現在の上京区、中京区、下京区にあたる京都市の中心部は、かつて「洛中」と呼ばれました。その周辺部は「洛外」で、洛外はさらに「洛北」「洛南」「洛東」「洛西」に区分されています。
「洛」の由来は、古代中国で何度も都となった「洛陽」から。平安京はこの洛陽と、やはり中国で都が置かれた長安を参考につくられ、当初は御所から見て右側の地域を「長安城」、左側を「洛陽城」と呼んでいました。
やがて地盤の悪さなどから長安城は寂れ、平安時代中期ごろから京都市中を「洛陽」と呼ぶようになり、洛中や洛北などの区分ができたのは鎌倉時代以降とされます。
ただ、城壁を持たない平安京は完成当初から境界があいまいで、唯一左右に壁を持った南端の「羅城門(らじょうもん)」も平安時代後期に倒壊。そのため洛中・洛外の境界線は明確でなく、現代の区割りと同じではありませんでした。

主要道路である朱雀大路は現在の千本通に該当。南端の羅城門をはさんで東寺と西寺が建立されましたが、西寺は鎌倉時代に廃れたと考えられています。
洛中・洛外の現在の境界線は豊臣秀吉が形づくった!
とくに1467年からの応仁の乱で都は荒廃し、洛中洛外の区別すらなくなりつつありました。こうした都の衰退にメスを入れ、現在の洛中洛外を形づくったのが豊臣秀吉です。
「おどい」とは
1590年、天下を統一した秀吉は、都を復興させるために大規模な都市計画を実行に移します。洛中外の再構築もその一環であり、領域を明確化するための城壁も築かせました。それこそが「おどい(御土居)」です。
おどいという呼び名は江戸時代以降に定着したもので、建造当時の名称は「土居堀」です。また城壁といっても石垣のような堅牢なものではなく、土を固めた土塁と堀でした。
秀吉による「おどい」の建設
秀吉は高さ約3mのおどいを北は鷹ヶ峯(たかがみね)、西は紙屋川、南は九条通、東は鴨川西岸にまで建設し、さらに幅約20mの堀を張りめぐらせていました。土塁の全長は約23㎞におよび、当時の都市部を丸ごと覆う広さでした。このおどいで都を外部から守るとともに、洛外と洛中の区分を明確化したのです。
「おどいの袖」の謎
秀吉が築いた土居堀の西側は、紙屋川(天神川)の流れにそっていますが、中京区の北野中学校のあたりからJR円町駅の南あたりまでがはみ出していました。この部分は、「おどいの袖」と呼ばれます。なぜこのような形状になったのかは謎のまま。一説には、当時すでに家が立ち並んでおり、これを「洛中」に取り込むためといいます。
国土地理院標準地図を元に作成/北野中学校は校内におどいの遺構があります。
洛中・洛外の境界線「おどい」の大部分は幕末まで残っていた
江戸時代に入ると、1670年の「寛文新堤(かんぶんしんてい)」の完成で東部分の一部が公家などに譲渡されましたが、大部分は幕末まで残されていました。1864年の蛤御門(はまぐりごもん)(禁門)の変では小田原藩などが防備に利用したという話も残っています。
洛中・洛外の境界線「おどい」は9カ所が国の史跡となって残る
しかし土地の私有が本格化した1877年を境に買収が進み、明治時代末の都市域拡大で「おどい」は次々に崩されていきました。その後、大正時代の保護運動により1930年に8カ所が国史跡に指定。現在でもおどいの内と外で高低差が存在し、9カ所が国の史跡となっています。なかでも北野天満宮のおどい跡は紅葉の名所としても有名で、毎年秋には大勢の参拝客でにぎわっています。
洛中・洛外の境界線「おどい」は年々数を減らしている
また大宮交通公園のように史跡指定外のおどいも残ってはいますが、宅地工事などで壊され、年々数を減らしているといいます。
このほか、鞍馬口や丹波口などの地名や京都市内各所に残る土居町の町名も、かつてその地におどいと都への出入り口があった名残とされています。
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