、銀座へと路線を延伸し、昭和9(1934)年に浅草~新橋が開通しました。   日本初の地下鉄の正式名称が銀座線に決定 その一方、昭和14(1939)年に渋谷~新橋までの地下鉄を開通させたのは東京高速鉄道株式会社で、当時は銀座線の区間は、2社がそれぞれ新橋を境に折り返し運転を実施する状況だったのです。昭和16(1941)年に両社は新しい法律によって統合され、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)として地下鉄の運営を開始しました。 太平洋戦争をはさんで、昭和28(1953)年、それまで「地下鉄線」などと呼ばれていた地下鉄路線に「銀座線」という正式名称が誕生。昭和29(1954)年には、東京では銀座線に次いで丸ノ内線が開業し、戦後復興の象徴となりました。 営団地下鉄は2004年民営化に 1960年代、高度経済成長期に入ると、地下鉄の建設が進んで新線の開業が相次ぎました。その後も、東京の地下鉄は着実に路線を増やし、区間は延伸されていきました。そして、2004年に営団地下鉄は民営化され、東京地下鉄(東京メトロ)となり、現在に至っています。   日本初の地下鉄なのに銀座線が「3号線」と呼ばれるのはなぜ? ちなみに、東京を走る地下鉄路線には、「都市計画高速鉄道第○号線」という通し番号が付けられており、銀座線が「3号線」と呼ばれるのを聞いたことがあるかもしれませんが、最初に開業したのに3番であるのには理由があります。 昭和21(1946)年の戦後復興のための高速鉄道網計画では、すでに開業していた銀座線を含めて5路線の計画がありました。南から山手線と交差する順で時計回りに番号が割り振られたため、開業順とは異なる路線番号が付いてしまったのです。銀座線以外は、都営浅草線が1号線、日比谷線が2号線、丸ノ内線が4号線、東西線が5号線となっています。    

【東京都】日本初の地下鉄は銀座線から始まった~東洋で初めて地下鉄が走った日本~

日本初の地下鉄は、当初から現在につながる先端技術を取り入れていました。そして、資金不足で難航した区間延伸を助けた意外な相手とは!?   日本初の地下鉄には時代を先取りした技術が満載 日本の地下鉄の歴史を紐解くと、その始まりは、昭和2(1927)年に東京地下鉄道株式会社が開業した、浅草~上野2.2kmの区間になります。 開業初日の利用者は10万人にのぼり、現在とほぼ同じ3分間隔で運行されていました。しかも、10銭硬貨を投入すると通過できる自動改札機や、不燃性の鋼鉄製車両、赤信号を見落とした列車を自動的に止めるATS(自動列車停止装置)などのシステムが当初から導入されていたのですから、日本初の地下鉄はかなり先進的だったといえます。   日本初の地下鉄も開業後は資金難になるも沿線の百貨店の援助により延伸! 浅草~上野の開業は成功を収めましたが、その後の延伸工事には難題が待ち受けていました。地下鉄工事は地上を走る鉄道より建設費用がかさむため、資金調達の問題が浮上したからです。 当時は世界恐慌に見舞われた時期でもあり、社会情勢的にも向かい風。そのような状況下、手を差し伸べたのが、沿線の百貨店でした。まずは、地下鉄の集客効果に期待した三越が、駅の建設費用を全額負担する代わりに、本店と直結した駅の建設を提案。これが現在の「三越前」駅です。 上野の松坂屋、日本橋の髙島屋、銀座松屋、銀座三越などからも資金提供があったおかけで、日本橋、銀座へと路線を延伸し、昭和9(1934)年に浅草~新橋が開通しました。   日本初の地下鉄の正式名称が銀座線に決定 その一方、昭和14(1939)年に渋谷~新橋までの地下鉄を開通させたのは東京高速鉄道株式会社で、当時は銀座線の区間は、2社がそれぞれ新橋を境に折り返し運転を実施する状況だったのです。昭和16(1941)年に両社は新しい法律によって統合され、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)として地下鉄の運営を開始しました。 太平洋戦争をはさんで、昭和28(1953)年、それまで「地下鉄線」などと呼ばれていた地下鉄路線に「銀座線」という正式名称が誕生。昭和29(1954)年には、東京では銀座線に次いで丸ノ内線が開業し、戦後復興の象徴となりました。 営団地下鉄は2004年民営化に 1960年代、高度経済成長期に入ると、地下鉄の建設が進んで新線の開業が相次ぎました。その後も、東京の地下鉄は着実に路線を増やし、区間は延伸されていきました。そして、2004年に営団地下鉄は民営化され、東京地下鉄(東京メトロ)となり、現在に至っています。   日本初の地下鉄なのに銀座線が「3号線」と呼ばれるのはなぜ? ちなみに、東京を走る地下鉄路線には、「都市計画高速鉄道第○号線」という通し番号が付けられており、銀座線が「3号線」と呼ばれるのを聞いたことがあるかもしれませんが、最初に開業したのに3番であるのには理由があります。 昭和21(1946)年の戦後復興のための高速鉄道網計画では、すでに開業していた銀座線を含めて5路線の計画がありました。南から山手線と交差する順で時計回りに番号が割り振られたため、開業順とは異なる路線番号が付いてしまったのです。銀座線以外は、都営浅草線が1号線、日比谷線が2号線、丸ノ内線が4号線、東西線が5号線となっています。    

