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【栃木県】栃木の廃線をたどる~さまざまな目的で生まれ時代とともに消えた~

【栃木県】栃木の廃線をたどる~さまざまな目的で生まれ時代とともに消えた~

明治から昭和にかけて、栃木県内には数多くの民営鉄道が開業しました。しかし、時代とともにその多くは廃線となり、今は鉄道史の記録のなかで静かに眠っています。   栃木の鉄道の歴史 栃木県の鉄道の歴史を見ると、まず国策としての日本鉄道奥州線(現・JR東北本線)が、大宮から白河まで栃木県内を縦断する形で開通し、これに接続する形で、両毛(りょうもう)鉄道(現・JR両毛線)や日光鉄道(現・JR日光線)、水戸鉄道(現・JR水戸線)といった民営の鉄道会社の路線が敷設され、開業しました。これは、たとえば両毛鉄道であれば生糸織物輸送、日光鉄道であれば観光地日光への旅客輸送、水戸線は栃木県と茨城県間の物産輸送と、いずれも地域経済の活性化と産業の振興への切実な期待を受けてのものでした。 人車(じんしゃ)鉄道の急激な普及も、それは同様です。 栃木の鉄道が廃線となる原因 一方で、鉄道の敷設、そして開業後の運営と管理には莫大な資金が必要となり、地域の小規模な経済に負った経営では、長期的な運用は容易ではありません。また、時代の流れとともにその必要性が薄れ、結果として廃線となった路線も少なくありません。 栃木には民営鉄道の廃線が数多く残る 栃木県内には、このように時代とともに消え去った、民営鉄道の廃線が数多く点在しています。文明開化の時代から大正、そして昭和にかけて、地元とともに栄え、そしていつしか衰退していった廃線の数々について、その歴史をたどってみれば、懐かしい栃木のもうひとつの姿が見えてくるかもしれません。 出典:『近代鉄道事情 那須野が原に汽笛が響く』(那須野が原博物館刊)を元に作成   栃木の廃線①:佐野鉄道(葛生(くずう)~佐野~越名河岸(こえなかし)) 葛生で産出される石灰を渡良瀬(わたらせ)川の水運で運ぶために、1889(明治22)年に県内初の馬車鉄道として開業した安蘇(あそ)馬車鉄道。葛生から佐野を経て、越名河岸までを結ぶ約15.3㎞の路線は、その後、佐野鉄道と改称し、1894(明治27)年からは軽便鉄道として蒸気機関車の運行を開始します。1912(明治45)年、館林と日光を結ぶ計画を立てていた東武鉄道と合併。1915(大正4)年には、運輸量の激減により佐野~越名が廃線となりました。   栃木の廃線②:日光軌道(馬返(うまがえし)~日光) 栃木県初の電気鉄道として1910(明治43)年に開通。足尾銅山および日光清滝(きよたき)の精銅所と日光駅を結ぶために造られました。まず日光~岩の鼻が完成し、1913(大正2)年には馬返まで延伸します。しかし、同じ年に桐生(きりゅう)と足尾(あしお)を結ぶ足尾鉄道が国の鉄道院に引き渡されて足尾線となり、銅山関連の貨物のほとんどは足尾線利用となります。その後、日光登山鉄道と合併し、1947(昭和22)年には東武鉄道と合併。1968(昭和43)年に廃線となりました。   栃木の廃線③:塩原電車(西那須野~塩原口) 当初、東北本線の西那須野と温泉地・塩原を結ぶ電気軌道として計画されましたが、工事を急ぐために蒸気機関に変更。1912(明治45)年に塩原軌道として西那須野~関谷が開業しました。1921(大正10)年には電化されて塩原電車と社名を変更します。翌年には、塩原温泉郷の入り口である塩原口まで延伸されました。その後、塩原温泉までの路線延長も計画されますが、資金難や不況、自動車の普及により1936(昭和11)年に廃線となりました。   栃木の廃線④:赤見鉄道(出流原(いずるはら)~富田) 出流原で産出する石灰の輸送のために、当初は人車鉄道として計画されました。1915(大正4)年、出流原~富田の約6.3㎞をおよそ28分で結ぶ赤見軽便鉄道として開業。1922(大正11)年には赤見鉄道と名前を改め、翌年には貨物専用路線として、出流原からさらに1.1㎞先の彦間(ひこま)川まで延伸します。その後、輸送量の減少などで営業不振となり、1927(昭和2)年に廃線となりました。   栃木の廃線⑤:東野(とうや)鉄道(西那須野~那須小川) 1918(大正7)年に、まず東北本線と接続する 西那須野~黒羽(くろばね)が開業。次いで1924(大正13)年に黒羽~那須小川が開業しました。この路線の延伸には、茨城県の大子(だいご)まで路線を伸ばし、八溝(やみぞ)山系の林産物の需要を高めるという目的がありました。しかし、昭和初期の世界恐慌で、その延伸計画は中止となります。このため、黒羽~那須小川は開業からわずか15年で廃止となり、西那須野~黒羽も1968(昭和43)年に廃線となりました。   栃木の廃線⑥:日光登山鉄道(馬返~明智平(あけちだいら)) 日光を代表する景勝地のひとつである明智平へのアクセスのために、1932(昭和7)年にケーブルカーの路線として開業。翌年には明智平展望台行きのロープウェイも完成し、日光駅から路面電車(日光軌道線)、ケーブルカー、ロープウェイを乗り継いで明智平展望台まで行けるようになりました。しかし戦後、自動車の普及で経営が悪化、1970(昭和45)年にケーブルカーは廃止されました。...

【栃木県】栃木の廃線をたどる~さまざまな目的で生まれ時代とともに消えた~

明治から昭和にかけて、栃木県内には数多くの民営鉄道が開業しました。しかし、時代とともにその多くは廃線となり、今は鉄道史の記録のなかで静かに眠っています。   栃木の鉄道の歴史 栃木県の鉄道の歴史を見ると、まず国策としての日本鉄道奥州線(現・JR東北本線)が、大宮から白河まで栃木県内を縦断する形で開通し、これに接続する形で、両毛(りょうもう)鉄道(現・JR両毛線)や日光鉄道(現・JR日光線)、水戸鉄道(現・JR水戸線)といった民営の鉄道会社の路線が敷設され、開業しました。これは、たとえば両毛鉄道であれば生糸織物輸送、日光鉄道であれば観光地日光への旅客輸送、水戸線は栃木県と茨城県間の物産輸送と、いずれも地域経済の活性化と産業の振興への切実な期待を受けてのものでした。 人車(じんしゃ)鉄道の急激な普及も、それは同様です。 栃木の鉄道が廃線となる原因 一方で、鉄道の敷設、そして開業後の運営と管理には莫大な資金が必要となり、地域の小規模な経済に負った経営では、長期的な運用は容易ではありません。また、時代の流れとともにその必要性が薄れ、結果として廃線となった路線も少なくありません。 栃木には民営鉄道の廃線が数多く残る 栃木県内には、このように時代とともに消え去った、民営鉄道の廃線が数多く点在しています。文明開化の時代から大正、そして昭和にかけて、地元とともに栄え、そしていつしか衰退していった廃線の数々について、その歴史をたどってみれば、懐かしい栃木のもうひとつの姿が見えてくるかもしれません。 出典:『近代鉄道事情 那須野が原に汽笛が響く』(那須野が原博物館刊)を元に作成   栃木の廃線①:佐野鉄道(葛生(くずう)~佐野~越名河岸(こえなかし)) 葛生で産出される石灰を渡良瀬(わたらせ)川の水運で運ぶために、1889(明治22)年に県内初の馬車鉄道として開業した安蘇(あそ)馬車鉄道。葛生から佐野を経て、越名河岸までを結ぶ約15.3㎞の路線は、その後、佐野鉄道と改称し、1894(明治27)年からは軽便鉄道として蒸気機関車の運行を開始します。1912(明治45)年、館林と日光を結ぶ計画を立てていた東武鉄道と合併。1915(大正4)年には、運輸量の激減により佐野~越名が廃線となりました。   栃木の廃線②:日光軌道(馬返(うまがえし)~日光) 栃木県初の電気鉄道として1910(明治43)年に開通。足尾銅山および日光清滝(きよたき)の精銅所と日光駅を結ぶために造られました。まず日光~岩の鼻が完成し、1913(大正2)年には馬返まで延伸します。しかし、同じ年に桐生(きりゅう)と足尾(あしお)を結ぶ足尾鉄道が国の鉄道院に引き渡されて足尾線となり、銅山関連の貨物のほとんどは足尾線利用となります。その後、日光登山鉄道と合併し、1947(昭和22)年には東武鉄道と合併。1968(昭和43)年に廃線となりました。   栃木の廃線③:塩原電車(西那須野~塩原口) 当初、東北本線の西那須野と温泉地・塩原を結ぶ電気軌道として計画されましたが、工事を急ぐために蒸気機関に変更。1912(明治45)年に塩原軌道として西那須野~関谷が開業しました。1921(大正10)年には電化されて塩原電車と社名を変更します。翌年には、塩原温泉郷の入り口である塩原口まで延伸されました。その後、塩原温泉までの路線延長も計画されますが、資金難や不況、自動車の普及により1936(昭和11)年に廃線となりました。   栃木の廃線④:赤見鉄道(出流原(いずるはら)~富田) 出流原で産出する石灰の輸送のために、当初は人車鉄道として計画されました。1915(大正4)年、出流原~富田の約6.3㎞をおよそ28分で結ぶ赤見軽便鉄道として開業。1922(大正11)年には赤見鉄道と名前を改め、翌年には貨物専用路線として、出流原からさらに1.1㎞先の彦間(ひこま)川まで延伸します。その後、輸送量の減少などで営業不振となり、1927(昭和2)年に廃線となりました。   栃木の廃線⑤:東野(とうや)鉄道(西那須野~那須小川) 1918(大正7)年に、まず東北本線と接続する 西那須野~黒羽(くろばね)が開業。次いで1924(大正13)年に黒羽~那須小川が開業しました。この路線の延伸には、茨城県の大子(だいご)まで路線を伸ばし、八溝(やみぞ)山系の林産物の需要を高めるという目的がありました。しかし、昭和初期の世界恐慌で、その延伸計画は中止となります。このため、黒羽~那須小川は開業からわずか15年で廃止となり、西那須野~黒羽も1968(昭和43)年に廃線となりました。   栃木の廃線⑥:日光登山鉄道(馬返~明智平(あけちだいら)) 日光を代表する景勝地のひとつである明智平へのアクセスのために、1932(昭和7)年にケーブルカーの路線として開業。翌年には明智平展望台行きのロープウェイも完成し、日光駅から路面電車(日光軌道線)、ケーブルカー、ロープウェイを乗り継いで明智平展望台まで行けるようになりました。しかし戦後、自動車の普及で経営が悪化、1970(昭和45)年にケーブルカーは廃止されました。...

