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【京都府】本能寺の変~信長の懐刀が起こした戦国最大の謀反で時代が一変

【京都府】本能寺の変~信長の懐刀が起こした戦国最大の謀反で時代が一変

群雄割拠のなか、尾張に織田信長が登場し、前時代の有力大名・今川義元を討ち取ります。群雄が領土争いに明け暮れるなか、天下統一を見据えた信長は、上洛を目指した戦略をもとに美濃・伊勢を攻略していく。ここに天下統一へ向けた戦いが始まります! 秀吉救援に赴くべく京都入りした信長。天下統一に手をかけた信長は本能寺であえない最期を迎えます。   本能寺の変~秀吉救援に赴くべく京都入りした信長 天正10年(1582)6月、中国地方の羽柴秀吉の救援に向かう途中、京都本能寺に宿泊した織田信長は、2日早暁、大軍の包囲を受けます。 小姓の報告によれば、軍勢の旗の家紋は「桔梗(ききょう)」。明智光秀です。  救援を待とうにも、当時、光秀のほかに大軍を抱える信長の重臣は京付近にいませんでした。 柴田勝家は北陸で上杉景勝と対戦中で、秀吉は備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)攻めの最中でした。一方の光秀は、6月1日夜に1万3000の兵を率いて丹波国(たんばのくに)亀山城から備中(びっちゅう)へ向けて出発しました。 途中の老ノ坂(おいのさか)で進路を変更。情報漏洩(ろうえい)に細心の注意を払いながら京都方面へ向かいます。やがて、桂川(かつらがわ)の手前に至ったところで、「敵は本能寺にあり」と味方の兵に告げたとされます。 本能寺の変~天下統一に手をかけた信長のあえない最期 警備が手薄な本能寺はひとたまりもなく破られました。信長は小姓らとともに武器を手に防戦しましたが、負傷すると奥の書院へと入り、炎のなかで自刃したとされます。同じ頃、妙覚寺(みょうかくじ)に宿泊していた嫡男の信忠も二条御所に駆けつけたところで襲撃を受け、ともにいた親王を逃がしたあとに最期を迎えています。 間もなく天下の主となるはずの父子が一夜にして世を去りました。 戦国の豆知識:本能寺の変 光秀謀反の理由には、怨恨説や公家、将軍などの黒幕説、ノイローゼ説など諸説ありますが、近年では四国政策を巡る信長との対立が指摘されています。

【京都府】本能寺の変~信長の懐刀が起こした戦国最大の謀反で時代が一変

群雄割拠のなか、尾張に織田信長が登場し、前時代の有力大名・今川義元を討ち取ります。群雄が領土争いに明け暮れるなか、天下統一を見据えた信長は、上洛を目指した戦略をもとに美濃・伊勢を攻略していく。ここに天下統一へ向けた戦いが始まります! 秀吉救援に赴くべく京都入りした信長。天下統一に手をかけた信長は本能寺であえない最期を迎えます。   本能寺の変~秀吉救援に赴くべく京都入りした信長 天正10年(1582)6月、中国地方の羽柴秀吉の救援に向かう途中、京都本能寺に宿泊した織田信長は、2日早暁、大軍の包囲を受けます。 小姓の報告によれば、軍勢の旗の家紋は「桔梗(ききょう)」。明智光秀です。  救援を待とうにも、当時、光秀のほかに大軍を抱える信長の重臣は京付近にいませんでした。 柴田勝家は北陸で上杉景勝と対戦中で、秀吉は備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)攻めの最中でした。一方の光秀は、6月1日夜に1万3000の兵を率いて丹波国(たんばのくに)亀山城から備中(びっちゅう)へ向けて出発しました。 途中の老ノ坂(おいのさか)で進路を変更。情報漏洩(ろうえい)に細心の注意を払いながら京都方面へ向かいます。やがて、桂川(かつらがわ)の手前に至ったところで、「敵は本能寺にあり」と味方の兵に告げたとされます。 本能寺の変~天下統一に手をかけた信長のあえない最期 警備が手薄な本能寺はひとたまりもなく破られました。信長は小姓らとともに武器を手に防戦しましたが、負傷すると奥の書院へと入り、炎のなかで自刃したとされます。同じ頃、妙覚寺(みょうかくじ)に宿泊していた嫡男の信忠も二条御所に駆けつけたところで襲撃を受け、ともにいた親王を逃がしたあとに最期を迎えています。 間もなく天下の主となるはずの父子が一夜にして世を去りました。 戦国の豆知識:本能寺の変 光秀謀反の理由には、怨恨説や公家、将軍などの黒幕説、ノイローゼ説など諸説ありますが、近年では四国政策を巡る信長との対立が指摘されています。

【大阪府】交野市の巨石パワースポットの数々と七夕伝説発祥の謎

【大阪府】交野市の巨石パワースポットの数々と七夕伝説発祥の謎

奈良県との県境にある交野市は古来より巨岩信仰が盛んで、市内には多くの巨石が存在します。なぜ交野は「岩のまち」となったのか、謎を追ってみました。   【交野市の巨石の謎】ルーツと特徴 大阪府の北東部にある交野(かたの)市は、人が行き交う野であったから、もしくは物部(もののべ)氏の一族である肩野(かたの)物部氏が支配していたからというのが市名の由来とされます。 そして、交野市の特徴の1つは「磐座(いわくら)」、つまり信仰の対象となった岩石が数多く存在していることです。   【交野市の巨石の謎】岩石にまつわる信仰 獅子窟寺にある「観音岩」 たとえば、市の東部には標高341mの交野山(こうのざん)がそびえていますが、その山頂には「観音岩」と呼ばれる1辺約15mの巨大な岩石が鎮座しています。観音岩の側面には梵字が刻まれており、そのことから岩が人々の間で崇拝されていたことがうかがえます。また同市の磐船(いわふね)神社には高さ約12mの「天の磐船」という巨大な石がご神体として祀られています。さらに弘法大師が籠ったと伝わる獅子窟寺(ししくつじ)には「獅子窟岩」や「観音岩」と呼ばれる岩があります。ほかにも大小さまざまな岩が点在します。 磐船神社の拝殿。後ろに見えるのがご神体の「天の磐船」 磐船神社の拝殿。後ろに見えるのがご神体の「天の磐船」 ほしだ園地にある「ハンバーガー岩」。「カエル岩」とも呼ばれる 交野市周辺はこんなところ 交野山は生駒山地の北端に位置し、標高はさほど高くありません。山頂にある観音岩から京都市内や大阪湾を一望できます。また、山頂から見る朝日は交野八景の1つ「交野山の来光」に選ばれています。   【交野市の巨石の謎】岩石が多い理由とは? では、なぜこのエリアには岩石が多く見られるのでしょうか。その理由とされるのは、交野の山地部がおもに花崗岩(かこうがん)でできているためという考え方です。 花崗岩は地下のマグマが冷えて固まることによってできる火成岩の一種。この地域の花崗岩は約8000万年前のマグマがもとになってできたとみられ、そのことから同市の山地部は、太古において地中深くに埋もれていたと考えられています。 プレート運動により地殻が圧縮されると、そのエネルギーによって急速に地面が隆起しました。およそ50万年前には交野山一帯が形成されたと考えられています。 交野一帯を形成した花崗岩の性質 また花崗岩は高い硬度を持ち、墓石や城の石垣などにも用いられる反面、亀裂した部分に水や空気が入り込むと風化しやすくなるという性質があります。 交野の山地の花崗岩も長年風雨にさらされ続けたことで、大部分が崩れて土砂となり、そのいっぽうで硬い部分は岩石のままの姿を保っているというわけです。   交野市に伝わる七夕伝説 ところで交野市は「七夕伝説発祥の地」として知られ、北斗七星の降臨伝説など星にまつわる伝承も残されています。そしてこれらの伝説も岩石が関与した出来事がルーツになったと考えられているのです。それは、816年に起こったとされる隕石の落下です。 記録によると、飛来した隕石は市の南西部の妙見山に落下し、その結果、山の大部分が吹き飛ばされたといわれます。この事件が語り継がれていく中で、いつしか七夕にまつわる伝説が生み出されていったと推測されます。 妙見山の小松神社(星田妙見宮(ほしだみょうけんぐう))には「織女石(たなばたせき)」という巨石が残り、市内には天野川が流れています。   『大阪のトリセツ』好評発売中! 大阪府の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。大阪府の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【大阪府】交野市の巨石パワースポットの数々と七夕伝説発祥の謎

奈良県との県境にある交野市は古来より巨岩信仰が盛んで、市内には多くの巨石が存在します。なぜ交野は「岩のまち」となったのか、謎を追ってみました。   【交野市の巨石の謎】ルーツと特徴 大阪府の北東部にある交野(かたの)市は、人が行き交う野であったから、もしくは物部(もののべ)氏の一族である肩野(かたの)物部氏が支配していたからというのが市名の由来とされます。 そして、交野市の特徴の1つは「磐座(いわくら)」、つまり信仰の対象となった岩石が数多く存在していることです。   【交野市の巨石の謎】岩石にまつわる信仰 獅子窟寺にある「観音岩」 たとえば、市の東部には標高341mの交野山(こうのざん)がそびえていますが、その山頂には「観音岩」と呼ばれる1辺約15mの巨大な岩石が鎮座しています。観音岩の側面には梵字が刻まれており、そのことから岩が人々の間で崇拝されていたことがうかがえます。また同市の磐船(いわふね)神社には高さ約12mの「天の磐船」という巨大な石がご神体として祀られています。さらに弘法大師が籠ったと伝わる獅子窟寺(ししくつじ)には「獅子窟岩」や「観音岩」と呼ばれる岩があります。ほかにも大小さまざまな岩が点在します。 磐船神社の拝殿。後ろに見えるのがご神体の「天の磐船」 磐船神社の拝殿。後ろに見えるのがご神体の「天の磐船」 ほしだ園地にある「ハンバーガー岩」。「カエル岩」とも呼ばれる 交野市周辺はこんなところ 交野山は生駒山地の北端に位置し、標高はさほど高くありません。山頂にある観音岩から京都市内や大阪湾を一望できます。また、山頂から見る朝日は交野八景の1つ「交野山の来光」に選ばれています。   【交野市の巨石の謎】岩石が多い理由とは? では、なぜこのエリアには岩石が多く見られるのでしょうか。その理由とされるのは、交野の山地部がおもに花崗岩(かこうがん)でできているためという考え方です。 花崗岩は地下のマグマが冷えて固まることによってできる火成岩の一種。この地域の花崗岩は約8000万年前のマグマがもとになってできたとみられ、そのことから同市の山地部は、太古において地中深くに埋もれていたと考えられています。 プレート運動により地殻が圧縮されると、そのエネルギーによって急速に地面が隆起しました。およそ50万年前には交野山一帯が形成されたと考えられています。 交野一帯を形成した花崗岩の性質 また花崗岩は高い硬度を持ち、墓石や城の石垣などにも用いられる反面、亀裂した部分に水や空気が入り込むと風化しやすくなるという性質があります。 交野の山地の花崗岩も長年風雨にさらされ続けたことで、大部分が崩れて土砂となり、そのいっぽうで硬い部分は岩石のままの姿を保っているというわけです。   交野市に伝わる七夕伝説 ところで交野市は「七夕伝説発祥の地」として知られ、北斗七星の降臨伝説など星にまつわる伝承も残されています。そしてこれらの伝説も岩石が関与した出来事がルーツになったと考えられているのです。それは、816年に起こったとされる隕石の落下です。 記録によると、飛来した隕石は市の南西部の妙見山に落下し、その結果、山の大部分が吹き飛ばされたといわれます。この事件が語り継がれていく中で、いつしか七夕にまつわる伝説が生み出されていったと推測されます。 妙見山の小松神社(星田妙見宮(ほしだみょうけんぐう))には「織女石(たなばたせき)」という巨石が残り、市内には天野川が流れています。   『大阪のトリセツ』好評発売中! 大阪府の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。大阪府の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【大阪府】織田信長に恭順して戦火を免れた富田林寺内町

