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【東京都】武蔵野台地は多摩川によって作られた?~東京に広がる台地の形成の流れと特徴~

【東京都】武蔵野台地は多摩川によって作られた?~東京に広がる台地の形成の流れと特徴~

東京の中央部は、多摩川の川原より一段高く表面の平らな武蔵野台地になっています。武蔵野台地はどのようにしてでき、どんな特徴があるでしょうか。   蔵野台地の形成に影響を与えた多摩川 東京都の山奥に源を発して山間部を流れ、平野部では神奈川県との境を流れている多摩川。その多摩川が大きく影響を与えて形成した地形が武蔵野台地です。 武蔵野台地は多摩川の川原より一段高くなった台地を指していますが、その大きさは東西約50km、南北約20kmに及びます。その範囲は東側を下町の沖積低地(ちゅうせきていち) 、南側を多摩川、北側を荒川と入間川の低地で仕切られる範囲です。武蔵野台地は青梅付近を頂点として東西に細長く延びた扇状に広がったエリア。青梅付近の標高は約180m、東端の東京低地(下町)に接するところで約20mです。   武蔵野台地形成に影響した多摩川は流れを変えながら東京を形づくった 昔の多摩川は奥多摩の古い山地を抜け出た青梅付近を頂点にして砂や礫を堆積し、何度も流路を変えながら、広い範囲にわたって砂礫層を積み重ねてきたと考えられています。 多摩川は現在の流れだけでなく、北東にも流れていたときがありました。埼玉県の小手指(こてさし)の台地や所沢の台地に見られるように、下末吉(神奈川)、武蔵野、立川と、時代を通じてさまざまに流路方向を変化させ、各地域に多摩川の扇状地が形成されたと考えられています。武蔵野台地は現在の多摩川の流れからすると、さらに広範囲にわたっていました。流れの方向も東西だけではないことがわかります。 出典:貝塚爽平監修・東京都地学のガイド編集委員会編『東京都 地学のガイド 東京都の地質とそのおいたち』(コロナ社)   武蔵野台地に高低差がある理由 武蔵野台地の表面は決して平らな面でできているわけではなく、表面のできた時代によって何段かの高低差があります。一般には、高い位置にある面は古く、低い位置にある面は新しくできたものです。 新宿のある淀橋台や大田区から世田谷区へかけての荏原台(えばらだい)は武蔵野台地の中ではもっとも古く下末吉面(しもすえよしめん)と呼ばれています。武蔵野台地の西は表面が平らな部分が多い割に、淀橋台や荏原台では表面を流れる川により浸食された谷がかなり複雑な地形を作っています。これが山の手に坂が多い理由とされているのです。   武蔵野台地を覆うローム層とは 武蔵野台地の表面のほとんどは赤い土、いわゆる関東ローム層で覆われています。ローム層は富士山や箱根山などの噴火で噴き上げられた火山灰が堆積したものであり、ローム層は高位の面に多く、低位の面は薄くなる傾向があります。 約5万年前、武蔵野面を削って一段低い所を多摩川が流れていました。降ってきた火山灰はどこも同じにように積もりましたが、氾濫原(河原の堆積作用で生じた平地で洪水時に冠水する部分)に降った火山灰は流水により流されたり、削られたりします。この武蔵野面に堆積したローム層を武蔵野ローム層といいます。次に、2、3万年前頃に多摩川が一段と深い谷を刻んだため、それまでの氾濫原が段丘化して立川段丘が形成されました。この立川面に堆積したのが立川ローム層といわれています。平面の武蔵野面は武蔵野ローム層の堆積前に形成。ローム層が堆積し河床部分が流水して新しい立川面が形成されました。 出典:貝塚爽平監修・東京都地学のガイド編集委 員会編『東京都 地学のガイド 東京都の地質とそのおいたち』(コロナ社)   関東ローム層は場所によって厚さが異なる ローム層の厚さは場所により違い、淀橋台の関東ローム層は約10m、豊島台や目黒台では関東ローム層は約5~8mとやや薄く、その下には砂礫層(されきそう)があります。立川や調布などは豊島台や目黒台よりも低く、関東ローム層は2~5mと薄く、その下は砂礫になっています。   『東京のトリセツ』好評発売中!...

【東京都】武蔵野台地は多摩川によって作られた?~東京に広がる台地の形成の流れと特徴~

東京の中央部は、多摩川の川原より一段高く表面の平らな武蔵野台地になっています。武蔵野台地はどのようにしてでき、どんな特徴があるでしょうか。   蔵野台地の形成に影響を与えた多摩川 東京都の山奥に源を発して山間部を流れ、平野部では神奈川県との境を流れている多摩川。その多摩川が大きく影響を与えて形成した地形が武蔵野台地です。 武蔵野台地は多摩川の川原より一段高くなった台地を指していますが、その大きさは東西約50km、南北約20kmに及びます。その範囲は東側を下町の沖積低地(ちゅうせきていち) 、南側を多摩川、北側を荒川と入間川の低地で仕切られる範囲です。武蔵野台地は青梅付近を頂点として東西に細長く延びた扇状に広がったエリア。青梅付近の標高は約180m、東端の東京低地(下町)に接するところで約20mです。   武蔵野台地形成に影響した多摩川は流れを変えながら東京を形づくった 昔の多摩川は奥多摩の古い山地を抜け出た青梅付近を頂点にして砂や礫を堆積し、何度も流路を変えながら、広い範囲にわたって砂礫層を積み重ねてきたと考えられています。 多摩川は現在の流れだけでなく、北東にも流れていたときがありました。埼玉県の小手指(こてさし)の台地や所沢の台地に見られるように、下末吉(神奈川)、武蔵野、立川と、時代を通じてさまざまに流路方向を変化させ、各地域に多摩川の扇状地が形成されたと考えられています。武蔵野台地は現在の多摩川の流れからすると、さらに広範囲にわたっていました。流れの方向も東西だけではないことがわかります。 出典:貝塚爽平監修・東京都地学のガイド編集委員会編『東京都 地学のガイド 東京都の地質とそのおいたち』(コロナ社)   武蔵野台地に高低差がある理由 武蔵野台地の表面は決して平らな面でできているわけではなく、表面のできた時代によって何段かの高低差があります。一般には、高い位置にある面は古く、低い位置にある面は新しくできたものです。 新宿のある淀橋台や大田区から世田谷区へかけての荏原台(えばらだい)は武蔵野台地の中ではもっとも古く下末吉面(しもすえよしめん)と呼ばれています。武蔵野台地の西は表面が平らな部分が多い割に、淀橋台や荏原台では表面を流れる川により浸食された谷がかなり複雑な地形を作っています。これが山の手に坂が多い理由とされているのです。   武蔵野台地を覆うローム層とは 武蔵野台地の表面のほとんどは赤い土、いわゆる関東ローム層で覆われています。ローム層は富士山や箱根山などの噴火で噴き上げられた火山灰が堆積したものであり、ローム層は高位の面に多く、低位の面は薄くなる傾向があります。 約5万年前、武蔵野面を削って一段低い所を多摩川が流れていました。降ってきた火山灰はどこも同じにように積もりましたが、氾濫原(河原の堆積作用で生じた平地で洪水時に冠水する部分)に降った火山灰は流水により流されたり、削られたりします。この武蔵野面に堆積したローム層を武蔵野ローム層といいます。次に、2、3万年前頃に多摩川が一段と深い谷を刻んだため、それまでの氾濫原が段丘化して立川段丘が形成されました。この立川面に堆積したのが立川ローム層といわれています。平面の武蔵野面は武蔵野ローム層の堆積前に形成。ローム層が堆積し河床部分が流水して新しい立川面が形成されました。 出典:貝塚爽平監修・東京都地学のガイド編集委 員会編『東京都 地学のガイド 東京都の地質とそのおいたち』(コロナ社)   関東ローム層は場所によって厚さが異なる ローム層の厚さは場所により違い、淀橋台の関東ローム層は約10m、豊島台や目黒台では関東ローム層は約5~8mとやや薄く、その下には砂礫層(されきそう)があります。立川や調布などは豊島台や目黒台よりも低く、関東ローム層は2~5mと薄く、その下は砂礫になっています。   『東京のトリセツ』好評発売中!...

【埼玉県】海なし県埼玉に砂丘がある?!中川低地に形成された河畔砂丘

【埼玉県】海なし県埼玉に砂丘がある?!中川低地に形成された河畔砂丘

海なし県の埼玉に24カ所もの砂丘があるといいます。いずれも河畔砂丘と呼ばれるもので、これらはかつての利根川の流れに沿って分布しています。   【埼玉の砂丘】県東部に点在する河畔砂丘 埼玉県東部は関東平野に位置し、標高は10m前後と低く、ほとんど起伏のない平坦地形が続いています。しかしよく見ると、周辺よりも小高い場所が点在します。近づいてみると土壌は砂質で、アカマツ林となっている場所もあります。じつはこれらは河畔砂丘(かはんさきゅう)と呼ばれる砂丘なのです。   【埼玉の砂丘】河畔砂丘とは? 河川には上流の小石や土砂を運搬するはたらきがあります。小石や土砂は流される過程で、どんどん細かくなり砂粒になります。 平野部は地形の傾斜が緩やかなため、川もゆったりと流れます。そのため砂が堆積しやすいのです。とくに川が蛇行している部分では、蛇行の内側に砂が大量に堆積し、砂洲(さす)と呼ばれる地形が発達します。 砂洲の砂が冬の季節風(北西風)によって吹き集められ、小高い砂山となったものが河畔砂丘です。   【埼玉の砂丘】河畔砂丘の成り立ち 埼玉県内の河畔砂丘のほとんどは、大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)や会(あい)の川(かわ)など、かつての利根川の流路に沿って見られます。形成時期は大きく、平安時代、鎌倉時代、室町時代以降の3つに分けられ、いずれも上流の火山噴火にともない、利根川に大量の火山噴出物が流出したのがきっかけとなっているようです。 いっぽうで、県東部では地盤沈下が起こっており、平安時代に形成された河畔砂丘は、春日部以北では地中に埋もれて見られなくなってしまったともいわれます。   【埼玉の砂丘】県内最大の河畔砂丘・志多見砂丘 県内最大の河畔砂丘は、加須市志多見(かぞししだみ)付近にある志多見砂丘です。会の川の南側に沿うようにして延長約2.5㎞、最大幅約300mの細長い形をしています。 最高地点で標高は 20.4m、それ以外の場所でも20m前後となっています。このあたりの平均的な標高は約15mなので、砂丘部分は5〜10mほど周囲より高くなっています。 鎌倉時代に形成されたと推定され、戦後、砂の採掘などにより多くは失われてしまいましたが、一部は加須市指定名勝・志多見砂丘(1956年制定)として保全されています。   【埼玉の砂丘】志多見砂丘以外の河畔砂丘 志多見砂丘以外の河畔砂丘は、土地利用や市街化などの影響を受けた場所が多く、いわれて初めて気づくような場所が多くなっています。それでも砂質土壌であったり、わずかな起伏が見られたりと、ていねいに観察することで多少の面影を感じることができます。 比較的わかりやすいのは、杉戸町上高野(たかの)〜下高野付近の高野砂丘です。これは、大落 古利根川の東側にあり、全長2.8㎞、幅約85m、最高点の標高は14.4m、周辺の低地との高低差は7.2m。鎌倉時代〜室町時代に形成されたものと推定されています。 ほかには、春日部市小渕(こぶち)付近の小渕砂丘でしょうか。こちらは全長2.1㎞で3つの砂丘が並んでいます。東側砂丘列は平安時代、中央の列は鎌倉時代、西側の列は室町時代以降に形成されたと見られます。最高点の標高は18.1mで低地との高低差は9.7mです。 その他、久喜市には西大輪(にしおおわ)砂丘や高柳(たかやなぎ)砂丘、羽生市には新郷(しんごう)砂丘や岩瀬(いわせ)砂丘、砂山砂丘などが形成されています。 国土地理院標準地図(タイ ル)上に、産業技術総合研 究所地質調査総合センター 「20万分の1日本シームレ...