【群馬県】浅間山の大噴火が天明の大飢饉の一因!?溶岩の絶景の裏には歴史的犠牲があった

【群馬県】浅間山の大噴火が天明の大飢饉の一因!?溶岩の絶景の裏には歴史的犠牲があった

浅間山と溶岩が織りなす雄壮な風景が広がる嬬恋村。しかし、この絶景をつくった天明の大噴火は、土石流だけでなく大飢饉につながる気候不順も起こしていました。   浅間山の大噴火とその被害 上毛かるたにも詠まれている浅間山は、群馬と長野の県境にそびえる標高2568mの活火山。 幾度となく噴火を繰り返している山ですが、そのうち最も時代が新しい大規模な噴火が天明3(1783)年の大噴火です。その勢いはすさまじく、火口から勢いよく火炎を吹き上げ、猛火が山を焼きました。当時の地元の人たちは、「突然鬼が暴れて、真っ赤な舌を出して襲ってきた」と表現しており、驚愕の光景が目に浮かびます。 このとき流れ出た大量の土砂は猛スピードで広がり、火口から約12km離れた鎌原(かんばら)村(現・嬬恋村)では高台にあった観音堂に逃げ込んだ人は助かりましたが、逃げ遅れた多くの村人が命を落としました。これは村の人口570人のうち、477人が土石流の犠牲になるという壊滅的な被害でした。後に噴火遺跡の発掘現場から発見された遺体からも、当時の脅威がうかがえます。 日本のポンペイと呼ばれる鎌原地区 ちなみに、イタリアにも火山災害により埋没した、有名な古代都市のポンペイ遺跡がありますが、同様に火山災害で埋もれた村が遺跡として残る鎌原地区は「日本のポンペイ」と称されることも多くなっています。 その後も鎌原村を襲った土砂は泥流となって50以上の村を次々と飲み込み、1500人以上の尊い命を奪いました。 浅間山大噴火の火山灰による被害 噴火による火山灰も、大きな被害を及ぼしました。降灰(こうかい)は強風に乗って、江戸を含む関東一円のほか、東北地方まで広範囲に及びました。とくに降灰のひどかった群馬県東南部一帯は、農作物に大きな打撃を受けたといいます。 内閣府『報告書(1783 天明浅間山噴火)』を元に作成 天明3(1783)年の新暦5月9日に噴火が始まり、7月17日には北方向に軽石が降下。7月27~29日には火口から北東20km地点での軽石の降下が確認されているほか、300km以上離れた東北地方でも火山灰の降下記録が残っています。 8月2日夜以降の噴火がとくに激しく、8月5日朝方まで続きました。土石流は吾妻川に注ぎ込み、泥流となって利根川を流下し、銚子や江戸にまで被害を及ぼしました。   浅間山の大噴火が引き起こした天明の大飢饉 当時は地球規模の寒冷化による冷害が起きていたと考えられており、そんななかでの浅間山の噴火は気候不順に拍車をかけました。なかでも東北地方の被害が大きく、農作物の収穫が激減したことにより、多くの人々が飢えて命を落としました。これが歴史的な「天明の大飢饉」です。飢饉は噴火の翌年になっても続き、農民たちは飢えと貧困の苦しい生活に不安を募らせました。   浅間山の大噴火が生み出した絶景観光スポット「鬼押出し」 しかし、こうして猛威をふるった火山も、現代に奇景を残してくれました。最後に流出した鬼押出し溶岩は、現在「鬼押出し園」として整備され、人気の観光スポットに。かつてはジョン・レノン夫妻が訪れたこともあり、そのときの記念写真がきっかけで、鬼押出しは世界にも広く知られるようになりました。園路の両側には奇岩が広がり、なかには「ゴリラ岩」「カエル岩」「サザエさん岩」などのユニークな名前が付けられたものも。大自然のパワーによって生み出された、力強い奇岩の台地は圧巻です。 鬼押出し園では、浅間山を背景に芸術的な奇岩が見られます。   浅間山の大噴火だけではない!榛名山での噴火の被害も大きかった! 渋川市には、古墳時代に2回起きた榛名山の噴火で埋没した遺跡が複数残っています。それぞれの噴火では、火山灰や軽石などの火山噴出物が当時のムラを密封。6世紀初めの噴火により埋没した「金井東裏遺跡(かないひがしうらいせき)」では甲(よろい)を着た古墳人が、隣の「金井下新田遺跡(かないしもしんでんいせき)」からも古墳人や馬が発見されました。 6世紀中頃の噴火により埋没した「黒井峯遺跡(くろいみねいせき)」からは、高床式建物などのさまざまな建物が発見されています。   『群馬のトリセツ』好評発売中! 群馬県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。群馬県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【群馬県】浅間山の大噴火が天明の大飢饉の一因!?溶岩の絶景の裏には歴史的犠牲があった

浅間山と溶岩が織りなす雄壮な風景が広がる嬬恋村。しかし、この絶景をつくった天明の大噴火は、土石流だけでなく大飢饉につながる気候不順も起こしていました。   浅間山の大噴火とその被害 上毛かるたにも詠まれている浅間山は、群馬と長野の県境にそびえる標高2568mの活火山。 幾度となく噴火を繰り返している山ですが、そのうち最も時代が新しい大規模な噴火が天明3(1783)年の大噴火です。その勢いはすさまじく、火口から勢いよく火炎を吹き上げ、猛火が山を焼きました。当時の地元の人たちは、「突然鬼が暴れて、真っ赤な舌を出して襲ってきた」と表現しており、驚愕の光景が目に浮かびます。 このとき流れ出た大量の土砂は猛スピードで広がり、火口から約12km離れた鎌原(かんばら)村(現・嬬恋村)では高台にあった観音堂に逃げ込んだ人は助かりましたが、逃げ遅れた多くの村人が命を落としました。これは村の人口570人のうち、477人が土石流の犠牲になるという壊滅的な被害でした。後に噴火遺跡の発掘現場から発見された遺体からも、当時の脅威がうかがえます。 日本のポンペイと呼ばれる鎌原地区 ちなみに、イタリアにも火山災害により埋没した、有名な古代都市のポンペイ遺跡がありますが、同様に火山災害で埋もれた村が遺跡として残る鎌原地区は「日本のポンペイ」と称されることも多くなっています。 その後も鎌原村を襲った土砂は泥流となって50以上の村を次々と飲み込み、1500人以上の尊い命を奪いました。 浅間山大噴火の火山灰による被害 噴火による火山灰も、大きな被害を及ぼしました。降灰(こうかい)は強風に乗って、江戸を含む関東一円のほか、東北地方まで広範囲に及びました。とくに降灰のひどかった群馬県東南部一帯は、農作物に大きな打撃を受けたといいます。 内閣府『報告書(1783 天明浅間山噴火)』を元に作成 天明3(1783)年の新暦5月9日に噴火が始まり、7月17日には北方向に軽石が降下。7月27~29日には火口から北東20km地点での軽石の降下が確認されているほか、300km以上離れた東北地方でも火山灰の降下記録が残っています。 8月2日夜以降の噴火がとくに激しく、8月5日朝方まで続きました。土石流は吾妻川に注ぎ込み、泥流となって利根川を流下し、銚子や江戸にまで被害を及ぼしました。   浅間山の大噴火が引き起こした天明の大飢饉 当時は地球規模の寒冷化による冷害が起きていたと考えられており、そんななかでの浅間山の噴火は気候不順に拍車をかけました。なかでも東北地方の被害が大きく、農作物の収穫が激減したことにより、多くの人々が飢えて命を落としました。これが歴史的な「天明の大飢饉」です。飢饉は噴火の翌年になっても続き、農民たちは飢えと貧困の苦しい生活に不安を募らせました。   浅間山の大噴火が生み出した絶景観光スポット「鬼押出し」 しかし、こうして猛威をふるった火山も、現代に奇景を残してくれました。最後に流出した鬼押出し溶岩は、現在「鬼押出し園」として整備され、人気の観光スポットに。かつてはジョン・レノン夫妻が訪れたこともあり、そのときの記念写真がきっかけで、鬼押出しは世界にも広く知られるようになりました。園路の両側には奇岩が広がり、なかには「ゴリラ岩」「カエル岩」「サザエさん岩」などのユニークな名前が付けられたものも。大自然のパワーによって生み出された、力強い奇岩の台地は圧巻です。 鬼押出し園では、浅間山を背景に芸術的な奇岩が見られます。   浅間山の大噴火だけではない!榛名山での噴火の被害も大きかった! 渋川市には、古墳時代に2回起きた榛名山の噴火で埋没した遺跡が複数残っています。それぞれの噴火では、火山灰や軽石などの火山噴出物が当時のムラを密封。6世紀初めの噴火により埋没した「金井東裏遺跡(かないひがしうらいせき)」では甲(よろい)を着た古墳人が、隣の「金井下新田遺跡(かないしもしんでんいせき)」からも古墳人や馬が発見されました。 6世紀中頃の噴火により埋没した「黒井峯遺跡(くろいみねいせき)」からは、高床式建物などのさまざまな建物が発見されています。   『群馬のトリセツ』好評発売中! 群馬県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。群馬県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【東京都】五街道の起点となった日本橋~江戸時代から続く日本の中心地~

【東京都】五街道の起点となった日本橋~江戸時代から続く日本の中心地~

徳川幕府は江戸から全国を支配するため、五街道の整備に取り組みました。それらの起点として定められたのが、江戸の町の中央に近い日本橋でした。   五街道のルーツから見える日本の歴史の勢力図 古代から村や都市の発展には、道が大きな役割を果たしていました。日本において各地をつなぐ道がはっきりとした路線として現れるのは、大化の改新(646年)がきっかけです。 駅馬制・伝馬制が施行されたことをきっかけに、京から常陸の国府に至る東海道、九州の大宰府に至る山陽道などの諸道が対外的な重要路線として定められました。いわゆる「五畿七道(ごきしちどう)」(律令時代の行政区画)であり、七道には上記のほかに、東山道、北陸道、山陰道、南海道、西海道がありました。当時の諸道は、それに属する国々を統括した呼び名でありましたが、意外なことに「東海道」には武蔵国(現在の東京が含まれる)が入っていませんでした。 律令時代の重要ルート五畿七道が東京を含む武蔵国をスルーした理由 それは、現在の東京周辺から利根川にかけての一帯が低湿地帯であったため、当時は東京湾を船で渡るのが通常のルートであり、武蔵国を経由しなかったからでした。 その後、この湿地が干拓されて陸路を行く人が増え始め、宝亀(ほうき)2(771)年には武蔵国も東海道に含まれるようになりました。 関東に通じる道路網の整備が進み鎌倉街道を形成 鎌倉時代になると、幕府が置かれた鎌倉を中心として放射状に道が整備されていき、鎌倉と各地を結ぶ鎌倉街道がつくられました。東京を通る鎌倉街道の主要な幹線道は、西から順に「上ノ道」、「中ノ道」、「下ノ道」と呼ばれ、それぞれ、信濃(しなの)・上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、常陸(ひたち)・下総(しもうさ)と鎌倉とを結んでいましたが、現在東京に残されている古道は多くありません。この時期以降、鎌倉と京を結ぶ東海道の地位は格段に高まり、駅・宿も新設され、鎌倉繁栄の一助となりました。 鎌倉幕府滅亡後の関東主要ルートの変遷 鎌倉幕府が滅亡すると、政治的な意味での東海道の地位は低下しました。また、室町・戦国時代を通じて強大な政権が現れなかったため、全国的な道路網の整備などは行われませんでした。しかし、地方経済が徐々に発達していき、それに伴って領域内の各地をつなぐ道も発達していきました。 戦国時代には、北条・今川など東国の大名が領国内で伝馬制を実施し、軍用道の整備を進めていきました。このとき伝馬が置かれた宿駅は経済的にも繁栄していきますが、江戸時代に発展する宿駅の多くもこの時代に生まれています。   五街道の整備は徳川家康の治世になり急速に進展 天正18(1590)年、北条氏を倒した豊臣秀吉の命により関東に移封された徳川家康は、江戸城を中心とした所領を急速に開発していきました。 さらに、関ヶ原の戦いに勝利して天下人となった家康は、慶長6(1601)年には東海道に宿駅を設けて江戸~京都に伝馬制をしき、江戸と各地を結ぶ「五街道」(東海道、甲州道中、奥州道中、日光道中、中山道)の整備に着手しました。以後、一里塚を築き、並木を植え、標準幅員を決め、砂利などで路面を固めるなど、幕府直轄のもとに街道整備が進められました。 こうして江戸と各地を結ぶ交通網が整備されるとともに、江戸には全国の大名や家臣団、商人・職人が集まり、日本の政治・文化の中心地として発展していきました。   五街道の起点が日本橋に定められたのは江戸幕府開府以降 江戸幕府開府と同時に完成した日本橋が五街道の起点に定められたのは慶長9(1604)年のこと。江戸幕府の地誌書『御府内備考』には、「この橋、江戸の中央にして、諸国の行程もここより定められるゆえ、日本橋の名ありといふ」と記述され、幕府が日本橋を起点に五街道を発達させようとしていたことがうかがえます。実際、江戸から各地へ旅立つ者、地方から江戸を訪れた者などで周辺はにぎわいをみせ、大きな商店が軒を連ねて、日本経済の中心地として発展していきました。 現在は首都高速道路の高架下にある日本橋ですが、ここは現在でも全国の道路網の起点であり、その証として「日本国道路元標」が埋め込まれています。  江戸と各地を結ぶ街道の整備が始まったのは慶長6(1601)年。3年後に日本橋が五街道の起点と定められました。 整備されたのは、東海道(現在の国道1号)、日光街道(国道4・119号)、奥州街道(国道4号)、中山道(国道17・18・19・20・21・142・8号)、甲州街道(国道20号)の順。   『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。東京の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!  