【大阪府】織田信長に恭順して戦火を免れた富田林寺内町

10年も続いた石山合戦では、本願寺傘下の寺内町の多くが信長に敵対しました。ですが、その中には戦いに参加せず存続し続けた町もあったのです。   本願寺の勢力を拡大した蓮如 室町時代後期、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の本願寺(ほんがんじ)8世・蓮如(れんにょ)は、宗祖である親鸞(しんらん)の教えをわかりやすく民衆に広めました。 平等と団結を訴える蓮如の言葉は多くの民衆に受け入れられ、これによって本願寺の勢力は拡大しました。親鸞の「一向専念無量寿仏(いっこうせんねんむりょうじゅぶつ 」(阿弥陀仏一仏だけに向け)という教えから、浄土真宗は「一向宗」とも呼ばれるようになりました。   寺内町の面影を色濃く残す富田林 戦国時代になると、京都山科を追われた本願寺は大坂石山に拠点を移します。この石山本願寺(いしやまほんがんじ)周辺の八尾(やお)、久宝寺(きゅうほうじ)、枚方(ひらかた)などには一向宗寺院を中心とする町が築かれ、やがてどの大名にも属さない事実上の自治権を獲得しました。これが大阪における「寺内町」のはじまりです。 当時の面影を、今も色濃く残しているのが富田林(とんだばやし)です。1558年、一向宗の証秀(しょうしゅう)上人が興正寺(こうしょうじ)の別院を建立したことから富田林は寺内町となります。 段丘の地形に竹藪や石垣を組み合わせ、有事の際には防御陣地としても活用できたといいます。   富田林の寺内町だけは戦火を免れた 1570年、本願寺は織田信長と対立する勢力にくみして、石山合戦がはじまります。その結果、多くの寺内町は攻撃を受けたのですが、富田林だけは戦火を免れることができました。なぜなら、富田林は本願寺に味方せず、信長に恭順して存続を許されたからです。 大寺院が町を運営する一般的な寺内町とは異なり、富田林の自治を担っていたのは「八人衆」と呼ばれる地元の庄屋集団でした。寺院の力も強くはなく、本願寺の要請を無視することも比較的たやすかったのです。 その結果、市内の富田林町には寺内町の町並みが現存し、1997年には大阪府下で唯一の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。 織田軍は本願寺勢を取り囲みましたが、力では攻略できませんでした。   寺内町を存続した貝塚と再編された富田林 戦闘には巻き込まれはしたものの、時代の動きに合わせることで存続できた寺内町もあります。石山合戦に巻き込まれた貝塚です。町は1580年に再建され、江戸時代に入っても寺内町として自治が認められたのです。 江戸幕府は寺内町を再編して自治権を奪い、富田林も商品生産地である「在郷町(ざいごうまち)」となりました。ですが貝塚は、江戸時代初期の本願寺の後継者争いで不介入を貫いたこと、紀伊徳川家が大坂へ移動する際に使う本陣が置かれたことなどから、再編対象から外されました。 こうして貝塚は、明治維新まで寺内町としての自治を保ち、現在でも江戸時代当時の建物が複数残されています。 国土地理院標準地図を元に作成 赤い丸付近が旧寺内町の範囲。織田信長より「寺内別条なき」との保証を受けた富田林には、 六筋八町の区画や辻角の「あてまげ」など、当時の面影が断片的に残されています。   寺内町は北摂にもう1つ残る 河内の富田林、泉州の貝塚と同じように高槻富田(現・高槻市富田町)も一向宗の寺内町でした。本願寺が1476年に室町幕府管領の細川家からこの地を譲られ、「富田道場」という寺院を建てたことから寺内町となりました。 1532年には細川家との対立で焼き討ちされますが、4年後に再建され、蓮如が親鸞の著作 を書き写したことから「教行寺(きょうぎょうじ)」という別名でも呼ばれていました。...

【大阪府】織田信長に恭順して戦火を免れた富田林寺内町

10年も続いた石山合戦では、本願寺傘下の寺内町の多くが信長に敵対しました。ですが、その中には戦いに参加せず存続し続けた町もあったのです。   本願寺の勢力を拡大した蓮如 室町時代後期、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の本願寺(ほんがんじ)8世・蓮如(れんにょ)は、宗祖である親鸞(しんらん)の教えをわかりやすく民衆に広めました。 平等と団結を訴える蓮如の言葉は多くの民衆に受け入れられ、これによって本願寺の勢力は拡大しました。親鸞の「一向専念無量寿仏(いっこうせんねんむりょうじゅぶつ 」(阿弥陀仏一仏だけに向け)という教えから、浄土真宗は「一向宗」とも呼ばれるようになりました。   寺内町の面影を色濃く残す富田林 戦国時代になると、京都山科を追われた本願寺は大坂石山に拠点を移します。この石山本願寺(いしやまほんがんじ)周辺の八尾(やお)、久宝寺(きゅうほうじ)、枚方(ひらかた)などには一向宗寺院を中心とする町が築かれ、やがてどの大名にも属さない事実上の自治権を獲得しました。これが大阪における「寺内町」のはじまりです。 当時の面影を、今も色濃く残しているのが富田林(とんだばやし)です。1558年、一向宗の証秀(しょうしゅう)上人が興正寺(こうしょうじ)の別院を建立したことから富田林は寺内町となります。 段丘の地形に竹藪や石垣を組み合わせ、有事の際には防御陣地としても活用できたといいます。   富田林の寺内町だけは戦火を免れた 1570年、本願寺は織田信長と対立する勢力にくみして、石山合戦がはじまります。その結果、多くの寺内町は攻撃を受けたのですが、富田林だけは戦火を免れることができました。なぜなら、富田林は本願寺に味方せず、信長に恭順して存続を許されたからです。 大寺院が町を運営する一般的な寺内町とは異なり、富田林の自治を担っていたのは「八人衆」と呼ばれる地元の庄屋集団でした。寺院の力も強くはなく、本願寺の要請を無視することも比較的たやすかったのです。 その結果、市内の富田林町には寺内町の町並みが現存し、1997年には大阪府下で唯一の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。 織田軍は本願寺勢を取り囲みましたが、力では攻略できませんでした。   寺内町を存続した貝塚と再編された富田林 戦闘には巻き込まれはしたものの、時代の動きに合わせることで存続できた寺内町もあります。石山合戦に巻き込まれた貝塚です。町は1580年に再建され、江戸時代に入っても寺内町として自治が認められたのです。 江戸幕府は寺内町を再編して自治権を奪い、富田林も商品生産地である「在郷町(ざいごうまち)」となりました。ですが貝塚は、江戸時代初期の本願寺の後継者争いで不介入を貫いたこと、紀伊徳川家が大坂へ移動する際に使う本陣が置かれたことなどから、再編対象から外されました。 こうして貝塚は、明治維新まで寺内町としての自治を保ち、現在でも江戸時代当時の建物が複数残されています。 国土地理院標準地図を元に作成 赤い丸付近が旧寺内町の範囲。織田信長より「寺内別条なき」との保証を受けた富田林には、 六筋八町の区画や辻角の「あてまげ」など、当時の面影が断片的に残されています。   寺内町は北摂にもう1つ残る 河内の富田林、泉州の貝塚と同じように高槻富田(現・高槻市富田町)も一向宗の寺内町でした。本願寺が1476年に室町幕府管領の細川家からこの地を譲られ、「富田道場」という寺院を建てたことから寺内町となりました。 1532年には細川家との対立で焼き討ちされますが、4年後に再建され、蓮如が親鸞の著作 を書き写したことから「教行寺(きょうぎょうじ)」という別名でも呼ばれていました。...

【奈良県】松永久秀が築いた多聞山城~織田信長もほれ込んだ日本初の天守閣~

【奈良県】松永久秀が築いた多聞山城~織田信長もほれ込んだ日本初の天守閣~

東大寺北、佐保山にあった多聞山城(多聞城)には、日本で最初の天守閣がありました。豪華絢爛な城は外国人宣教師からも称賛され、近世城郭の先駆けとなりました。   松永久秀は多聞山城を築いた戦国武将 松永久秀(まつながひさひで)といえば、管領(かんれい)の三好長慶(ながよし)の重臣の身から、大和一円を支配するまで昇りつめた戦国武将。長慶没後は三好3人衆と呼ばれた家臣らと将軍・足利義輝(あしかがよしてる)を暗殺し(永禄の変、1565年)、のちには三好3人衆と敵対し東大寺周辺で戦いを交え、大仏殿に火を放ったとされました。 織田信長とは上洛前から手を結んでいましたが2度裏切りました。これらの悪行により松永久秀は歴史上「梟雄(きょうゆう)」とも呼ばれましたが、彼が築いた名城、多聞山城(たもんやまじょう)からは違った一面も見えてきます。   松永久秀が奈良を支配する絶好の拠点となった多聞山城 松永久秀は信貴山城(しぎさんじょう)を居城として大和に侵攻した後、永禄3(1560)年、東大寺の北側、佐保山(さほやま)に多聞山城を築きました。その名は信仰していた北の守護神・多聞天(毘沙門天)にちなんだものです。 城は興福寺などの宗教勢力を一望できる高台にあり、東に京街道が通る交通の要衝にも位置し、奈良支配への絶好の拠点となりました。 多聞山城の特徴 城郭は城壁で囲まれ日本初の天守閣にあたる4層の櫓を備えていました。壁は鉄砲の弾が貫通しないよう漆喰塗りで、屋根は火矢の攻撃に強い瓦葺き。周囲には大規模な横堀をめぐらし防御に秀でていました。白い漆喰塗りの壁は寺院様式を応用し、寺院専門の瓦工人が城用に瓦を焼くなど、古都の特性が生かされました。 多聞山城は豪華絢爛!美しさも際立っていた 多聞山城は美しさも際立っていました。城内には会所・主殿があり、柱には彫刻や真鍮製の飾りが付いていました。引手などの調度品は京都の錺金具(かざりかなぐ)師・躰阿弥(たいあみ)に、絵は狩野派(かのう)派の絵師に依頼したといいます。 茶室(茶亭)が2つあり茶会も催されました。豪華絢爛な城の様子をイエズス会宣教師アルメイダは「世界中この城のごとく善かつ美なるものはなし」と記しました。   松永久秀から織田信長へ空け渡された多聞山城 しかし、城は長くは続きませんでした。元亀2(1571)年、松永久秀は長慶亡き後、養子の三好義継(みよしよしつぐ)らと組んで信長を裏切りましたが追い詰められ、その後多聞山城を信長に空け渡しました。信長は松永久秀と敵対していた筒井順慶に大和の支配権を与え、天正4(1576)年、城郭の取り壊しを命じました。   松永久秀の最期 松永久秀は翌年、本願寺攻めを離脱して再び信長に背き、信貴山城で籠城し自害しました。このとき信長は「名器『平蜘蛛茶釜』を差し出せば助命する」と伝えましたが、松永久秀は「平蜘蛛の釜とわれらの首と2つは、信長公のお目に掛けない」と答え、釜をたたき割り、みずから爆死したとされます。 松永久秀の2度の裏切りについては諸説あり、信長が松永久秀を軽くあしらったのが原因ともいわれます。義輝暗殺や大仏放火については、松永久秀の関与を否定する説もあり、「梟雄」の実像が明らかになってきました。 多聞山城は近世城郭の先駆け!織田信長の安土城天守のモデルとなった 多聞山城の堅牢で美しい造りは、近世城郭の先駆けとなり、4層の櫓はのちに信長が安土城天守のモデルにしたとされています。信長は進取的な構造を備えた多聞山城を妬み、ことごとく破壊したといいます。 多聞山城は松永久秀と信長、2人の武将の命運とともに語り継がれています。   『奈良のトリセツ』好評発売中! 奈良県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。奈良県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【奈良県】松永久秀が築いた多聞山城~織田信長もほれ込んだ日本初の天守閣~