【埼玉県】海なし県埼玉に砂丘がある?!中川低地に形成された河畔砂丘

海なし県の埼玉に24カ所もの砂丘があるといいます。いずれも河畔砂丘と呼ばれるもので、これらはかつての利根川の流れに沿って分布しています。   【埼玉の砂丘】県東部に点在する河畔砂丘 埼玉県東部は関東平野に位置し、標高は10m前後と低く、ほとんど起伏のない平坦地形が続いています。しかしよく見ると、周辺よりも小高い場所が点在します。近づいてみると土壌は砂質で、アカマツ林となっている場所もあります。じつはこれらは河畔砂丘(かはんさきゅう)と呼ばれる砂丘なのです。   【埼玉の砂丘】河畔砂丘とは? 河川には上流の小石や土砂を運搬するはたらきがあります。小石や土砂は流される過程で、どんどん細かくなり砂粒になります。 平野部は地形の傾斜が緩やかなため、川もゆったりと流れます。そのため砂が堆積しやすいのです。とくに川が蛇行している部分では、蛇行の内側に砂が大量に堆積し、砂洲(さす)と呼ばれる地形が発達します。 砂洲の砂が冬の季節風(北西風)によって吹き集められ、小高い砂山となったものが河畔砂丘です。   【埼玉の砂丘】河畔砂丘の成り立ち 埼玉県内の河畔砂丘のほとんどは、大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)や会(あい)の川(かわ)など、かつての利根川の流路に沿って見られます。形成時期は大きく、平安時代、鎌倉時代、室町時代以降の3つに分けられ、いずれも上流の火山噴火にともない、利根川に大量の火山噴出物が流出したのがきっかけとなっているようです。 いっぽうで、県東部では地盤沈下が起こっており、平安時代に形成された河畔砂丘は、春日部以北では地中に埋もれて見られなくなってしまったともいわれます。   【埼玉の砂丘】県内最大の河畔砂丘・志多見砂丘 県内最大の河畔砂丘は、加須市志多見(かぞししだみ)付近にある志多見砂丘です。会の川の南側に沿うようにして延長約2.5㎞、最大幅約300mの細長い形をしています。 最高地点で標高は 20.4m、それ以外の場所でも20m前後となっています。このあたりの平均的な標高は約15mなので、砂丘部分は5〜10mほど周囲より高くなっています。 鎌倉時代に形成されたと推定され、戦後、砂の採掘などにより多くは失われてしまいましたが、一部は加須市指定名勝・志多見砂丘(1956年制定)として保全されています。   【埼玉の砂丘】志多見砂丘以外の河畔砂丘 志多見砂丘以外の河畔砂丘は、土地利用や市街化などの影響を受けた場所が多く、いわれて初めて気づくような場所が多くなっています。それでも砂質土壌であったり、わずかな起伏が見られたりと、ていねいに観察することで多少の面影を感じることができます。 比較的わかりやすいのは、杉戸町上高野(たかの)〜下高野付近の高野砂丘です。これは、大落 古利根川の東側にあり、全長2.8㎞、幅約85m、最高点の標高は14.4m、周辺の低地との高低差は7.2m。鎌倉時代〜室町時代に形成されたものと推定されています。 ほかには、春日部市小渕(こぶち)付近の小渕砂丘でしょうか。こちらは全長2.1㎞で3つの砂丘が並んでいます。東側砂丘列は平安時代、中央の列は鎌倉時代、西側の列は室町時代以降に形成されたと見られます。最高点の標高は18.1mで低地との高低差は9.7mです。 その他、久喜市には西大輪(にしおおわ)砂丘や高柳(たかやなぎ)砂丘、羽生市には新郷(しんごう)砂丘や岩瀬(いわせ)砂丘、砂山砂丘などが形成されています。 国土地理院標準地図(タイ ル)上に、産業技術総合研 究所地質調査総合センター 「20万分の1日本シームレ...

【奈良県】大仏鉄道を阻んだ急勾配~営業期間わずか9年間の幻の鉄道~

【奈良県】大仏鉄道を阻んだ急勾配~営業期間わずか9年間の幻の鉄道~

かつて東大寺の大仏参拝客でにぎわった鉄道がありました。ときには乗客が車両を押すほどの急勾配が災いして短期間で役割を終え、「幻の鉄道」と呼ばれています。   大仏鉄道とは 明治の5大私鉄のひとつとされた関西(かんせい)鉄道株式会社(JR関西本線の前身)。同社は名古屋方面から奈良への観光客誘致を狙って、奈良駅の北に設けた「大仏(だいぶつ)駅」と加茂駅を結ぶ8.8kmに明治31(1898)年、鉄道を敷設し、「大仏鉄道」が誕生しました。翌年には、大仏駅~奈良駅の1.1kmも開業させました。これにより、加茂駅と奈良駅を結ぶ、合わせて9.9kmの路線となりました。 大仏鉄道の「大仏駅」は東大寺大仏殿の最寄り駅 当時の大仏駅は、その名の通り、東大寺大仏殿の最寄り駅にあたります。関西鉄道が奈良駅の使用について大阪鉄道との交渉が難航したため、仮設的に造ったものでしたが、大仏殿参拝に便利なため、東海や伊勢方面からの参拝には打って付けと、すぐに利用客が増えることとなりました。   大仏鉄道を走らせていた関西鉄道の人気 また、大仏鉄道を走行する関西鉄道の蒸気機関車には、源頼朝の愛馬にちなんだ「池月(いけづき)」をはじめ、「飛龍(ひりょう)」「三笠」などのニックネームがそれぞれにつけられていました。 大仏駅の開業時には、「赤いイギリス製の蒸気機関車が伊勢や名古屋方面からの大仏参拝客を乗せてにぎわった」と、当時の新聞が伝えています。「小さな部屋が十個ほどつながっているような感じ」の客車は「マッチ箱」と呼ばれ、物珍しさも手伝って、明治32(1899)年には乗車客数が5万人を超えるほどの人気でした。   大仏鉄道が悪戦苦闘した急勾配路線 ところが、最短距離ルートで設定された大仏鉄道は、奈良山丘陵を走らなければならず、加茂駅の標高40mに対して、大仏駅は70m、途中の黒髪山では100mにもなり、最も急な場所で2.5%の勾配(100mで2.5m登ります。角度約1.4度)となるような急勾配が連続する路線となってしまいました。 乗客や近隣の村民が機関車を手押しすることも!? 黒髪山トンネル越えの難関では、イギリス製の新鋭機関車でさえ、走行は困難を極めたといいます。起伏の多い路線で速度は上がらず、石炭を大量に消費する燃費の悪さ。機関車が2両ついているときはまだよいのですが、1両だと停まってしまう始末に。そうなると、乗客が降りて車両を押したり、近隣の村人たちが駆け付けて手伝ったりと、今では想像がつかないほどの事態だったようです。   大仏鉄道の終焉 次第に大仏駅より奈良駅が利用されるようになっていき、開業からわずか3年後の明治34(1901)年には乗降客は激減しました。さらに追い打ちをかけるように、明治40(1907)年に、木津駅を経由する加茂駅~奈良駅の現在のJR関西本線の平坦なルートが開通したため、大仏鉄道の需要がなくなりついには休止へ。そして、鉄道の国有化が実施されたことで翌年に廃業となってしまいました。出典:木津川市HP 幻の鉄道と呼ばれることも 営業期間が9年と短かったのに加え、国有化直前に休止となったために大仏鉄道に関する文献資料は乏しく、「幻の鉄道」とも呼ばれるようになったのです。 大仏鉄道の遺構は現在も見ることができる ですが、かつての大仏鉄道の線路跡には、隧道(ずいどう:川の水や人を通すために造られたトンネル)や橋台(橋の上部構造の両端を支える基礎部分)など、いくつもの遺構が緑豊かな里山の風景に溶け込むように点在します。1世紀以上の時の流れを越えて今もなお、当時とほぼ同じ姿のままでたたずんでいます。   『奈良のトリセツ』好評発売中! 奈良県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。奈良県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!  

【奈良県】大仏鉄道を阻んだ急勾配~営業期間わずか9年間の幻の鉄道~

かつて東大寺の大仏参拝客でにぎわった鉄道がありました。ときには乗客が車両を押すほどの急勾配が災いして短期間で役割を終え、「幻の鉄道」と呼ばれています。   大仏鉄道とは 明治の5大私鉄のひとつとされた関西(かんせい)鉄道株式会社(JR関西本線の前身)。同社は名古屋方面から奈良への観光客誘致を狙って、奈良駅の北に設けた「大仏(だいぶつ)駅」と加茂駅を結ぶ8.8kmに明治31(1898)年、鉄道を敷設し、「大仏鉄道」が誕生しました。翌年には、大仏駅~奈良駅の1.1kmも開業させました。これにより、加茂駅と奈良駅を結ぶ、合わせて9.9kmの路線となりました。 大仏鉄道の「大仏駅」は東大寺大仏殿の最寄り駅 当時の大仏駅は、その名の通り、東大寺大仏殿の最寄り駅にあたります。関西鉄道が奈良駅の使用について大阪鉄道との交渉が難航したため、仮設的に造ったものでしたが、大仏殿参拝に便利なため、東海や伊勢方面からの参拝には打って付けと、すぐに利用客が増えることとなりました。   大仏鉄道を走らせていた関西鉄道の人気 また、大仏鉄道を走行する関西鉄道の蒸気機関車には、源頼朝の愛馬にちなんだ「池月(いけづき)」をはじめ、「飛龍(ひりょう)」「三笠」などのニックネームがそれぞれにつけられていました。 大仏駅の開業時には、「赤いイギリス製の蒸気機関車が伊勢や名古屋方面からの大仏参拝客を乗せてにぎわった」と、当時の新聞が伝えています。「小さな部屋が十個ほどつながっているような感じ」の客車は「マッチ箱」と呼ばれ、物珍しさも手伝って、明治32(1899)年には乗車客数が5万人を超えるほどの人気でした。   大仏鉄道が悪戦苦闘した急勾配路線 ところが、最短距離ルートで設定された大仏鉄道は、奈良山丘陵を走らなければならず、加茂駅の標高40mに対して、大仏駅は70m、途中の黒髪山では100mにもなり、最も急な場所で2.5%の勾配(100mで2.5m登ります。角度約1.4度)となるような急勾配が連続する路線となってしまいました。 乗客や近隣の村民が機関車を手押しすることも!? 黒髪山トンネル越えの難関では、イギリス製の新鋭機関車でさえ、走行は困難を極めたといいます。起伏の多い路線で速度は上がらず、石炭を大量に消費する燃費の悪さ。機関車が2両ついているときはまだよいのですが、1両だと停まってしまう始末に。そうなると、乗客が降りて車両を押したり、近隣の村人たちが駆け付けて手伝ったりと、今では想像がつかないほどの事態だったようです。   大仏鉄道の終焉 次第に大仏駅より奈良駅が利用されるようになっていき、開業からわずか3年後の明治34(1901)年には乗降客は激減しました。さらに追い打ちをかけるように、明治40(1907)年に、木津駅を経由する加茂駅~奈良駅の現在のJR関西本線の平坦なルートが開通したため、大仏鉄道の需要がなくなりついには休止へ。そして、鉄道の国有化が実施されたことで翌年に廃業となってしまいました。出典:木津川市HP 幻の鉄道と呼ばれることも 営業期間が9年と短かったのに加え、国有化直前に休止となったために大仏鉄道に関する文献資料は乏しく、「幻の鉄道」とも呼ばれるようになったのです。 大仏鉄道の遺構は現在も見ることができる ですが、かつての大仏鉄道の線路跡には、隧道(ずいどう:川の水や人を通すために造られたトンネル)や橋台(橋の上部構造の両端を支える基礎部分)など、いくつもの遺構が緑豊かな里山の風景に溶け込むように点在します。1世紀以上の時の流れを越えて今もなお、当時とほぼ同じ姿のままでたたずんでいます。   『奈良のトリセツ』好評発売中! 奈良県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。奈良県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!  