【東京都】五街道の起点となった日本橋~江戸時代から続く日本の中心地~

徳川幕府は江戸から全国を支配するため、五街道の整備に取り組みました。それらの起点として定められたのが、江戸の町の中央に近い日本橋でした。   五街道のルーツから見える日本の歴史の勢力図 古代から村や都市の発展には、道が大きな役割を果たしていました。日本において各地をつなぐ道がはっきりとした路線として現れるのは、大化の改新(646年)がきっかけです。 駅馬制・伝馬制が施行されたことをきっかけに、京から常陸の国府に至る東海道、九州の大宰府に至る山陽道などの諸道が対外的な重要路線として定められました。いわゆる「五畿七道(ごきしちどう)」(律令時代の行政区画)であり、七道には上記のほかに、東山道、北陸道、山陰道、南海道、西海道がありました。当時の諸道は、それに属する国々を統括した呼び名でありましたが、意外なことに「東海道」には武蔵国(現在の東京が含まれる)が入っていませんでした。 律令時代の重要ルート五畿七道が東京を含む武蔵国をスルーした理由 それは、現在の東京周辺から利根川にかけての一帯が低湿地帯であったため、当時は東京湾を船で渡るのが通常のルートであり、武蔵国を経由しなかったからでした。 その後、この湿地が干拓されて陸路を行く人が増え始め、宝亀(ほうき)2(771)年には武蔵国も東海道に含まれるようになりました。 関東に通じる道路網の整備が進み鎌倉街道を形成 鎌倉時代になると、幕府が置かれた鎌倉を中心として放射状に道が整備されていき、鎌倉と各地を結ぶ鎌倉街道がつくられました。東京を通る鎌倉街道の主要な幹線道は、西から順に「上ノ道」、「中ノ道」、「下ノ道」と呼ばれ、それぞれ、信濃(しなの)・上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、常陸(ひたち)・下総(しもうさ)と鎌倉とを結んでいましたが、現在東京に残されている古道は多くありません。この時期以降、鎌倉と京を結ぶ東海道の地位は格段に高まり、駅・宿も新設され、鎌倉繁栄の一助となりました。 鎌倉幕府滅亡後の関東主要ルートの変遷 鎌倉幕府が滅亡すると、政治的な意味での東海道の地位は低下しました。また、室町・戦国時代を通じて強大な政権が現れなかったため、全国的な道路網の整備などは行われませんでした。しかし、地方経済が徐々に発達していき、それに伴って領域内の各地をつなぐ道も発達していきました。 戦国時代には、北条・今川など東国の大名が領国内で伝馬制を実施し、軍用道の整備を進めていきました。このとき伝馬が置かれた宿駅は経済的にも繁栄していきますが、江戸時代に発展する宿駅の多くもこの時代に生まれています。   五街道の整備は徳川家康の治世になり急速に進展 天正18(1590)年、北条氏を倒した豊臣秀吉の命により関東に移封された徳川家康は、江戸城を中心とした所領を急速に開発していきました。 さらに、関ヶ原の戦いに勝利して天下人となった家康は、慶長6(1601)年には東海道に宿駅を設けて江戸~京都に伝馬制をしき、江戸と各地を結ぶ「五街道」(東海道、甲州道中、奥州道中、日光道中、中山道)の整備に着手しました。以後、一里塚を築き、並木を植え、標準幅員を決め、砂利などで路面を固めるなど、幕府直轄のもとに街道整備が進められました。 こうして江戸と各地を結ぶ交通網が整備されるとともに、江戸には全国の大名や家臣団、商人・職人が集まり、日本の政治・文化の中心地として発展していきました。   五街道の起点が日本橋に定められたのは江戸幕府開府以降 江戸幕府開府と同時に完成した日本橋が五街道の起点に定められたのは慶長9(1604)年のこと。江戸幕府の地誌書『御府内備考』には、「この橋、江戸の中央にして、諸国の行程もここより定められるゆえ、日本橋の名ありといふ」と記述され、幕府が日本橋を起点に五街道を発達させようとしていたことがうかがえます。実際、江戸から各地へ旅立つ者、地方から江戸を訪れた者などで周辺はにぎわいをみせ、大きな商店が軒を連ねて、日本経済の中心地として発展していきました。 現在は首都高速道路の高架下にある日本橋ですが、ここは現在でも全国の道路網の起点であり、その証として「日本国道路元標」が埋め込まれています。  江戸と各地を結ぶ街道の整備が始まったのは慶長6(1601)年。3年後に日本橋が五街道の起点と定められました。 整備されたのは、東海道(現在の国道1号)、日光街道(国道4・119号)、奥州街道(国道4号)、中山道(国道17・18・19・20・21・142・8号)、甲州街道(国道20号)の順。   『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。東京の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!  

【大阪府】大阪城の歴史とスケールを紐解く!~天守を2回リニューアルした天下の名城~

【大阪府】大阪城の歴史とスケールを紐解く!~天守を2回リニューアルした天下の名城~

日本を代表する城郭建築にして大阪のシンボル大阪城。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目度がさらに高まっています。 天守は3代目ですが、壮大な石垣や堀は徳川幕府が築いたもの。見どころは巨石を用いた石垣です。   【大阪城の歴史】天守は現在3代目 現在の大阪城天守は、「昭和の天守閣復興」により1931年11月に完成したもので、豊臣秀吉が築いた初代から数えて3代目にあたります。2代目は徳川時代の大坂城です。   【大阪城の歴史】初代天守は豊臣秀吉が築いた 本能寺の変の翌年、大坂に入った秀吉は、浄土真宗の本山として栄えた石山本願寺の跡地に築城を開始し、城下町の建設に着手しました。そのわずか2年後の1585年に初代天守が完成しました。 秀吉が天守の建設を急いだのは、当時はまだまだ政権が不安定だったので、できるだけ早く権力を象徴するシンボルが欲しかったからです。 大阪城初代天守のスケールの大きさ 天守の規模は5層6階。石垣内にも2階分あるので計8階建てだったと考えられています。 信長の居城・安土城をしのぐスケールでした。しかも富と権力を誇示するために、天守に金箔押し瓦が多く用いられたというから驚きです。 大阪城初代天守の優美な装飾の数々 最上階には、城下町を見下ろせる望楼が設けられ、外壁には高欄付きの縁がめぐらされていました。その外壁には、金の桐紋や鷺の絵が描かれていたというので、ずいぶん優美で装飾性の高い天守だったことがわかります。天守の壁は黒漆で塗られ、秀吉に臣従する諸大名も居城の色をこれに合わせたといいます。   【大阪城の歴史】築城と落城 天守を含む築城工事は15年にもおよびました。四重の堀に囲まれた巨城のもっとも外側を守る総構えは、北は旧淀川、東は旧猫間川、南は現在の空堀通りの南側、西は東横堀川を範囲としたと考えられています。これらを含む城郭の面積は推定420万㎡。それは現在の大阪城公園の4倍の広さに相当します。 秀吉の死後、関ケ原の戦いを経て、徳川家康が1603年に征夷大将軍に就き、江戸を本拠地とする政治を開始。大坂城は1615年の大坂夏の陣で落城し、豊臣家は滅びました。   【大阪城の歴史】再建に着手した徳川秀忠 江戸幕府は大坂を直轄地としました。2代将軍徳川秀忠は西日本の諸大名ににらみをきかせる軍事拠点とするため、1620年に大坂城の再建に取りかかりました。 大阪城の石垣に残る外様大名家紋の刻印 天守の建設は幕府の直営で行われ、石垣の構築と堀の掘削の普請は西国と北陸の外様大名64家が担いました。 大名には工事担当区域「丁場」が割り当てられ、分担する石垣の長さは石高に応じて決められました。そのため徳川の大坂城の石垣には、大名が自分の担当丁場を誇示するかのように家紋などが刻印されています。   大阪城の石垣に使われた巨石 大坂城は築城技術の完成期に再築されたため、石垣には洗練された技術が見られます。 石垣には硬質の花崗岩が用いられました。幅 10mを超える巨石が使われたことも2代目の大坂城の特徴です。巨石は後年、「蛸石」や「肥後石」のように名前がつけられました。 巨石の多くは瀬戸内海の島々から舟で大坂まで運ばれました。廃城となった伏見城や加茂 (現・京都府木津川市)、六甲山で切り出され、川で大坂まで運ばれたものもありました。陸上では「修羅」と呼ばれる木製のソリによって石曳きされたと考えられています。...

【大阪府】大阪城の歴史とスケールを紐解く!~天守を2回リニューアルした天下の名城~

日本を代表する城郭建築にして大阪のシンボル大阪城。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目度がさらに高まっています。 天守は3代目ですが、壮大な石垣や堀は徳川幕府が築いたもの。見どころは巨石を用いた石垣です。   【大阪城の歴史】天守は現在3代目 現在の大阪城天守は、「昭和の天守閣復興」により1931年11月に完成したもので、豊臣秀吉が築いた初代から数えて3代目にあたります。2代目は徳川時代の大坂城です。   【大阪城の歴史】初代天守は豊臣秀吉が築いた 本能寺の変の翌年、大坂に入った秀吉は、浄土真宗の本山として栄えた石山本願寺の跡地に築城を開始し、城下町の建設に着手しました。そのわずか2年後の1585年に初代天守が完成しました。 秀吉が天守の建設を急いだのは、当時はまだまだ政権が不安定だったので、できるだけ早く権力を象徴するシンボルが欲しかったからです。 大阪城初代天守のスケールの大きさ 天守の規模は5層6階。石垣内にも2階分あるので計8階建てだったと考えられています。 信長の居城・安土城をしのぐスケールでした。しかも富と権力を誇示するために、天守に金箔押し瓦が多く用いられたというから驚きです。 大阪城初代天守の優美な装飾の数々 最上階には、城下町を見下ろせる望楼が設けられ、外壁には高欄付きの縁がめぐらされていました。その外壁には、金の桐紋や鷺の絵が描かれていたというので、ずいぶん優美で装飾性の高い天守だったことがわかります。天守の壁は黒漆で塗られ、秀吉に臣従する諸大名も居城の色をこれに合わせたといいます。   【大阪城の歴史】築城と落城 天守を含む築城工事は15年にもおよびました。四重の堀に囲まれた巨城のもっとも外側を守る総構えは、北は旧淀川、東は旧猫間川、南は現在の空堀通りの南側、西は東横堀川を範囲としたと考えられています。これらを含む城郭の面積は推定420万㎡。それは現在の大阪城公園の4倍の広さに相当します。 秀吉の死後、関ケ原の戦いを経て、徳川家康が1603年に征夷大将軍に就き、江戸を本拠地とする政治を開始。大坂城は1615年の大坂夏の陣で落城し、豊臣家は滅びました。   【大阪城の歴史】再建に着手した徳川秀忠 江戸幕府は大坂を直轄地としました。2代将軍徳川秀忠は西日本の諸大名ににらみをきかせる軍事拠点とするため、1620年に大坂城の再建に取りかかりました。 大阪城の石垣に残る外様大名家紋の刻印 天守の建設は幕府の直営で行われ、石垣の構築と堀の掘削の普請は西国と北陸の外様大名64家が担いました。 大名には工事担当区域「丁場」が割り当てられ、分担する石垣の長さは石高に応じて決められました。そのため徳川の大坂城の石垣には、大名が自分の担当丁場を誇示するかのように家紋などが刻印されています。   大阪城の石垣に使われた巨石 大坂城は築城技術の完成期に再築されたため、石垣には洗練された技術が見られます。 石垣には硬質の花崗岩が用いられました。幅 10mを超える巨石が使われたことも2代目の大坂城の特徴です。巨石は後年、「蛸石」や「肥後石」のように名前がつけられました。 巨石の多くは瀬戸内海の島々から舟で大坂まで運ばれました。廃城となった伏見城や加茂 (現・京都府木津川市)、六甲山で切り出され、川で大坂まで運ばれたものもありました。陸上では「修羅」と呼ばれる木製のソリによって石曳きされたと考えられています。...

【神奈川県】相模トラフから分岐する断層の危険度は?国府津-松田断層帯など神奈川県西を走る断層は大地震を招く?

【神奈川県】相模トラフから分岐する断層の危険度は?国府津-松田断層帯など神奈川県西を走る断層は...