東大寺北、佐保山にあった多聞山城(多聞城)には、日本で最初の天守閣がありました。豪華絢爛な城は外国人宣教師からも称賛され、近世城郭の先駆けとなりました。   松永久秀は多聞山城を築いた戦国武将 松永久秀(まつながひさひで)といえば、管領(かんれい)の三好長慶(ながよし)の重臣の身から、大和一円を支配するまで昇りつめた戦国武将。長慶没後は三好3人衆と呼ばれた家臣らと将軍・足利義輝(あしかがよしてる)を暗殺し(永禄の変、1565年)、のちには三好3人衆と敵対し東大寺周辺で戦いを交え、大仏殿に火を放ったとされました。 織田信長とは上洛前から手を結んでいましたが2度裏切りました。これらの悪行により松永久秀は歴史上「梟雄(きょうゆう)」とも呼ばれましたが、彼が築いた名城、多聞山城(たもんやまじょう)からは違った一面も見えてきます。   松永久秀が奈良を支配する絶好の拠点となった多聞山城 松永久秀は信貴山城(しぎさんじょう)を居城として大和に侵攻した後、永禄3(1560)年、東大寺の北側、佐保山(さほやま)に多聞山城を築きました。その名は信仰していた北の守護神・多聞天(毘沙門天)にちなんだものです。 城は興福寺などの宗教勢力を一望できる高台にあり、東に京街道が通る交通の要衝にも位置し、奈良支配への絶好の拠点となりました。 多聞山城の特徴 城郭は城壁で囲まれ日本初の天守閣にあたる4層の櫓を備えていました。壁は鉄砲の弾が貫通しないよう漆喰塗りで、屋根は火矢の攻撃に強い瓦葺き。周囲には大規模な横堀をめぐらし防御に秀でていました。白い漆喰塗りの壁は寺院様式を応用し、寺院専門の瓦工人が城用に瓦を焼くなど、古都の特性が生かされました。 多聞山城は豪華絢爛!美しさも際立っていた 多聞山城は美しさも際立っていました。城内には会所・主殿があり、柱には彫刻や真鍮製の飾りが付いていました。引手などの調度品は京都の錺金具(かざりかなぐ)師・躰阿弥(たいあみ)に、絵は狩野派(かのう)派の絵師に依頼したといいます。 茶室(茶亭)が2つあり茶会も催されました。豪華絢爛な城の様子をイエズス会宣教師アルメイダは「世界中この城のごとく善かつ美なるものはなし」と記しました。   松永久秀から織田信長へ空け渡された多聞山城 しかし、城は長くは続きませんでした。元亀2(1571)年、松永久秀は長慶亡き後、養子の三好義継(みよしよしつぐ)らと組んで信長を裏切りましたが追い詰められ、その後多聞山城を信長に空け渡しました。信長は松永久秀と敵対していた筒井順慶に大和の支配権を与え、天正4(1576)年、城郭の取り壊しを命じました。   松永久秀の最期 松永久秀は翌年、本願寺攻めを離脱して再び信長に背き、信貴山城で籠城し自害しました。このとき信長は「名器『平蜘蛛茶釜』を差し出せば助命する」と伝えましたが、松永久秀は「平蜘蛛の釜とわれらの首と2つは、信長公のお目に掛けない」と答え、釜をたたき割り、みずから爆死したとされます。 松永久秀の2度の裏切りについては諸説あり、信長が松永久秀を軽くあしらったのが原因ともいわれます。義輝暗殺や大仏放火については、松永久秀の関与を否定する説もあり、「梟雄」の実像が明らかになってきました。 多聞山城は近世城郭の先駆け!織田信長の安土城天守のモデルとなった 多聞山城の堅牢で美しい造りは、近世城郭の先駆けとなり、4層の櫓はのちに信長が安土城天守のモデルにしたとされています。信長は進取的な構造を備えた多聞山城を妬み、ことごとく破壊したといいます。 多聞山城は松永久秀と信長、2人の武将の命運とともに語り継がれています。   『奈良のトリセツ』好評発売中! 奈良県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。奈良県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【千葉県】新京成電鉄のS字急曲線はなぜ生まれた?

【千葉県】新京成電鉄のS字急曲線はなぜ生まれた?

周囲が開けた平地を走っているにもかかわらず、なぜか急曲線が連続する新京成電鉄。その配線には、戦争の歴史が深く関係していました。   新京成電鉄は、地形にかかわらず線路が右に左にカーブしています。直線区間が非常に少ないですが、これは太平洋戦争時における陸軍用地を転用したからです。   新京成電鉄のルーツは鉄道連隊 かつて日本には「鉄道連隊」と呼ばれる、戦地での鉄道敷設、輸送、破壊を行う陸軍の部隊がありました。物資輸送などを行う兵站(へいたん)は後方支援として非常に重要で、鉄道は輸送手段として大きな存在だったのです。 しかし、戦地において鉄道を迅速に敷設するには日頃の訓練、演習が必要で、千葉県にはいくつかの演習線が存在していました。その演習線を旅客線に転用したのが新京成電鉄です。 鉄道連隊とは 鉄道連隊は、帝国陸軍の「鉄道大隊」が1896(明治29)年に設けられたのが始まりで、日露戦争(1904~1905年)に出征。1907(明治40)年に鉄道連隊となり、それまでの東京の中野から千葉に第一・第二大隊を移転し、津田沼に第三大隊を新設。本格的な教育、訓練のため、四街道~千葉~津田沼間、津田沼~松戸間の演習線が設けられました。 1918(大正7)年には鉄道第一連隊が千葉、第二連隊が津田沼に置かれ、演習線のほか、鉄道連隊を利用し県内の鉄道を整備。現在の東武野田線、JR久留里線などが敷設されました。 太平洋戦争中は、タイ~ビルマ(現・ミャンマー)間を結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設など、東南アジアでも活動しました。 新京成電鉄のカーブはかつての演習線の名残 戦後、演習線の津田沼~松戸間は放置されたままになっていました。これに目を付けたのが西武鉄道と京成電鉄で、国に払い下げを陳情。結果的に西武は資材を獲得、京成は1946(昭和21)年に新京成電鉄を発足し、同区間に新線を建設することになったのです。 新線の大部分は演習線を利用したため、用地費や土木費などは低く抑えることができました。半面、演習線ではさまざまな状況を想定して敷設演習が行われていたので、線形は曲線が非常に多く右に左に蛇行を繰り返しています。 当時は荒れ放題だったというこの用地に、新京成電鉄は軌道を敷き、1947(昭和22)年12月、新津田沼~薬園台(やくえんだい)間を開業しました。翌年から滝不動(たきふどう)、鎌ヶ谷大仏、鎌ヶ谷初富(はつとみ)(現・初富)と延伸を繰り返し、1955(昭和30)年4月に松戸までの全線が開業。一部区間は直線に改められましたが、急曲線の多さは特筆もの。 1975(昭和50)年2月、新津田沼~京成津田沼間を除き全線で複線化した際、演習線は大半が複線のため建設は容易だったといわれています。 新津田沼~京成津田沼付近の今 1968(昭和43)年、藤崎台経由の路線を廃止するとともに、新津田沼駅を300mほど京成津田沼駅寄りへ移動させました。このとき、かつての陸軍鉄道連隊の訓練線を利用して前原から現・新津田沼の線路を敷設。さらに、京成津田沼駅と結んだために線路は急なS字を描くこととなったのです。   『千葉のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。本書では千葉県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【千葉県】新京成電鉄のS字急曲線はなぜ生まれた?

周囲が開けた平地を走っているにもかかわらず、なぜか急曲線が連続する新京成電鉄。その配線には、戦争の歴史が深く関係していました。   新京成電鉄は、地形にかかわらず線路が右に左にカーブしています。直線区間が非常に少ないですが、これは太平洋戦争時における陸軍用地を転用したからです。   新京成電鉄のルーツは鉄道連隊 かつて日本には「鉄道連隊」と呼ばれる、戦地での鉄道敷設、輸送、破壊を行う陸軍の部隊がありました。物資輸送などを行う兵站(へいたん)は後方支援として非常に重要で、鉄道は輸送手段として大きな存在だったのです。 しかし、戦地において鉄道を迅速に敷設するには日頃の訓練、演習が必要で、千葉県にはいくつかの演習線が存在していました。その演習線を旅客線に転用したのが新京成電鉄です。 鉄道連隊とは 鉄道連隊は、帝国陸軍の「鉄道大隊」が1896(明治29)年に設けられたのが始まりで、日露戦争(1904~1905年)に出征。1907(明治40)年に鉄道連隊となり、それまでの東京の中野から千葉に第一・第二大隊を移転し、津田沼に第三大隊を新設。本格的な教育、訓練のため、四街道~千葉~津田沼間、津田沼~松戸間の演習線が設けられました。 1918(大正7)年には鉄道第一連隊が千葉、第二連隊が津田沼に置かれ、演習線のほか、鉄道連隊を利用し県内の鉄道を整備。現在の東武野田線、JR久留里線などが敷設されました。 太平洋戦争中は、タイ~ビルマ(現・ミャンマー)間を結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設など、東南アジアでも活動しました。 新京成電鉄のカーブはかつての演習線の名残 戦後、演習線の津田沼~松戸間は放置されたままになっていました。これに目を付けたのが西武鉄道と京成電鉄で、国に払い下げを陳情。結果的に西武は資材を獲得、京成は1946(昭和21)年に新京成電鉄を発足し、同区間に新線を建設することになったのです。 新線の大部分は演習線を利用したため、用地費や土木費などは低く抑えることができました。半面、演習線ではさまざまな状況を想定して敷設演習が行われていたので、線形は曲線が非常に多く右に左に蛇行を繰り返しています。 当時は荒れ放題だったというこの用地に、新京成電鉄は軌道を敷き、1947(昭和22)年12月、新津田沼~薬園台(やくえんだい)間を開業しました。翌年から滝不動(たきふどう)、鎌ヶ谷大仏、鎌ヶ谷初富(はつとみ)(現・初富)と延伸を繰り返し、1955(昭和30)年4月に松戸までの全線が開業。一部区間は直線に改められましたが、急曲線の多さは特筆もの。 1975(昭和50)年2月、新津田沼~京成津田沼間を除き全線で複線化した際、演習線は大半が複線のため建設は容易だったといわれています。 新津田沼~京成津田沼付近の今 1968(昭和43)年、藤崎台経由の路線を廃止するとともに、新津田沼駅を300mほど京成津田沼駅寄りへ移動させました。このとき、かつての陸軍鉄道連隊の訓練線を利用して前原から現・新津田沼の線路を敷設。さらに、京成津田沼駅と結んだために線路は急なS字を描くこととなったのです。   『千葉のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。本書では千葉県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【沖縄県】沖縄の戦争被害とは?~不況によるソテツ地獄を経て国内で唯一戦場となった沖縄~