【東京都】昭和44年の新宿東口映画館街を歩く 【東京都新宿区】

【東京都】昭和44年の新宿東口映画館街を歩く 【東京都新宿区】

執筆:オフィス プラネイロ   新宿といえば、今も昔も変わらぬ、東京を代表する歓楽街です。しかし、そこにあるお店や施設は、半世紀で大きく変わったもの、変わらないもの、きっと色々あるでしょう。「ちょっと昔の地図さんぽ」 今回は趣向を変えて、当時の地図をもって1969(昭和44)年の新宿駅前を机上散歩してみましょう。では1969年の東京にタイムトリップ! 都電に乗って新宿へ、話題の店でランチ。そのあとは東口の映画館街へ 今日は1969年9月のある土曜日。天気は秋晴れです。午前中、自宅近くの停留所から都電(注1)13系統新宿駅行きに乗車。新宿三丁目にある伊勢丹別館前の「四谷三光町」停留所で下車、ぶらぶらと歩き始めます。 (注1) 都電(東京都電車)=路面電車。翌1970年、この系統は廃止された。他の路線も一部を除き1972年全廃。当時の初乗り運賃は20円ほど。 お昼には少し早いですが、評判の洋食店「アカシア」(注2)へ。ロールキャベツシチューをいただきます。お腹を満たしたあとは、伊勢丹の道路向いにある映画館街へ向かいます。「文化」「大映」「東宝」「京映」「東映」・・・色々あって迷ってしまいます。 (注2)新宿「アカシア」は1963年創業。現在も同じ場所(新宿三丁目)で営業中 映画館街は、新宿駅東口付近にもありました。地図では、○に「映」というシンボルが映画館を示しています。「国際劇場」「昭和館」「日活」などの名前が見てとれます。 見たい映画が中々決まらず、しばらく色々見て歩くことにしました 。   高層ビルがテーマ? 1969年のヒット映画とは ここで、この年のヒット作品を幾つか紹介しましょう。当時の大人鑑賞料金は全国平均300円程度でした。新作封切り館は、これよりもう少し高かったかもしれません。 ■栄光への5000キロ 【出演】石原裕次郎、浅丘ルリ子、三船敏郎ほか 【監督】蔵原惟繕■ブリット 【出演】スティーブ・マックィーンほか 【監督】ピーター・イエーツ■日本海大海戦 【出演】三船敏郎、加山雄三、仲代達矢ほか 【監督】丸山誠治■超高層のあけぼの 【出演】池部良、丹波哲郎ほか 【監督】関川秀雄 ・・・懐かしい俳優さんの名前が並びますね。 この年の配給収入一位は「栄光への5000キロ」。サファリラリーに情熱を燃やす男の物語で、多数の海外ロケや迫力あるレースシーンが話題を呼んだそうです。「ブリット」は、サンフランシスコを舞台にしたカーアクション映画でした。 最後に挙げた「超高層のあけぼの」は、「霞が関ビル」(注3)を完成させた男たちの物語。完成当時、このビルは「超高層」と呼ばれ、日本一の高さでした。前年1968年に完成したばかり。きっと世間の話題になったことでしょう。それが映画のメインテーマになるとは、時代の空気を感じますね。 (注3)霞が関ビル(千代田区霞が関三丁目)周辺図  1968年地図/昭文社より  ※地図上では「三井霞ヶ関ビル」と表記されています 日本の映画館。その数は半世紀でどう変わった? ところで、かつて「斜陽」とも言われた映画産業ですが、半世紀前とくらべ、現在の映画館の数どうなっているのでしょうか。 以下は、全国の映画館における「スクリーン数」「入場者数」「平均(鑑賞)料金」を、統計から抜粋した数字です。(注4) 1960年 =7457 (過去1955年~2025年の最大値)・約10.9億人・72円1969年 =3602・約2.8億人・295円2025年 =3697・約1.9億人・2200円  テレビの急速な普及が要因でしょうか、1960年から1969年の間で、スクリーン数と入場者数は大きく減少しています。この頃が「映画離れ」が一番深刻だった時期かもしれません。...