関東大震災は相模トラフ沿いで起きた大地震が発端でした。その相模トラフから分岐する国府津-松田断層帯ほか、神奈川県西を走る断層は大地震を招くのでしょうか?   相模トラフとは? 相模トラフは、日本列島が乗っかっているプレートの下に、南からフィリピン海プレートが沈み込んでいる「プレートの境界線」です。相模湾から房総半島沖を通り、日本海溝へとつながるようにして、おおむね東西方向へと延びています。 このあたりはフィリピン海プレートだけではなく、ユーラシアプレート、北アメリカプレート、太平洋プレートも重なり合っている場所で、地下構造は非常に複雑です。   相模トラフと地震の関係~あの関東大震災も! 相模トラフ沿いではM(マグニチュード)7以上の大きな地震がたびたび発生し、関東を中心に大規模な被害をもたらしてきました。直近では「関東大震災」の名で知られる大正関東地震があります。 大正関東地震は、1923(大正12)年9月1日11時58分に発生。神奈川県西部から房総半島南東沖にかけた領域を震源とするM7.9の大地震で、大手町(東京都)や館山(千葉県)、熊谷(埼玉県)などで震度6(当時の基準)を観測するなど、広域で激しい揺れに見舞われました。ちょうどお昼時であったため市街地は大火に包まれ、沿岸部は大津波に襲われました。その高さは熱海(静岡県)で12mにも達したといいます。   相模トラフ沿いで起こる地震の確率 2019(平成31)年2月26日に国が発表した地震評価によると、相模トラフ沿いでは、2タイプの地震が想定されています。 まず「次の相模トラフ沿いのM8クラス(M7.9~M8.6)地震」が30年以内に発生する確率はほぼ0~6%。低いと思えるかもしれませんが、実際は、わが国のおもな活断層のなかで地震発生の確率が高いグループに属します。 そしてもうひとつ、「プレートの沈み込みに伴うM7程度(M6.7~M7.3)の地震」は、30年以内の発生確率が70%程度。いうまでもなく、高い数字となっています。   相模トラフをはしる断層帯 相模トラフの陸側延長線上付近には、いくつかの断層帯があります。 これらは従来、神縄(かんなわ)・国府津(こうづ) -松田断層帯としてまとめて扱われてきましたが、2019年発表の地震評価では、新しい知見に基づき、塩沢断層帯、平山-松田北断層帯、国府津-松田断層帯の3つの活断層に分けて評価を行うようになりました。 その際、神縄断層帯は、活断層ではないと判断されています。 相模トラフの各活断層のランク 3つの活断層のうち、塩沢断層帯はSランク(地震発生確率が高い)、平山-松田北断層帯はAランク(地震発生確率がやや高い)に位置づけられ、国府津-松田断層帯は、相模トラフから分岐する断層帯とされました。国府津-松田断層帯は単独で地震を起こすのではなく、相模トラフと同時に動くという見解で、その頻度は、相模トラフ沿いで発生するM8クラスの大地震の何回かに1回という割合です。 国土地理院色別標高図を基図にして地震調 査研究推進本部の公表資料を元に作成   相模トラフにある断層のずれで生じた地形 ちなみに、足柄平野と大磯丘陵のあいだには、国府津-松田断層がずれたときにできた崖が延びています。この崖ができたのは約25万年前と推定され、足柄平野のおよその形状もこの頃にできました。   『神奈川のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。第1弾は神奈川県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【神奈川県】相模トラフから分岐する断層の危険度は?国府津-松田断層帯など神奈川県西を走る断層は...

関東大震災は相模トラフ沿いで起きた大地震が発端でした。その相模トラフから分岐する国府津-松田断層帯ほか、神奈川県西を走る断層は大地震を招くのでしょうか?   相模トラフとは? 相模トラフは、日本列島が乗っかっているプレートの下に、南からフィリピン海プレートが沈み込んでいる「プレートの境界線」です。相模湾から房総半島沖を通り、日本海溝へとつながるようにして、おおむね東西方向へと延びています。 このあたりはフィリピン海プレートだけではなく、ユーラシアプレート、北アメリカプレート、太平洋プレートも重なり合っている場所で、地下構造は非常に複雑です。   相模トラフと地震の関係~あの関東大震災も! 相模トラフ沿いではM(マグニチュード)7以上の大きな地震がたびたび発生し、関東を中心に大規模な被害をもたらしてきました。直近では「関東大震災」の名で知られる大正関東地震があります。 大正関東地震は、1923(大正12)年9月1日11時58分に発生。神奈川県西部から房総半島南東沖にかけた領域を震源とするM7.9の大地震で、大手町(東京都)や館山(千葉県)、熊谷(埼玉県)などで震度6(当時の基準)を観測するなど、広域で激しい揺れに見舞われました。ちょうどお昼時であったため市街地は大火に包まれ、沿岸部は大津波に襲われました。その高さは熱海(静岡県)で12mにも達したといいます。   相模トラフ沿いで起こる地震の確率 2019(平成31)年2月26日に国が発表した地震評価によると、相模トラフ沿いでは、2タイプの地震が想定されています。 まず「次の相模トラフ沿いのM8クラス(M7.9~M8.6)地震」が30年以内に発生する確率はほぼ0~6%。低いと思えるかもしれませんが、実際は、わが国のおもな活断層のなかで地震発生の確率が高いグループに属します。 そしてもうひとつ、「プレートの沈み込みに伴うM7程度(M6.7~M7.3)の地震」は、30年以内の発生確率が70%程度。いうまでもなく、高い数字となっています。   相模トラフをはしる断層帯 相模トラフの陸側延長線上付近には、いくつかの断層帯があります。 これらは従来、神縄(かんなわ)・国府津(こうづ) -松田断層帯としてまとめて扱われてきましたが、2019年発表の地震評価では、新しい知見に基づき、塩沢断層帯、平山-松田北断層帯、国府津-松田断層帯の3つの活断層に分けて評価を行うようになりました。 その際、神縄断層帯は、活断層ではないと判断されています。 相模トラフの各活断層のランク 3つの活断層のうち、塩沢断層帯はSランク(地震発生確率が高い)、平山-松田北断層帯はAランク(地震発生確率がやや高い)に位置づけられ、国府津-松田断層帯は、相模トラフから分岐する断層帯とされました。国府津-松田断層帯は単独で地震を起こすのではなく、相模トラフと同時に動くという見解で、その頻度は、相模トラフ沿いで発生するM8クラスの大地震の何回かに1回という割合です。 国土地理院色別標高図を基図にして地震調 査研究推進本部の公表資料を元に作成   相模トラフにある断層のずれで生じた地形 ちなみに、足柄平野と大磯丘陵のあいだには、国府津-松田断層がずれたときにできた崖が延びています。この崖ができたのは約25万年前と推定され、足柄平野のおよその形状もこの頃にできました。   『神奈川のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。第1弾は神奈川県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【愛知県】中央西線の愛岐トンネル群~美しいレンガの遺構も残る

【愛知県】中央西線の愛岐トンネル群~美しいレンガの遺構も残る

中央西線の高蔵寺~多治見間には14のトンネルがありました。現在、愛知側のトンネル4基と廃線跡は、NPO法人によって保存・整備されています。   中央西線に新線が建設された経緯 東京~名古屋間を結ぶ中央本線は、甲州街道、中山道に沿い、明治期に敷設された重要な交通路です。塩尻を境に以東を中央東線、以西を中央西線と呼び、いずれも山岳路線として知られています。 中央西線の古虎渓(ここけい)駅付近は渓谷に沿って走り景色も美しいのですが、長大トンネルも多く、たびたび視界が遮られます。これは1966(昭和41)年、複線化による輸送力増強のため、従来の単線の線路を放棄して、多治見(たじみ)~高蔵寺(こうぞうじ)間に新線を建設し切り替えたためです。   中央西線の廃線跡に残る愛岐トンネル群 庄内川(土岐川(ときがわ))の渓谷に沿った旧線は、廃止後長らく放置されていましたが、明治期に完成したトンネルが連続する廃線跡には今も13基のトンネルが残り、豊かな自然とともにSLが走行していた、いにしえの姿を彷彿(ほうふつ)とさせます。 13基のトンネルのうち、愛知県側にあるレンガ製の4基と廃線跡はNPO法人・愛岐トンネル群保存再生委員会により大切に保存され、例年、春と秋に定期公開が実施されています。 中央西線の高蔵寺駅から多治見駅にかけた庄内川(土岐川)沿いの旧線(単線だった)には、14基のトンネルが貫いていました。このうち3~6号の4基がNPO法人・ 愛岐トンネル群保存再生委員会によって保存、整備されています。なお、9号トンネルは現在の古虎渓駅です。 中央西線に残る愛岐トンネル群で注目の坑門とは 徒歩で廃線跡を訪れる入場者たちが注目するのは、明治の先人たちが築いたトンネルの坑門(こうもん)と呼ばれる出入口です。重厚なレンガ積みの坑門は迫力があり、そして優美でもあります。 要石(かなめいし)、壁柱(へきちゅう)、笠石(かさいし)、帯石(おびいし)……坑門の構成には、それぞれ部材の役割がありますが、いずれも装飾の意味合いが強いものです。   中央西線の愛岐トンネル群から感じられる先人の情熱とすぐれた技術 トンネルは今も昔も多大な労苦、人力、そして月日を費やしてようやく完成します。重機や近代的な工法もなかった明治時代ではなおさらです。 そして、トンネルは橋梁などほかの建造物とは異なり、すべてが暗い地中にあります。わずか2カ所の坑門の装飾は、工事にかかわったすべての人々のせめてもの主張だったのでしょう。愛岐トンネル群では同じ意匠のトンネルはひとつもなく、先人の情熱が感じられます。 また、廃線後半世紀が経過したにもかかわらず、レンガの崩落がほとんどなく、いかにトンネルがすぐれた構造だったかがわかります。   中央西線の愛岐トンネル群保存の経緯とは では、荒れ放題だったトンネル群は、いかにして保存されるに至ったのでしょうか。 そもそもは2005(平成17)年、勝川駅の高架化改修工事の際、残存していたレンガ製ホームが撤去されることになり、これを町おこしに活用するイベントを開催。続けて、レンガ製トンネル群の探索が始まり、2007(平成19)年、市民有志により調査が行われ、2009(平成21)年に愛岐トンネル群保存再生委員会が発足しました。以後、本格的に活動を開始し、委員会の尽力により藪のなかにあった廃線トンネルが見事に息を吹き返しました。 トンネル群の価値は認められ、鉄道トンネルとしては東海地方では初めて、3施設が登録有形文化財に認定されました。特別公開への来場者は増え、今では入場に長蛇の列ができるほど。甦った繁栄ぶりに、偉業を成し遂げた明治の先人たちも、目を細めているに違いありません。   『愛知のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。愛知県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【愛知県】中央西線の愛岐トンネル群~美しいレンガの遺構も残る

中央西線の高蔵寺~多治見間には14のトンネルがありました。現在、愛知側のトンネル4基と廃線跡は、NPO法人によって保存・整備されています。   中央西線に新線が建設された経緯 東京~名古屋間を結ぶ中央本線は、甲州街道、中山道に沿い、明治期に敷設された重要な交通路です。塩尻を境に以東を中央東線、以西を中央西線と呼び、いずれも山岳路線として知られています。 中央西線の古虎渓(ここけい)駅付近は渓谷に沿って走り景色も美しいのですが、長大トンネルも多く、たびたび視界が遮られます。これは1966(昭和41)年、複線化による輸送力増強のため、従来の単線の線路を放棄して、多治見(たじみ)~高蔵寺(こうぞうじ)間に新線を建設し切り替えたためです。   中央西線の廃線跡に残る愛岐トンネル群 庄内川(土岐川(ときがわ))の渓谷に沿った旧線は、廃止後長らく放置されていましたが、明治期に完成したトンネルが連続する廃線跡には今も13基のトンネルが残り、豊かな自然とともにSLが走行していた、いにしえの姿を彷彿(ほうふつ)とさせます。 13基のトンネルのうち、愛知県側にあるレンガ製の4基と廃線跡はNPO法人・愛岐トンネル群保存再生委員会により大切に保存され、例年、春と秋に定期公開が実施されています。 中央西線の高蔵寺駅から多治見駅にかけた庄内川(土岐川)沿いの旧線(単線だった)には、14基のトンネルが貫いていました。このうち3~6号の4基がNPO法人・ 愛岐トンネル群保存再生委員会によって保存、整備されています。なお、9号トンネルは現在の古虎渓駅です。 中央西線に残る愛岐トンネル群で注目の坑門とは 徒歩で廃線跡を訪れる入場者たちが注目するのは、明治の先人たちが築いたトンネルの坑門(こうもん)と呼ばれる出入口です。重厚なレンガ積みの坑門は迫力があり、そして優美でもあります。 要石(かなめいし)、壁柱(へきちゅう)、笠石(かさいし)、帯石(おびいし)……坑門の構成には、それぞれ部材の役割がありますが、いずれも装飾の意味合いが強いものです。   中央西線の愛岐トンネル群から感じられる先人の情熱とすぐれた技術 トンネルは今も昔も多大な労苦、人力、そして月日を費やしてようやく完成します。重機や近代的な工法もなかった明治時代ではなおさらです。 そして、トンネルは橋梁などほかの建造物とは異なり、すべてが暗い地中にあります。わずか2カ所の坑門の装飾は、工事にかかわったすべての人々のせめてもの主張だったのでしょう。愛岐トンネル群では同じ意匠のトンネルはひとつもなく、先人の情熱が感じられます。 また、廃線後半世紀が経過したにもかかわらず、レンガの崩落がほとんどなく、いかにトンネルがすぐれた構造だったかがわかります。   中央西線の愛岐トンネル群保存の経緯とは では、荒れ放題だったトンネル群は、いかにして保存されるに至ったのでしょうか。 そもそもは2005(平成17)年、勝川駅の高架化改修工事の際、残存していたレンガ製ホームが撤去されることになり、これを町おこしに活用するイベントを開催。続けて、レンガ製トンネル群の探索が始まり、2007(平成19)年、市民有志により調査が行われ、2009(平成21)年に愛岐トンネル群保存再生委員会が発足しました。以後、本格的に活動を開始し、委員会の尽力により藪のなかにあった廃線トンネルが見事に息を吹き返しました。 トンネル群の価値は認められ、鉄道トンネルとしては東海地方では初めて、3施設が登録有形文化財に認定されました。特別公開への来場者は増え、今では入場に長蛇の列ができるほど。甦った繁栄ぶりに、偉業を成し遂げた明治の先人たちも、目を細めているに違いありません。   『愛知のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。愛知県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【山口県】ユネスコ世界ジオパーク認定!日本最大規模のカルスト台地 秋吉台の誕生をひもとく!