【沖縄県】沖縄の戦争被害とは?~不況によるソテツ地獄を経て国内で唯一戦場となった沖縄~

沖縄は農業県として特産品を輸出していきました。ですが、大正から昭和初期にはたび重なる不況に見舞われ、困窮したまま太平洋戦争に突入します。 沖縄は戦争による特需で好景気に 日露戦争(1904〜1905年)後に戦後不況に陥った日本経済は、ヨーロッパが第一次世界大戦(1914〜1918年)に突入すると、軍需品や鉱産物、薬品などを大量に輸出するようになり、戦争特需に沸きました。沖縄県の特産品である砂糖も需要が高まり、値段が高騰します。この頃は沖縄県内人口の約7割が農家で、食用にサツマイモを栽培し、サトウキビから精製した砂糖を売って米や日用品を得る生活を営んでいましたが、わずか10年の間に砂糖の値段が3倍にも跳ね上がったことから、「砂糖成金」と呼ばれる商人や農家が誕生しました。 沖縄は戦争後の不況により「ソテツ地獄」に ところが、第一次世界大戦が終結してヨーロッパ経済が立ち直ると、日本は過剰生産による戦後恐慌に陥ります。不況の波は砂糖に支えられていた沖縄経済を直撃し、沖縄県民の生活は窮乏していきました。1919(大正8)年には税金滞納者はわずか0.3%だったにもかかわらず、2年後の1921(大正10)年には47.4%にも膨れあがったことからも、その窮状をうかがい知ることができます。 農民たちは、米はおろかサツマイモすら口にすることができなくなり、やむなくソテツを食べるのでした。ソテツの実や幹にはデンプン質が含まれていることから、琉球王国時代の18世紀から飢饉に備えて栽培されていたのですが、毒があるため、水洗いが不十分だと中毒を招くこともありました。それでもソテツを食べざるを得ない状況から、沖縄ではこの経済不況期を「ソテツ地獄」と呼んだのです。加えて1930(昭和5)年には、前年の世界恐慌に端を発する昭和恐慌が起こります。このような社会背景もあって、沖縄から海外への移住者はあとを絶たず、1923(大正12)年から1930(昭和5)年までの日本全体の移民のうち、じつに1割が沖縄からでした。本土へと出稼ぎに出る者も多く、沖縄県民生活は安定しませんでした。 沖縄の太平洋戦争被害 沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒と教師のための慰霊碑「ひめゆりの塔」。多くの犠牲者が出た壕の前に立ちます そして日本は太平洋戦争に突入し、沖縄は前線基地の役割を担わされていきます。1944(昭和19)年7月にサイパン島が陥落すると、連合国軍の次の攻略目標は沖縄になることが予想されました。日本は第32軍を沖縄に配備し、沖縄島民10万人を疎開させる計画を立てましたが、同年8月22日には学童疎開の児童約800人を含む約1700人を乗せた対つしま馬丸が撃沈され、疎開の足は滞りました。 10月10日には南西諸島全域を対象とした大規模な空襲(十・十空襲)に見舞われ、那覇市は市街地の90%以上が焼失。旧日本軍も壊滅的な痛手を負い、以降、沖縄島民たちは戦場に駆り出され、1945(昭和20)年3月以降、10代の生徒たちも男子は鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)、女子はひめゆり学徒隊など看護要員として戦場に動員されました。 沖縄の太平洋戦争時の米軍侵攻図 『沖縄の戦争遺跡〈 記憶〉を未来につなげる』(吉川弘文館、 2017年)を元に作成。 1945(昭和20)年3月26日に座間味島(ざまみじま)、翌27日に渡嘉敷島(とかしきじま)に米軍が上陸。そして4月1日には沖縄島西岸の読谷山村(現・読谷村)渡具知(とぐち)海岸に上陸し、3日には東岸に至り沖縄島を南北に分断しました。 沖縄での戦争は凄惨を極め幕を下ろす 沖縄県営平和祈念公園(糸満市)内には沖縄戦などの戦没者約24万人の名前が刻まれた平和の礎(いしじ)があります 1945(昭和20)年3月26日、アメリカ艦隊は慶良間諸島に集結し、29日には占領した。そして4月1日から米軍55万の将兵が、沖縄島の読谷から艦砲射撃と空襲を交えた上陸戦を展開し、沖縄守備隊は壊滅。さらに、沖縄戦の最中には、旧日本軍による沖縄県民への集団死の強要も横行しました。6月23日には組織的な戦闘は終わり、凄惨を極めましたが沖縄戦は幕を下ろしたのです。 『沖縄のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から沖縄県を分析! 沖縄県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。沖縄の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報を満載!

【沖縄県】沖縄の戦争被害とは?~不況によるソテツ地獄を経て国内で唯一戦場となった沖縄~

沖縄は農業県として特産品を輸出していきました。ですが、大正から昭和初期にはたび重なる不況に見舞われ、困窮したまま太平洋戦争に突入します。 沖縄は戦争による特需で好景気に 日露戦争(1904〜1905年)後に戦後不況に陥った日本経済は、ヨーロッパが第一次世界大戦(1914〜1918年)に突入すると、軍需品や鉱産物、薬品などを大量に輸出するようになり、戦争特需に沸きました。沖縄県の特産品である砂糖も需要が高まり、値段が高騰します。この頃は沖縄県内人口の約7割が農家で、食用にサツマイモを栽培し、サトウキビから精製した砂糖を売って米や日用品を得る生活を営んでいましたが、わずか10年の間に砂糖の値段が3倍にも跳ね上がったことから、「砂糖成金」と呼ばれる商人や農家が誕生しました。 沖縄は戦争後の不況により「ソテツ地獄」に ところが、第一次世界大戦が終結してヨーロッパ経済が立ち直ると、日本は過剰生産による戦後恐慌に陥ります。不況の波は砂糖に支えられていた沖縄経済を直撃し、沖縄県民の生活は窮乏していきました。1919(大正8)年には税金滞納者はわずか0.3%だったにもかかわらず、2年後の1921(大正10)年には47.4%にも膨れあがったことからも、その窮状をうかがい知ることができます。 農民たちは、米はおろかサツマイモすら口にすることができなくなり、やむなくソテツを食べるのでした。ソテツの実や幹にはデンプン質が含まれていることから、琉球王国時代の18世紀から飢饉に備えて栽培されていたのですが、毒があるため、水洗いが不十分だと中毒を招くこともありました。それでもソテツを食べざるを得ない状況から、沖縄ではこの経済不況期を「ソテツ地獄」と呼んだのです。加えて1930(昭和5)年には、前年の世界恐慌に端を発する昭和恐慌が起こります。このような社会背景もあって、沖縄から海外への移住者はあとを絶たず、1923(大正12)年から1930(昭和5)年までの日本全体の移民のうち、じつに1割が沖縄からでした。本土へと出稼ぎに出る者も多く、沖縄県民生活は安定しませんでした。 沖縄の太平洋戦争被害 沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒と教師のための慰霊碑「ひめゆりの塔」。多くの犠牲者が出た壕の前に立ちます そして日本は太平洋戦争に突入し、沖縄は前線基地の役割を担わされていきます。1944(昭和19)年7月にサイパン島が陥落すると、連合国軍の次の攻略目標は沖縄になることが予想されました。日本は第32軍を沖縄に配備し、沖縄島民10万人を疎開させる計画を立てましたが、同年8月22日には学童疎開の児童約800人を含む約1700人を乗せた対つしま馬丸が撃沈され、疎開の足は滞りました。 10月10日には南西諸島全域を対象とした大規模な空襲(十・十空襲)に見舞われ、那覇市は市街地の90%以上が焼失。旧日本軍も壊滅的な痛手を負い、以降、沖縄島民たちは戦場に駆り出され、1945(昭和20)年3月以降、10代の生徒たちも男子は鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)、女子はひめゆり学徒隊など看護要員として戦場に動員されました。 沖縄の太平洋戦争時の米軍侵攻図 『沖縄の戦争遺跡〈 記憶〉を未来につなげる』(吉川弘文館、 2017年)を元に作成。 1945(昭和20)年3月26日に座間味島(ざまみじま)、翌27日に渡嘉敷島(とかしきじま)に米軍が上陸。そして4月1日には沖縄島西岸の読谷山村(現・読谷村)渡具知(とぐち)海岸に上陸し、3日には東岸に至り沖縄島を南北に分断しました。 沖縄での戦争は凄惨を極め幕を下ろす 沖縄県営平和祈念公園(糸満市)内には沖縄戦などの戦没者約24万人の名前が刻まれた平和の礎(いしじ)があります 1945(昭和20)年3月26日、アメリカ艦隊は慶良間諸島に集結し、29日には占領した。そして4月1日から米軍55万の将兵が、沖縄島の読谷から艦砲射撃と空襲を交えた上陸戦を展開し、沖縄守備隊は壊滅。さらに、沖縄戦の最中には、旧日本軍による沖縄県民への集団死の強要も横行しました。6月23日には組織的な戦闘は終わり、凄惨を極めましたが沖縄戦は幕を下ろしたのです。 『沖縄のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から沖縄県を分析! 沖縄県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。沖縄の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報を満載!

【茨城県】霞ヶ浦はどうやって誕生した?~日本で2番目に大きな湖誕生の秘密~

【茨城県】霞ヶ浦はどうやって誕生した?~日本で2番目に大きな湖誕生の秘密~

関東平野はかつて海の底でした。その後の気候変動で繰り返された海進と海退、土砂の堆積。それにより海の一部が切り離され霞ヶ浦は生まれたのです。   霞ヶ浦の成り立ち 広義での霞ヶ浦は西浦、北浦、外浪逆浦(そとなさかうら)の3湖を指し、外浪逆浦は北利根川で西浦に、鰐川(わにがわ)で北浦につながっています。また、外浪逆浦の先は常陸川となり利根川に注いでいます。これらを合わせた面積は220㎢で、国内の湖では琵琶湖に次ぐ2番目の大きさです。なお、狭義での霞ヶ浦は、3湖で最大の西浦(172㎢)を指しますが、西浦だけでも国内3位の広さをもち、北海道のサロマ湖よりも大きいです。 霞ヶ浦(西浦)は、茨城県の10市1町1村、千葉県の1市にまたがっています。霞ヶ浦の名は、奈良時代初期に編纂された『常陸風土記』にある、現・潮来市の一部を指す香澄郷(かすみのさと)に由来するとされます。   霞ヶ浦形成の歴史 かつて関東平野一帯は、古東京湾(ことうきょうわん)と呼ばれる浅い海の底にありました。当時は気候変動が激しく、氷期と間氷期(かんぴょうき)(氷期と次の氷期までの温暖な時期)を幾度となく繰り返していました。一帯は、氷期には海面が大きく下がって陸化し、間氷期になると海面が上昇し水没します。陸化すると地表は侵食され、川とともに山のほうから運ばれてきた土砂が堆積しました。 霞ヶ浦形成の歴史:氷期と間氷期を繰り返して周辺大地を形成 いっぽうで、水没期には海底となり泥や砂が堆積していきました。これを繰り返すうちに、霞ヶ浦周辺の台地の原形が形成されていきました。この時期の堆積物を総称して下総層群(しもうさそうぐん)と呼びます。約13万~12万年前に起こった海面上昇(下末吉海進(しもすえよしかいしん))の際、霞ヶ浦周辺は再び海の底に沈みます。このとき浅瀬に生息していたカキの化石床が、かすみがうら市崎浜の崖に露出しています。 霞ヶ浦形成の歴史:西浦の概形はは古鬼怒川によるもの 下末吉海進は約10万年前に終わり、今度は約2万1000年前の最終氷期をピークに海面が大きく低下して、現在より約120m低くなりました。現在の西浦一帯は広大な干潟となり古鬼怒川が流れました。古鬼怒川は現在の鬼怒川とは流路が異なり、栃木県の日光周辺に源を発し、現在の桜川に近い流路で西浦付近を経由し太平洋へ注いでいました。 こうして、古鬼怒川は西浦の概形を刻むと同時に、日光方面から土砂を運び、それを堆積させていきました。古鬼怒川は約2万年前に流路を変え、今の小貝川付近を流れるようになります。また、桜川や霞ヶ浦の湖底には、古鬼怒川が運んできた、日光周辺にあった火山由来の安山岩(あんざんがん)などがあります。 霞ヶ浦形成の歴史:利根川東遷によって現在の形となる 最終氷期が終わった約6000年前の縄文時代には、海水準が上昇(縄文海進)して現在と比べて約4m高くなり、低地には水が入り込んでいました。その後水は引きましたが、香取海(かとりのうみ)と呼ばれる大きな内海が広がります。その面積は今の霞ヶ浦の2~3倍あり、海水も入り込んでいました。 時を経て、江戸時代には利根川の流路変更(利根川東遷)が進められ、霞ヶ浦にも河川由来の土砂が流れ込むようになります。それにより、霞ヶ浦は現在の形へと落ち着き、淡水化しました。   霞ヶ浦エリアの変換 出典:国土交通省関東地方整備局霞ヶ浦河川事務所HP 霞ヶ浦エリアの変換:約20万年前 下総層群は約43万〜6万年前に堆積しましたが、その間に5回の海進を受けたとされます。海進と海進のあいだは、海水面が下がり一部陸化しますが、約20万年前の更新世中期、一帯は古東京湾と呼ばれる海の底にありました。 霞ヶ浦エリアの変換:約13万年前 下総層群が堆積するなか約13 万年前には4回目の海進を受け、その後に海面が後退し平野が生まれます。しかし、この平野はすぐに侵食を受けて谷底平野になりました。霞ヶ浦や桜川周辺の低地の一部には当時の名残があります。 霞ヶ浦エリアの変換:約2万年前 最終氷期にあたる時期で、海面は低下し古東京湾は消滅。河川からの流入水による侵食を受け、霞ヶ浦水系の河道がほぼ現在の形となりました。高浜入り(石岡市)は、恋瀬川の活発な下刻作用によって形成された深い谷地形です。 霞ヶ浦エリアの変換:約6000年前 縄文海進で谷に沿って海水が侵入し、大きな入り江が形成されました。出島半島南岸の崎浜・川尻地区では、この時期に生じた侵食崖がよく発達しています。その後沖積層(砂泥)が厚く堆積し、現在の霞ヶ浦の輪郭ができあがりました。 霞ヶ浦エリアの変換:約1000年前 霞ヶ浦一帯は今の利根川下流に広がる香取海の入り江のひとつ(香澄流海)でした。その後、鬼怒川や小貝川が運ぶ土砂などが堆積し、現代の姿へと近づいていきました。そして、江戸時代の利根川東遷で現在の形に変貌します。...