【山形県】最上川の氾濫と治水の歴史~新川掘削に酒田築港などの工事は近代まで続く~

【山形県】最上川の氾濫と治水の歴史~新川掘削に酒田築港などの工事は近代まで続く~

多くの恵みをもたらす最上川は、いっぽうで頻繁に洪水を繰り返してきました。山形の人々はその都度、「治水」という戦いに身を投じてきたのです。 最上川は「母なる川」として豊穣と産業発展に寄与 山形県民にとって最上川は「母なる川」です。ひとつの都道府県しか流れない川として国内最長を誇る最上川は、置賜(おきたま)地方の西吾妻山(にしあずまやま))付近を源流とし、置賜、村山、最上の盆地を抜け、庄内平野に入って日本海へと注ぎます。山形を豊穣の地たらしめているのは、この最上川がもたらす豊かな水です。 また、最上川はかつて重要な交通手段として、内陸部での紅花(べにばな)や青苧(あおそ)の栽培など、地場産業の発展に大きく寄与しています。幕藩体制期に舟運が整備されると、北前船(きたまえぶね)の寄港地でもある河口の酒田は物流の拠点となり、奥州随一の商都として莫大な富を山形全域にもたらしました。   最上川が氾濫する要因 しかし「母なる川」の名とは裏腹に、最上川は国内有数の暴れ川でもあります。日本三大急流のひとつに数えられるほど流れが速い要因は、川底の花崗岩が水をせきとめるような形になっていることに加え、河道が蛇行していたり、川幅が狭い箇所が多いことにあります。ゆえに、大量の雪解け水や台風・豪雨によって氾濫しやすいのです。 現在も最上川流域では、局地的豪雨によって洪水が発生することがありますが、江戸時代にはじつに7年に1回の割合で大洪水が発生していたといいます。このように頻繁に氾濫する最上川の河道は、時代を経て大きく変化してきたと考えられています。   最上川の氾濫を食い止めるためのさまざまな対策 洪水は人々の生活や経済活動に大きな打撃を与えます。そのため、最上川流域では古くからさまざまな対策が行われてきました。米沢に入封した上杉景勝(かげかつ)の家臣である直江兼続(なおえかねつぐ)は、米沢藩の家老在任中、城下を守るため、最上川上流に大規模な堤防を築きました。 いっぽう、最上川の下流域では、1650(慶安3)年から本格的な治水工事が行われます。それが新川掘削です。工事前の最上川は、亀ヶ崎城(かめがさきじょう)の南西の落野目(おちのめ)(現・酒田市落野目)から北に折れて大きく蛇行し、沿岸流域は常に洪水の危険にさらされていました。そこで蛇行する地点から東西にまっすぐ抜ける新たな河道(新川)を掘りました。この新川掘削は1674(延宝2)年にも実施されています。ただ、江戸時代の治水は、流域の藩がそれぞれ人力かつ自然物の資材を使って行っていたため、効果には限界があったのです。   最上川の氾濫対策は近代では新川掘削や分離がおもに 最上川下流の治水事業は近代になっても続けられました。1884(明治17)年、国の主導による改修工事の実施が決定。工事監督として、内務省技師で河川改良技術のスペシャリストでもあった石井虎治郎(とらじろう)が派遣されました。石井は「木工沈床法」という技法を用い、18年もの年月をかけ、酒田港の船着場につながる河口に導水堤を築きました。 さらに酒田では、明治後期から昭和初期にかけ、経済復興と洪水対策を兼ねて、酒田港と最上川の分離工事も行っています。最上川の土砂がたまり水深が浅くなっていた酒田港は、大型船舶が停泊できず機能が低下していました。そこで「背割堤(せわりてい)」を築き、港と川を分離させたのでした。 また、最上川・赤川(あかがわ)・京田川(きょうでんがわ)が合流する広野(ひろの)村と袖浦(そでうら)村(現・酒田市広野、袖浦)は、江戸時代から洪水に悩まされ、明治になると村を離れる者が後を絶ちませんでした。そこで赤川の掘削工事に取り組み、日本海へと直接抜ける新たな河道(赤川新川)が誕生。地域住民は大いに喜んだといいます。 山形の人々は最上川に生かされ、また戦ってきました。最上川は「母なる川」であると同時に畏怖される、特別な川なのです。  最上川に合流していた赤川の旧河道はしばらく残されていましたが、1953(昭和28)年に閉め切られました。その後、赤川新川(赤川放水路)は拡幅や護岸工事など、さらに整備が進みました。   『山形のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から山形県を分析! 山形県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。山形の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【山形県】最上川の氾濫と治水の歴史~新川掘削に酒田築港などの工事は近代まで続く~

多くの恵みをもたらす最上川は、いっぽうで頻繁に洪水を繰り返してきました。山形の人々はその都度、「治水」という戦いに身を投じてきたのです。 最上川は「母なる川」として豊穣と産業発展に寄与 山形県民にとって最上川は「母なる川」です。ひとつの都道府県しか流れない川として国内最長を誇る最上川は、置賜(おきたま)地方の西吾妻山(にしあずまやま))付近を源流とし、置賜、村山、最上の盆地を抜け、庄内平野に入って日本海へと注ぎます。山形を豊穣の地たらしめているのは、この最上川がもたらす豊かな水です。 また、最上川はかつて重要な交通手段として、内陸部での紅花(べにばな)や青苧(あおそ)の栽培など、地場産業の発展に大きく寄与しています。幕藩体制期に舟運が整備されると、北前船(きたまえぶね)の寄港地でもある河口の酒田は物流の拠点となり、奥州随一の商都として莫大な富を山形全域にもたらしました。   最上川が氾濫する要因 しかし「母なる川」の名とは裏腹に、最上川は国内有数の暴れ川でもあります。日本三大急流のひとつに数えられるほど流れが速い要因は、川底の花崗岩が水をせきとめるような形になっていることに加え、河道が蛇行していたり、川幅が狭い箇所が多いことにあります。ゆえに、大量の雪解け水や台風・豪雨によって氾濫しやすいのです。 現在も最上川流域では、局地的豪雨によって洪水が発生することがありますが、江戸時代にはじつに7年に1回の割合で大洪水が発生していたといいます。このように頻繁に氾濫する最上川の河道は、時代を経て大きく変化してきたと考えられています。   最上川の氾濫を食い止めるためのさまざまな対策 洪水は人々の生活や経済活動に大きな打撃を与えます。そのため、最上川流域では古くからさまざまな対策が行われてきました。米沢に入封した上杉景勝(かげかつ)の家臣である直江兼続(なおえかねつぐ)は、米沢藩の家老在任中、城下を守るため、最上川上流に大規模な堤防を築きました。 いっぽう、最上川の下流域では、1650(慶安3)年から本格的な治水工事が行われます。それが新川掘削です。工事前の最上川は、亀ヶ崎城(かめがさきじょう)の南西の落野目(おちのめ)(現・酒田市落野目)から北に折れて大きく蛇行し、沿岸流域は常に洪水の危険にさらされていました。そこで蛇行する地点から東西にまっすぐ抜ける新たな河道(新川)を掘りました。この新川掘削は1674(延宝2)年にも実施されています。ただ、江戸時代の治水は、流域の藩がそれぞれ人力かつ自然物の資材を使って行っていたため、効果には限界があったのです。   最上川の氾濫対策は近代では新川掘削や分離がおもに 最上川下流の治水事業は近代になっても続けられました。1884(明治17)年、国の主導による改修工事の実施が決定。工事監督として、内務省技師で河川改良技術のスペシャリストでもあった石井虎治郎(とらじろう)が派遣されました。石井は「木工沈床法」という技法を用い、18年もの年月をかけ、酒田港の船着場につながる河口に導水堤を築きました。 さらに酒田では、明治後期から昭和初期にかけ、経済復興と洪水対策を兼ねて、酒田港と最上川の分離工事も行っています。最上川の土砂がたまり水深が浅くなっていた酒田港は、大型船舶が停泊できず機能が低下していました。そこで「背割堤(せわりてい)」を築き、港と川を分離させたのでした。 また、最上川・赤川(あかがわ)・京田川(きょうでんがわ)が合流する広野(ひろの)村と袖浦(そでうら)村(現・酒田市広野、袖浦)は、江戸時代から洪水に悩まされ、明治になると村を離れる者が後を絶ちませんでした。そこで赤川の掘削工事に取り組み、日本海へと直接抜ける新たな河道(赤川新川)が誕生。地域住民は大いに喜んだといいます。 山形の人々は最上川に生かされ、また戦ってきました。最上川は「母なる川」であると同時に畏怖される、特別な川なのです。  最上川に合流していた赤川の旧河道はしばらく残されていましたが、1953(昭和28)年に閉め切られました。その後、赤川新川(赤川放水路)は拡幅や護岸工事など、さらに整備が進みました。   『山形のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から山形県を分析! 山形県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。山形の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【東京都】北条氏照が築いた八王子城!地形を巧みに利用した山城の落城と戦国時代の終焉!

【東京都】北条氏照が築いた八王子城!地形を巧みに利用した山城の落城と戦国時代の終焉!

織田信長亡き後、天下人となった豊臣秀吉。全国統一のため関東の支配者・北条の小田原城に進軍します。その北条のもうひとつの砦が八王子城でした。   豊臣秀吉の全国統一を阻んだ北条氏 天正13(1585)年、羽柴秀吉は関白となり、翌年には太政大臣となり豊臣の姓を賜り豊臣秀吉となりました。天正15(1587)年には九州を平定、全国統一のために残されたのは小田原城の北条だけでした。 小田原北条は鎌倉時代の北条と関係はなく、明応2(1493)年に伊豆を占領したのが伊勢盛時(北条早雲を名乗る)で、鎌倉幕府の北条にあやかり北条姓を名乗りました。鎌倉幕府の北条と区別するため後北条と称されます。2代目・氏綱の時代になると領土を拡張し、4代目・氏政の時代には、関東のほぼ全域を制圧します。 居城は関東全体から見ると西端に位置する小田原城。3代目・氏康の三男として生まれた氏照(うじてる)は軍事部門で大いに活躍し、それまで大石氏が城主だった八王子の滝山城を居城としました。 北条は大永4(1524)年江戸城に入り、続いて天文7(1538)年には下総国国府台にも進出し、関八州といわれた関東地区を制しました。   北条氏照が築いた八王子城 しかし永禄12(1569)年、武田信玄が大軍を率いて北条領に攻め込みました。北条氏照の居城だった滝山城は包囲され、落城寸前でしたが、武田軍は撤退。これを機に、北条氏照は標高約 170mの低い山に築かれた滝山城に見切りをつけ、標高約445mの山城・八王子城を築きました。 関東屈指の山城といわれた八王子城は複雑な山の地形を利用した戦闘重視の城です。麓から山頂の本丸にいたるには、垂直の土壁である土塁、屋根を平に削り取って作った陣地・曲輪、侵入者が渡る前にすぐに取り壊せる曳橋、高くそびえる石垣など、少人数でも守ることが可能な、難攻不落の城といわれました。 八王子城は小田原よりは東にあり、関八州を見渡すことができたといわれています。   北条氏照らの降伏と八王子城の落城 秀吉は全国統一のため小田原城に迫るところに拠点を置いて持久戦に持ち込み、本営のために天守閣まで備えた城郭をつくりました。一方、北条氏照ら要人は精鋭を率いて小田原城に入って、戦闘態勢を整えていました。 ところが、天正18(1590)年6月、秀吉は小田原城の北条への見せしめとして、八王子城に上杉景勝と前田利家を向かわせ、全滅を命じました。人数は1万5000人に対して、城には3000人ほどがいたといいますが、農民、職人、山伏を中心とする留守部隊でした。 秀吉の命を受け、上杉景勝と前田利家は朝霧にまぎれて急襲し、半日で陥落させました。北条方の戦死者は1000人を超えたといわれ、戦国時代の戦闘としても惨烈な戦いのひとつといわれています。滝に身を投げる者もおり、滝の水は3日3晩赤く染まったといわれるほどでした。 この敗戦により同年7月、北条氏照は氏政とともに降伏、秀吉に切腹を命じられ、後北条氏は滅亡しました。秀吉はここに、天下統一をなし遂げ、戦国時代が終わりました。 八王子城は落城時に未完成だった? 八王子城は、落城時には未完成だったとの説があります。石垣で固めた城は織田信長の安土城を手本にしていました。その後の発掘調査では、御主殿では、大型の礎石建物2棟、西側に11間×6間の庭園をもつ建物が、その東側にも主殿と見られる建物があったことが判明しています。陶磁器類、焼けた米・麦・大豆、ベネチア産レースガラス器など多様な出土品も発見されています。   『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。東京の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【東京都】北条氏照が築いた八王子城!地形を巧みに利用した山城の落城と戦国時代の終焉!