【山口県】ユネスコ世界ジオパーク認定!日本最大規模のカルスト台地 秋吉台の誕生をひもとく!

2026年4月23日、Mine秋吉台ジオパークがユネスコ世界ジオパーク認定された「Mine秋吉台(あきよしだい)ジオパーク」。 標高300m前後の緩やかな台地に、約100㎢にわたってのカルスト台地は、約3億5000万年前からの歴史が積み重なってできています。   秋吉台は緑と白が織りなす、国内唯一無二の壮大なパノラマ 山口県の中西部一帯に広がる、日本最大規模のカルスト台地「秋吉台」。1955(昭和30)年に国定公園に指定され、そのうちの1384haが1964(昭和39)年に国の特別天然記念物となりました。緑の草原の中に点在する白い石灰岩と窪地が、独特の壮大で美しい景観を生んでいます。この地は一体どのようにしてできたのでしょうか。   秋吉台を形成する「石灰岩」の起源とプレートテクトニクス さかのぼること約3億8000万年前、海底火山直下の海洋プレートが誕生。約3億4000万年前の前期石炭紀に、大陸からはるか遠い赤道近くの暖かい海の中に、海底火山ができて噴火が起こりました。噴火が落ち着いた火山の周りに、フズリナやサンゴが集まりサンゴ礁が形成されていきました。海底火山とサンゴ礁は約8000万年をかけて、海洋プレートの運動により少しずつ大陸方面へと移動。ペルム紀になると、海底火山とサンゴ礁は島弧 (火山の連なった島々)の火山活動で発生した大量の土砂とともに海溝で大陸プレートの下に沈み込み付加体となりました。 Mine秋吉台ジオパークパンフレット内の図を元に作成。海底火山ができて島弧にたどり着くまで、約1万数千kmを約8000万年かけて移動した。その間にサンゴ礁は上に成長していく 風化と侵食が削り出した、純白のカルスト景観 1500万年前ごろには日本海が形成され、現在の日本列島が形づくられたのです。サンゴ礁は海上を移動する間に硬い石灰岩へと変わって付加し、地層の一部となっていましたが、その後も陸地には付加体が重なり続け石灰岩の地層は上昇。地層の表面が風化や侵食で削られていき、石灰岩の層が次第に地表へ露出。こうして秋吉台のカルスト台地が形成されていったと考えられています。 石灰岩の上昇 Mine秋吉台ジオパークパンフレット内の図を元に作成   秋吉台のドリーネに息づく歴史と集落の暮らし 石灰岩は二酸化炭素を含んだ水に溶けるという性質を持ちます。地表に出た石灰岩は、雨水などにより溶かされ、先の尖った柱状になります。これが林立した地形のことをカレンフェルトといいます。また、ドリーネと呼ばれるすり鉢状の窪地もカルスト台地に見られる特徴的な地形の一つです。これは石灰岩の地面が溶食されたものや、地下にできた鍾乳洞の天井部分が地表付近で崩れて地上が陥没したものです。ドリーネの底には穴があり水はけが良いため、江戸時代にはすでに畑地として利用されていたといいます。秋芳町江原地区はドリーネが成長して複数つながった谷状の窪地(いわゆるウバーレ)の中に生活居住地がある珍しい集落です。 薄いグレーの部分に石灰岩でできた地層があり、美祢市の中央部を広く占めています。秋吉台地域は厚東川(ことうがわ)で東台と西台に分けられ、東側は国定公園があり、主に草原が広がるエリア。西側は人々の暮らしに密着した採石場や湧水の池などがある、生活圏を含むエリアとなっています。   足元に潜む「吸い込み穴」への注意 降雨があると窪地に見られる複数の「吸い込み穴」と呼ばれる縦穴に雨水が流れていくといわれます。秋吉台には多くのドリーネがありますが、ドリーネの穴は深いものもあり、落ちると非常に危険です。柵がある場所には近付かない、整備されている歩道の上を歩くなど、散策や観察をする際には十分な注意が必要です。

【山口県】ユネスコ世界ジオパーク認定!日本最大規模のカルスト台地 秋吉台の誕生をひもとく!

2026年4月23日、Mine秋吉台ジオパークがユネスコ世界ジオパーク認定された「Mine秋吉台(あきよしだい)ジオパーク」。 標高300m前後の緩やかな台地に、約100㎢にわたってのカルスト台地は、約3億5000万年前からの歴史が積み重なってできています。   秋吉台は緑と白が織りなす、国内唯一無二の壮大なパノラマ 山口県の中西部一帯に広がる、日本最大規模のカルスト台地「秋吉台」。1955(昭和30)年に国定公園に指定され、そのうちの1384haが1964(昭和39)年に国の特別天然記念物となりました。緑の草原の中に点在する白い石灰岩と窪地が、独特の壮大で美しい景観を生んでいます。この地は一体どのようにしてできたのでしょうか。   秋吉台を形成する「石灰岩」の起源とプレートテクトニクス さかのぼること約3億8000万年前、海底火山直下の海洋プレートが誕生。約3億4000万年前の前期石炭紀に、大陸からはるか遠い赤道近くの暖かい海の中に、海底火山ができて噴火が起こりました。噴火が落ち着いた火山の周りに、フズリナやサンゴが集まりサンゴ礁が形成されていきました。海底火山とサンゴ礁は約8000万年をかけて、海洋プレートの運動により少しずつ大陸方面へと移動。ペルム紀になると、海底火山とサンゴ礁は島弧 (火山の連なった島々)の火山活動で発生した大量の土砂とともに海溝で大陸プレートの下に沈み込み付加体となりました。 Mine秋吉台ジオパークパンフレット内の図を元に作成。海底火山ができて島弧にたどり着くまで、約1万数千kmを約8000万年かけて移動した。その間にサンゴ礁は上に成長していく 風化と侵食が削り出した、純白のカルスト景観 1500万年前ごろには日本海が形成され、現在の日本列島が形づくられたのです。サンゴ礁は海上を移動する間に硬い石灰岩へと変わって付加し、地層の一部となっていましたが、その後も陸地には付加体が重なり続け石灰岩の地層は上昇。地層の表面が風化や侵食で削られていき、石灰岩の層が次第に地表へ露出。こうして秋吉台のカルスト台地が形成されていったと考えられています。 石灰岩の上昇 Mine秋吉台ジオパークパンフレット内の図を元に作成   秋吉台のドリーネに息づく歴史と集落の暮らし 石灰岩は二酸化炭素を含んだ水に溶けるという性質を持ちます。地表に出た石灰岩は、雨水などにより溶かされ、先の尖った柱状になります。これが林立した地形のことをカレンフェルトといいます。また、ドリーネと呼ばれるすり鉢状の窪地もカルスト台地に見られる特徴的な地形の一つです。これは石灰岩の地面が溶食されたものや、地下にできた鍾乳洞の天井部分が地表付近で崩れて地上が陥没したものです。ドリーネの底には穴があり水はけが良いため、江戸時代にはすでに畑地として利用されていたといいます。秋芳町江原地区はドリーネが成長して複数つながった谷状の窪地(いわゆるウバーレ)の中に生活居住地がある珍しい集落です。 薄いグレーの部分に石灰岩でできた地層があり、美祢市の中央部を広く占めています。秋吉台地域は厚東川(ことうがわ)で東台と西台に分けられ、東側は国定公園があり、主に草原が広がるエリア。西側は人々の暮らしに密着した採石場や湧水の池などがある、生活圏を含むエリアとなっています。   足元に潜む「吸い込み穴」への注意 降雨があると窪地に見られる複数の「吸い込み穴」と呼ばれる縦穴に雨水が流れていくといわれます。秋吉台には多くのドリーネがありますが、ドリーネの穴は深いものもあり、落ちると非常に危険です。柵がある場所には近付かない、整備されている歩道の上を歩くなど、散策や観察をする際には十分な注意が必要です。

【大阪府】関西・近畿の違いとは?畿内ってどこ?~大阪府の属するエリア名~

【大阪府】関西・近畿の違いとは?畿内ってどこ?~大阪府の属するエリア名~

全国を区分する地域名でいえば、関西地方および近畿地方に属する大阪府。そんな府内は、摂津・河内・和泉・丹波という4つの旧国で成り立っています。   関西と近畿の違い 関西という言葉は近畿と同義語のようにとらえられがちですが、そもそもは鈴鹿関(三重県)、不破(ふわ)関(岐阜県)、愛発(あらち)関(福井県)以東を呼んだ「関東」の対義語です。 平安時代は滋賀県より西はすべて関西 平安時代になって愛発関が廃されて逢坂(おうさか)関(滋賀県)が置かれると、それより西はすべて関西と認識されました。 つまり関西とは、西日本全域を指す呼称でもあったのです。現在のエリアを指す地域名として使われるようになったのは、江戸時代以降とされています。 近畿とは2府5県を呼ぶ名称 近畿とは明治時代になって小学校と中学校の地理の教科書で採用された名称で、大阪府、京都府、奈良県、兵庫県、滋賀県、和歌山県、三重県の2府5県(三重県は東海地方にも含まれる)をいいます。   畿内と近畿の違い 古代の律令制で北海道と沖縄を除く全国は、畿内(きない)と東山道(とうさんどう)、東海道、北陸道、南海道、山陽道、山陰道、西海道(さいかいどう)の「七道(しちどう)」に区分されました。 このうち畿内は山城国(やましろこく)、大和国(やまとこく)、摂津国(せっつこく)、河内国(かわちこく)、和泉国(いずみこく)をいい、近畿とは「畿内の近く」という意味になります。   畿内5国のうち3国が大阪府 大阪府は畿内5国のうち摂津国、河内国、和泉国からなっていて、この3国を「摂河泉(せっかせん)」と称することもあります。さらに山陰道の丹波の一部も大阪府となっています。すなわち、大阪府は全国で2番目に狭い都道府県であるにもかかわらず、旧国では4つのエリアに分かれていたことになります。   大阪府堺市の地名は「3国の境」に由来 そもそも堺という地名は「3国の境」からきたものであり、境界地点を意味する「三国ヶ丘(みくにがおか)」という地名も残されています。 かつて摂津国と和泉国の国境は堺市の中心部を通る「大小路(おおしょうじ) 」でしたが、1871年に大和川以北が摂津国とされたため、中心部の全域は和泉国となりました。また現在の堺市のうち東区、北区の一部、美原区(みはらく)(2006年設置)は河内国となります。   堺市にある方位の存在しない方違神社(ほうちがいじんじゃ) 堺市の方違神社は、運気の下がる方角を鎮める「方違(かたちが)え」の神社として有名です。創建は紀元前90年とされる古社で、方違えに御利益があるとされる由来は、その位置にあります。 方違神社は「摂河泉」の国境である三国山(みくにやま)(現・三国ヶ丘)に鎮座し、境内は3国に重なります。このことから、方位の存在しない清地として信仰を集め、古来より皇族から庶民まで多くの人が参拝。現在でも、異動のシーズンには社会人を含む多数の参拝客が訪れています。 関西は、文字どおり「関所より西」を示します。逢坂関は現在の滋賀県大津市、不破関は岐阜県不破郡関ケ原町、鈴鹿関は三重県亀山市にあったとされています。近畿とは三重県を含む2府5県のことです。 古代、都に近い山城、摂津、河内、和泉、大和を畿内と呼んでいました。そのうちの3国「摂河泉」が現在の大阪府の大半を占めています。3つの国が重なるところが堺です。   『大阪のトリセツ』好評発売中! 大阪府の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。大阪府の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【大阪府】関西・近畿の違いとは?畿内ってどこ?~大阪府の属するエリア名~