【茨城県】霞ヶ浦はどうやって誕生した?~日本で2番目に大きな湖誕生の秘密~

関東平野はかつて海の底でした。その後の気候変動で繰り返された海進と海退、土砂の堆積。それにより海の一部が切り離され霞ヶ浦は生まれたのです。   霞ヶ浦の成り立ち 広義での霞ヶ浦は西浦、北浦、外浪逆浦(そとなさかうら)の3湖を指し、外浪逆浦は北利根川で西浦に、鰐川(わにがわ)で北浦につながっています。また、外浪逆浦の先は常陸川となり利根川に注いでいます。これらを合わせた面積は220㎢で、国内の湖では琵琶湖に次ぐ2番目の大きさです。なお、狭義での霞ヶ浦は、3湖で最大の西浦(172㎢)を指しますが、西浦だけでも国内3位の広さをもち、北海道のサロマ湖よりも大きいです。 霞ヶ浦(西浦)は、茨城県の10市1町1村、千葉県の1市にまたがっています。霞ヶ浦の名は、奈良時代初期に編纂された『常陸風土記』にある、現・潮来市の一部を指す香澄郷(かすみのさと)に由来するとされます。   霞ヶ浦形成の歴史 かつて関東平野一帯は、古東京湾(ことうきょうわん)と呼ばれる浅い海の底にありました。当時は気候変動が激しく、氷期と間氷期(かんぴょうき)(氷期と次の氷期までの温暖な時期)を幾度となく繰り返していました。一帯は、氷期には海面が大きく下がって陸化し、間氷期になると海面が上昇し水没します。陸化すると地表は侵食され、川とともに山のほうから運ばれてきた土砂が堆積しました。 霞ヶ浦形成の歴史:氷期と間氷期を繰り返して周辺大地を形成 いっぽうで、水没期には海底となり泥や砂が堆積していきました。これを繰り返すうちに、霞ヶ浦周辺の台地の原形が形成されていきました。この時期の堆積物を総称して下総層群(しもうさそうぐん)と呼びます。約13万~12万年前に起こった海面上昇(下末吉海進(しもすえよしかいしん))の際、霞ヶ浦周辺は再び海の底に沈みます。このとき浅瀬に生息していたカキの化石床が、かすみがうら市崎浜の崖に露出しています。 霞ヶ浦形成の歴史:西浦の概形はは古鬼怒川によるもの 下末吉海進は約10万年前に終わり、今度は約2万1000年前の最終氷期をピークに海面が大きく低下して、現在より約120m低くなりました。現在の西浦一帯は広大な干潟となり古鬼怒川が流れました。古鬼怒川は現在の鬼怒川とは流路が異なり、栃木県の日光周辺に源を発し、現在の桜川に近い流路で西浦付近を経由し太平洋へ注いでいました。 こうして、古鬼怒川は西浦の概形を刻むと同時に、日光方面から土砂を運び、それを堆積させていきました。古鬼怒川は約2万年前に流路を変え、今の小貝川付近を流れるようになります。また、桜川や霞ヶ浦の湖底には、古鬼怒川が運んできた、日光周辺にあった火山由来の安山岩(あんざんがん)などがあります。 霞ヶ浦形成の歴史:利根川東遷によって現在の形となる 最終氷期が終わった約6000年前の縄文時代には、海水準が上昇(縄文海進)して現在と比べて約4m高くなり、低地には水が入り込んでいました。その後水は引きましたが、香取海(かとりのうみ)と呼ばれる大きな内海が広がります。その面積は今の霞ヶ浦の2~3倍あり、海水も入り込んでいました。 時を経て、江戸時代には利根川の流路変更(利根川東遷)が進められ、霞ヶ浦にも河川由来の土砂が流れ込むようになります。それにより、霞ヶ浦は現在の形へと落ち着き、淡水化しました。   霞ヶ浦エリアの変換 出典:国土交通省関東地方整備局霞ヶ浦河川事務所HP 霞ヶ浦エリアの変換:約20万年前 下総層群は約43万〜6万年前に堆積しましたが、その間に5回の海進を受けたとされます。海進と海進のあいだは、海水面が下がり一部陸化しますが、約20万年前の更新世中期、一帯は古東京湾と呼ばれる海の底にありました。 霞ヶ浦エリアの変換:約13万年前 下総層群が堆積するなか約13 万年前には4回目の海進を受け、その後に海面が後退し平野が生まれます。しかし、この平野はすぐに侵食を受けて谷底平野になりました。霞ヶ浦や桜川周辺の低地の一部には当時の名残があります。 霞ヶ浦エリアの変換:約2万年前 最終氷期にあたる時期で、海面は低下し古東京湾は消滅。河川からの流入水による侵食を受け、霞ヶ浦水系の河道がほぼ現在の形となりました。高浜入り(石岡市)は、恋瀬川の活発な下刻作用によって形成された深い谷地形です。 霞ヶ浦エリアの変換:約6000年前 縄文海進で谷に沿って海水が侵入し、大きな入り江が形成されました。出島半島南岸の崎浜・川尻地区では、この時期に生じた侵食崖がよく発達しています。その後沖積層(砂泥)が厚く堆積し、現在の霞ヶ浦の輪郭ができあがりました。 霞ヶ浦エリアの変換:約1000年前 霞ヶ浦一帯は今の利根川下流に広がる香取海の入り江のひとつ(香澄流海)でした。その後、鬼怒川や小貝川が運ぶ土砂などが堆積し、現代の姿へと近づいていきました。そして、江戸時代の利根川東遷で現在の形に変貌します。...

【鹿児島県】鹿児島市電の歴史と現在の画期的な車両~環境対策に積極的な進化する路面電車~

【鹿児島県】鹿児島市電の歴史と現在の画期的な車両~環境対策に積極的な進化する路面電車~

市中心部や郊外に4路線をもつ鹿児島市電は、軌道の緑地化や車両のバリアフリー化など環境対策を積極的に取り組んでいます。その歴史と今を見てみましょう。   鹿児島市電は日本最南端の路面電車 鹿児島市電は、鹿児島市交通局が運営する日本最南端の路面電車です。近年、停留所や車両を改良するなどサービス向上が図られ利用者が増加。長年、黒字を計上する健全経営の路面電車として知られてきましたが、近年の電力・燃料費や人件費の高騰を受け、健全な運行を維持するために現在は大人200円、小児100円に運賃が改定されています。 路線は、武之橋(たけのはし)〜鹿児島駅前間の第一期線、高見馬場(たかみばば)〜鹿児島中央駅前間の第二期線、武之橋〜谷山間の谷山線、鹿児島中央駅前〜郡元(こおりもと)間の唐湊(とそ)線の4つあり、総延長は13.1㎞。 現在は、1系統(鹿児島駅前〜市役所前〜高見馬場〜武之橋〜郡元〜谷山)、2系統(鹿児島駅前〜市役所前〜高見馬場〜鹿児島中央駅前〜郡元)というふたつの系統が運行されています。 鹿児島市電には最大6路線ありましたが、現存するのは4路線2系統。第一期線は武之橋〜鹿児島駅前、第二期線は高見馬場〜鹿児島中央駅前、谷山線は武之橋〜谷山、唐湊線は鹿児島中央駅前〜郡元を結んでいます。 分岐点である高見馬場には、2系統それぞれに停留所があります。廃止となった2路線のうち伊敷線は、ほぼ全線にわたり国道3号上を走っていました。   鹿児島市電の歴史 鹿児島市電は1911(明治44)年に設立の鹿児島電気軌道で始まり、1912(大正元)年12月に武之橋〜谷山間を開業させ運行を開始。全国で28番目の路面電車であり、7両の4輪単車で運転をしました。 のちに鹿児島市内へ路線を延ばし、1920(大正9)年までに現在の路線の骨格ができあがりました。1928(昭和3)年には鹿児島市に吸収され鹿児島市電気局による市営となり、戦後の1952(昭和27)年に鹿児島市交通局に改組されました。その後、鹿児島市電は路線延伸を繰り返し、1961(昭和36)年を最盛期に総延長は6路線で19.361㎞に拡大しました。 しかし、モータリゼーションの進展などにより、その後は利用者が減少。最盛期に全線開業していた伊敷(いしき)線(加治屋町(かじやちょう)〜伊敷町間)、上町(かんまち)線(市役所前〜清水町間)が1985(昭和60)年に廃止されました。   鹿児島市電は人にやさしい交通機関へ クルマ社会がもたらした廃止でしたが、以後の鹿児島市電は人にやさしい交通機関へ変化しました。 架線を排除し、空の景観を取り戻した架線柱のセンターポール化、スロープを付け、運行情報システムを導入した停留所の改良、軌道敷に芝生を植えて緑化しヒートアイランドを緩和させた軌道敷緑化事業などが次々と展開されてきました。なかでも白眉は、バリアフリー化を実現した超低床電車の導入でしょう。   鹿児島市電が導入した車両「リトルダンサー」 輸入車を中心に日本の超低床電車は車軸のない独立車輪式が多いですが、鹿児島市電が導入した純国産の「リトルダンサー」シリーズは、従来同様の車軸のある台車を用い、安定した走行と従来と同じ保守ができる画期的な車両です。 2002(平成14)年登場の1000形はリトルダンサーのタイプA3で、鹿児島市電が初採用した日本初の国産超低床電車です。運転台と台車で構成された両端の先頭車が台車のない中間車を支持する構造で、3車体2台車の連接車です。全長14mで定員は55名。「ユートラム」の愛称で親しまれています。   鹿児島市電の車両のさらなる進化 2007(平成19)年に登場した7000形はタイプA5で、両端の先頭車が支持する中間車が台車付き3車体となった構造で、5車体3台車の連接車。全長が18mと長くなり、定員も78名と大幅に増加しました。愛称は「ユートラムⅡ」。 2017(平成29)年登場の7500形は同タイプXで、世界最小クラスのモーターを使用し、従来の駆動装置のまま取り付け高さを下げ100%超低床化を実現しました。全長は14.4mで1000形とほぼ変わらないですが、定員は68名に増加し「ユートラムⅢ」と命名されました。 こうした超低床電車導入や環境問題への取り組みは、鹿児島市電と市民の信頼関係をよりいっそう強くするものであり、鹿児島市電にはさらなる活躍が期待されます。   『鹿児島のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から鹿児島県を分析!鹿児島県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。鹿児島の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報を満載!