織田信長亡き後、天下人となった豊臣秀吉。全国統一のため関東の支配者・北条の小田原城に進軍します。その北条のもうひとつの砦が八王子城でした。   豊臣秀吉の全国統一を阻んだ北条氏 天正13(1585)年、羽柴秀吉は関白となり、翌年には太政大臣となり豊臣の姓を賜り豊臣秀吉となりました。天正15(1587)年には九州を平定、全国統一のために残されたのは小田原城の北条だけでした。 小田原北条は鎌倉時代の北条と関係はなく、明応2(1493)年に伊豆を占領したのが伊勢盛時(北条早雲を名乗る)で、鎌倉幕府の北条にあやかり北条姓を名乗りました。鎌倉幕府の北条と区別するため後北条と称されます。2代目・氏綱の時代になると領土を拡張し、4代目・氏政の時代には、関東のほぼ全域を制圧します。 居城は関東全体から見ると西端に位置する小田原城。3代目・氏康の三男として生まれた氏照(うじてる)は軍事部門で大いに活躍し、それまで大石氏が城主だった八王子の滝山城を居城としました。 北条は大永4(1524)年江戸城に入り、続いて天文7(1538)年には下総国国府台にも進出し、関八州といわれた関東地区を制しました。   北条氏照が築いた八王子城 しかし永禄12(1569)年、武田信玄が大軍を率いて北条領に攻め込みました。北条氏照の居城だった滝山城は包囲され、落城寸前でしたが、武田軍は撤退。これを機に、北条氏照は標高約 170mの低い山に築かれた滝山城に見切りをつけ、標高約445mの山城・八王子城を築きました。 関東屈指の山城といわれた八王子城は複雑な山の地形を利用した戦闘重視の城です。麓から山頂の本丸にいたるには、垂直の土壁である土塁、屋根を平に削り取って作った陣地・曲輪、侵入者が渡る前にすぐに取り壊せる曳橋、高くそびえる石垣など、少人数でも守ることが可能な、難攻不落の城といわれました。 八王子城は小田原よりは東にあり、関八州を見渡すことができたといわれています。   北条氏照らの降伏と八王子城の落城 秀吉は全国統一のため小田原城に迫るところに拠点を置いて持久戦に持ち込み、本営のために天守閣まで備えた城郭をつくりました。一方、北条氏照ら要人は精鋭を率いて小田原城に入って、戦闘態勢を整えていました。 ところが、天正18(1590)年6月、秀吉は小田原城の北条への見せしめとして、八王子城に上杉景勝と前田利家を向かわせ、全滅を命じました。人数は1万5000人に対して、城には3000人ほどがいたといいますが、農民、職人、山伏を中心とする留守部隊でした。 秀吉の命を受け、上杉景勝と前田利家は朝霧にまぎれて急襲し、半日で陥落させました。北条方の戦死者は1000人を超えたといわれ、戦国時代の戦闘としても惨烈な戦いのひとつといわれています。滝に身を投げる者もおり、滝の水は3日3晩赤く染まったといわれるほどでした。 この敗戦により同年7月、北条氏照は氏政とともに降伏、秀吉に切腹を命じられ、後北条氏は滅亡しました。秀吉はここに、天下統一をなし遂げ、戦国時代が終わりました。 八王子城は落城時に未完成だった? 八王子城は、落城時には未完成だったとの説があります。石垣で固めた城は織田信長の安土城を手本にしていました。その後の発掘調査では、御主殿では、大型の礎石建物2棟、西側に11間×6間の庭園をもつ建物が、その東側にも主殿と見られる建物があったことが判明しています。陶磁器類、焼けた米・麦・大豆、ベネチア産レースガラス器など多様な出土品も発見されています。   『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。東京の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【東京都】日原鍾乳洞は地下の大宮殿!?関東随一のスケールで幻想的な空間が広がる

【東京都】日原鍾乳洞は地下の大宮殿!?関東随一のスケールで幻想的な空間が広がる

数億年前の海底で生み出された石灰岩の地層が、長い年月をかけて侵食され、育まれて生まれた神秘の景観。関東最大級の「日原鍾乳洞」とはどんなところなのでしょうか?   日原鍾乳洞はどこにあるどんな鍾乳洞? 東京都の最北西端に位置する奥多摩町は、水と緑に囲まれた「東京の奥庭」。この地域は秩父多摩甲斐国立公園に含まれ、山岳や渓谷の景観は変化に富んでいます。この景観を作る山々は、恐竜の時代と呼ばれる中生代に深海に沈積した堆積物が、長い時間の造山運動を経て形成されたもの。石灰岩やチャートなどの堆積岩を多く含むことで、滝や渓谷の多い複雑な景観が生まれ、倉沢・小袖(こそで)・養沢(ようざわ)・大岳沢(おおたけさわ)など、多くの場所で鍾乳洞が見られます。 こうした鍾乳洞のなかでも総延長1270m、高低差134mと、関東最大級の規模を誇るのが「日原鍾乳洞(にっぱらしょうにゅうどう)」です。その大きさはもちろん、豊富な鍾乳石が生み出す独特の景観から、東京都指定天然記念物にも指定されています。このうち約800mが公開されており、立体迷路のような洞窟に足を踏み入れると、大自然が創り出した神秘的な世界を体験できます。   日原鍾乳洞は悠久の歴史を刻んで育まれた 鍾乳洞は、雨や地下水が地層の割れ目に沿って流れ込み、二酸化炭素を含んだ水によって石灰岩が溶かされて生まれた洞窟です。鍾乳洞では、天井から落ちる水滴に含まれる炭酸カルシウムが固まることで、さまざまな奇景が生み出されます。 洞内で垂れて氷柱状になったものを「鍾乳石」、雫が垂れて地上に積み重なったものを「石笥(せきじゅん)」、上下が発達してつながったものを「石柱(せきちゅう)」と呼びます。 日原鍾乳洞の鍾乳石は1cm成長するのに約70年、石筍は約130年かかるとされ、大きな石笥は数十万年かけて成長してきたことになります。自然の神秘的な営みを身近に感じられる貴重な観光スポットと言えるでしょう。 日原鍾乳洞の形成:1cm伸びるのに70~130年! 水滴に含まれる炭酸カルシウムが固まることによって成長する、「鍾乳石」や「石筍」は、その場所の地質構造、洞内気象などの条件によって成長スピードが異なります。 一般的に、天井から垂れる「鍾乳石」は、1cm成長するには数十年~100年、床に固まり積もる「石筍」は100~数百年かかるとされます。何百年、何千年という年月をかけて成長した石筍を見ると、日原鍾乳洞の歴史の長さに驚かされることでしょう。 日原鍾乳洞の見どころ 白衣観音(びゃくいかんのん)並び立つ石筍のなかでも、ひときわ大きい一体。白衣観音を思わせる神々しさが名の由来です。 金剛杖およそ2.5mもの細長い石筍。3万年以上という気の遠くなる年月を経て成長しました。 死出(しで)の山鍾乳洞内のもっとも大きな空間が、レインボーカラーでライトアップされて幻想的。ガマ岩、あみだの原なども見られます。 水琴窟(すいきんくつ)地中に埋めた水を張った瓶に手水鉢の水が滴り落ちることで音を作りだしています。   日原鍾乳洞で見られる地質的特徴 鍾乳石以外にも見どころはたくさんあります。 旧洞内の壁には、何段も残る水平のくぼみが見られますが、これは「ノッチ」と呼ばれ、ここに水流があったことの証。また、特徴的な地質構造である節理(せつり)」や「断層」も随所で見られます。   日原鍾乳洞は古くから信仰の対象でもあった 洞内各所に宗教的な名称がついているのは、ここが江戸時代まで山岳信仰の聖地として栄えた場所であったためです。「一石山大権現(いっせきさんだいごんげん)」と呼ばれ、鍾乳洞そのものを神と崇めて、多くの修験者が訪れたといわれます。 周辺の御岳山や三峰山も古くから山岳信仰の対象となっていることから、日原鍾乳洞の周辺には多くの神社があり、厳かな雰囲気に満ちています。 東京都多摩西部、いわゆる奥多摩は、その大部分が秩父多摩甲斐国立公園、明治の森高尾国定公園に指定された地域です。奥多摩湖や雲取山をはじめ、鳩ノ巣渓谷や秋川渓谷などのダイナミックな渓谷、鍾乳洞、滝も多く、その豊かな自然が人々に愛されています。   『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析!...

【東京都】日原鍾乳洞は地下の大宮殿!?関東随一のスケールで幻想的な空間が広がる

数億年前の海底で生み出された石灰岩の地層が、長い年月をかけて侵食され、育まれて生まれた神秘の景観。関東最大級の「日原鍾乳洞」とはどんなところなのでしょうか?   日原鍾乳洞はどこにあるどんな鍾乳洞? 東京都の最北西端に位置する奥多摩町は、水と緑に囲まれた「東京の奥庭」。この地域は秩父多摩甲斐国立公園に含まれ、山岳や渓谷の景観は変化に富んでいます。この景観を作る山々は、恐竜の時代と呼ばれる中生代に深海に沈積した堆積物が、長い時間の造山運動を経て形成されたもの。石灰岩やチャートなどの堆積岩を多く含むことで、滝や渓谷の多い複雑な景観が生まれ、倉沢・小袖(こそで)・養沢(ようざわ)・大岳沢(おおたけさわ)など、多くの場所で鍾乳洞が見られます。 こうした鍾乳洞のなかでも総延長1270m、高低差134mと、関東最大級の規模を誇るのが「日原鍾乳洞(にっぱらしょうにゅうどう)」です。その大きさはもちろん、豊富な鍾乳石が生み出す独特の景観から、東京都指定天然記念物にも指定されています。このうち約800mが公開されており、立体迷路のような洞窟に足を踏み入れると、大自然が創り出した神秘的な世界を体験できます。   日原鍾乳洞は悠久の歴史を刻んで育まれた 鍾乳洞は、雨や地下水が地層の割れ目に沿って流れ込み、二酸化炭素を含んだ水によって石灰岩が溶かされて生まれた洞窟です。鍾乳洞では、天井から落ちる水滴に含まれる炭酸カルシウムが固まることで、さまざまな奇景が生み出されます。 洞内で垂れて氷柱状になったものを「鍾乳石」、雫が垂れて地上に積み重なったものを「石笥(せきじゅん)」、上下が発達してつながったものを「石柱(せきちゅう)」と呼びます。 日原鍾乳洞の鍾乳石は1cm成長するのに約70年、石筍は約130年かかるとされ、大きな石笥は数十万年かけて成長してきたことになります。自然の神秘的な営みを身近に感じられる貴重な観光スポットと言えるでしょう。 日原鍾乳洞の形成:1cm伸びるのに70~130年! 水滴に含まれる炭酸カルシウムが固まることによって成長する、「鍾乳石」や「石筍」は、その場所の地質構造、洞内気象などの条件によって成長スピードが異なります。 一般的に、天井から垂れる「鍾乳石」は、1cm成長するには数十年~100年、床に固まり積もる「石筍」は100~数百年かかるとされます。何百年、何千年という年月をかけて成長した石筍を見ると、日原鍾乳洞の歴史の長さに驚かされることでしょう。 日原鍾乳洞の見どころ 白衣観音(びゃくいかんのん)並び立つ石筍のなかでも、ひときわ大きい一体。白衣観音を思わせる神々しさが名の由来です。 金剛杖およそ2.5mもの細長い石筍。3万年以上という気の遠くなる年月を経て成長しました。 死出(しで)の山鍾乳洞内のもっとも大きな空間が、レインボーカラーでライトアップされて幻想的。ガマ岩、あみだの原なども見られます。 水琴窟(すいきんくつ)地中に埋めた水を張った瓶に手水鉢の水が滴り落ちることで音を作りだしています。   日原鍾乳洞で見られる地質的特徴 鍾乳石以外にも見どころはたくさんあります。 旧洞内の壁には、何段も残る水平のくぼみが見られますが、これは「ノッチ」と呼ばれ、ここに水流があったことの証。また、特徴的な地質構造である節理(せつり)」や「断層」も随所で見られます。   日原鍾乳洞は古くから信仰の対象でもあった 洞内各所に宗教的な名称がついているのは、ここが江戸時代まで山岳信仰の聖地として栄えた場所であったためです。「一石山大権現(いっせきさんだいごんげん)」と呼ばれ、鍾乳洞そのものを神と崇めて、多くの修験者が訪れたといわれます。 周辺の御岳山や三峰山も古くから山岳信仰の対象となっていることから、日原鍾乳洞の周辺には多くの神社があり、厳かな雰囲気に満ちています。 東京都多摩西部、いわゆる奥多摩は、その大部分が秩父多摩甲斐国立公園、明治の森高尾国定公園に指定された地域です。奥多摩湖や雲取山をはじめ、鳩ノ巣渓谷や秋川渓谷などのダイナミックな渓谷、鍾乳洞、滝も多く、その豊かな自然が人々に愛されています。   『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析!...