全国を区分する地域名でいえば、関西地方および近畿地方に属する大阪府。そんな府内は、摂津・河内・和泉・丹波という4つの旧国で成り立っています。   関西と近畿の違い 関西という言葉は近畿と同義語のようにとらえられがちですが、そもそもは鈴鹿関(三重県)、不破(ふわ)関(岐阜県)、愛発(あらち)関(福井県)以東を呼んだ「関東」の対義語です。 平安時代は滋賀県より西はすべて関西 平安時代になって愛発関が廃されて逢坂(おうさか)関(滋賀県)が置かれると、それより西はすべて関西と認識されました。 つまり関西とは、西日本全域を指す呼称でもあったのです。現在のエリアを指す地域名として使われるようになったのは、江戸時代以降とされています。 近畿とは2府5県を呼ぶ名称 近畿とは明治時代になって小学校と中学校の地理の教科書で採用された名称で、大阪府、京都府、奈良県、兵庫県、滋賀県、和歌山県、三重県の2府5県(三重県は東海地方にも含まれる)をいいます。   畿内と近畿の違い 古代の律令制で北海道と沖縄を除く全国は、畿内(きない)と東山道(とうさんどう)、東海道、北陸道、南海道、山陽道、山陰道、西海道(さいかいどう)の「七道(しちどう)」に区分されました。 このうち畿内は山城国(やましろこく)、大和国(やまとこく)、摂津国(せっつこく)、河内国(かわちこく)、和泉国(いずみこく)をいい、近畿とは「畿内の近く」という意味になります。   畿内5国のうち3国が大阪府 大阪府は畿内5国のうち摂津国、河内国、和泉国からなっていて、この3国を「摂河泉(せっかせん)」と称することもあります。さらに山陰道の丹波の一部も大阪府となっています。すなわち、大阪府は全国で2番目に狭い都道府県であるにもかかわらず、旧国では4つのエリアに分かれていたことになります。   大阪府堺市の地名は「3国の境」に由来 そもそも堺という地名は「3国の境」からきたものであり、境界地点を意味する「三国ヶ丘(みくにがおか)」という地名も残されています。 かつて摂津国と和泉国の国境は堺市の中心部を通る「大小路(おおしょうじ) 」でしたが、1871年に大和川以北が摂津国とされたため、中心部の全域は和泉国となりました。また現在の堺市のうち東区、北区の一部、美原区(みはらく)(2006年設置)は河内国となります。   堺市にある方位の存在しない方違神社(ほうちがいじんじゃ) 堺市の方違神社は、運気の下がる方角を鎮める「方違(かたちが)え」の神社として有名です。創建は紀元前90年とされる古社で、方違えに御利益があるとされる由来は、その位置にあります。 方違神社は「摂河泉」の国境である三国山(みくにやま)(現・三国ヶ丘)に鎮座し、境内は3国に重なります。このことから、方位の存在しない清地として信仰を集め、古来より皇族から庶民まで多くの人が参拝。現在でも、異動のシーズンには社会人を含む多数の参拝客が訪れています。 関西は、文字どおり「関所より西」を示します。逢坂関は現在の滋賀県大津市、不破関は岐阜県不破郡関ケ原町、鈴鹿関は三重県亀山市にあったとされています。近畿とは三重県を含む2府5県のことです。 古代、都に近い山城、摂津、河内、和泉、大和を畿内と呼んでいました。そのうちの3国「摂河泉」が現在の大阪府の大半を占めています。3つの国が重なるところが堺です。   『大阪のトリセツ』好評発売中! 大阪府の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。大阪府の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【神奈川県】江戸幕府による東海道整備と9つの宿場町の重要度合い

【神奈川県】江戸幕府による東海道整備と9つの宿場町の重要度合い

徳川家康は1601(慶長6)年、東海道をはじめとする五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)の整備に着手しました。これらの街道は、江戸日本橋を起点とする主要陸上交通路であり、関東を政治基盤とする幕府にとって江戸と全国を結ぶ街道の整備は、経済的・軍事的に最重要課題のひとつでした。   東海道の整備は江戸幕府によるもの とりわけ東海道は、江戸と京都(三条大橋)を結ぶ交通や物流の大動脈として重要視されていたため、幕府は東海道の諸宿に伝馬朱印状(でんましゅいんじょう)や伝馬定書(でんまさだめがき)を与えて宿駅を定め、交通を管理・掌握していきました。   宿場町の役割は街道の拠点 宿場とは、宿、宿駅とも呼ばれた街道を旅する人を宿屋に泊めたり、休ませたりする街道の拠点のことです。 江戸時代になって、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や書状を、人馬を交替して次の宿場まで運ぶことが義務づけられると、これが宿場のもっとも重要な業務になっていきました。宿場ごとに乗り継ぐ馬を伝馬と呼び、この制度を宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)といいます。 宿場町の諸施設と宿場の人々のくらし 宿場町には、大名や公家、勅使、旗本、役人などが宿泊する本陣や脇本陣、一般の旅人が泊まる旅籠(はたご)といった宿泊施設とともに、伝馬や飛脚による公用の荷物の継ぎ立て業務を行う問屋場が置かれていました。 人や馬にかかる費用は宿場の町人や周辺農民の負担となりましたが、その代わりに租税が免除され、宿泊業や旅人の荷物運びによって一定の収入を得ることができたといいます。   宿場町の発展と参勤交代による東海道 1604(慶長9)年には主要街道に一里塚が設置され、大きな河川に渡船場や川越がつくられました。1635(寛永12)年、三代将軍家光によって参勤交代が義務づけられると、街道は大名の行き来により、いっそう賑わうようになり、宿場には商人や職人などが定住し、次第に都市の様相を呈するようになっていきました。   東海道の9つの宿場町(神奈川県域) 東海道53の宿場(東海道五十三次)のうち神奈川県域にあったのは、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原、箱根の9つ。 これらの宿場は、街道整備が始まった1601年にすべて設置されたのではありません。徳川氏発給の伝馬手形によると、1596(慶長元)年の時点で神奈川、保土ヶ谷、藤沢、平塚、大磯、小田原の6宿が成立していた模様です。 宿場と宿場の距離が長い場所や峠越え、川越えがある難所には休憩所として「間の宿(あいのしゅく)」という施設が置かれました。神奈川県域では藤沢~平塚間の茅ヶ崎、大磯~小田原間の二宮、箱根にある畑宿が該当します。 【東海道の宿場町①】川崎宿 江戸から六郷川(ろくごうがわ)(多摩川)を渡ったところにある川崎宿は、品川宿に次ぐ東海道2番目の宿場ですが、その成立は遅く1623(元和9)年。それ以前、品川~神奈川宿の伝馬継ぎ立てが往復10里(約40キロ)におよび負担が大きかったため、両宿が幕府に請願し、中間点にある川崎に宿場が新設されたのでした。 ピークの天保期には旅籠の数は72軒に達し、神奈川県下9宿のうち3番目の多さを誇りました。 最大規模の旅籠だった万年屋は、幕末にアメリカ駐日総領事ハリスが宿泊したことでも知られています。 【東海道の宿場町②】神奈川宿 神奈川宿は川崎宿から約10㎞、神奈川湊と呼ばれる江戸湾の入海に面し、内陸と海をつなぐ交通・物流の要所として発達しました。この宿場名が、神奈川の県名の由来です。 江戸時代初期には、神奈川宿の街道沿いに徳川将軍家の宿泊施設である神奈川御殿が置かれ、将軍の鷹狩や宿泊に利用されました。 神奈川宿は、神奈川領・小机(こづくえ)領・稲毛領など、江戸西南部の幕府直轄地を管轄する神奈川陣屋が置かれた政治拠点でもあり、幕末には数々の寺にオランダ、イギリス、フランス、アメリカなどの領事館が置かれました。 【東海道の宿場町③】保土ヶ谷宿 保土ヶ谷宿は、戸塚宿とともに江戸から西へ向かう旅人の最初の宿泊地となることが多くありました。この宿は、神奈川宿とともに神奈川湊の荷揚げ場として、また、各地の主要都市を結ぶ物流の拠点として大いに栄えました。 【東海道の宿場町④】戸塚宿...

【神奈川県】江戸幕府による東海道整備と9つの宿場町の重要度合い

徳川家康は1601(慶長6)年、東海道をはじめとする五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)の整備に着手しました。これらの街道は、江戸日本橋を起点とする主要陸上交通路であり、関東を政治基盤とする幕府にとって江戸と全国を結ぶ街道の整備は、経済的・軍事的に最重要課題のひとつでした。   東海道の整備は江戸幕府によるもの とりわけ東海道は、江戸と京都(三条大橋)を結ぶ交通や物流の大動脈として重要視されていたため、幕府は東海道の諸宿に伝馬朱印状(でんましゅいんじょう)や伝馬定書(でんまさだめがき)を与えて宿駅を定め、交通を管理・掌握していきました。   宿場町の役割は街道の拠点 宿場とは、宿、宿駅とも呼ばれた街道を旅する人を宿屋に泊めたり、休ませたりする街道の拠点のことです。 江戸時代になって、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や書状を、人馬を交替して次の宿場まで運ぶことが義務づけられると、これが宿場のもっとも重要な業務になっていきました。宿場ごとに乗り継ぐ馬を伝馬と呼び、この制度を宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)といいます。 宿場町の諸施設と宿場の人々のくらし 宿場町には、大名や公家、勅使、旗本、役人などが宿泊する本陣や脇本陣、一般の旅人が泊まる旅籠(はたご)といった宿泊施設とともに、伝馬や飛脚による公用の荷物の継ぎ立て業務を行う問屋場が置かれていました。 人や馬にかかる費用は宿場の町人や周辺農民の負担となりましたが、その代わりに租税が免除され、宿泊業や旅人の荷物運びによって一定の収入を得ることができたといいます。   宿場町の発展と参勤交代による東海道 1604(慶長9)年には主要街道に一里塚が設置され、大きな河川に渡船場や川越がつくられました。1635(寛永12)年、三代将軍家光によって参勤交代が義務づけられると、街道は大名の行き来により、いっそう賑わうようになり、宿場には商人や職人などが定住し、次第に都市の様相を呈するようになっていきました。   東海道の9つの宿場町(神奈川県域) 東海道53の宿場(東海道五十三次)のうち神奈川県域にあったのは、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原、箱根の9つ。 これらの宿場は、街道整備が始まった1601年にすべて設置されたのではありません。徳川氏発給の伝馬手形によると、1596(慶長元)年の時点で神奈川、保土ヶ谷、藤沢、平塚、大磯、小田原の6宿が成立していた模様です。 宿場と宿場の距離が長い場所や峠越え、川越えがある難所には休憩所として「間の宿(あいのしゅく)」という施設が置かれました。神奈川県域では藤沢~平塚間の茅ヶ崎、大磯~小田原間の二宮、箱根にある畑宿が該当します。 【東海道の宿場町①】川崎宿 江戸から六郷川(ろくごうがわ)(多摩川)を渡ったところにある川崎宿は、品川宿に次ぐ東海道2番目の宿場ですが、その成立は遅く1623(元和9)年。それ以前、品川~神奈川宿の伝馬継ぎ立てが往復10里(約40キロ)におよび負担が大きかったため、両宿が幕府に請願し、中間点にある川崎に宿場が新設されたのでした。 ピークの天保期には旅籠の数は72軒に達し、神奈川県下9宿のうち3番目の多さを誇りました。 最大規模の旅籠だった万年屋は、幕末にアメリカ駐日総領事ハリスが宿泊したことでも知られています。 【東海道の宿場町②】神奈川宿 神奈川宿は川崎宿から約10㎞、神奈川湊と呼ばれる江戸湾の入海に面し、内陸と海をつなぐ交通・物流の要所として発達しました。この宿場名が、神奈川の県名の由来です。 江戸時代初期には、神奈川宿の街道沿いに徳川将軍家の宿泊施設である神奈川御殿が置かれ、将軍の鷹狩や宿泊に利用されました。 神奈川宿は、神奈川領・小机(こづくえ)領・稲毛領など、江戸西南部の幕府直轄地を管轄する神奈川陣屋が置かれた政治拠点でもあり、幕末には数々の寺にオランダ、イギリス、フランス、アメリカなどの領事館が置かれました。 【東海道の宿場町③】保土ヶ谷宿 保土ヶ谷宿は、戸塚宿とともに江戸から西へ向かう旅人の最初の宿泊地となることが多くありました。この宿は、神奈川宿とともに神奈川湊の荷揚げ場として、また、各地の主要都市を結ぶ物流の拠点として大いに栄えました。 【東海道の宿場町④】戸塚宿...