【鹿児島県】鹿児島市電の歴史と現在の画期的な車両~環境対策に積極的な進化する路面電車~

市中心部や郊外に4路線をもつ鹿児島市電は、軌道の緑地化や車両のバリアフリー化など環境対策を積極的に取り組んでいます。その歴史と今を見てみましょう。   鹿児島市電は日本最南端の路面電車 鹿児島市電は、鹿児島市交通局が運営する日本最南端の路面電車です。近年、停留所や車両を改良するなどサービス向上が図られ利用者が増加。長年、黒字を計上する健全経営の路面電車として知られてきましたが、近年の電力・燃料費や人件費の高騰を受け、健全な運行を維持するために現在は大人200円、小児100円に運賃が改定されています。 路線は、武之橋(たけのはし)〜鹿児島駅前間の第一期線、高見馬場(たかみばば)〜鹿児島中央駅前間の第二期線、武之橋〜谷山間の谷山線、鹿児島中央駅前〜郡元(こおりもと)間の唐湊(とそ)線の4つあり、総延長は13.1㎞。 現在は、1系統(鹿児島駅前〜市役所前〜高見馬場〜武之橋〜郡元〜谷山)、2系統(鹿児島駅前〜市役所前〜高見馬場〜鹿児島中央駅前〜郡元)というふたつの系統が運行されています。 鹿児島市電には最大6路線ありましたが、現存するのは4路線2系統。第一期線は武之橋〜鹿児島駅前、第二期線は高見馬場〜鹿児島中央駅前、谷山線は武之橋〜谷山、唐湊線は鹿児島中央駅前〜郡元を結んでいます。 分岐点である高見馬場には、2系統それぞれに停留所があります。廃止となった2路線のうち伊敷線は、ほぼ全線にわたり国道3号上を走っていました。   鹿児島市電の歴史 鹿児島市電は1911(明治44)年に設立の鹿児島電気軌道で始まり、1912(大正元)年12月に武之橋〜谷山間を開業させ運行を開始。全国で28番目の路面電車であり、7両の4輪単車で運転をしました。 のちに鹿児島市内へ路線を延ばし、1920(大正9)年までに現在の路線の骨格ができあがりました。1928(昭和3)年には鹿児島市に吸収され鹿児島市電気局による市営となり、戦後の1952(昭和27)年に鹿児島市交通局に改組されました。その後、鹿児島市電は路線延伸を繰り返し、1961(昭和36)年を最盛期に総延長は6路線で19.361㎞に拡大しました。 しかし、モータリゼーションの進展などにより、その後は利用者が減少。最盛期に全線開業していた伊敷(いしき)線(加治屋町(かじやちょう)〜伊敷町間)、上町(かんまち)線(市役所前〜清水町間)が1985(昭和60)年に廃止されました。   鹿児島市電は人にやさしい交通機関へ クルマ社会がもたらした廃止でしたが、以後の鹿児島市電は人にやさしい交通機関へ変化しました。 架線を排除し、空の景観を取り戻した架線柱のセンターポール化、スロープを付け、運行情報システムを導入した停留所の改良、軌道敷に芝生を植えて緑化しヒートアイランドを緩和させた軌道敷緑化事業などが次々と展開されてきました。なかでも白眉は、バリアフリー化を実現した超低床電車の導入でしょう。   鹿児島市電が導入した車両「リトルダンサー」 輸入車を中心に日本の超低床電車は車軸のない独立車輪式が多いですが、鹿児島市電が導入した純国産の「リトルダンサー」シリーズは、従来同様の車軸のある台車を用い、安定した走行と従来と同じ保守ができる画期的な車両です。 2002(平成14)年登場の1000形はリトルダンサーのタイプA3で、鹿児島市電が初採用した日本初の国産超低床電車です。運転台と台車で構成された両端の先頭車が台車のない中間車を支持する構造で、3車体2台車の連接車です。全長14mで定員は55名。「ユートラム」の愛称で親しまれています。   鹿児島市電の車両のさらなる進化 2007(平成19)年に登場した7000形はタイプA5で、両端の先頭車が支持する中間車が台車付き3車体となった構造で、5車体3台車の連接車。全長が18mと長くなり、定員も78名と大幅に増加しました。愛称は「ユートラムⅡ」。 2017(平成29)年登場の7500形は同タイプXで、世界最小クラスのモーターを使用し、従来の駆動装置のまま取り付け高さを下げ100%超低床化を実現しました。全長は14.4mで1000形とほぼ変わらないですが、定員は68名に増加し「ユートラムⅢ」と命名されました。 こうした超低床電車導入や環境問題への取り組みは、鹿児島市電と市民の信頼関係をよりいっそう強くするものであり、鹿児島市電にはさらなる活躍が期待されます。   『鹿児島のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から鹿児島県を分析!鹿児島県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。鹿児島の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報を満載!

【千葉県】千葉のガス田は全国2位の生産量を誇る天然資源の宝庫

【千葉県】千葉のガス田は全国2位の生産量を誇る天然資源の宝庫

千葉県は天然ガスやヨウ素など、全国でも指折りの産出量を誇る、天然資源の宝庫だったのです! 今も地面からガスが噴き出し、数百年分の埋蔵量を持つという千葉のガス田とは?   千葉のガス田を知る:国内2番目の天然ガス産地 千葉県は、新潟県に次いで国内2番目の天然ガス産地です。千葉県域には、南関東ガス田と呼ばれるメタンガスとヨウ素を産出する天然ガス鉱床が分布し、その範囲は広大で茨城県、埼玉県、東京都、神奈川県にまで達しています。   千葉のガス田を知る:ガスの産出と地層水・かん水の関係 天然ガスが産出されるのは、上総層群という約300万~40万年前に海底に堆積した砂岩と泥岩からなる地層です。このガスは、水溶性天然ガスと呼ばれるもので、生物(微生物)起源のメタンガスが、地下の「かん水」という水に高い圧力の下で溶け込んでいます。 「かん水」は、地層が堆積したときに、当時の海水などが堆積物の隙間に閉じ込められた太古の「地層水」。この「かん水」を汲み上げると、圧力が下がってメタンガスと水が分離し採取できます。   千葉のガス田を知る:用途と南関東ガス田の可採埋蔵量 ガスは、一酸化炭素や不純物をほとんど含まず、99%がメタンという高い純度を誇ります。いわば、有害なガスや環境負荷の高い物質を含まないエネルギーなのです。 おもな用途は、都市ガスと工業用。ほとんどが都市ガス用で、学校や病院、オフィスビル、工場などで冷暖房や給湯などに広く利用され、工業用では火力発電のほか化学工業の材料としても使われています。 なお、国の資料によれば、南関東ガス田の可採埋蔵量は約3700億立方メートルと見積もられ、これは近年の平均的な生産量で800年分ほどに匹敵します。 千葉のヨウ素生産量と用途 「かん水」には海水の約2000倍のヨード(ヨウ素)が含まれています。天然ガス鉱業会によると、千葉県のヨウ素生産量は全国の約80%を誇るとともに、日本の生産量は世界の約25~30%を占めています。 ヨウ素は、うがい薬、消毒薬、レントゲン造影剤など医療分野や農業で多く利用されており、千葉県産のヨウ素は欧米ほか世界各地へと輸出されています。 金子信行『千葉県の天然ガス・ヨウ素資源』(地質ニュース605号)、『施設整備・管理のための天然ガス対策ガイドブック』(国土交通省関東地方整備局)など各種資料をもとに作成 水溶性天然ガス鉱床である南関東ガス田は、千葉県を中心として関東一円に広がっています。豊富な埋蔵量とヨウ素を大量に含んだ地下水(かん水)を同時に産出する特徴があります。千葉県域では、平野が開けている茂原地方での生産がとくに盛んです。   千葉のガス田を知る:天然ガスの歴史 千葉と天然ガスの歴史は、1891(明治24)年、大多喜町で醤油醸造をしていた太田卯八郎(おおたうはちろう)が屋敷に井戸を掘ったことに起因します。井戸からは泡を含んだ茶褐色の塩水しか出ず、がっかりして煙草の吸殻を投げ入れると水泡が青白く燃え出しました。これが千葉県で最初の天然ガス井戸となり、大多喜町が「房総の天然ガス発祥の地」といわれる由縁です。 県内随一のガス生産量を誇る茂原地方での本格的な天然ガス利用は、1909(明治42)年、同地で銭湯を営む丸弁蔵が自宅に井戸を掘ったことに始まったといわれています。 明治20年代になると、もともと井戸掘りの技法である「上総掘り」の技術が完成し、深いところにあるガス層まで掘削が可能になりました。こうして掘削した天然ガスが、生活に役立てられるようになったのは1907(明治40)年以降です。   千葉のガス田を知る:天然ガスの採掘を始めた現・関東天然瓦斯開発 千葉での天然ガス生産は、1931(昭和6)年、大多喜町での大多喜天然瓦斯(おおたきてんねんがす)(現・関東天然瓦斯開発)株式会社による採掘に始まりました。同社はその後、平野が開けた茂原地方に鉱区を取得。質・量とも十分で、需要に発展性がある同地が開発の主役となっていきました。 同社は、現在も茂原市を中心とした一帯での採掘権を所有しています。   千葉のガス田を知る:天然ガスの現在 千葉県域ではほかに、合同資源、日本天然ガスなど各社が天然ガスを生産。これまでに千葉では2000本以上のガス井戸が掘削され、現在は天然ガスを安全に、安定して供給するため総延長約600㎞ものパイプラインが県内に張り巡らされています。...

【千葉県】千葉のガス田は全国2位の生産量を誇る天然資源の宝庫

千葉県は天然ガスやヨウ素など、全国でも指折りの産出量を誇る、天然資源の宝庫だったのです! 今も地面からガスが噴き出し、数百年分の埋蔵量を持つという千葉のガス田とは?   千葉のガス田を知る:国内2番目の天然ガス産地 千葉県は、新潟県に次いで国内2番目の天然ガス産地です。千葉県域には、南関東ガス田と呼ばれるメタンガスとヨウ素を産出する天然ガス鉱床が分布し、その範囲は広大で茨城県、埼玉県、東京都、神奈川県にまで達しています。   千葉のガス田を知る:ガスの産出と地層水・かん水の関係 天然ガスが産出されるのは、上総層群という約300万~40万年前に海底に堆積した砂岩と泥岩からなる地層です。このガスは、水溶性天然ガスと呼ばれるもので、生物(微生物)起源のメタンガスが、地下の「かん水」という水に高い圧力の下で溶け込んでいます。 「かん水」は、地層が堆積したときに、当時の海水などが堆積物の隙間に閉じ込められた太古の「地層水」。この「かん水」を汲み上げると、圧力が下がってメタンガスと水が分離し採取できます。   千葉のガス田を知る:用途と南関東ガス田の可採埋蔵量 ガスは、一酸化炭素や不純物をほとんど含まず、99%がメタンという高い純度を誇ります。いわば、有害なガスや環境負荷の高い物質を含まないエネルギーなのです。 おもな用途は、都市ガスと工業用。ほとんどが都市ガス用で、学校や病院、オフィスビル、工場などで冷暖房や給湯などに広く利用され、工業用では火力発電のほか化学工業の材料としても使われています。 なお、国の資料によれば、南関東ガス田の可採埋蔵量は約3700億立方メートルと見積もられ、これは近年の平均的な生産量で800年分ほどに匹敵します。 千葉のヨウ素生産量と用途 「かん水」には海水の約2000倍のヨード(ヨウ素)が含まれています。天然ガス鉱業会によると、千葉県のヨウ素生産量は全国の約80%を誇るとともに、日本の生産量は世界の約25~30%を占めています。 ヨウ素は、うがい薬、消毒薬、レントゲン造影剤など医療分野や農業で多く利用されており、千葉県産のヨウ素は欧米ほか世界各地へと輸出されています。 金子信行『千葉県の天然ガス・ヨウ素資源』(地質ニュース605号)、『施設整備・管理のための天然ガス対策ガイドブック』(国土交通省関東地方整備局)など各種資料をもとに作成 水溶性天然ガス鉱床である南関東ガス田は、千葉県を中心として関東一円に広がっています。豊富な埋蔵量とヨウ素を大量に含んだ地下水(かん水)を同時に産出する特徴があります。千葉県域では、平野が開けている茂原地方での生産がとくに盛んです。   千葉のガス田を知る:天然ガスの歴史 千葉と天然ガスの歴史は、1891(明治24)年、大多喜町で醤油醸造をしていた太田卯八郎(おおたうはちろう)が屋敷に井戸を掘ったことに起因します。井戸からは泡を含んだ茶褐色の塩水しか出ず、がっかりして煙草の吸殻を投げ入れると水泡が青白く燃え出しました。これが千葉県で最初の天然ガス井戸となり、大多喜町が「房総の天然ガス発祥の地」といわれる由縁です。 県内随一のガス生産量を誇る茂原地方での本格的な天然ガス利用は、1909(明治42)年、同地で銭湯を営む丸弁蔵が自宅に井戸を掘ったことに始まったといわれています。 明治20年代になると、もともと井戸掘りの技法である「上総掘り」の技術が完成し、深いところにあるガス層まで掘削が可能になりました。こうして掘削した天然ガスが、生活に役立てられるようになったのは1907(明治40)年以降です。   千葉のガス田を知る:天然ガスの採掘を始めた現・関東天然瓦斯開発 千葉での天然ガス生産は、1931(昭和6)年、大多喜町での大多喜天然瓦斯(おおたきてんねんがす)(現・関東天然瓦斯開発)株式会社による採掘に始まりました。同社はその後、平野が開けた茂原地方に鉱区を取得。質・量とも十分で、需要に発展性がある同地が開発の主役となっていきました。 同社は、現在も茂原市を中心とした一帯での採掘権を所有しています。   千葉のガス田を知る:天然ガスの現在 千葉県域ではほかに、合同資源、日本天然ガスなど各社が天然ガスを生産。これまでに千葉では2000本以上のガス井戸が掘削され、現在は天然ガスを安全に、安定して供給するため総延長約600㎞ものパイプラインが県内に張り巡らされています。...