【京都府】比叡山・鞍馬山の信仰と大文字山の伝統~京都盆地を取り囲む名山~

【京都府】比叡山・鞍馬山の信仰と大文字山の伝統~京都盆地を取り囲む名山~

千年の都を見守り続けた比叡山や鞍馬山(くらまやま)には、今も多くの自然が残されています。ここでは、そんな名山に伝わる逸話と地形的な特徴を紹介します。 比叡山は延暦寺建立以来の霊山 京都盆地の三方を囲む東山・西山・北山のうち、東山の主峰となるのが比叡山です。 比叡山は、京都市左京区と滋賀県大津市にまたがり、大比叡(848m)と四明岳(839m)の2峰からなります。788年に伝教大師最澄(さいちょう)が延暦寺を建立して以来、霊山として信仰を集めてきました。 延暦寺横川中堂 比叡山の豊かな自然 古くから保護されてきた寺域であるため、自然環境は良好です。山内にはスギやヒノキなどの針葉樹が豊かに生い茂り、多種多様な鳥類も棲息しています。1930年には寺院一帯の約830ha(東京ドーム180個分相当)が「比叡山鳥類繁殖地」として天然記念物に指定され、現在でも山頂付近の沢地ではオオルリやヤブサメなどの野鳥を見ることができます。 鞍馬山は比叡山と並ぶ霊山 比叡山と同じく霊山として崇(あが)められているのが、京都盆地の北に位置する鞍馬山(584m)です。 この山は海底火山の隆起によって約2億5000万年前に誕生したと考えられており、麓には東に鞍馬川、西に貴船川(きふねがわ)が流れています。 鞍馬山の伝説と景観 650万年前に天狗の総帥である護法魔王尊(ごほうまおうそん)が金星から降り立ったという伝説が残り、尊天信仰の中心になったのが鞍馬寺。この鞍馬寺は牛若丸(源義経)が修行をした地としても有名で、770年の開創以来多くの修行僧が鞍馬山を目指し、その信仰は皇族や公家、武家、町民の間にも広がっていきました。 山の中腹にある本殿金堂から奥の院にかけての道は現在もほぼ無舗装で、木の根が地面を這う神秘的な光景が広がっています。これは地盤が固く、木の根が地中深くまで入り込めないために生まれた、鞍馬山の独特の景観です。 鞍馬山仁王門 鞍馬山で発見された生き物 また山に棲息するニシキマイマイやモリアオガエルなどは、鞍馬で最初に発見された生き物とされます。このことからも鞍馬山の自然の豊かさをうかがい知ることができます。 大文字山と「五山の送り火」 左京区の大文字山(如意ヶ嶽・465m)は、京都の伝統行事「五山の送り火」が行われる山として知られます。 この「大」の字は計75の火床で表され、一画目が80m、二画目が160m、三画目が120mとまさに桁違いの“大きさ”です。送り火の由来や起源は不詳ですが、1665年に刊行された『扶桑京華志(ふそうけいかし)』に記述があり、江戸時代前期には行われていたようです。 京都の景観を守る市の政策 また山腹の火床からは京都の町の大パノラマが広がり、その眺望は抜群。京都市の景観政策には「建築物等は大文字山から見下ろすときの景観を阻害してはならない」という文言があります。こうした市の取り組みもあって観光都市・京都は守られ続けているのです。 京都府にある唯一の火山 福知山市と兵庫県朝来市(あさごし)の境にある田倉山(たくらやま)は標高349.7m。きれいな円錐形をしていることから宝山とも呼ばれ、京都府唯一の火山でもあります。 麓に広がる夜久野高原(やくのこうげん)は噴火の際、流れ出た溶岩が冷え固まってできあがった溶岩台地で、玄武岩が基岩となっています。これまでに3回以上の大噴火があったとされ、流れ出した溶岩には「小倉溶岩」「衣摺(きぬずり)溶岩」「田倉山溶岩」の名がつけられています。 国土地理院標準地図を元に作成等高線からも円錐形であることがわかる田倉山。 『京都のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。京都の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【京都府】比叡山・鞍馬山の信仰と大文字山の伝統~京都盆地を取り囲む名山~

千年の都を見守り続けた比叡山や鞍馬山(くらまやま)には、今も多くの自然が残されています。ここでは、そんな名山に伝わる逸話と地形的な特徴を紹介します。 比叡山は延暦寺建立以来の霊山 京都盆地の三方を囲む東山・西山・北山のうち、東山の主峰となるのが比叡山です。 比叡山は、京都市左京区と滋賀県大津市にまたがり、大比叡(848m)と四明岳(839m)の2峰からなります。788年に伝教大師最澄(さいちょう)が延暦寺を建立して以来、霊山として信仰を集めてきました。 延暦寺横川中堂 比叡山の豊かな自然 古くから保護されてきた寺域であるため、自然環境は良好です。山内にはスギやヒノキなどの針葉樹が豊かに生い茂り、多種多様な鳥類も棲息しています。1930年には寺院一帯の約830ha(東京ドーム180個分相当)が「比叡山鳥類繁殖地」として天然記念物に指定され、現在でも山頂付近の沢地ではオオルリやヤブサメなどの野鳥を見ることができます。 鞍馬山は比叡山と並ぶ霊山 比叡山と同じく霊山として崇(あが)められているのが、京都盆地の北に位置する鞍馬山(584m)です。 この山は海底火山の隆起によって約2億5000万年前に誕生したと考えられており、麓には東に鞍馬川、西に貴船川(きふねがわ)が流れています。 鞍馬山の伝説と景観 650万年前に天狗の総帥である護法魔王尊(ごほうまおうそん)が金星から降り立ったという伝説が残り、尊天信仰の中心になったのが鞍馬寺。この鞍馬寺は牛若丸(源義経)が修行をした地としても有名で、770年の開創以来多くの修行僧が鞍馬山を目指し、その信仰は皇族や公家、武家、町民の間にも広がっていきました。 山の中腹にある本殿金堂から奥の院にかけての道は現在もほぼ無舗装で、木の根が地面を這う神秘的な光景が広がっています。これは地盤が固く、木の根が地中深くまで入り込めないために生まれた、鞍馬山の独特の景観です。 鞍馬山仁王門 鞍馬山で発見された生き物 また山に棲息するニシキマイマイやモリアオガエルなどは、鞍馬で最初に発見された生き物とされます。このことからも鞍馬山の自然の豊かさをうかがい知ることができます。 大文字山と「五山の送り火」 左京区の大文字山(如意ヶ嶽・465m)は、京都の伝統行事「五山の送り火」が行われる山として知られます。 この「大」の字は計75の火床で表され、一画目が80m、二画目が160m、三画目が120mとまさに桁違いの“大きさ”です。送り火の由来や起源は不詳ですが、1665年に刊行された『扶桑京華志(ふそうけいかし)』に記述があり、江戸時代前期には行われていたようです。 京都の景観を守る市の政策 また山腹の火床からは京都の町の大パノラマが広がり、その眺望は抜群。京都市の景観政策には「建築物等は大文字山から見下ろすときの景観を阻害してはならない」という文言があります。こうした市の取り組みもあって観光都市・京都は守られ続けているのです。 京都府にある唯一の火山 福知山市と兵庫県朝来市(あさごし)の境にある田倉山(たくらやま)は標高349.7m。きれいな円錐形をしていることから宝山とも呼ばれ、京都府唯一の火山でもあります。 麓に広がる夜久野高原(やくのこうげん)は噴火の際、流れ出た溶岩が冷え固まってできあがった溶岩台地で、玄武岩が基岩となっています。これまでに3回以上の大噴火があったとされ、流れ出した溶岩には「小倉溶岩」「衣摺(きぬずり)溶岩」「田倉山溶岩」の名がつけられています。 国土地理院標準地図を元に作成等高線からも円錐形であることがわかる田倉山。 『京都のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。京都の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【熊本県】阿蘇山噴火が九州形成に関係している?!南北に分断された九州が ひとつになった理由とは?

【熊本県】阿蘇山噴火が九州形成に関係している?!南北に分断された九州が ひとつになった理由とは?

200万年前、九州は地殻変動により分断されます。それを再びひとつにしたのは阿蘇山の巨大噴火だったのでしょうか? 日本列島周辺の4つのプレート 日本列島周辺の地下深くでは、北アメリカプレート、ユーラシアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートがぶつかり合っており、東日本では太平洋プレートが北アメリカプレートの下に、西日本ではユーラシアプレートの下にフィリピン海プレートが沈み込んでいます。   地殻変動で九州が南北に分断! しかし、今から約200万年前、大きな変化がありました。それまでフィリピン海プレートはほぼ真北に向かっていたのですが、東から向かってくる太平洋プレートの勢いに押されて、北西方向に沈み込むようになったのです。 その結果、西南日本を西に引きずる力が生じ、地盤の弱いところに巨大な「横ずれ断層」が生じました。総延長1000㎞にも及ぶ「中央構造線」がそうです。そしてそのとき生じた巨大な断層に海水が流れ込んで、瀬戸内海が形成されました。また、その延長線上に位置する九州の地下では、地球内部からマントルが上昇してきて、フィリピン海プレートを押したため、九州は南北に引き伸ばされ、中央部が陥没・分断されて、ここも海になりました。現在、「別府−島原地溝帯」と呼ばれているところがそうです。   阿蘇山噴火によって二つに分かれた九州今の九州に そのままなら、九州は2つの島になっていたはずでした。しかし、その後、もうひとつのできごとが起きます。上昇してきたマントルによって、マグマをつくるエネルギーが増大し、大量のマグマが地上に噴出して多くの火山が形成され、その火山が噴き出す大量の灰や溶岩によって、海となった部分が埋められ、隆起するとともに陸地となっていったのです。 中でも阿蘇山から流れ出た火砕流の一部は海を越えて天草下島や山口県の秋吉台にまで分布しているほどでした。 阿蘇山の噴火による成長の過程 約27万年前、阿蘇火山が活動を開始し、最初の火砕流が発生。その後、約14万年前と約12万年前にも大噴火が発生 ⇓ 約9万年前の4回目の巨大噴火で大火砕流が発生し、周辺に広大な火砕流台地がつくられた。この噴火で巨大カルデラが形成され、カルデラ内には雨水がたまり、湖を形成。その後、立野火口瀬の形成によって湖が消失。 ⇓ 数千年前までに現在の姿となった。 『熊本のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から熊本県を分析! 熊本県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。熊本の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【熊本県】阿蘇山噴火が九州形成に関係している?!南北に分断された九州が ひとつになった理由とは?