【富山県】黒部峡谷鉄道の歴史は命の保証はしないという条件で運行されたトロッコ電車

【富山県】黒部峡谷鉄道の歴史は命の保証はしないという条件で運行されたトロッコ電車

今年も4月20日から運行が開始された黒部峡谷鉄道。今では黒部峡谷の観光名物となっているトロッコ電車は、電源開発工事の一環で敷設された歴史があります。秘境ゆえの絶景とスリルは、今も昔も多くの人を惹きつけているようです。 黒部峡谷鉄道とは 黒部峡谷のV字谷は、日本でも有数の深さ。山の隆起と黒部川の浸食によって形成された険しい谷が約70㎞続き、最深部は約3000mもある。カエデ、ブナ、ナラなどの原生林が多く、その緑の中を黒部峡谷鉄道のトロッコ電車が走っています。   黒部峡谷鉄道の歴史①:黒部専用鉄道時代 このトロッコ電車は、当初は観光列車などではなく、電源開発に伴うダムの建設資材や作業員を運ぶための鉄道として誕生したもので、当時は「黒部専用鉄道」と呼ばれていました。鉄道の敷設工事は、大正12(1923)年、黒部峡谷初の発電所となる「柳河(やながわら)原発電所」建設に先駆けて始まります。同発電所の取水ダム建設地である猫又までは約12㎞。平野がない峡谷では普通の線路よりもレール幅を狭めなければならず、電車も最小の車両が導入されるなど、かなり制限された条件下で敷設がおこなわれました。   黒部専用鉄道はダム建設用資材を送るために使われていた ダム建設用資材は、黒部専用鉄道で宇奈月から各工事現場へと送られていました。宇奈月までの運搬をおこなっていたのは、黒部鉄道。かつての三日市駅(現在のあいの風とやま鉄道黒部駅)と黒部峡谷方面を結んでいた路線です。よって、資材はまず三日市駅で集積されるというのが決まりでした。このため、現在でもあいの風とやま鉄道黒部駅には黒部峡谷への乗換駅としてのイメージが残っており、宇奈月方面へ行くために、間違って下車する観光客もいるようです。 宇奈月駅から欅平駅を結びます。有人駅はピンクで示した4駅のみ。沿線からは多くのダムや発電所を見ることができます。   黒部峡谷鉄道の歴史②:観光客の増加から旅客鉄道へ 専用鉄道時代からもこの秘境鉄道に乗りたいという人が多く、一般客を乗せることもありましたが、断崖絶壁を走る危険と隣り合わせだったため、当時の乗車券には、「生命の保証はしない」と記入されていたといいます。昭和28(1953)年、観光客が増加し始めたことを受け、関西電力が旅客鉄道としての営業を開始。昭和46(1971)年には、黒部峡谷鉄道株式会社が独立して現在に至ります。 黒部峡谷鉄道の枕木やレールは冬期に撤去 鉄道の沿線は、積雪のため、例年12月から翌年4月までは運休となります。鐘釣(かねつり)駅上流にあるウド谷橋では特に雪崩発生の可能性が高く、橋の枕木やレールはすべて撤去されます。普段トロッコ電車が走っているトンネルがその保管場所となり、雪を防ぐための大きな鉄扉がしっかりと設けられています。春先にはまた運行再開に向けて撤去したものを元に戻さなければいけないのですが、この作業はほぼ人力。作業員延べ2000人が40日余りかけておこなう大作業です。   黒部峡谷鉄道は現在も関西電力関係者のための専用列車が走行 すっかり観光列車となった黒部峡谷鉄道ですが、実は今でも黒部川水系の電力設備を守るインフラ。現在も沿線にあるダムや発電所への資材運搬列車や、関西電力関係者のための専用列車が運行されています。宇奈月駅から終点の欅平(けやきだいら)駅までは10駅存在するのですが、有人駅は宇奈月駅・黒薙(くろなぎ)駅・鐘釣駅・欅平駅の4つだけ。つまり、一般旅客が乗降できるのもこれらの駅のみです。ほかの駅はすべて無人駅で、関西電力関係者や沿線工事関係者に利用が限定されています。   『富山のトリセツ』好評発売中! 富山県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。富山の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報満載!

【富山県】黒部峡谷鉄道の歴史は命の保証はしないという条件で運行されたトロッコ電車

今年も4月20日から運行が開始された黒部峡谷鉄道。今では黒部峡谷の観光名物となっているトロッコ電車は、電源開発工事の一環で敷設された歴史があります。秘境ゆえの絶景とスリルは、今も昔も多くの人を惹きつけているようです。 黒部峡谷鉄道とは 黒部峡谷のV字谷は、日本でも有数の深さ。山の隆起と黒部川の浸食によって形成された険しい谷が約70㎞続き、最深部は約3000mもある。カエデ、ブナ、ナラなどの原生林が多く、その緑の中を黒部峡谷鉄道のトロッコ電車が走っています。   黒部峡谷鉄道の歴史①:黒部専用鉄道時代 このトロッコ電車は、当初は観光列車などではなく、電源開発に伴うダムの建設資材や作業員を運ぶための鉄道として誕生したもので、当時は「黒部専用鉄道」と呼ばれていました。鉄道の敷設工事は、大正12(1923)年、黒部峡谷初の発電所となる「柳河(やながわら)原発電所」建設に先駆けて始まります。同発電所の取水ダム建設地である猫又までは約12㎞。平野がない峡谷では普通の線路よりもレール幅を狭めなければならず、電車も最小の車両が導入されるなど、かなり制限された条件下で敷設がおこなわれました。   黒部専用鉄道はダム建設用資材を送るために使われていた ダム建設用資材は、黒部専用鉄道で宇奈月から各工事現場へと送られていました。宇奈月までの運搬をおこなっていたのは、黒部鉄道。かつての三日市駅(現在のあいの風とやま鉄道黒部駅)と黒部峡谷方面を結んでいた路線です。よって、資材はまず三日市駅で集積されるというのが決まりでした。このため、現在でもあいの風とやま鉄道黒部駅には黒部峡谷への乗換駅としてのイメージが残っており、宇奈月方面へ行くために、間違って下車する観光客もいるようです。 宇奈月駅から欅平駅を結びます。有人駅はピンクで示した4駅のみ。沿線からは多くのダムや発電所を見ることができます。   黒部峡谷鉄道の歴史②:観光客の増加から旅客鉄道へ 専用鉄道時代からもこの秘境鉄道に乗りたいという人が多く、一般客を乗せることもありましたが、断崖絶壁を走る危険と隣り合わせだったため、当時の乗車券には、「生命の保証はしない」と記入されていたといいます。昭和28(1953)年、観光客が増加し始めたことを受け、関西電力が旅客鉄道としての営業を開始。昭和46(1971)年には、黒部峡谷鉄道株式会社が独立して現在に至ります。 黒部峡谷鉄道の枕木やレールは冬期に撤去 鉄道の沿線は、積雪のため、例年12月から翌年4月までは運休となります。鐘釣(かねつり)駅上流にあるウド谷橋では特に雪崩発生の可能性が高く、橋の枕木やレールはすべて撤去されます。普段トロッコ電車が走っているトンネルがその保管場所となり、雪を防ぐための大きな鉄扉がしっかりと設けられています。春先にはまた運行再開に向けて撤去したものを元に戻さなければいけないのですが、この作業はほぼ人力。作業員延べ2000人が40日余りかけておこなう大作業です。   黒部峡谷鉄道は現在も関西電力関係者のための専用列車が走行 すっかり観光列車となった黒部峡谷鉄道ですが、実は今でも黒部川水系の電力設備を守るインフラ。現在も沿線にあるダムや発電所への資材運搬列車や、関西電力関係者のための専用列車が運行されています。宇奈月駅から終点の欅平(けやきだいら)駅までは10駅存在するのですが、有人駅は宇奈月駅・黒薙(くろなぎ)駅・鐘釣駅・欅平駅の4つだけ。つまり、一般旅客が乗降できるのもこれらの駅のみです。ほかの駅はすべて無人駅で、関西電力関係者や沿線工事関係者に利用が限定されています。   『富山のトリセツ』好評発売中! 富山県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。富山の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報満載!

【秋田県】「八橋油田」で日本の石油生産をリードした秋田県はシェールオイルの開発・商業生産への期待も高まる!

【秋田県】「八橋油田」で日本の石油生産をリードした秋田県はシェールオイルの開発・商業生産への期...

日本は原油産出国のひとつであり、新潟県以北の日本海側には数多くの油田が存在しています。なかでも秋田県はかつて石油王国と呼ばれていました。   秋田はかつて原油の生産量国内トップを誇った 日本でもっとも多く使われているエネルギーは石油で、国全体で使う一次エネルギーの約4割を占めています。日本のエネルギー自給率は約12%(2018年)と低いですが、なかでも石油は9割以上を中東諸国に依存しており、国産原油の割合はわずか0.3%(2018年)。それでも産出量にすれば約5億リットルと、けっして小さな数字ではありません。 国内の油田は北海道や日本海側に点在していますが、そのなかでも秋田県や新潟県は古くから採油を行ってきた地域です。現在(2020年度)の国内原油生産量のシェアトップは新潟県ですが、かつては秋田県が長くその座に君臨していました。   「八橋油田」を採掘した秋田油田開発の父・千蒲善五郎 明治初期、日本の近代化が叫ばれ、照明に石油ランプが利用されるようになると、秋田県内に石油資源開発を手がけようとする者が現れました。 久保田藩の御用油商だった千蒲善五郎(ちがまぜんごろう)は、東京で灯火を見て開発を志し、1869(明治2)年に八橋(やばせ)(現・秋田市の中央部)で採油に成功。善五郎は秋田油田と採油の礎を築いたことから、「秋田油田開発の父」と称されています。 「八橋油田」は秋田の油田をリードした 善五郎が開削を始めた八橋油田は、その後、わが国の石油生産をリードしていきます。 1869(明治2)年に善五郎が八橋で石油の染み出す露頭を見つけ採油に成功すると、1916(大正5)年には、ボーリングによって地下に油層が発見されます。そして、1934(昭和9)年に日本鉱業が本格的に産油を開始すると一躍大油田となり、大正期に開発された黒川(くろかわ)油田(秋田市)とともに秋田県の石油産業を牽引。秋田県は両油田のおかげで国内原油産出量の約7割を占め、「石油王国」と呼ばれるようになりました。   「八橋油田」の産出量減に伴い原油産出量は全国3位に 八橋油田は、国内1位を誇る原油産出量で戦後復興と高度経済成長期を支えましたが、昭和40年代以降は急激に産出量が落ち込みました。その後、秋田県は新たな石油資源の開発に取り組んだものの、現在の国内原油生産量は、新潟県、北海道に次ぐ国内3位に甘んじています。 『地質ニュース第658号2009年6月号』(実業公報社、2009年)を元に作成 かつて秋田県内には30近い油田・ガス田が操業していました。明治初期から昭和初期にかけて多くの油田が開発されましたが、昭和後期にその多くが廃山となりました。   秋田でシェールオイルが発見される 近年、秋田県内では、次世代エネルギーとして注目される新資源の存在が確認されています。シェールオイルです。 シェールオイルとは、泥が堆積して固まった地下の頁岩(けつがん)に含まれる石油のことです。同じ岩盤層から産出されるシェールガスとともに、新たなエネルギーとして期待されています。 ただシェールオイルは地下資源量こそ豊富にあるものの、採掘が難しいとされ、開発が進んでこなかったのです。 秋田のシェールオイルは新資源として期待を集める しかし、2012(平成24)年に、石油・天然ガス開発専業大手の石油資源開発株式会社が、鮎川(あゆかわ)油ガス田(由利本荘市)の地下からシェールオイルの採取に成功。その後、同社は採掘作業と実証実験を進め、2014(平成26)年に商業生産を開始しました。 現在、世界的にシェールオイルを取り巻く環境は厳しいですが、秋田県には相当量のシェールオイルが埋蔵されているといわれており、新資源にかかる期待は大きいのです。   『秋田のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から秋田県を分析! 秋田県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。秋田の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報を満載!  ...