【大阪府】楠木正成の居城・千早赤坂城!幕府軍が落とせなかった鉄壁の城の秘密

【大阪府】楠木正成の居城・千早赤坂城!幕府軍が落とせなかった鉄壁の城の秘密

楠木正成と幕府軍の決戦場となった千早城と2つの赤坂城。わずか1000の手勢で何万もの敵を撃退できた秘密は、守りやすく攻めにくい城の地形に隠されていました。   楠木正成の居城・千早城と赤坂城 鎌倉時代末期の名将として名高い楠木正成(くすのきまさしげ)の居城として築かれたのが、赤坂城(あかさかじょう)と千早城(ちはやじょう)です。いずれも千早赤阪村(ちはやあかさかむら)の金剛山(こんごうざん)近辺につくられた山城です。 このうち赤坂城は2つあり、上赤坂(かみあかさか)にあった城が「上赤坂城」、森屋(もりや)の城は「下赤坂城」と呼ばれています。楠木正成は上赤坂城を本城として使い、下赤坂城はその盾となる支城となっていました。   楠木正成が守り抜いた千早城と赤坂城 1331年、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府の討伐を決意すると、楠木正成もこれに呼応して赤坂城で挙兵しました。 下赤坂城での戦いでは幕府軍に敗れましたが、焼死を装って山中に逃げると千早城を築いて抵抗をはじめ、下赤坂城を奪還します。約2カ月後にふたたび幕府軍と戦うと、100日もの激闘の末にこの城を守り抜くことに成功したのでした。   楠木正成の知略と千早城の地形 当時の様子を描いた軍記物語『太平記』によると、楠木正成の軍勢はおよそ1000。対する幕府軍は100万と記されています。実際には幕府軍は数万程度だったようですが、それでも兵力差は10倍以上もあります。この劣勢をくつがえせた要因は城の地形と正成の知略です。 千早城が築かれたのは標高約674mもの高所。城の三方は深い峡谷に囲まれているなど、非常に攻め難い構造になっています。そして、城内には水不足に備えて複数の井戸を掘り、上・下赤坂城との間に複数の連絡網を構築して幕府軍を迎えます。楠木正成は山中の地形を効果的に利用したのです。   楠木正成の赤坂城降伏と千早城の守り 各城は、数万の敵兵を森に人形を置いておびき出し、山中からの奇襲攻撃を加えます。城に接近した敵には大木や岩を落とし、はしごで登ってきた兵には熱湯や油をかけるなど、高低差を活かしたあの手・この手をくり出し、幕府軍を大いに翻弄しました。 赤坂城は奮戦むなしく1333年閏2月に降伏しますが、千早城の守りは固く、幕府軍は自然の地形を利用した奇襲戦法に苦しめられました。 楠木正成の最期と城跡の現在 やがて全国各地で討幕軍が蜂起すると、反乱鎮圧のために幕府軍は千早城から撤退します。こうして楠木正成は、山岳を利用した籠城戦で何倍もの敵に勝利したのです。 ちなみに、鎌倉幕府が朝廷の軍に攻め落とされるのは、この勝利から約2週間後のことでした。楠木正成の奮闘もあって、「今こそ鎌倉幕府を倒すべし」と後醍醐天皇に味方する勢力が拡大したわけです。 その後、赤坂城と千早城は南北朝の動乱で焼け落ちてしまい、正成も1336年の湊川(みなとがわ)の戦いで足利尊氏に敗れて自害しました。しかし、城跡は今も残っており、国の史跡に指定されています。   南朝の貴公子・北畠顕家(きたばたけあきいえ)の墓所 大阪市阿倍野区の北畠公園にある墓は、南北朝時代の最初期に活躍した北畠顕家の墓石とされています。貴族の出身ながら、武略にすぐれ、わずか16歳で陸奥守として東北の安定化を果たします。1335 年に蜂起した足利尊氏の軍を2度も敗走させました。   『大阪のトリセツ』好評発売中! 大阪府の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。大阪府の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

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楠木正成と幕府軍の決戦場となった千早城と2つの赤坂城。わずか1000の手勢で何万もの敵を撃退できた秘密は、守りやすく攻めにくい城の地形に隠されていました。   楠木正成の居城・千早城と赤坂城 鎌倉時代末期の名将として名高い楠木正成(くすのきまさしげ)の居城として築かれたのが、赤坂城(あかさかじょう)と千早城(ちはやじょう)です。いずれも千早赤阪村(ちはやあかさかむら)の金剛山(こんごうざん)近辺につくられた山城です。 このうち赤坂城は2つあり、上赤坂(かみあかさか)にあった城が「上赤坂城」、森屋(もりや)の城は「下赤坂城」と呼ばれています。楠木正成は上赤坂城を本城として使い、下赤坂城はその盾となる支城となっていました。   楠木正成が守り抜いた千早城と赤坂城 1331年、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府の討伐を決意すると、楠木正成もこれに呼応して赤坂城で挙兵しました。 下赤坂城での戦いでは幕府軍に敗れましたが、焼死を装って山中に逃げると千早城を築いて抵抗をはじめ、下赤坂城を奪還します。約2カ月後にふたたび幕府軍と戦うと、100日もの激闘の末にこの城を守り抜くことに成功したのでした。   楠木正成の知略と千早城の地形 当時の様子を描いた軍記物語『太平記』によると、楠木正成の軍勢はおよそ1000。対する幕府軍は100万と記されています。実際には幕府軍は数万程度だったようですが、それでも兵力差は10倍以上もあります。この劣勢をくつがえせた要因は城の地形と正成の知略です。 千早城が築かれたのは標高約674mもの高所。城の三方は深い峡谷に囲まれているなど、非常に攻め難い構造になっています。そして、城内には水不足に備えて複数の井戸を掘り、上・下赤坂城との間に複数の連絡網を構築して幕府軍を迎えます。楠木正成は山中の地形を効果的に利用したのです。   楠木正成の赤坂城降伏と千早城の守り 各城は、数万の敵兵を森に人形を置いておびき出し、山中からの奇襲攻撃を加えます。城に接近した敵には大木や岩を落とし、はしごで登ってきた兵には熱湯や油をかけるなど、高低差を活かしたあの手・この手をくり出し、幕府軍を大いに翻弄しました。 赤坂城は奮戦むなしく1333年閏2月に降伏しますが、千早城の守りは固く、幕府軍は自然の地形を利用した奇襲戦法に苦しめられました。 楠木正成の最期と城跡の現在 やがて全国各地で討幕軍が蜂起すると、反乱鎮圧のために幕府軍は千早城から撤退します。こうして楠木正成は、山岳を利用した籠城戦で何倍もの敵に勝利したのです。 ちなみに、鎌倉幕府が朝廷の軍に攻め落とされるのは、この勝利から約2週間後のことでした。楠木正成の奮闘もあって、「今こそ鎌倉幕府を倒すべし」と後醍醐天皇に味方する勢力が拡大したわけです。 その後、赤坂城と千早城は南北朝の動乱で焼け落ちてしまい、正成も1336年の湊川(みなとがわ)の戦いで足利尊氏に敗れて自害しました。しかし、城跡は今も残っており、国の史跡に指定されています。   南朝の貴公子・北畠顕家(きたばたけあきいえ)の墓所 大阪市阿倍野区の北畠公園にある墓は、南北朝時代の最初期に活躍した北畠顕家の墓石とされています。貴族の出身ながら、武略にすぐれ、わずか16歳で陸奥守として東北の安定化を果たします。1335 年に蜂起した足利尊氏の軍を2度も敗走させました。   『大阪のトリセツ』好評発売中! 大阪府の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。大阪府の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【北海道】アイヌ語由来が多い北海道の難読地名から見るアイヌ民族の生活と文化

【北海道】アイヌ語由来が多い北海道の難読地名から見るアイヌ民族の生活と文化

北海道にある変わった地名は、ほとんどがアイヌ語に漢字を当てたもの。それぞれの地名がアイヌ語で何を意味するのか、読み解いてみましょう。   アイヌ語由来のものが多い北海道の難読地名 地名の由来となった地形や特徴が残っている場所もたくさん。アイヌ語地名からは、アイヌの人々がかつてその土地をどう見ていたか、何をしていたかを垣間見ることができます。   北海道の地図を眺めていると、「内」や「別」がつく地名が多いことに気がつきます。 実は、これらはアイヌ語で「川」を表す言葉「ナイ」「ペッ」に由来します。アイヌの人々は川と密接にかかわる暮らしをしていたため、川にまつわる地名が多いと考えられます。 アイヌ語由来の北海道難読地名:「幌内」の語源とは 「ナイ」のつく地名のうち、道内各地でとくによく見られるのが「幌内(ほろない)」です。 「ホロ」は「大きい」を意味するアイヌ語「ポロ」に由来し、「ホロナイ」は「大きい川」です。「ホロナイ」と名がつく川は、実際には小さいことも多いのですが、近辺にあるほかの川と比較して大きいほうの川、という意味でも「ホロナイ」が用いられるようです。 アイヌ語由来の北海道難読地名:「登別」「札幌」の語源とは 温泉で有名な「登別(のぼりべつ)」は「水の色の濃い川」の意。かつて、白濁した源泉が川にも流れ込んでいた様子が伝わってきます。 「札幌」の語源は諸説あって確かではありませんが、「乾く大きい川」を意味する「サッポロペッ」が省略されたものだという説があります。豊平川(とよひらがわ)が札幌扇状地に広がり、乾季には砂利河原となる様子を表しています。 アイヌ語由来の地名で地形を表すもの 地形を表すアイヌ語は、ほかにも 「ト」(湖)、「ソ」(滝)、「オタ」(砂浜)、「ピラ」(崖)、「シリ」(島、峰)などがあります。「利尻」は「リシリ(高い島)」が由来です。 アイヌ語由来の北海道難読地名はほかにも! また、アイヌ語で「~が多い」「いつも~する」を表す言葉に「ウシ(ウス)」があります。これには「牛」「臼」「石」などの漢字がよく当てられます。 たとえば「浦臼(うらうす)」は、「魚を獲る罠が多い川」という意味の「ウライウシペッ」が由来。「カツラの木が多いところ」を表す「ランコウシ」から「蘭越(らんこし)」、「クルミの木が多いところ」を表す「ネシコウシ」から「根志越(ねしこし)」といったパターンもあります。   アイヌ語地名と狩猟採集生活の深い関わり こうして見ていくと、アイヌ語地名は狩猟採集生活と深く結びついていることがわかります。アイヌの人々は、地形や植物、動物の習性を熟知していました。 暖かい時期は山菜を採り、秋にはサケ漁をします。冬には、弓矢や罠を用いたり、海や川に追い込んだりして、エゾシカやウサギ、キツネ、タヌキなどの動物を狩りました。トリカブトからつくった強力な矢毒で、ヒグマも仕留めることができました。 アイヌ語由来の北海道難読地名から学ぶアイヌ文化 アイヌの人々は、あらゆるものをカムイ(神)の化身またはカムイからの贈りものと考えました。狩りで獲れる動物のなかでも、クマは「キムンカムイ」(山の神)と呼ばれる特別な存在でした。子グマを生け捕りにした場合は、2~3年間大切に育てたあと「イヨマンテ」という儀式をして丁重にカムイモシリ(神の国)へ送りします。カムイに再び人間界へいきたいと思ってもらい、肉や毛皮をもたらしてもらうためです。 アイヌの人々と自然とのかかわり方は、現代から見ても学ぶところがたくさんあります。アイヌ文化を知る第一歩として、まずは地名の由来を調べてみてはいかがでしょうか。   『北海道のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から北海道を分析!地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。北海道の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載です!