200万年前、九州は地殻変動により分断されます。それを再びひとつにしたのは阿蘇山の巨大噴火だったのでしょうか? 日本列島周辺の4つのプレート 日本列島周辺の地下深くでは、北アメリカプレート、ユーラシアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートがぶつかり合っており、東日本では太平洋プレートが北アメリカプレートの下に、西日本ではユーラシアプレートの下にフィリピン海プレートが沈み込んでいます。   地殻変動で九州が南北に分断! しかし、今から約200万年前、大きな変化がありました。それまでフィリピン海プレートはほぼ真北に向かっていたのですが、東から向かってくる太平洋プレートの勢いに押されて、北西方向に沈み込むようになったのです。 その結果、西南日本を西に引きずる力が生じ、地盤の弱いところに巨大な「横ずれ断層」が生じました。総延長1000㎞にも及ぶ「中央構造線」がそうです。そしてそのとき生じた巨大な断層に海水が流れ込んで、瀬戸内海が形成されました。また、その延長線上に位置する九州の地下では、地球内部からマントルが上昇してきて、フィリピン海プレートを押したため、九州は南北に引き伸ばされ、中央部が陥没・分断されて、ここも海になりました。現在、「別府−島原地溝帯」と呼ばれているところがそうです。   阿蘇山噴火によって二つに分かれた九州今の九州に そのままなら、九州は2つの島になっていたはずでした。しかし、その後、もうひとつのできごとが起きます。上昇してきたマントルによって、マグマをつくるエネルギーが増大し、大量のマグマが地上に噴出して多くの火山が形成され、その火山が噴き出す大量の灰や溶岩によって、海となった部分が埋められ、隆起するとともに陸地となっていったのです。 中でも阿蘇山から流れ出た火砕流の一部は海を越えて天草下島や山口県の秋吉台にまで分布しているほどでした。 阿蘇山の噴火による成長の過程 約27万年前、阿蘇火山が活動を開始し、最初の火砕流が発生。その後、約14万年前と約12万年前にも大噴火が発生 ⇓ 約9万年前の4回目の巨大噴火で大火砕流が発生し、周辺に広大な火砕流台地がつくられた。この噴火で巨大カルデラが形成され、カルデラ内には雨水がたまり、湖を形成。その後、立野火口瀬の形成によって湖が消失。 ⇓ 数千年前までに現在の姿となった。 『熊本のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から熊本県を分析! 熊本県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。熊本の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【山梨県・長野県】八ヶ岳の黒曜石と縄文遺跡~「星降る里」といわれたいにしえの八ヶ岳周辺

【山梨県・長野県】八ヶ岳の黒曜石と縄文遺跡~「星降る里」といわれたいにしえの八ヶ岳周辺

日本の中心に位置する中部高地は、掘り出された黒曜石のかけらが輝く様から、「星降る里」と言い伝えられてきました。そこから伝わる縄文人の思いに迫ってみましょう。 八ヶ岳の黒曜石 山梨県と長野県にまたがる八ヶ岳の山麓、中部高地には、黒曜石(こくようせき)の採掘に関する本州最大の遺跡があります。黒曜石は火山が生み出した天然ガラスで、狩猟採集民族であった縄文の人たちの暮らしには欠かせないものでした。 日本列島で黒曜石が採掘される場所は北海道から九州まで100カ所以上ありますが、八ヶ岳周辺で採れる黒曜石は純度が高く高品質であり、割れ口が鋭く加工しやすかったのです。そのため、矢じりやナイフをはじめとする多彩な石器づくりの材料として広く利用されていました。 八ヶ岳周辺のおもの黒曜石原産地と代表的な遺跡 安道寺遺跡出土品大きな水煙文の把手があり、特別な祭礼に使われたと思われます。 殿林遺跡出土品中部高地の縄文文化を代表する、重要文化財の深鉢形土器。 一の沢遺跡出土品出土品の土器は、大きな中空の把手が特徴的です。 酒呑場遺跡出土品八ヶ岳南麓を代表する大規模な集落遺跡からの出土品。   八ヶ岳の黒曜石からついた星がつく地名 中部高地で黒曜石が出土する場所には「星糞峠(ほしくそとうげ)」「星ヶ塔」「星ヶ台」など、「星」がつく地名がたくさんあります。これは、足元でキラキラ光る黒曜石のかけらを、人々が空から降ってきた星のかけらだと信じたことが由来であるといわれています。 星糞峠の黒曜石鉱山では、ドーナツ形の土手の中央部にクレーター状の窪みがあり、縄文人が黒曜石を掘り出していた痕跡を見ることができます。   八ヶ岳の黒曜石の広域流通 掘り出された黒曜石は、麓の村から村へと運ばれていき、村を結ぶ道は「黒曜石の道」となっていきました。この地で採れた黒曜石は、遠く離れた北海道の遺跡からも見つかっており、良質な黒曜石を求めて遠くの地域から他の縄文人が訪れていたようです。 現在のような運搬手段がなかった時代に、いったいどのように運んでいたのかは謎に包まれていますが、産地限定の黒曜石が大量に、しかも広域に流通していたという事実は、この石がいかにハイブランドで人気が高かったのかを物語っています。 この黒曜石の交易を通して、人や物、情報などがこの山麓に集まった結果、芸術性が高く当時の人々の精神性がよくわかる資料が多く作られたと考えられます。   八ヶ岳周辺の縄文土器の特徴 また、八ヶ岳周辺の縄文遺跡からは黒曜石のほかにも多くの土器や土偶が見つかっています。縄文中期の土器は、華やかさや芸術性の高さが特徴です。土器には水の流れや森の草木、そして人や動物の姿がいきいきと立体的に描かれており、ここでは国内外でも類まれなる土器文化が発達していたといえます。 鋳物師屋前遺跡(いもじやまえいせき)や津金御所前遺跡などの出土品には、母から生まれようとする子どもの顔や歌い踊るような人の姿も描かれており、まるで当時の生活の一部をそのままに伝えているようです。 女性、とりわけ妊婦を表現しているものが多いことも特徴的で、棚畑遺跡から出土した「縄文のヴィーナス」は、縄文時代の遺物として初めて国宝に指定されました。この地が生み出す縄文土器のその特有な文様やデザインには、この地の人々の死生観や精神世界などが、 強くこめられているのかもしれません。 国宝「土偶」(縄文のビーナス) 八ヶ岳山麓の土偶の特徴と造形美を合わせ持ち、当時の精神文化を考えるためにも貴重な学術資料であることから、縄文時代の遺跡から見つかったものの中で初めて国宝に指定されました。   『山梨のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から山梨県を分析! 山梨の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。山梨の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報満載!...

【山梨県・長野県】八ヶ岳の黒曜石と縄文遺跡~「星降る里」といわれたいにしえの八ヶ岳周辺

日本の中心に位置する中部高地は、掘り出された黒曜石のかけらが輝く様から、「星降る里」と言い伝えられてきました。そこから伝わる縄文人の思いに迫ってみましょう。 八ヶ岳の黒曜石 山梨県と長野県にまたがる八ヶ岳の山麓、中部高地には、黒曜石(こくようせき)の採掘に関する本州最大の遺跡があります。黒曜石は火山が生み出した天然ガラスで、狩猟採集民族であった縄文の人たちの暮らしには欠かせないものでした。 日本列島で黒曜石が採掘される場所は北海道から九州まで100カ所以上ありますが、八ヶ岳周辺で採れる黒曜石は純度が高く高品質であり、割れ口が鋭く加工しやすかったのです。そのため、矢じりやナイフをはじめとする多彩な石器づくりの材料として広く利用されていました。 八ヶ岳周辺のおもの黒曜石原産地と代表的な遺跡 安道寺遺跡出土品大きな水煙文の把手があり、特別な祭礼に使われたと思われます。 殿林遺跡出土品中部高地の縄文文化を代表する、重要文化財の深鉢形土器。 一の沢遺跡出土品出土品の土器は、大きな中空の把手が特徴的です。 酒呑場遺跡出土品八ヶ岳南麓を代表する大規模な集落遺跡からの出土品。   八ヶ岳の黒曜石からついた星がつく地名 中部高地で黒曜石が出土する場所には「星糞峠(ほしくそとうげ)」「星ヶ塔」「星ヶ台」など、「星」がつく地名がたくさんあります。これは、足元でキラキラ光る黒曜石のかけらを、人々が空から降ってきた星のかけらだと信じたことが由来であるといわれています。 星糞峠の黒曜石鉱山では、ドーナツ形の土手の中央部にクレーター状の窪みがあり、縄文人が黒曜石を掘り出していた痕跡を見ることができます。   八ヶ岳の黒曜石の広域流通 掘り出された黒曜石は、麓の村から村へと運ばれていき、村を結ぶ道は「黒曜石の道」となっていきました。この地で採れた黒曜石は、遠く離れた北海道の遺跡からも見つかっており、良質な黒曜石を求めて遠くの地域から他の縄文人が訪れていたようです。 現在のような運搬手段がなかった時代に、いったいどのように運んでいたのかは謎に包まれていますが、産地限定の黒曜石が大量に、しかも広域に流通していたという事実は、この石がいかにハイブランドで人気が高かったのかを物語っています。 この黒曜石の交易を通して、人や物、情報などがこの山麓に集まった結果、芸術性が高く当時の人々の精神性がよくわかる資料が多く作られたと考えられます。   八ヶ岳周辺の縄文土器の特徴 また、八ヶ岳周辺の縄文遺跡からは黒曜石のほかにも多くの土器や土偶が見つかっています。縄文中期の土器は、華やかさや芸術性の高さが特徴です。土器には水の流れや森の草木、そして人や動物の姿がいきいきと立体的に描かれており、ここでは国内外でも類まれなる土器文化が発達していたといえます。 鋳物師屋前遺跡(いもじやまえいせき)や津金御所前遺跡などの出土品には、母から生まれようとする子どもの顔や歌い踊るような人の姿も描かれており、まるで当時の生活の一部をそのままに伝えているようです。 女性、とりわけ妊婦を表現しているものが多いことも特徴的で、棚畑遺跡から出土した「縄文のヴィーナス」は、縄文時代の遺物として初めて国宝に指定されました。この地が生み出す縄文土器のその特有な文様やデザインには、この地の人々の死生観や精神世界などが、 強くこめられているのかもしれません。 国宝「土偶」(縄文のビーナス) 八ヶ岳山麓の土偶の特徴と造形美を合わせ持ち、当時の精神文化を考えるためにも貴重な学術資料であることから、縄文時代の遺跡から見つかったものの中で初めて国宝に指定されました。   『山梨のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から山梨県を分析! 山梨の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。山梨の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報満載!...