【東京都】昭和44年の新宿東口映画館街を歩く 【東京都新宿区】

執筆:オフィス プラネイロ   新宿といえば、今も昔も変わらぬ、東京を代表する歓楽街です。しかし、そこにあるお店や施設は、半世紀で大きく変わったもの、変わらないもの、きっと色々あるでしょう。「ちょっと昔の地図さんぽ」 今回は趣向を変えて、当時の地図をもって1969(昭和44)年の新宿駅前を机上散歩してみましょう。では1969年の東京にタイムトリップ! 都電に乗って新宿へ、話題の店でランチ。そのあとは東口の映画館街へ 今日は1969年9月のある土曜日。天気は秋晴れです。午前中、自宅近くの停留所から都電(注1)13系統新宿駅行きに乗車。新宿三丁目にある伊勢丹別館前の「四谷三光町」停留所で下車、ぶらぶらと歩き始めます。 (注1) 都電(東京都電車)=路面電車。翌1970年、この系統は廃止された。他の路線も一部を除き1972年全廃。当時の初乗り運賃は20円ほど。 お昼には少し早いですが、評判の洋食店「アカシア」(注2)へ。ロールキャベツシチューをいただきます。お腹を満たしたあとは、伊勢丹の道路向いにある映画館街へ向かいます。「文化」「大映」「東宝」「京映」「東映」・・・色々あって迷ってしまいます。 (注2)新宿「アカシア」は1963年創業。現在も同じ場所(新宿三丁目)で営業中 映画館街は、新宿駅東口付近にもありました。地図では、○に「映」というシンボルが映画館を示しています。「国際劇場」「昭和館」「日活」などの名前が見てとれます。 見たい映画が中々決まらず、しばらく色々見て歩くことにしました 。   高層ビルがテーマ? 1969年のヒット映画とは ここで、この年のヒット作品を幾つか紹介しましょう。当時の大人鑑賞料金は全国平均300円程度でした。新作封切り館は、これよりもう少し高かったかもしれません。 ■栄光への5000キロ 【出演】石原裕次郎、浅丘ルリ子、三船敏郎ほか 【監督】蔵原惟繕■ブリット 【出演】スティーブ・マックィーンほか 【監督】ピーター・イエーツ■日本海大海戦 【出演】三船敏郎、加山雄三、仲代達矢ほか 【監督】丸山誠治■超高層のあけぼの 【出演】池部良、丹波哲郎ほか 【監督】関川秀雄 ・・・懐かしい俳優さんの名前が並びますね。 この年の配給収入一位は「栄光への5000キロ」。サファリラリーに情熱を燃やす男の物語で、多数の海外ロケや迫力あるレースシーンが話題を呼んだそうです。「ブリット」は、サンフランシスコを舞台にしたカーアクション映画でした。 最後に挙げた「超高層のあけぼの」は、「霞が関ビル」(注3)を完成させた男たちの物語。完成当時、このビルは「超高層」と呼ばれ、日本一の高さでした。前年1968年に完成したばかり。きっと世間の話題になったことでしょう。それが映画のメインテーマになるとは、時代の空気を感じますね。 (注3)霞が関ビル(千代田区霞が関三丁目)周辺図  1968年地図/昭文社より  ※地図上では「三井霞ヶ関ビル」と表記されています 日本の映画館。その数は半世紀でどう変わった? ところで、かつて「斜陽」とも言われた映画産業ですが、半世紀前とくらべ、現在の映画館の数どうなっているのでしょうか。 以下は、全国の映画館における「スクリーン数」「入場者数」「平均(鑑賞)料金」を、統計から抜粋した数字です。(注4) 1960年 =7457 (過去1955年~2025年の最大値)・約10.9億人・72円1969年 =3602・約2.8億人・295円2025年 =3697・約1.9億人・2200円  テレビの急速な普及が要因でしょうか、1960年から1969年の間で、スクリーン数と入場者数は大きく減少しています。この頃が「映画離れ」が一番深刻だった時期かもしれません。...

