【東京都】千鳥ヶ淵と牛ヶ淵は飲料水用ダムだった!?東京のど真ん中にある皇居外苑濠

【東京都】千鳥ヶ淵と牛ヶ淵は飲料水用ダムだった!?東京のど真ん中にある皇居外苑濠

江戸城を囲む濠の中に、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵という2つの淵があります。
濠とはどこが違うのでしょうか。なぜ、淵と呼ばれてきたのか、その歴史をひも解いていきましょう。

 

皇居は江戸城の名残で数多くの濠に囲まれる

皇居は、いうまでもなく江戸城の跡です。地形的には、武蔵野台地の東端に位置し、江戸城は台地と東京低地をつなぐ所にあります。城が外敵からの侵入を防ぐ重要なものに濠がありますが、現在も残る内濠は皇居を取り囲み、それぞれ違った役目を担っていました。

濠を見ながら歩くと、水面の高さが濠により違っていることに気づきます。数ある濠の水面は一定ではありません。濠同士がつながっている濠もあれば、独立している濠もあります。水面の高い濠と低い水面では10mを越す違いがあります。

そのなかに、淵がついた千鳥ヶ淵(ちどりがふち)と牛ヶ淵(うしがふち)があります。

 

千鳥ヶ淵と牛ヶ淵が「濠」と名付けられなかった理由

淵というのはもともとダム湖を意味しています。

千鳥ヶ淵と牛ヶ淵の2つは徳川家康が江戸に入った文禄元(1592)年、江戸城の飲料水確保のため、麹町(こうじまち)方面から流れていた自然の河川を堰き止め、貯水池を造ったことに遡ります。濠ではなく、淵と名づけたのはダムを意味していたからなのです。

ダムの目的は江戸城の飲料水の確保にありました。江戸城内の低地は井戸を掘っても塩分が混じり飲料水には不適で、飲料水の確保は早急の課題となっていたのです。

 

千鳥ヶ淵は小川を堰止めて水源を確保

麹町方面から流れていた小川は現在の東郷元帥記念公園(千代田区三番町)あたりから江戸城の方に流れていました。今は小川の明確な痕跡はありませんが、公園自体が斜面になっており、公園そばの道は東郷坂といい、小川が流れていれば、標高の低い江戸城の方に流れ、乾門付近から江戸城内に流れていました。

この乾門に土手を築いて小川の流れを堰止めたのが千鳥ヶ淵です。こうして千鳥ヶ淵、半蔵壕など1300mにわたるお堀ができあがったのです。

承応2(1653)年に玉川上水が建設されると、上水からの水も半蔵門付近から千鳥ヶ淵に供給されるようになりました。

 

千鳥ヶ淵は半蔵濠と水路でつながっている

内濠全体のことを見てみると、内濠とは、一般人が入れない地区や立ち入りできる皇居前広場や皇居東御苑、北の丸公園を囲む濠の総称で、日比谷濠、馬場先濠、和田倉濠、千鳥ヶ淵など約20の個別の濠で構成されています。

内濠の西端にあるのが半蔵門です。半蔵門の北にあるのが半蔵濠で半蔵門の南にある桜田濠とは水面の標高が違い、半蔵濠の方が約15mも高くなっています。千鳥ヶ淵は半蔵濠の北にありますが、千鳥ヶ淵と半蔵濠は同じ標高で、土手で区切られてはいますが、実は水路でつながっているのです。

 

千鳥ヶ淵が満杯になると牛ヶ淵へ流れた

江戸城は地形的にも谷がない西の守りが弱いとされてきました。服部半蔵を半蔵門に住まわせ、防衛を強化したのもその対策のひとつです。

千鳥ヶ淵の水は満杯になると、田安門地点から隣の牛ヶ淵方面に流れました。牛ヶ淵も堰止めて約500mの淵として利用されました。牛ヶ淵は千鳥ヶ淵よりも標高が低く、北の丸公園からの湧水も流れ込み、千鳥ヶ淵と牛ヶ淵の水は江戸城の飲料水として利用されたのです。

 

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