【石川県】能登半島の地形は左手の親指みたい!?伊能忠敬を苦しめた外浦・内浦

【石川県】能登半島の地形は左手の親指みたい!?伊能忠敬を苦しめた外浦・内浦

日本海に突き出た能登半島は、荒々しい断崖の続く外浦と入り組んだ内浦のそれぞれ複雑な海岸線が特徴。伊能忠敬が測量の際に苦労したといわれます。   能登半島の地形の特徴 地元の人々は、能登の場所を説明する際によく左手の親指を使います。関節を少し曲げると、能登半島の形と似ているからです。日本列島のほぼ真ん中に位置し、海に突き出た形が印象的なので、日本海側の地域としては比較的分かりやすい場所です。 石川県の海岸線の総延長は約583kmで、全国では23位の長さ。加賀の海岸線が直線的である一方、能登の海岸は岩礁や磯が断続的に続いて入り組んでいます。 隆起と沈降活動を繰り返して、陸地と浅海を形成してきた能登半島は、最終的には100万年前の地殻変動で現在の形に至ったといわれます。   能登半島の地形は外浦と内浦で特徴が異なる 能登のなかでもさらに地域は細かく分かれます。最北端の奥能登、能登国府がおかれていた中能登、そして能登の南部にあたる口能登です。半島の最先端である禄剛(ろっこう)崎を境に、西(日本海側)を外浦、東(七尾湾側)を内浦と呼びます。ひと続きの海岸線とはいえ、外浦と内浦とで対照的な表情を見せるのが能登半島周辺の海の特徴です。 能登半島・外浦の地形の特徴   外浦は、海水準変動と地盤隆起の組み合わせにより形成された海岸段丘(階段状の地形)が各所で見られます。日本海に面しているため波浪浸食が著しく、特に冬は季節風の影響で荒波が打ち付けるのです。ゴツゴツとした断崖絶壁や奇岩が多いため、その景観は男性的です。 能登金剛 代表的な断崖は、松本清張の小説を原作とした映画『ゼロの焦点』で脚光を浴びた能登金剛。北朝鮮の金剛山の奇岩が林立する 様子に似ていることから名づけられ、豪快な岩礁美が際立ちます。この一帯は巨岩が海中に突き出ていますが、なかでも「巌門(がんもん)」といわれる場所は特に豪快な景観です。海に突き出た岩盤の中央部分には、幅6m、高さ15m、奥行き60mにわたる巨大な穴がぽっかりとあいています。凝灰岩の岩盤が数千年にわたる波の浸食を受けてできた貫通洞門で、海のすさまじさを物語ります。巌門 ほかにも機具(はたご)岩、ゴジラ岩など、特徴的な形の奇岩や断崖がたくさんあります。機具岩 ゴジラ岩 輪島から北上した位置にある曽々木海岸付近もかつての難所でした。流紋岩からなる断崖と、海食と隆起によってできた奇岩が続きます。トンネルが整備される前は、人々は断崖を伝って往来し、たびたび命を落とす者が出たことから、ついた地名は親不知(おやしらず) です。   能登半島・内浦の地形の特徴 一方、荒々しい外浦とは対照的に季節を問わず穏やかなのが内浦の特徴です。沈降性の入り組んだリアス式海岸が多いため、入り江が自然の防波堤のようになり、七尾湾にも面していることから海は静かで女性的といわれます。 しかし、入り江が多いぶん、海岸線は複雑です。たとえば九十九(つくも)湾は、東西1km、南北1.5kmの小さな湾ですが、その海岸線は13kmにも及びます。屈折が多く、大小の入り江が99を数えるという由来で名付けられました。小木(おぎ)や宇出津(うしつ)、穴水湾から七尾湾にかけてもリアス式海岸が形成されています。 能登半島内浦の地形の原因は珪藻土 内浦の海岸は地下資源に恵まれており、代表的なものが珪藻土(けいそうど)です。特に珠洲市の埋蔵は日本一といわれるほど豊富。珪藻土は多孔質で軽く、断熱性に優れた性質があります。それを活かして珠洲市では珪藻土の七輪やコンロを生み出し、特産品としています。 しかし、この性質のために海岸においては浸食を受けやすく、内浦の海岸地形が変化に富んでいる原因となっています。   能登半島の地形を測量した伊能忠敬 享和3(1803)年、伊能忠敬は石川県の海岸線の測量をおこないました。測量を効率化するため2班に分かれ、長く複雑な能登の海岸線に挑みましたが、それでも測量を終えるまでに1か月ほどを要したとされます。 能登の前には加賀沿岸の測量をおこなっていましたが、加賀藩の人間は伊能忠敬率いる測量隊に非協力的でした。加賀藩の海岸情報が明らかになることを警戒したといわれ、加賀藩に伝わる古文書には「伊能らは隠密のように思える」という記述が残っていることからも警戒心の強さが読み取れます。 このために加賀で神経をすり減らし、能登で体力を使い果たしたことが直接の原因なのかは定かではありませんが、能登を出て富山湾の測量のため越中に着いた途端、持病が悪化したといわれています。...

【石川県】能登半島の地形は左手の親指みたい!?伊能忠敬を苦しめた外浦・内浦

日本海に突き出た能登半島は、荒々しい断崖の続く外浦と入り組んだ内浦のそれぞれ複雑な海岸線が特徴。伊能忠敬が測量の際に苦労したといわれます。   能登半島の地形の特徴 地元の人々は、能登の場所を説明する際によく左手の親指を使います。関節を少し曲げると、能登半島の形と似ているからです。日本列島のほぼ真ん中に位置し、海に突き出た形が印象的なので、日本海側の地域としては比較的分かりやすい場所です。 石川県の海岸線の総延長は約583kmで、全国では23位の長さ。加賀の海岸線が直線的である一方、能登の海岸は岩礁や磯が断続的に続いて入り組んでいます。 隆起と沈降活動を繰り返して、陸地と浅海を形成してきた能登半島は、最終的には100万年前の地殻変動で現在の形に至ったといわれます。   能登半島の地形は外浦と内浦で特徴が異なる 能登のなかでもさらに地域は細かく分かれます。最北端の奥能登、能登国府がおかれていた中能登、そして能登の南部にあたる口能登です。半島の最先端である禄剛(ろっこう)崎を境に、西(日本海側)を外浦、東(七尾湾側)を内浦と呼びます。ひと続きの海岸線とはいえ、外浦と内浦とで対照的な表情を見せるのが能登半島周辺の海の特徴です。 能登半島・外浦の地形の特徴   外浦は、海水準変動と地盤隆起の組み合わせにより形成された海岸段丘(階段状の地形)が各所で見られます。日本海に面しているため波浪浸食が著しく、特に冬は季節風の影響で荒波が打ち付けるのです。ゴツゴツとした断崖絶壁や奇岩が多いため、その景観は男性的です。 能登金剛 代表的な断崖は、松本清張の小説を原作とした映画『ゼロの焦点』で脚光を浴びた能登金剛。北朝鮮の金剛山の奇岩が林立する 様子に似ていることから名づけられ、豪快な岩礁美が際立ちます。この一帯は巨岩が海中に突き出ていますが、なかでも「巌門(がんもん)」といわれる場所は特に豪快な景観です。海に突き出た岩盤の中央部分には、幅6m、高さ15m、奥行き60mにわたる巨大な穴がぽっかりとあいています。凝灰岩の岩盤が数千年にわたる波の浸食を受けてできた貫通洞門で、海のすさまじさを物語ります。巌門 ほかにも機具(はたご)岩、ゴジラ岩など、特徴的な形の奇岩や断崖がたくさんあります。機具岩 ゴジラ岩 輪島から北上した位置にある曽々木海岸付近もかつての難所でした。流紋岩からなる断崖と、海食と隆起によってできた奇岩が続きます。トンネルが整備される前は、人々は断崖を伝って往来し、たびたび命を落とす者が出たことから、ついた地名は親不知(おやしらず) です。   能登半島・内浦の地形の特徴 一方、荒々しい外浦とは対照的に季節を問わず穏やかなのが内浦の特徴です。沈降性の入り組んだリアス式海岸が多いため、入り江が自然の防波堤のようになり、七尾湾にも面していることから海は静かで女性的といわれます。 しかし、入り江が多いぶん、海岸線は複雑です。たとえば九十九(つくも)湾は、東西1km、南北1.5kmの小さな湾ですが、その海岸線は13kmにも及びます。屈折が多く、大小の入り江が99を数えるという由来で名付けられました。小木(おぎ)や宇出津(うしつ)、穴水湾から七尾湾にかけてもリアス式海岸が形成されています。 能登半島内浦の地形の原因は珪藻土 内浦の海岸は地下資源に恵まれており、代表的なものが珪藻土(けいそうど)です。特に珠洲市の埋蔵は日本一といわれるほど豊富。珪藻土は多孔質で軽く、断熱性に優れた性質があります。それを活かして珠洲市では珪藻土の七輪やコンロを生み出し、特産品としています。 しかし、この性質のために海岸においては浸食を受けやすく、内浦の海岸地形が変化に富んでいる原因となっています。   能登半島の地形を測量した伊能忠敬 享和3(1803)年、伊能忠敬は石川県の海岸線の測量をおこないました。測量を効率化するため2班に分かれ、長く複雑な能登の海岸線に挑みましたが、それでも測量を終えるまでに1か月ほどを要したとされます。 能登の前には加賀沿岸の測量をおこなっていましたが、加賀藩の人間は伊能忠敬率いる測量隊に非協力的でした。加賀藩の海岸情報が明らかになることを警戒したといわれ、加賀藩に伝わる古文書には「伊能らは隠密のように思える」という記述が残っていることからも警戒心の強さが読み取れます。 このために加賀で神経をすり減らし、能登で体力を使い果たしたことが直接の原因なのかは定かではありませんが、能登を出て富山湾の測量のため越中に着いた途端、持病が悪化したといわれています。...

【沖縄県】沖縄本土復帰のシンボル 730バスとはどのようなバス?~復帰前日深夜に実施された交通方法変更とは?~

【沖縄県】沖縄本土復帰のシンボル 730バスとはどのようなバス?~復帰前日深夜に実施された交通...

戦後27年間、右側通行だった沖縄の道路は一夜にして左側通行になり、バスも左ハンドルから右ハンドル車に切り替えられました。その際のバスの交代劇を追います。   沖縄の本土復帰前の路線バス事情 沖縄の路線バスは、1917(大正6)年に那覇~名護間を結んだのが始まりで、那覇~首里間などの便も数社が運行していましたが、沖縄戦により施設は破壊され、会社も消滅しました。戦後は米軍政府が運営する公営バスが運行を開始。車両は、米軍払い下げの軍用トラックの改造車でした。公営バスは1950(昭和25)年に民営化されて沖縄バスとなり、同年から相次いでバス会社が設立されました。 最盛期には14社に及びましたが、1974(昭和49)年までに4社に整理されました。終戦によってアメリカの統治下に置かれた沖縄では、クルマがアメリカと同じ右側通行で、バスも左ハンドル車、運賃もドルで支払っていました。1972(昭和47)年の本土復帰にあたり、アメリカ型の生活様式が改められ、クルマも本土と同じ左側通行に戻すことになり、6年後の1978(昭和53)年7月30日午前6時に実施されることになりました。それが、実施日の7月30日にちなんで「730(ナナサンマル)」と呼ばれる交通方法変更事業でした。   沖縄の本土復帰にあたり準備された730バス ここで大きな問題となったのは、左ハンドルのバスの存在でした。左ハンドルの乗用車は、左側通行でも何とか運転はできます。しかしバスは別です。左ハンドルのバスの乗降口は、右側にしかないからです。 沖縄島には左ハンドルのバス(通称「729車」)が当時1207台も在籍しており、全車を短時間で右ハンドル、左側乗降口に改造することは不可能でした。そこで、右ハンドルの新車を944台投入し、164台を右ハンドル、左側乗降口に改造して対処したのでした。この際に大量に導入された右ハンドルのバスのことを「730車」または「730バス」と通称しています。 新車のバスは事業者によりメーカーが異なり、琉球バスが日産ディーゼル工業および日野自動車、沖縄バスが三菱自動車工業、那覇交通(現・那覇バス)がいすゞ自動車、東陽バスが日野自動車で、米軍基地だったキャンプ・ブーン跡地に集結させました。   沖縄の本土復帰前日の深夜に行われた交通方法変更実施 そして7月30日を迎えます。前日の29日午後10時より30日午前6時まで、緊急自動車を除くすべての自動車の通行が禁止され、道路設備の変更がいっせいに行われました。事前に準備されていた標識や路面の車線表示などのカバーが外され、新標識に切り替えられました。バスは29日の運行終了と同時に729車から運賃・両替金などを抜き取り、キャンプ・ブーン跡地に車両を保管。代わって、730バスをパトカーの先導で各営業所へ回送させました。車庫では路線別、ダイヤ別に車両が並べられ、両替金の積み込みなどが行われました。変更時刻の6時になると、バスは無事に各バスターミナルから次々に出発していきました。それは沖縄の本土復帰の象徴的な光景でもありました。   沖縄本土復帰の生き証人730バスの現在 その後、歴史の生き証人でもある730バスは、経年とともに次々と引退していきました。現在は、沖縄バスと東陽バスにそれぞれ1台があるのみです。最後まで残った2台は、沖縄バスが三菱ふそうMP117K 、東陽バスが日野RE101で、どちらも昭和のバスを代表するモノコック構造(フレームとボディーが一体となり強度を増している)のバスで、丸みを帯びたレトロな車体です。どちらも、現在はイベント時や動態維持のための試運転など限られた運行となっており、今後の去就は未定です。沖縄の歴史を語るうえでなくてはならない730バスが末永く保存されることを願うばかりです。   『沖縄のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から沖縄県を分析! 沖縄県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。沖縄の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報を満載!

【沖縄県】沖縄本土復帰のシンボル 730バスとはどのようなバス?~復帰前日深夜に実施された交通...

