【東京都】北条氏照が築いた八王子城!地形を巧みに利用した山城の落城と戦国時代の終焉!

【東京都】北条氏照が築いた八王子城!地形を巧みに利用した山城の落城と戦国時代の終焉!

織田信長亡き後、天下人となった豊臣秀吉。
全国統一のため関東の支配者・北条の小田原城に進軍します。
その北条のもうひとつの砦が八王子城でした。

 

豊臣秀吉の全国統一を阻んだ北条氏

天正13(1585)年、羽柴秀吉は関白となり、翌年には太政大臣となり豊臣の姓を賜り豊臣秀吉となりました。天正15(1587)年には九州を平定、全国統一のために残されたのは小田原城の北条だけでした。

小田原北条は鎌倉時代の北条と関係はなく、明応2(1493)年に伊豆を占領したのが伊勢盛時(北条早雲を名乗る)で、鎌倉幕府の北条にあやかり北条姓を名乗りました。鎌倉幕府の北条と区別するため後北条と称されます。2代目・氏綱の時代になると領土を拡張し、4代目・氏政の時代には、関東のほぼ全域を制圧します。

居城は関東全体から見ると西端に位置する小田原城。3代目・氏康の三男として生まれた氏照(うじてる)は軍事部門で大いに活躍し、それまで大石氏が城主だった八王子の滝山城を居城としました。

北条は大永4(1524)年江戸城に入り、続いて天文7(1538)年には下総国国府台にも進出し、関八州といわれた関東地区を制しました。

 

北条氏照が築いた八王子城

しかし永禄12(1569)年、武田信玄が大軍を率いて北条領に攻め込みました。北条氏照の居城だった滝山城は包囲され、落城寸前でしたが、武田軍は撤退。これを機に、北条氏照は標高約 170mの低い山に築かれた滝山城に見切りをつけ、標高約445mの山城・八王子城を築きました。

関東屈指の山城といわれた八王子城は複雑な山の地形を利用した戦闘重視の城です。麓から山頂の本丸にいたるには、垂直の土壁である土塁、屋根を平に削り取って作った陣地・曲輪、侵入者が渡る前にすぐに取り壊せる曳橋、高くそびえる石垣など、少人数でも守ることが可能な、難攻不落の城といわれました。

八王子城は小田原よりは東にあり、関八州を見渡すことができたといわれています。

 

北条氏照らの降伏と八王子城の落城

秀吉は全国統一のため小田原城に迫るところに拠点を置いて持久戦に持ち込み、本営のために天守閣まで備えた城郭をつくりました。一方、北条氏照ら要人は精鋭を率いて小田原城に入って、戦闘態勢を整えていました。

ところが、天正18(1590)年6月、秀吉は小田原城の北条への見せしめとして、八王子城に上杉景勝と前田利家を向かわせ、全滅を命じました。人数は1万5000人に対して、城には3000人ほどがいたといいますが、農民、職人、山伏を中心とする留守部隊でした。

秀吉の命を受け、上杉景勝と前田利家は朝霧にまぎれて急襲し、半日で陥落させました。北条方の戦死者は1000人を超えたといわれ、戦国時代の戦闘としても惨烈な戦いのひとつといわれています。滝に身を投げる者もおり、滝の水は3日3晩赤く染まったといわれるほどでした。

この敗戦により同年7月、北条氏照は氏政とともに降伏、秀吉に切腹を命じられ、後北条氏は滅亡しました。秀吉はここに、天下統一をなし遂げ、戦国時代が終わりました。

八王子城は落城時に未完成だった?

八王子城は、落城時には未完成だったとの説があります。石垣で固めた城は織田信長の安土城を手本にしていました。その後の発掘調査では、御主殿では、大型の礎石建物2棟、西側に11間×6間の庭園をもつ建物が、その東側にも主殿と見られる建物があったことが判明しています。陶磁器類、焼けた米・麦・大豆、ベネチア産レースガラス器など多様な出土品も発見されています。

 

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