【神奈川県】箱根火山はどうやってできた?~中心に巨大カルデラを有する今なお活発な活動を続ける火山

【神奈川県】箱根火山はどうやってできた?~中心に巨大カルデラを有する今なお活発な活動を続ける火山

芦ノ湖など風光明媚な景色はもちろん、箱根湯本や強羅のほか「箱根十七湯」と呼ばれる大小17の温泉地が集結した一大温泉リゾート地となっている箱根。これらはすべて火山の恩恵といえます。今なお活発な活動を続ける箱根火山は、どのようにして生まれたのでしょうか? 箱根山】箱根火山の構成 神奈川県南西部に位置する箱根山(火山)は、ひとつの山があるわけではなく、明星ヶ岳、明神ヶ岳、金時山など多くの山々からなる地域全体を指します。 構成要素は、ドーナツ状に連なる外輪山、それに囲まれたカルデラ、カルデラ内の比較的小さな火山群(中央火口丘)など非常に複雑な特徴をもっています。カルデラ内の西側には、県内最大の湖、芦ノ湖があります。 なお、箱根山のカルデラは、およそ東西8㎞、南北12㎞に及んでいます。そして、このカルデラがどうやってできたのかは、日本に地質学が導入された明治時代初期から論争の的になってきました。   【箱根山】箱根火山の特徴 約3000年前にできた冠ヶ岳の北斜面である大涌谷では、今も噴気が上がっている。箱根が活火山であることがわかる。 箱根火山が活動を始めたのは、これまでの研究により約40万年前とされています。そして、初期の火山はサラサラとした玄武岩質の溶岩を噴出し、円錐状でなだらかな裾野をもつ火山と考えられていました。 このように、山頂の火口から交互に噴出された溶岩や火山砕屑物などが積み重なってできた円錐型の火山を成層火山といいます。富士山をはじめ、日本各地にこの成層火山は見られます。 【箱根山】箱根火山の形成と構造 現在の箱根山の地形を見ると、巨大な山を標高1100mくらいで水平に切り、内側を凹ませ、その内部に複数の小さな火山を置いたように見えます。それはまるで、ひとつの巨大火山が噴火したことで形成されたようでもあります。 事実、近年まで箱根山は巨大な成層火山だったと考えられてきました。しかし、外輪山などの調査から、そうではないことが判明。成層火山は一般的に山頂火口へ向かって徐々に高くなっていく構造をもちますが、箱根の外輪山は、火口に向かって低くなる構造で、しかも外輪山の溶岩が形成された時期にバラつきがあることなどがわかったのです。 こうして、太古の箱根火山は、小型や中型火山の集合体だったとする説が有力視されるようになりました。 【箱根山】箱根火山形成の歴史 【箱根山】40万~23万年前の箱根火山 箱根火山の形成史をたどってみると、まず約40万~23万年前に、何度も繰り返される噴火によって、中型~小型の成層火山が連なった火山群が形成されました。金時山や明星ヶ岳を形づくっている溶岩は、この時代のものです。 【箱根山】23万~13万年前の箱根火山 その後、約23万~13万年前には火山群の中央部で大規模な噴火活動が何度も起き、火砕流が発生。なお、巨大な陥没地形のカルデラがいつ形成されたかはわかっていませんが、大規模噴火活動中だった約18万年前、箱根火山から噴出した火山灰に含まれる火山豆石(まめいし)に淡水生の珪藻(けいそう)が含まれていたことから、この頃にはすでに、カルデラ内に湖ができていたことになります。 【箱根山】13万~8万年前の箱根火山 次いで約13万~8万年前には、カルデラの内側でだけ噴火が起こるようになり、鷹巣山、浅間山、屏風山などの比較的山頂が平らで、台地状の形の山(前期中央火口丘)がつくられました。 【箱根山】8万~4万年前以降の箱根火山 そして約8万~4万年前、激しい噴火が何度も起こり、新しいカルデラが形成されました。なかでも箱根火山史上最大級となった約6万6000年前(約4万9000年前とも)の噴火では、地上近くに上ってきたマグマが激しく発泡し、火山砕屑物となって噴出。巨大な噴煙は成層圏にまで達したと見られています。 このときの噴煙に含まれていた火山灰や軽石は、偏西風によって東へ流され、とりわけ軽石は神奈川県をはじめとした関東一円に広く堆積。この軽石は、東京の山手や武蔵野台地では地下6~7m付近で厚さ20㎝ほどの地層になっており、東京軽石層(東京パミス)と呼ばれています。 さらに、この噴火では大規模な火砕流が発生。火砕流の堆積物は、東は横浜市、西は静岡県富士宮市、北は丹沢山地、南は伊豆半島中部まで達していることがわかっています。このときの噴火による堆積物の分布は、各地の地質形成の時期を推測する重要な指標にもなっています。 この大噴火後、約4万年前以降には爆発的な噴火は見られなくなり、粘度の高い安山岩質や流紋岩質のマグマが噴出して固まった溶岩ドームや小型成層火山からなる後期中央火口丘が形成されました。このときできたのが神山(成層火山)や駒ヶ岳、二子山、早雲山などの溶岩ドームです。  駒ヶ岳(標高1356m)山頂部の溶岩ドームは、約2万~1万8000年前に形成された。   【箱根山】現在の箱根火山の火山活動 箱根の地形は、このように非常に複雑な過程を経てできあがったと考えられています。...