【北海道】アイヌ語由来が多い北海道の難読地名から見るアイヌ民族の生活と文化

北海道にある変わった地名は、ほとんどがアイヌ語に漢字を当てたもの。それぞれの地名がアイヌ語で何を意味するのか、読み解いてみましょう。   アイヌ語由来のものが多い北海道の難読地名 地名の由来となった地形や特徴が残っている場所もたくさん。アイヌ語地名からは、アイヌの人々がかつてその土地をどう見ていたか、何をしていたかを垣間見ることができます。   北海道の地図を眺めていると、「内」や「別」がつく地名が多いことに気がつきます。 実は、これらはアイヌ語で「川」を表す言葉「ナイ」「ペッ」に由来します。アイヌの人々は川と密接にかかわる暮らしをしていたため、川にまつわる地名が多いと考えられます。 アイヌ語由来の北海道難読地名:「幌内」の語源とは 「ナイ」のつく地名のうち、道内各地でとくによく見られるのが「幌内(ほろない)」です。 「ホロ」は「大きい」を意味するアイヌ語「ポロ」に由来し、「ホロナイ」は「大きい川」です。「ホロナイ」と名がつく川は、実際には小さいことも多いのですが、近辺にあるほかの川と比較して大きいほうの川、という意味でも「ホロナイ」が用いられるようです。 アイヌ語由来の北海道難読地名:「登別」「札幌」の語源とは 温泉で有名な「登別(のぼりべつ)」は「水の色の濃い川」の意。かつて、白濁した源泉が川にも流れ込んでいた様子が伝わってきます。 「札幌」の語源は諸説あって確かではありませんが、「乾く大きい川」を意味する「サッポロペッ」が省略されたものだという説があります。豊平川(とよひらがわ)が札幌扇状地に広がり、乾季には砂利河原となる様子を表しています。 アイヌ語由来の地名で地形を表すもの 地形を表すアイヌ語は、ほかにも 「ト」(湖)、「ソ」(滝)、「オタ」(砂浜)、「ピラ」(崖)、「シリ」(島、峰)などがあります。「利尻」は「リシリ(高い島)」が由来です。 アイヌ語由来の北海道難読地名はほかにも! また、アイヌ語で「~が多い」「いつも~する」を表す言葉に「ウシ(ウス)」があります。これには「牛」「臼」「石」などの漢字がよく当てられます。 たとえば「浦臼(うらうす)」は、「魚を獲る罠が多い川」という意味の「ウライウシペッ」が由来。「カツラの木が多いところ」を表す「ランコウシ」から「蘭越(らんこし)」、「クルミの木が多いところ」を表す「ネシコウシ」から「根志越(ねしこし)」といったパターンもあります。   アイヌ語地名と狩猟採集生活の深い関わり こうして見ていくと、アイヌ語地名は狩猟採集生活と深く結びついていることがわかります。アイヌの人々は、地形や植物、動物の習性を熟知していました。 暖かい時期は山菜を採り、秋にはサケ漁をします。冬には、弓矢や罠を用いたり、海や川に追い込んだりして、エゾシカやウサギ、キツネ、タヌキなどの動物を狩りました。トリカブトからつくった強力な矢毒で、ヒグマも仕留めることができました。 アイヌ語由来の北海道難読地名から学ぶアイヌ文化 アイヌの人々は、あらゆるものをカムイ(神)の化身またはカムイからの贈りものと考えました。狩りで獲れる動物のなかでも、クマは「キムンカムイ」(山の神)と呼ばれる特別な存在でした。子グマを生け捕りにした場合は、2~3年間大切に育てたあと「イヨマンテ」という儀式をして丁重にカムイモシリ(神の国)へ送りします。カムイに再び人間界へいきたいと思ってもらい、肉や毛皮をもたらしてもらうためです。 アイヌの人々と自然とのかかわり方は、現代から見ても学ぶところがたくさんあります。アイヌ文化を知る第一歩として、まずは地名の由来を調べてみてはいかがでしょうか。   『北海道のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から北海道を分析!地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。北海道の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載です!

【埼玉県】秩父鉱山の実力と歴史~戦国時代に始まった金属鉱山~

【埼玉県】秩父鉱山の実力と歴史~戦国時代に始まった金属鉱山~

秩父市は、総面積577.8㎢と埼玉県の面積の約15%を占めます。その秩父市の西部、荒川上流部の支流のひとつである中津川上流に秩父鉱山があります。 秩父市西部に複数の鉱床がある秩父鉱山は、かつて金、鉄、鉛、亜鉛などを産出する国内有数の金属鉱山でした。そして今でも石灰岩を産しています。   秩父鉱山に鉱物が多様なわけ 秩父鉱山では現在、良質な石灰岩が採掘されていますが、かつては、金や銀、鉄、銅、鉛、亜鉛など140種類もの鉱物を産する日本有数の鉱山でした。鉱物が多様な理由は、秩父鉱山に「スカルン鉱床(こうしょう)」と呼ばれる独特の鉱床が存在することにあります。 地下から上昇してきたマグマが秩父山地に広がる石灰岩と接触することで、アルミナ、鉄、マグネシウムなどを含む熱水と石灰岩の主成分である炭酸カルシウムが反応し、スカルンと呼ばれる岩体がつくられます。この岩体中には鉄、銅、鉛、亜鉛といった有用金属の濃集が見られるのが特徴で、これを人間が鉱床として開発してきたわけです。   なお、豊富な種類の鉱物をともなう秩父のスカルン鉱床は、比較的温度の高いマグマが、地下の浅い部分まで急激に上昇して固結、形成されたと考えられています。 秩父鉱山の歴史 ところで、秩父鉱山がいつ開かれたのかは、はっきりとはわかっていません。しかし、中津川流域に残された状況証拠や地元の伝承などによれば、その歴史は戦国時代にまでさかのぼるといわれています。 【秩父鉱山の歴史】秩父の鉱山業のはじまり 1575(天正3)年、甲斐武田氏が滅亡すると、武田氏配下の金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる鉱山技能者集団が秩父へ移り住み、荒川源流域で金の採取を行いました。秩父の鉱山業はここから始まったと見られています。 【秩父鉱山の歴史】江戸時代初期に桃の久保で金を採掘 明確な史料に秩父鉱山が登場するのは、江戸初期の1608〜1609(慶長13〜14)年。中津川集落付近の「桃の久保」と呼ばれる場所で金の採掘が行われ、金を豊富に含む富鉱体(ふこうたい)に当たったと記録されています。 【秩父鉱山の歴史】桃の久保金山の閉山 その後、桃の久保金山は、鉱床に水が入り込んでしまい、採掘は短期間で終わってしまいました。その後、何度か再興が試みられましたが、金の富鉱体に当たることはなく失敗。1768(明和5)年には閉山しました。 チャレンジした人のなかには、エレキテルの発明で有名な平賀源内(ひらがげんない)もいました。 【秩父鉱山の歴史】江戸時代後期の鉱山開発 江戸後期の1780年代になると、中津川集落や秩父地域出身者を中心に、鉱山開発が行われています。実際に鉄、銅、金、銀、鉛などが産出されましたが、1850年代あたりには採掘を終えています。   秩父鉱山が再び脚光!明治時代末期から大正時代 秩父鉱山が再び脚光を浴びたのは明治末期。優良な金鉱床が発見されたことで、1912(明治45)年から近代的な金鉱山開発が本格化しました。しかし、1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発すると鉄の価格が急騰。これを機に、秩父鉱山は金から鉄採掘(おもな鉱床は和那波(わなば)・道伸窪(どうしんくぼ))へと舵を切り生産量を上げました。 ですが、第一次世界大戦終結とともに経営が悪化し、1920年代には休山状態となってしまいました。   秩父鉱山の昭和時代から現在 昭和に入り秩父鉱山は再び活気を取り戻し、金、銀、銅、鉛、亜鉛、鉄などが採掘されるようになりました。太平洋戦争後には鉛、亜鉛、マンガンなどの優良な鉱床が相次いで発見され、1965(昭和40)年前後に最盛期を迎え日本屈指の大鉱山となります。 この頃の鉱山町には2000人超が暮らし、秩父市街よりも華やいでいたといいます。その後、鉄鉱石などの金属鉱石は、安い輸入鉱石に押され、産出を中止。現在は、良質な石灰岩のみが産出されています。   『埼玉のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。埼玉県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【埼玉県】秩父鉱山の実力と歴史~戦国時代に始まった金属鉱山~

秩父市は、総面積577.8㎢と埼玉県の面積の約15%を占めます。その秩父市の西部、荒川上流部の支流のひとつである中津川上流に秩父鉱山があります。 秩父市西部に複数の鉱床がある秩父鉱山は、かつて金、鉄、鉛、亜鉛などを産出する国内有数の金属鉱山でした。そして今でも石灰岩を産しています。   秩父鉱山に鉱物が多様なわけ 秩父鉱山では現在、良質な石灰岩が採掘されていますが、かつては、金や銀、鉄、銅、鉛、亜鉛など140種類もの鉱物を産する日本有数の鉱山でした。鉱物が多様な理由は、秩父鉱山に「スカルン鉱床(こうしょう)」と呼ばれる独特の鉱床が存在することにあります。 地下から上昇してきたマグマが秩父山地に広がる石灰岩と接触することで、アルミナ、鉄、マグネシウムなどを含む熱水と石灰岩の主成分である炭酸カルシウムが反応し、スカルンと呼ばれる岩体がつくられます。この岩体中には鉄、銅、鉛、亜鉛といった有用金属の濃集が見られるのが特徴で、これを人間が鉱床として開発してきたわけです。   なお、豊富な種類の鉱物をともなう秩父のスカルン鉱床は、比較的温度の高いマグマが、地下の浅い部分まで急激に上昇して固結、形成されたと考えられています。 秩父鉱山の歴史 ところで、秩父鉱山がいつ開かれたのかは、はっきりとはわかっていません。しかし、中津川流域に残された状況証拠や地元の伝承などによれば、その歴史は戦国時代にまでさかのぼるといわれています。 【秩父鉱山の歴史】秩父の鉱山業のはじまり 1575(天正3)年、甲斐武田氏が滅亡すると、武田氏配下の金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる鉱山技能者集団が秩父へ移り住み、荒川源流域で金の採取を行いました。秩父の鉱山業はここから始まったと見られています。 【秩父鉱山の歴史】江戸時代初期に桃の久保で金を採掘 明確な史料に秩父鉱山が登場するのは、江戸初期の1608〜1609(慶長13〜14)年。中津川集落付近の「桃の久保」と呼ばれる場所で金の採掘が行われ、金を豊富に含む富鉱体(ふこうたい)に当たったと記録されています。 【秩父鉱山の歴史】桃の久保金山の閉山 その後、桃の久保金山は、鉱床に水が入り込んでしまい、採掘は短期間で終わってしまいました。その後、何度か再興が試みられましたが、金の富鉱体に当たることはなく失敗。1768(明和5)年には閉山しました。 チャレンジした人のなかには、エレキテルの発明で有名な平賀源内(ひらがげんない)もいました。 【秩父鉱山の歴史】江戸時代後期の鉱山開発 江戸後期の1780年代になると、中津川集落や秩父地域出身者を中心に、鉱山開発が行われています。実際に鉄、銅、金、銀、鉛などが産出されましたが、1850年代あたりには採掘を終えています。   秩父鉱山が再び脚光!明治時代末期から大正時代 秩父鉱山が再び脚光を浴びたのは明治末期。優良な金鉱床が発見されたことで、1912(明治45)年から近代的な金鉱山開発が本格化しました。しかし、1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発すると鉄の価格が急騰。これを機に、秩父鉱山は金から鉄採掘(おもな鉱床は和那波(わなば)・道伸窪(どうしんくぼ))へと舵を切り生産量を上げました。 ですが、第一次世界大戦終結とともに経営が悪化し、1920年代には休山状態となってしまいました。   秩父鉱山の昭和時代から現在 昭和に入り秩父鉱山は再び活気を取り戻し、金、銀、銅、鉛、亜鉛、鉄などが採掘されるようになりました。太平洋戦争後には鉛、亜鉛、マンガンなどの優良な鉱床が相次いで発見され、1965(昭和40)年前後に最盛期を迎え日本屈指の大鉱山となります。 この頃の鉱山町には2000人超が暮らし、秩父市街よりも華やいでいたといいます。その後、鉄鉱石などの金属鉱石は、安い輸入鉱石に押され、産出を中止。現在は、良質な石灰岩のみが産出されています。   『埼玉のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。埼玉県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...