戦後27年間、右側通行だった沖縄の道路は一夜にして左側通行になり、バスも左ハンドルから右ハンドル車に切り替えられました。その際のバスの交代劇を追います。   沖縄の本土復帰前の路線バス事情 沖縄の路線バスは、1917(大正6)年に那覇~名護間を結んだのが始まりで、那覇~首里間などの便も数社が運行していましたが、沖縄戦により施設は破壊され、会社も消滅しました。戦後は米軍政府が運営する公営バスが運行を開始。車両は、米軍払い下げの軍用トラックの改造車でした。公営バスは1950(昭和25)年に民営化されて沖縄バスとなり、同年から相次いでバス会社が設立されました。 最盛期には14社に及びましたが、1974(昭和49)年までに4社に整理されました。終戦によってアメリカの統治下に置かれた沖縄では、クルマがアメリカと同じ右側通行で、バスも左ハンドル車、運賃もドルで支払っていました。1972(昭和47)年の本土復帰にあたり、アメリカ型の生活様式が改められ、クルマも本土と同じ左側通行に戻すことになり、6年後の1978(昭和53)年7月30日午前6時に実施されることになりました。それが、実施日の7月30日にちなんで「730(ナナサンマル)」と呼ばれる交通方法変更事業でした。   沖縄の本土復帰にあたり準備された730バス ここで大きな問題となったのは、左ハンドルのバスの存在でした。左ハンドルの乗用車は、左側通行でも何とか運転はできます。しかしバスは別です。左ハンドルのバスの乗降口は、右側にしかないからです。 沖縄島には左ハンドルのバス(通称「729車」)が当時1207台も在籍しており、全車を短時間で右ハンドル、左側乗降口に改造することは不可能でした。そこで、右ハンドルの新車を944台投入し、164台を右ハンドル、左側乗降口に改造して対処したのでした。この際に大量に導入された右ハンドルのバスのことを「730車」または「730バス」と通称しています。 新車のバスは事業者によりメーカーが異なり、琉球バスが日産ディーゼル工業および日野自動車、沖縄バスが三菱自動車工業、那覇交通(現・那覇バス)がいすゞ自動車、東陽バスが日野自動車で、米軍基地だったキャンプ・ブーン跡地に集結させました。   沖縄の本土復帰前日の深夜に行われた交通方法変更実施 そして7月30日を迎えます。前日の29日午後10時より30日午前6時まで、緊急自動車を除くすべての自動車の通行が禁止され、道路設備の変更がいっせいに行われました。事前に準備されていた標識や路面の車線表示などのカバーが外され、新標識に切り替えられました。バスは29日の運行終了と同時に729車から運賃・両替金などを抜き取り、キャンプ・ブーン跡地に車両を保管。代わって、730バスをパトカーの先導で各営業所へ回送させました。車庫では路線別、ダイヤ別に車両が並べられ、両替金の積み込みなどが行われました。変更時刻の6時になると、バスは無事に各バスターミナルから次々に出発していきました。それは沖縄の本土復帰の象徴的な光景でもありました。   沖縄本土復帰の生き証人730バスの現在 その後、歴史の生き証人でもある730バスは、経年とともに次々と引退していきました。現在は、沖縄バスと東陽バスにそれぞれ1台があるのみです。最後まで残った2台は、沖縄バスが三菱ふそうMP117K 、東陽バスが日野RE101で、どちらも昭和のバスを代表するモノコック構造(フレームとボディーが一体となり強度を増している)のバスで、丸みを帯びたレトロな車体です。どちらも、現在はイベント時や動態維持のための試運転など限られた運行となっており、今後の去就は未定です。沖縄の歴史を語るうえでなくてはならない730バスが末永く保存されることを願うばかりです。   『沖縄のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から沖縄県を分析! 沖縄県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。沖縄の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報を満載!

【奈良県】藤原京廃都の裏に参考資料のミス!?~日本初の条坊制の都~

【奈良県】藤原京廃都の裏に参考資料のミス!?~日本初の条坊制の都~

2026年7月、「飛鳥・藤原の宮都」として世界遺産に認定された藤原京。日本初の本格的な都城として誕生しながら、わずか16年で幕を閉じたのはなぜでしょうか。 廃都の裏にある意外な真相に迫ります。 藤原京は日本初の本格的な都城! 藤原京は、律令国家を目指す天武天皇とその皇后であるのちの持統天皇によって整備されました。中国の条坊制を採用した日本で初めての本格的な都城です。 持統8(694)年に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)から遷都。大宝律令が制定され従来とは異なる新たな国家体制が整いつつありましたが、わずか16年で幕を閉じ平城京へ都を移すことになりました。 藤原京は中国の歴史書が手本!平城京をしのぐ規模だった その理由は都に住む役人が増えて手狭になったためといわれていましたが、近年の発掘調査により藤原京は平城京をしのぐ規模だったことが分かりました。京域は約5 km四方のほぼ正方形。十条十坊の道が通り、都の中央に藤原宮が置かれているのが大きな特徴です。中国の歴史書『周礼(しゅらい)』に記された理想的な首都を参考にして造られたとされます。 天皇の住まいである内裏をはじめ大極殿や朝堂院などがあった藤原宮跡。季節の花と大和三山が美しい。   藤原京と平城京を比較して分かる遷都の理由 では一体なぜ遷都されることになったのでしょうか。 その契機となったのは、大宝2(702)年、30年以上ぶりに再開した遣唐使による報告でした。中国の理念をもとに造った藤原京は、当時最先端だった唐の長安とは全く異なっていたということが分かったのです。藤原京の造営は遣唐使が中断していた時期と重なり、最新の都城について知ることができませんでした。藤原京と、その後遷都された平城京の構造を比較すると違いが見えてきます。   平城京のモデルは唐の長安!その構造とは 長安をモデルにした平城京は、都の北に平城宮が置かれていました。都を南北に貫く朱雀大路(すざくおおじ)は、長さ約3.8km、幅約74m。平城京のメインストリートであるだけでなく、儀礼を行い朝廷の威信を示す場でもありました。南の羅城門から平城宮の正門である朱雀門まで上りになっており、その先に大極殿がそびえる構造になっていました。 平城京跡の朱雀門   藤原京の構造や立地は難点だらけだった これに対して藤原京の朱雀大路は長さ約500mと短く、道幅は約24mでほかの条坊道とあまり変わらないため、平城京のような役割を担うには不十分と考えられます。 また藤原京は北が低くなっており、中央にある藤原宮は南側の臣下の建物から見下ろされる形になっていて、威厳が損われていたのも大きかったでしょう。低地だったため大内裏に汚水が流れ込むこともあり、衛生状態も良くなかったようです。 このような立地的な欠点も、遷都の理由のひとつとして考えられています。いずれにせよ、これでは難点だらけで朝廷の威信を示すことは難しいでしょう。 遣唐使によって唐の実情を知った朝廷は、真の律令国家にふさわしい高度な都にするために、早々に藤原京を捨てて新しい都を造ろうとしたと推測されます。 藤原京から平城京へは約19km。かつては右図の破線部分が藤原京の全域とされていました。しかし現在は、大和三山を内包し平城京より規模が大きい、いわゆる「大藤原京」説が有力となっています。   藤原京から平城京に遷都された理由は諸説ある 平城京遷都には、藤原不比等(ふじわらのふひと)が権力を掌握するために飛鳥の豪族から離れて、新たな地盤を固めたいという思惑があったという説もあります。遷都の理由は諸説あり、複数の要因が絡み合ってなされたのでしょうが、藤原京を造る手本となった『周礼』という参考資料の存在は、伏線として無視できないと考えられます。 平城京の役人たちの暮らし 大内裏で働く役人の出勤は早く、朝6時半。太鼓の音で朱雀門が開門。朝堂院の各省庁で5時間程度実務をこなし、正午には退勤しました。 給与は位階や官職により異なります。正一位(しょういちい)~正三位の貴族は位田(いでん)と呼ばれる水田や位封(いふう)(農民が納める税など)が与えられ、春と秋には季禄(きろく)として絁(あしぎぬ)や綿も支給されました。一方、六位以下は季禄のみで出勤日数に応じて米や魚などの月料が支給されたといいます。給与が低いと、退勤後に東大寺でアルバイトをする者もいたことが『正倉院文書』に記されています。...

【奈良県】藤原京廃都の裏に参考資料のミス!?~日本初の条坊制の都~

2026年7月、「飛鳥・藤原の宮都」として世界遺産に認定された藤原京。日本初の本格的な都城として誕生しながら、わずか16年で幕を閉じたのはなぜでしょうか。 廃都の裏にある意外な真相に迫ります。 藤原京は日本初の本格的な都城! 藤原京は、律令国家を目指す天武天皇とその皇后であるのちの持統天皇によって整備されました。中国の条坊制を採用した日本で初めての本格的な都城です。 持統8(694)年に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)から遷都。大宝律令が制定され従来とは異なる新たな国家体制が整いつつありましたが、わずか16年で幕を閉じ平城京へ都を移すことになりました。 藤原京は中国の歴史書が手本!平城京をしのぐ規模だった その理由は都に住む役人が増えて手狭になったためといわれていましたが、近年の発掘調査により藤原京は平城京をしのぐ規模だったことが分かりました。京域は約5 km四方のほぼ正方形。十条十坊の道が通り、都の中央に藤原宮が置かれているのが大きな特徴です。中国の歴史書『周礼(しゅらい)』に記された理想的な首都を参考にして造られたとされます。 天皇の住まいである内裏をはじめ大極殿や朝堂院などがあった藤原宮跡。季節の花と大和三山が美しい。   藤原京と平城京を比較して分かる遷都の理由 では一体なぜ遷都されることになったのでしょうか。 その契機となったのは、大宝2(702)年、30年以上ぶりに再開した遣唐使による報告でした。中国の理念をもとに造った藤原京は、当時最先端だった唐の長安とは全く異なっていたということが分かったのです。藤原京の造営は遣唐使が中断していた時期と重なり、最新の都城について知ることができませんでした。藤原京と、その後遷都された平城京の構造を比較すると違いが見えてきます。   平城京のモデルは唐の長安!その構造とは 長安をモデルにした平城京は、都の北に平城宮が置かれていました。都を南北に貫く朱雀大路(すざくおおじ)は、長さ約3.8km、幅約74m。平城京のメインストリートであるだけでなく、儀礼を行い朝廷の威信を示す場でもありました。南の羅城門から平城宮の正門である朱雀門まで上りになっており、その先に大極殿がそびえる構造になっていました。 平城京跡の朱雀門   藤原京の構造や立地は難点だらけだった これに対して藤原京の朱雀大路は長さ約500mと短く、道幅は約24mでほかの条坊道とあまり変わらないため、平城京のような役割を担うには不十分と考えられます。 また藤原京は北が低くなっており、中央にある藤原宮は南側の臣下の建物から見下ろされる形になっていて、威厳が損われていたのも大きかったでしょう。低地だったため大内裏に汚水が流れ込むこともあり、衛生状態も良くなかったようです。 このような立地的な欠点も、遷都の理由のひとつとして考えられています。いずれにせよ、これでは難点だらけで朝廷の威信を示すことは難しいでしょう。 遣唐使によって唐の実情を知った朝廷は、真の律令国家にふさわしい高度な都にするために、早々に藤原京を捨てて新しい都を造ろうとしたと推測されます。 藤原京から平城京へは約19km。かつては右図の破線部分が藤原京の全域とされていました。しかし現在は、大和三山を内包し平城京より規模が大きい、いわゆる「大藤原京」説が有力となっています。   藤原京から平城京に遷都された理由は諸説ある 平城京遷都には、藤原不比等(ふじわらのふひと)が権力を掌握するために飛鳥の豪族から離れて、新たな地盤を固めたいという思惑があったという説もあります。遷都の理由は諸説あり、複数の要因が絡み合ってなされたのでしょうが、藤原京を造る手本となった『周礼』という参考資料の存在は、伏線として無視できないと考えられます。 平城京の役人たちの暮らし 大内裏で働く役人の出勤は早く、朝6時半。太鼓の音で朱雀門が開門。朝堂院の各省庁で5時間程度実務をこなし、正午には退勤しました。 給与は位階や官職により異なります。正一位(しょういちい)~正三位の貴族は位田(いでん)と呼ばれる水田や位封(いふう)(農民が納める税など)が与えられ、春と秋には季禄(きろく)として絁(あしぎぬ)や綿も支給されました。一方、六位以下は季禄のみで出勤日数に応じて米や魚などの月料が支給されたといいます。給与が低いと、退勤後に東大寺でアルバイトをする者もいたことが『正倉院文書』に記されています。...