【神奈川県】箱根火山はどうやってできた?~中心に巨大カルデラを有する今なお活発な活動を続ける火山

芦ノ湖など風光明媚な景色はもちろん、箱根湯本や強羅のほか「箱根十七湯」と呼ばれる大小17の温泉地が集結した一大温泉リゾート地となっている箱根。これらはすべて火山の恩恵といえます。今なお活発な活動を続ける箱根火山は、どのようにして生まれたのでしょうか? 箱根山】箱根火山の構成 神奈川県南西部に位置する箱根山(火山)は、ひとつの山があるわけではなく、明星ヶ岳、明神ヶ岳、金時山など多くの山々からなる地域全体を指します。 構成要素は、ドーナツ状に連なる外輪山、それに囲まれたカルデラ、カルデラ内の比較的小さな火山群(中央火口丘)など非常に複雑な特徴をもっています。カルデラ内の西側には、県内最大の湖、芦ノ湖があります。 なお、箱根山のカルデラは、およそ東西8㎞、南北12㎞に及んでいます。そして、このカルデラがどうやってできたのかは、日本に地質学が導入された明治時代初期から論争の的になってきました。   【箱根山】箱根火山の特徴 約3000年前にできた冠ヶ岳の北斜面である大涌谷では、今も噴気が上がっている。箱根が活火山であることがわかる。 箱根火山が活動を始めたのは、これまでの研究により約40万年前とされています。そして、初期の火山はサラサラとした玄武岩質の溶岩を噴出し、円錐状でなだらかな裾野をもつ火山と考えられていました。 このように、山頂の火口から交互に噴出された溶岩や火山砕屑物などが積み重なってできた円錐型の火山を成層火山といいます。富士山をはじめ、日本各地にこの成層火山は見られます。 【箱根山】箱根火山の形成と構造 現在の箱根山の地形を見ると、巨大な山を標高1100mくらいで水平に切り、内側を凹ませ、その内部に複数の小さな火山を置いたように見えます。それはまるで、ひとつの巨大火山が噴火したことで形成されたようでもあります。 事実、近年まで箱根山は巨大な成層火山だったと考えられてきました。しかし、外輪山などの調査から、そうではないことが判明。成層火山は一般的に山頂火口へ向かって徐々に高くなっていく構造をもちますが、箱根の外輪山は、火口に向かって低くなる構造で、しかも外輪山の溶岩が形成された時期にバラつきがあることなどがわかったのです。 こうして、太古の箱根火山は、小型や中型火山の集合体だったとする説が有力視されるようになりました。 【箱根山】箱根火山形成の歴史 【箱根山】40万~23万年前の箱根火山 箱根火山の形成史をたどってみると、まず約40万~23万年前に、何度も繰り返される噴火によって、中型~小型の成層火山が連なった火山群が形成されました。金時山や明星ヶ岳を形づくっている溶岩は、この時代のものです。 【箱根山】23万~13万年前の箱根火山 その後、約23万~13万年前には火山群の中央部で大規模な噴火活動が何度も起き、火砕流が発生。なお、巨大な陥没地形のカルデラがいつ形成されたかはわかっていませんが、大規模噴火活動中だった約18万年前、箱根火山から噴出した火山灰に含まれる火山豆石(まめいし)に淡水生の珪藻(けいそう)が含まれていたことから、この頃にはすでに、カルデラ内に湖ができていたことになります。 【箱根山】13万~8万年前の箱根火山 次いで約13万~8万年前には、カルデラの内側でだけ噴火が起こるようになり、鷹巣山、浅間山、屏風山などの比較的山頂が平らで、台地状の形の山(前期中央火口丘)がつくられました。 【箱根山】8万~4万年前以降の箱根火山 そして約8万~4万年前、激しい噴火が何度も起こり、新しいカルデラが形成されました。なかでも箱根火山史上最大級となった約6万6000年前(約4万9000年前とも)の噴火では、地上近くに上ってきたマグマが激しく発泡し、火山砕屑物となって噴出。巨大な噴煙は成層圏にまで達したと見られています。 このときの噴煙に含まれていた火山灰や軽石は、偏西風によって東へ流され、とりわけ軽石は神奈川県をはじめとした関東一円に広く堆積。この軽石は、東京の山手や武蔵野台地では地下6~7m付近で厚さ20㎝ほどの地層になっており、東京軽石層(東京パミス)と呼ばれています。 さらに、この噴火では大規模な火砕流が発生。火砕流の堆積物は、東は横浜市、西は静岡県富士宮市、北は丹沢山地、南は伊豆半島中部まで達していることがわかっています。このときの噴火による堆積物の分布は、各地の地質形成の時期を推測する重要な指標にもなっています。 この大噴火後、約4万年前以降には爆発的な噴火は見られなくなり、粘度の高い安山岩質や流紋岩質のマグマが噴出して固まった溶岩ドームや小型成層火山からなる後期中央火口丘が形成されました。このときできたのが神山(成層火山)や駒ヶ岳、二子山、早雲山などの溶岩ドームです。  駒ヶ岳(標高1356m)山頂部の溶岩ドームは、約2万~1万8000年前に形成された。   【箱根山】現在の箱根火山の火山活動 箱根の地形は、このように非常に複雑な過程を経てできあがったと考えられています。...

