島に漂着してから143日目の明け方、ジョン万次郎たちは食料調達のためにたまたま鳥島に立ち寄ったアメリカの捕鯨船、ジョン・ハウランド号に救出されます。仲間たちはハワイ王国のホノルルで下船しますが、ジョン万次郎は船長のホイットフィールドに才能を見いだされ、アメリカに渡ることを決心。
船長の故郷であるフェアヘーブンの学校で英語・数学・測量・航海術・測量術などを学びます。19歳で捕鯨船・フランクリン号に給仕係として乗り込み、21歳で一等航海士に昇進しています。

ホノルルで万次郎の仲間を降ろしたジョン・ハウランド号はグアム経由で伊豆諸島周辺まで移動し、さらにホノルル、タヒチ、フィジー、グアムと捕鯨を続けながらフェアヘーブンに帰航しました。
ジョン万次郎は日本への帰国を決意
もしジョン万次郎がアメリカに残っていたら、捕鯨船の航海士として活躍していたかもしれません。しかしジョン万次郎はアメリカでの栄光ではなく帰国の道を選びます。帰国資金を作るため捕鯨船を降り、ゴールドラッシュに参加。70日あまりで600ドル(約200万円)を稼ぎ、仲間が待つホノルルへ向かいました。ホノルルでは上海に向かう船と交渉。航路の途中にある琉球の沖まで乗せてもらうことになります。
ジョン万次郎たちは琉球の沖・摩文仁(まぶに)の浜の沖合5kmのあたりで下船。ホノルルで購入したジョリーボートを漕いで、摩文仁の浜に上陸しました。上陸が許されなかったら中浜まで船を漕ぐつもりだったようですが、琉球政府はジョン万次郎たちの上陸を許可。薩摩藩や長崎奉行所を経て、1852(嘉永5)年に土佐に帰国しました。
ジョン万次郎の漂流と海外生活が記された書物
土佐藩では70日にわたってジョン万次郎たちから聞き取り調査を行っており、藩の聞き取り調査として記されたのが『漂客談奇(ひょうかくだんき)』で、藩主・山内容堂(やまうちようどう)の命によって河田小龍(かわだしょうりょう)が記したのが『漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)』です。
『漂客談奇』は土佐藩の公式記録として用いられることが多く、『漂巽紀畧』は漂流してから海外生活を経て帰国するまでの経緯が挿絵入りで描かれています。『漂巽紀畧』は幕末の志士たちも目にしたといわれ、鎖国下にあった日本人の目を海外に向けさせるきっかけとなりました。
ジョン万次郎は八面六臂の活躍を見せ、日本の発展に寄与
この時代、欧米諸国の事情を知っている人間は非常に貴重でした。ジョン万次郎は武士の身分を与えられ、土佐藩の藩校「教授館(こうじゅかん)」の教授となります。また幕府はジョン万次郎に直参旗本の身分を与え、招聘しました。ペリーの浦賀来航以降ジョン万次郎はひっぱりだことなり、幕府の通訳を務める傍ら航海技術や造船技術の指導のため、国内を東奔西走します。
1860(万延元)年には幕府の遣米使節団の通訳兼航海士として、咸臨丸(かんりんまる)にも乗船。1864(元治元)年には薩摩藩開成所(かいせいじょ)教授に赴任し、薩摩藩士に航海・造船・測量・英語を指導しています。また、薩摩藩と土佐藩の外国船購入にも尽力。当時の日本には外国船の性能や価格を把握している人材がおらず、他藩では商人の言い値で購入するケースも多くありました。しかしジョン万次郎は、船の性能と価格の妥当性を知っています。彼の仲介により、薩摩藩と土佐藩は性能の良い外国船を相応の値段で手に入れることができたようです。
1870(明治3)年、晋仏(ふふつ)戦争視察団としてヨーロッパに派遣されますが、病を得て帰国。44歳で公職から退き、その後は穏やかに暮らしたとされます。
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