【秋田県】「八橋油田」で日本の石油生産をリードした秋田県はシェールオイルの開発・商業生産への期...

日本は原油産出国のひとつであり、新潟県以北の日本海側には数多くの油田が存在しています。なかでも秋田県はかつて石油王国と呼ばれていました。   秋田はかつて原油の生産量国内トップを誇った 日本でもっとも多く使われているエネルギーは石油で、国全体で使う一次エネルギーの約4割を占めています。日本のエネルギー自給率は約12%(2018年)と低いですが、なかでも石油は9割以上を中東諸国に依存しており、国産原油の割合はわずか0.3%(2018年)。それでも産出量にすれば約5億リットルと、けっして小さな数字ではありません。 国内の油田は北海道や日本海側に点在していますが、そのなかでも秋田県や新潟県は古くから採油を行ってきた地域です。現在(2020年度)の国内原油生産量のシェアトップは新潟県ですが、かつては秋田県が長くその座に君臨していました。   「八橋油田」を採掘した秋田油田開発の父・千蒲善五郎 明治初期、日本の近代化が叫ばれ、照明に石油ランプが利用されるようになると、秋田県内に石油資源開発を手がけようとする者が現れました。 久保田藩の御用油商だった千蒲善五郎(ちがまぜんごろう)は、東京で灯火を見て開発を志し、1869(明治2)年に八橋(やばせ)(現・秋田市の中央部)で採油に成功。善五郎は秋田油田と採油の礎を築いたことから、「秋田油田開発の父」と称されています。 「八橋油田」は秋田の油田をリードした 善五郎が開削を始めた八橋油田は、その後、わが国の石油生産をリードしていきます。 1869(明治2)年に善五郎が八橋で石油の染み出す露頭を見つけ採油に成功すると、1916(大正5)年には、ボーリングによって地下に油層が発見されます。そして、1934(昭和9)年に日本鉱業が本格的に産油を開始すると一躍大油田となり、大正期に開発された黒川(くろかわ)油田(秋田市)とともに秋田県の石油産業を牽引。秋田県は両油田のおかげで国内原油産出量の約7割を占め、「石油王国」と呼ばれるようになりました。   「八橋油田」の産出量減に伴い原油産出量は全国3位に 八橋油田は、国内1位を誇る原油産出量で戦後復興と高度経済成長期を支えましたが、昭和40年代以降は急激に産出量が落ち込みました。その後、秋田県は新たな石油資源の開発に取り組んだものの、現在の国内原油生産量は、新潟県、北海道に次ぐ国内3位に甘んじています。 『地質ニュース第658号2009年6月号』(実業公報社、2009年)を元に作成 かつて秋田県内には30近い油田・ガス田が操業していました。明治初期から昭和初期にかけて多くの油田が開発されましたが、昭和後期にその多くが廃山となりました。   秋田でシェールオイルが発見される 近年、秋田県内では、次世代エネルギーとして注目される新資源の存在が確認されています。シェールオイルです。 シェールオイルとは、泥が堆積して固まった地下の頁岩(けつがん)に含まれる石油のことです。同じ岩盤層から産出されるシェールガスとともに、新たなエネルギーとして期待されています。 ただシェールオイルは地下資源量こそ豊富にあるものの、採掘が難しいとされ、開発が進んでこなかったのです。 秋田のシェールオイルは新資源として期待を集める しかし、2012(平成24)年に、石油・天然ガス開発専業大手の石油資源開発株式会社が、鮎川(あゆかわ)油ガス田(由利本荘市)の地下からシェールオイルの採取に成功。その後、同社は採掘作業と実証実験を進め、2014(平成26)年に商業生産を開始しました。 現在、世界的にシェールオイルを取り巻く環境は厳しいですが、秋田県には相当量のシェールオイルが埋蔵されているといわれており、新資源にかかる期待は大きいのです。   『秋田のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から秋田県を分析! 秋田県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。秋田の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報を満載!  ...

【京都府】恭仁京と長岡京ははぜ使われなくなった?平安京以前に造営された2つの都の放棄理由

【京都府】恭仁京と長岡京ははぜ使われなくなった?平安京以前に造営された2つの都の放棄理由

794年に平安京が造営されて以来、皇居が移されるまで京都は天皇のお膝元であり続けました。じつは平安京の前にも、2度の仮遷都が行われていたのです。   恭仁京が新都として抜擢される 奈良時代、平城京では戦乱や天災、疫病が頻発しました。そのため聖武天皇(しょうむてんのう)は740年に新都の建設を計画します。災いで穢(けが)れた旧都から新都に移り、国を清浄化しようと考えたのです。 場所は山背国(やましろこく)(山城国)相楽郡(さがらぐん)(木津川市)の加茂盆地。すでに離宮が存在し、『万葉集』でも絶賛されたほど自然の美しい地でもあり、有力貴族の橘(たちばな)氏が本拠地としていました。 恭仁京の建設は進んだが計画は中断 聖武天皇は加茂盆地の環境をとても気に入り、新都として恭仁京(くにきょう)の建設が741年からはじまりました。同年3月までには内裏ができ、翌月には貴族への移住命令が出されていました。 ところが、翌742年になると聖武天皇の関心は仏殿建設と難波宮(なにわのみや)に向けられてしまい、新都建設は事実上中断。744年の難波京遷都も天皇の重病で中止され、都は平城京にとどまったのです。 恭仁京を鎮護するために彫られた? 磨崖仏 木津川市の当尾(とうの)地区には多くの石仏や石塔があります。なかでも最大・最古とされるのが「大門仏谷阿弥陀磨崖仏(だいもんほとけだにあみだまがいぶつ)」です。磨崖仏とは自然の岩山にそのまま刻まれた仏のこと。 平安時代末期の作といわれていますが、より古い奈良時代の作ともされ、恭仁京を護るために彫られたという説もあります。   長岡京へ遷都された経緯 次に遷都が実行されたのは、桓武天皇(かんむてんのう)の時代です。天智天皇(てんじてんのう)の皇統であった桓武天皇は、天武天皇(てんむてんのう)系が治めてきた平城京に代わる都を建てることで権力を誇示しようとしました。そこで選ばれたのが、長岡京です。 長岡京のあった現在の向日市(むこうし)、長岡京市周辺は木津川、鴨川、桂川が合流する巨椋池のほとりであり、水運の利便性が高い場所でした。ですが雨が降るとすぐにぬかるんでしまうため、人が住むには適していません。それでも、中心部から3㎞も進むと高台があり、山陰道から山陽道にも面していて陸運も便利でした。 こうして新都の場所が決められ、784年から造営工事は本格化します。工事は半年ほどで終わり、同年11月に桓武天皇が長岡に入って、遷都は事実上成功したはずでした。 都であった期間が10年しかなかったことから「長岡京は未完成だった」と考えられていました。しかし戦後になって発掘調査が進むと、平城京などから建物を移築して造営されており、ほぼ完成していたことがわかりました。   長岡京は怨霊を恐れた桓武天皇に放棄された ところが、785年に造営工事の責任者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺され、この事件に連座したと認定された早良親王(さわらしんのう)が憤死します。 これを境に疫病が大流行。早良親王の怨霊の仕業と恐れた桓武天皇は長岡京の都の放棄を決め、新たに平安京が造営されることになったのです。   長岡京に替わって遷都先に認定された平安京 遷都先に平安京が選ばれた理由は、京都盆地が太平洋側とは淀川で通じ、日本海側からも琵琶湖から瀬田川、宇治川経由で行き来できるからです。つまり、長岡京とほぼ同じ理由の利便性が優先されたのです。   平安京は風水に基づいて造営された? ただし、長岡京の放棄は疫病と、それを導いた怨霊が理由です。これらを鎮めるための地形が整っていなくてはなりません。 平安京は北に船岡山、東に鴨川、西に山陽道と山陰道、南に巨椋池が位置していました。これは風水における最良の地とされます。さらに比叡山に延暦寺を置き、都の南端に羅城門をはさんで東寺と西寺を配置するなど万全の対策をとります。 平安京が風水にもとづいているという説には異論も多いですが、少なからず影響を与えていたとしても不思議はありません。...

【京都府】恭仁京と長岡京ははぜ使われなくなった?平安京以前に造営された2つの都の放棄理由

794年に平安京が造営されて以来、皇居が移されるまで京都は天皇のお膝元であり続けました。じつは平安京の前にも、2度の仮遷都が行われていたのです。   恭仁京が新都として抜擢される 奈良時代、平城京では戦乱や天災、疫病が頻発しました。そのため聖武天皇(しょうむてんのう)は740年に新都の建設を計画します。災いで穢(けが)れた旧都から新都に移り、国を清浄化しようと考えたのです。 場所は山背国(やましろこく)(山城国)相楽郡(さがらぐん)(木津川市)の加茂盆地。すでに離宮が存在し、『万葉集』でも絶賛されたほど自然の美しい地でもあり、有力貴族の橘(たちばな)氏が本拠地としていました。 恭仁京の建設は進んだが計画は中断 聖武天皇は加茂盆地の環境をとても気に入り、新都として恭仁京(くにきょう)の建設が741年からはじまりました。同年3月までには内裏ができ、翌月には貴族への移住命令が出されていました。 ところが、翌742年になると聖武天皇の関心は仏殿建設と難波宮(なにわのみや)に向けられてしまい、新都建設は事実上中断。744年の難波京遷都も天皇の重病で中止され、都は平城京にとどまったのです。 恭仁京を鎮護するために彫られた? 磨崖仏 木津川市の当尾(とうの)地区には多くの石仏や石塔があります。なかでも最大・最古とされるのが「大門仏谷阿弥陀磨崖仏(だいもんほとけだにあみだまがいぶつ)」です。磨崖仏とは自然の岩山にそのまま刻まれた仏のこと。 平安時代末期の作といわれていますが、より古い奈良時代の作ともされ、恭仁京を護るために彫られたという説もあります。   長岡京へ遷都された経緯 次に遷都が実行されたのは、桓武天皇(かんむてんのう)の時代です。天智天皇(てんじてんのう)の皇統であった桓武天皇は、天武天皇(てんむてんのう)系が治めてきた平城京に代わる都を建てることで権力を誇示しようとしました。そこで選ばれたのが、長岡京です。 長岡京のあった現在の向日市(むこうし)、長岡京市周辺は木津川、鴨川、桂川が合流する巨椋池のほとりであり、水運の利便性が高い場所でした。ですが雨が降るとすぐにぬかるんでしまうため、人が住むには適していません。それでも、中心部から3㎞も進むと高台があり、山陰道から山陽道にも面していて陸運も便利でした。 こうして新都の場所が決められ、784年から造営工事は本格化します。工事は半年ほどで終わり、同年11月に桓武天皇が長岡に入って、遷都は事実上成功したはずでした。 都であった期間が10年しかなかったことから「長岡京は未完成だった」と考えられていました。しかし戦後になって発掘調査が進むと、平城京などから建物を移築して造営されており、ほぼ完成していたことがわかりました。   長岡京は怨霊を恐れた桓武天皇に放棄された ところが、785年に造営工事の責任者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺され、この事件に連座したと認定された早良親王(さわらしんのう)が憤死します。 これを境に疫病が大流行。早良親王の怨霊の仕業と恐れた桓武天皇は長岡京の都の放棄を決め、新たに平安京が造営されることになったのです。   長岡京に替わって遷都先に認定された平安京 遷都先に平安京が選ばれた理由は、京都盆地が太平洋側とは淀川で通じ、日本海側からも琵琶湖から瀬田川、宇治川経由で行き来できるからです。つまり、長岡京とほぼ同じ理由の利便性が優先されたのです。   平安京は風水に基づいて造営された? ただし、長岡京の放棄は疫病と、それを導いた怨霊が理由です。これらを鎮めるための地形が整っていなくてはなりません。 平安京は北に船岡山、東に鴨川、西に山陽道と山陰道、南に巨椋池が位置していました。これは風水における最良の地とされます。さらに比叡山に延暦寺を置き、都の南端に羅城門をはさんで東寺と西寺を配置するなど万全の対策をとります。 平安京が風水にもとづいているという説には異論も多いですが、少なからず影響を与えていたとしても不思議はありません。...