スーパーマップル誕生秘話 今なお人気の「道路地図の決定版」はどうして生まれたのか

スーパーマップル誕生秘話 今なお人気の「道路地図の決定版」はどうして生まれたのか

聞き手:今和泉 隆行(いまいずみ たかゆき)(X:@chi_ri_jin)執筆協力:少年B(X:@raira21) 今やスマートフォンの地図アプリが当たり前の時代ですが、かつて「車を運転するならこれ一冊」と言われ、日本の道路網を支え続けてきた地図があります。それが昭文社の「スーパーマップル」です。 今回は、30年以上にわたり昭文社で地図作りに携わってきた飯塚新真さんに、空想地図作家の今和泉隆行さんがその誕生の舞台裏と、地図に込められた情熱を伺いました。   飯塚 新真(いいづか にいま)1962年生まれ。1986年(株)昭文社入社。地図編集部長、デジタルコンテンツ本部長、基盤情報制作本部長を経て、現在、(株)昭文社ホールディングス取締役。中学生の時、母親に自宅付近の2.5万分の1地形図『吉祥寺』(国土地理院)を買ってもらったのが本格的な地図との出会い。 今和泉 隆行(いまいずみ たかゆき)1985年生まれ。7歳の頃から実在しない都市の地図=空想地図を描き続けている「空想地図作家」。地図デザイン、テレビドラマの地理監修・地図制作にも携わる他、地図を通じた人の営みを読み解き、新たな都市の見方、伝え方作りを実践している。   地図の役割は変化する 昭文社の過去の地図を眺めながら話す飯塚氏(右)と今和泉氏(左) 今和泉:はじめまして。1960年創立の昭文社は2022年現在も日本全国の都市地図・道路地図を発行している唯一の会社です。その歴史をひも解くことで、変遷する人々の暮らしが見えるのではないかと思い、お話を聞かせていただこうと思いました。 飯塚:いえいえ、私なんかでお役に立てるかな。 今和泉:さっそく、飯塚さんの経歴を教えていただけますか? 飯塚:私は大学を卒業して、1980年代半ばに昭文社に入社し、編集部の都市地図課に配属されまして、地図編集や制作に関わっていました。現在は取締役になっていますが、入社してからの30年間は、地図と共に歩んできました。 今和泉:当時、昭文社の編集部には都市地図課以外に、どのような部署があったんですか? 飯塚:地図ではほかに道路地図課と基本地図課がありました。基本地図課は学校の地図帳のような「日本地図帳」とか、地勢図に近い「分県地図」を出していました。あと世界地図もですね。 道路地図課はマップルの10万分の1とか20万分の1などの縮尺の小さい、要するに1枚の紙に収まる範囲の広い地図を出していました。ライダーの定番になっている「ツーリングマップル」も道路地図課ですね。B4判サイズの大きな道路地図帳である「マップル」シリーズが多くのドライバーの支持を頂いていた時代です。 飯塚:私の所属していた都市地図課ですと「県別マップル」が代表作ですが、1980年代はまだなく、当時は「ニューエスト」というシリーズなどを出していました。 都市地図をイチから作るのは大変なので、新人のころは再版業務を担当していましたね。 今和泉:再版業務とはどのような仕事なんですか? 飯塚:当時は地図がものすごく売れていたので、○年度版というふうに、一度出た地図の情報を更新して毎年出すわけです。年度の途中でも増刷の際には重要箇所を更新して出版しました。 私は地図編集を担当していましたので、情報収集をして、変更箇所を原稿に書くという仕事でした。それを製図したり、印刷用の版(フィルム)を直したり、印刷をしたりという作業はまた別の部署が担当していました。 今和泉:今と違ってインターネットもない時代、情報収集は大変だったでしょう。 飯塚:ここ10年ぐらいで国土地理院も迅速な更新をするようになったんですが、以前は地形図の更新に都心部では2〜3年、地方だと10年かかっていたこともあるぐらいなんです。 そして地形図が1枚単位で改訂されていくように、民間の都市地図なども再版がかかると、「該当する図面の範囲だけを、その都度イチから調べる」というのがそれまでの地図屋のやりかただったわけです。 今和泉:想像するだけで大変そうです……。 地図作りは情報収集が肝だった...

