沖縄の路線バスは、1917(大正6)年に那覇~名護間を結んだのが始まりで、那覇~首里間などの便も数社が運行していましたが、沖縄戦により施設は破壊され、会社も消滅しました。戦後は米軍政府が運営する公営バスが運行を開始。車両は、米軍払い下げの軍用トラックの改造車でした。公営バスは1950(昭和25)年に民営化されて沖縄バスとなり、同年から相次いでバス会社が設立されました。
最盛期には14社に及びましたが、1974(昭和49)年までに4社に整理されました。終戦によってアメリカの統治下に置かれた沖縄では、クルマがアメリカと同じ右側通行で、バスも左ハンドル車、運賃もドルで支払っていました。
1972(昭和47)年の本土復帰にあたり、アメリカ型の生活様式が改められ、クルマも本土と同じ左側通行に戻すことになり、6年後の1978(昭和53)年7月30日午前6時に実施されることになりました。それが、実施日の7月30日にちなんで「730(ナナサンマル)」と呼ばれる交通方法変更事業でした。
沖縄の本土復帰にあたり準備された730バス
ここで大きな問題となったのは、左ハンドルのバスの存在でした。左ハンドルの乗用車は、左側通行でも何とか運転はできます。しかしバスは別です。左ハンドルのバスの乗降口は、右側にしかないからです。
沖縄島には左ハンドルのバス(通称「729車」)が当時1207台も在籍しており、全車を短時間で右ハンドル、左側乗降口に改造することは不可能でした。そこで、右ハンドルの新車を944台投入し、164台を右ハンドル、左側乗降口に改造して対処したのでした。この際に大量に導入された右ハンドルのバスのことを「730車」または「730バス」と通称しています。
新車のバスは事業者によりメーカーが異なり、琉球バスが日産ディーゼル工業および日野自動車、沖縄バスが三菱自動車工業、那覇交通(現・那覇バス)がいすゞ自動車、東陽バスが日野自動車で、米軍基地だったキャンプ・ブーン跡地に集結させました。
沖縄の本土復帰前日の深夜に行われた交通方法変更実施
そして7月30日を迎えます。前日の29日午後10時より30日午前6時まで、緊急自動車を除くすべての自動車の通行が禁止され、道路設備の変更がいっせいに行われました。
事前に準備されていた標識や路面の車線表示などのカバーが外され、新標識に切り替えられました。バスは29日の運行終了と同時に729車から運賃・両替金などを抜き取り、キャンプ・ブーン跡地に車両を保管。代わって、730バスをパトカーの先導で各営業所へ回送させました。
車庫では路線別、ダイヤ別に車両が並べられ、両替金の積み込みなどが行われました。変更時刻の6時になると、バスは無事に各バスターミナルから次々に出発していきました。それは沖縄の本土復帰の象徴的な光景でもありました。
沖縄本土復帰の生き証人730バスの現在
その後、歴史の生き証人でもある730バスは、経年とともに次々と引退していきました。現在は、沖縄バスと東陽バスにそれぞれ1台があるのみです。
最後まで残った2台は、沖縄バスが三菱ふそうMP117K 、東陽バスが日野RE101で、どちらも昭和のバスを代表するモノコック構造(フレームとボディーが一体となり強度を増している)のバスで、丸みを帯びたレトロな車体です。
どちらも、現在はイベント時や動態維持のための試運転など限られた運行となっており、今後の去就は未定です。
沖縄の歴史を語るうえでなくてはならない730バスが末永く保存されることを願うばかりです。
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