千鳥ヶ淵と牛ヶ淵の2つは徳川家康が江戸に入った文禄元(1592)年、江戸城の飲料水確保のため、麹町(こうじまち)方面から流れていた自然の河川を堰き止め、貯水池を造ったことに遡ります。濠ではなく、淵と名づけたのはダムを意味していたからなのです。
麹町方面から流れていた小川は現在の東郷元帥記念公園(千代田区三番町)あたりから江戸城の方に流れていました。今は小川の明確な痕跡はありませんが、公園自体が斜面になっており、公園そばの道は東郷坂といい、小川が流れていれば、標高の低い江戸城の方に流れ、乾門付近から江戸城内に流れていました。
この乾門に土手を築いて小川の流れを堰止めたのが千鳥ヶ淵です。こうして千鳥ヶ淵、半蔵壕など1300mにわたるお堀ができあがったのです。
承応2(1653)年に玉川上水が建設されると、上水からの水も半蔵門付近から千鳥ヶ淵に供給されるようになりました。
千鳥ヶ淵は半蔵濠と水路でつながっている
内濠全体のことを見てみると、内濠とは、一般人が入れない地区や立ち入りできる皇居前広場や皇居東御苑、北の丸公園を囲む濠の総称で、日比谷濠、馬場先濠、和田倉濠、千鳥ヶ淵など約20の個別の濠で構成されています。
内濠の西端にあるのが半蔵門です。半蔵門の北にあるのが半蔵濠で半蔵門の南にある桜田濠とは水面の標高が違い、半蔵濠の方が約15mも高くなっています。千鳥ヶ淵は半蔵濠の北にありますが、千鳥ヶ淵と半蔵濠は同じ標高で、土手で区切られてはいますが、実は水路でつながっているのです。
千鳥ヶ淵が満杯になると牛ヶ淵へ流れた
江戸城は地形的にも谷がない西の守りが弱いとされてきました。服部半蔵を半蔵門に住まわせ、防衛を強化したのもその対策のひとつです。
千鳥ヶ淵の水は満杯になると、田安門地点から隣の牛ヶ淵方面に流れました。牛ヶ淵も堰止めて約500mの淵として利用されました。牛ヶ淵は千鳥ヶ淵よりも標高が低く、北の丸公園からの湧水も流れ込み、千鳥ヶ淵と牛ヶ淵の水は江戸城の飲料水として利用されたのです。
『東京のトリセツ』好評発売中!
地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析!
日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。東京の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!