スーパーマップル誕生秘話 今なお人気の「道路地図の決定版」はどうして生まれたのか

聞き手:今和泉 隆行(いまいずみ たかゆき)(X:@chi_ri_jin)執筆協力:少年B(X:@raira21) 今やスマートフォンの地図アプリが当たり前の時代ですが、かつて「車を運転するならこれ一冊」と言われ、日本の道路網を支え続けてきた地図があります。それが昭文社の「スーパーマップル」です。 今回は、30年以上にわたり昭文社で地図作りに携わってきた飯塚新真さんに、空想地図作家の今和泉隆行さんがその誕生の舞台裏と、地図に込められた情熱を伺いました。   飯塚 新真(いいづか にいま)1962年生まれ。1986年(株)昭文社入社。地図編集部長、デジタルコンテンツ本部長、基盤情報制作本部長を経て、現在、(株)昭文社ホールディングス取締役。中学生の時、母親に自宅付近の2.5万分の1地形図『吉祥寺』(国土地理院)を買ってもらったのが本格的な地図との出会い。 今和泉 隆行(いまいずみ たかゆき)1985年生まれ。7歳の頃から実在しない都市の地図=空想地図を描き続けている「空想地図作家」。地図デザイン、テレビドラマの地理監修・地図制作にも携わる他、地図を通じた人の営みを読み解き、新たな都市の見方、伝え方作りを実践している。   地図の役割は変化する 昭文社の過去の地図を眺めながら話す飯塚氏(右)と今和泉氏(左) 今和泉:はじめまして。1960年創立の昭文社は2022年現在も日本全国の都市地図・道路地図を発行している唯一の会社です。その歴史をひも解くことで、変遷する人々の暮らしが見えるのではないかと思い、お話を聞かせていただこうと思いました。 飯塚:いえいえ、私なんかでお役に立てるかな。 今和泉:さっそく、飯塚さんの経歴を教えていただけますか? 飯塚:私は大学を卒業して、1980年代半ばに昭文社に入社し、編集部の都市地図課に配属されまして、地図編集や制作に関わっていました。現在は取締役になっていますが、入社してからの30年間は、地図と共に歩んできました。 今和泉:当時、昭文社の編集部には都市地図課以外に、どのような部署があったんですか? 飯塚:地図ではほかに道路地図課と基本地図課がありました。基本地図課は学校の地図帳のような「日本地図帳」とか、地勢図に近い「分県地図」を出していました。あと世界地図もですね。 道路地図課はマップルの10万分の1とか20万分の1などの縮尺の小さい、要するに1枚の紙に収まる範囲の広い地図を出していました。ライダーの定番になっている「ツーリングマップル」も道路地図課ですね。B4判サイズの大きな道路地図帳である「マップル」シリーズが多くのドライバーの支持を頂いていた時代です。 飯塚:私の所属していた都市地図課ですと「県別マップル」が代表作ですが、1980年代はまだなく、当時は「ニューエスト」というシリーズなどを出していました。 都市地図をイチから作るのは大変なので、新人のころは再版業務を担当していましたね。 今和泉:再版業務とはどのような仕事なんですか? 飯塚:当時は地図がものすごく売れていたので、○年度版というふうに、一度出た地図の情報を更新して毎年出すわけです。年度の途中でも増刷の際には重要箇所を更新して出版しました。 私は地図編集を担当していましたので、情報収集をして、変更箇所を原稿に書くという仕事でした。それを製図したり、印刷用の版(フィルム)を直したり、印刷をしたりという作業はまた別の部署が担当していました。 今和泉:今と違ってインターネットもない時代、情報収集は大変だったでしょう。 飯塚:ここ10年ぐらいで国土地理院も迅速な更新をするようになったんですが、以前は地形図の更新に都心部では2〜3年、地方だと10年かかっていたこともあるぐらいなんです。 そして地形図が1枚単位で改訂されていくように、民間の都市地図なども再版がかかると、「該当する図面の範囲だけを、その都度イチから調べる」というのがそれまでの地図屋のやりかただったわけです。 今和泉:想像するだけで大変そうです……。 地図作りは情報収集が肝だった...

【東京都】すり鉢地形が点在する起伏の激しい東京の坂

【東京都】すり鉢地形が点在する起伏の激しい東京の坂

すり鉢地形がゆえに東京には「谷」のつく地名が多い 渋谷、谷中のように、東京には谷のつく地名がたくさんあります。四ツ谷、市ヶ谷、阿佐ヶ谷、千駄ヶ谷、幡ヶ谷、茗荷谷(みょうがだに)、雑司ヶ谷、雪谷(ゆきがや)、祖師ヶ谷(そしがや)など各地域に谷が存在しているのです。 東京を理解するキーワードとして「すり鉢」に視点を当てると、東京の街がよく見えてきます。東京都心にみられる凹凸の谷状は、山間部にあるようなV字型ではなく、平らな台地面をえぐり取ったようなU字型をしています。谷以外の地名でも、窪や久保、沢や池が含まれているのは盆地や谷地であることが多いのです。 すり鉢地形の起伏から見る2つの法則 すり鉢状の土地から町を見るにあたり、2つの法則があげられます。 ひとつは、地形の起伏を強調するように建物が並び、丘の上には高層の建物が並び、麓には低層の建物が並ぶこと。土地の起伏が建物によりさらに増幅されていることで、都心、郊外を問わず見られます。 もうひとつは、台地と低地が断崖で隔てられて、丘の上の町と谷の町は連続性がなく、性格の異なる町が隣り合っていること。こういう町では谷の町の路地は崖で行き止まりになっていて、丘に上る道は限られるという特徴があります。 すり鉢地形の起伏と東京の街並みの関係 では地形の起伏と町はどのように関係しているのでしょうか。 江戸時代、台地には大名屋敷や武家屋敷があり、低地には町人が住み、農地として利用されました。江戸から東京になってからも、東京の地形的な特徴は大きくは変わらず、区画の大きい大名屋敷などの跡には大学、官公庁の機関、大使館、学校、病院、富裕層の大邸宅などが作られ、時代とともに建物は高層化しましたが、一方の低地は区画が小さく、小規模の建物のまま建て替えが進みました。 地理的な上下の町で異なった個性の町になり、現代に継がれているのが東京なのです。 東京の町と地形の変遷説明図 出典:皆川典久著『凹凸を楽しむ 東京「スリバチ」地形散歩』(洋泉社)P37の図を元に作成 町と地形の関係。山の手台地の武家・大名屋敷は学校、病院、大使館などに、低地の町人地は下町の住宅・商業地になりました。 『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。東京の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【東京都】すり鉢地形が点在する起伏の激しい東京の坂

すり鉢地形がゆえに東京には「谷」のつく地名が多い 渋谷、谷中のように、東京には谷のつく地名がたくさんあります。四ツ谷、市ヶ谷、阿佐ヶ谷、千駄ヶ谷、幡ヶ谷、茗荷谷(みょうがだに)、雑司ヶ谷、雪谷(ゆきがや)、祖師ヶ谷(そしがや)など各地域に谷が存在しているのです。 東京を理解するキーワードとして「すり鉢」に視点を当てると、東京の街がよく見えてきます。東京都心にみられる凹凸の谷状は、山間部にあるようなV字型ではなく、平らな台地面をえぐり取ったようなU字型をしています。谷以外の地名でも、窪や久保、沢や池が含まれているのは盆地や谷地であることが多いのです。 すり鉢地形の起伏から見る2つの法則 すり鉢状の土地から町を見るにあたり、2つの法則があげられます。 ひとつは、地形の起伏を強調するように建物が並び、丘の上には高層の建物が並び、麓には低層の建物が並ぶこと。土地の起伏が建物によりさらに増幅されていることで、都心、郊外を問わず見られます。 もうひとつは、台地と低地が断崖で隔てられて、丘の上の町と谷の町は連続性がなく、性格の異なる町が隣り合っていること。こういう町では谷の町の路地は崖で行き止まりになっていて、丘に上る道は限られるという特徴があります。 すり鉢地形の起伏と東京の街並みの関係 では地形の起伏と町はどのように関係しているのでしょうか。 江戸時代、台地には大名屋敷や武家屋敷があり、低地には町人が住み、農地として利用されました。江戸から東京になってからも、東京の地形的な特徴は大きくは変わらず、区画の大きい大名屋敷などの跡には大学、官公庁の機関、大使館、学校、病院、富裕層の大邸宅などが作られ、時代とともに建物は高層化しましたが、一方の低地は区画が小さく、小規模の建物のまま建て替えが進みました。 地理的な上下の町で異なった個性の町になり、現代に継がれているのが東京なのです。 東京の町と地形の変遷説明図 出典:皆川典久著『凹凸を楽しむ 東京「スリバチ」地形散歩』(洋泉社)P37の図を元に作成 町と地形の関係。山の手台地の武家・大名屋敷は学校、病院、大使館などに、低地の町人地は下町の住宅・商業地になりました。 『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。東京の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!