鎌倉時代末期の名将として名高い楠木正成(くすのきまさしげ)の居城として築かれたのが、赤坂城(あかさかじょう)と千早城(ちはやじょう)です。いずれも千早赤阪村(ちはやあかさかむら)の金剛山(こんごうざん)近辺につくられた山城です。
このうち赤坂城は2つあり、上赤坂(かみあかさか)にあった城が「上赤坂城」、森屋(もりや)の城は「下赤坂城」と呼ばれています。楠木正成は上赤坂城を本城として使い、下赤坂城はその盾となる支城となっていました。
楠木正成が守り抜いた千早城と赤坂城
1331年、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府の討伐を決意すると、楠木正成もこれに呼応して赤坂城で挙兵しました。
下赤坂城での戦いでは幕府軍に敗れましたが、焼死を装って山中に逃げると千早城を築いて抵抗をはじめ、下赤坂城を奪還します。約2カ月後にふたたび幕府軍と戦うと、100日もの激闘の末にこの城を守り抜くことに成功したのでした。
楠木正成の知略と千早城の地形
当時の様子を描いた軍記物語『太平記』によると、楠木正成の軍勢はおよそ1000。対する幕府軍は100万と記されています。実際には幕府軍は数万程度だったようですが、それでも兵力差は10倍以上もあります。この劣勢をくつがえせた要因は城の地形と正成の知略です。
千早城が築かれたのは標高約674mもの高所。城の三方は深い峡谷に囲まれているなど、非常に攻め難い構造になっています。そして、城内には水不足に備えて複数の井戸を掘り、上・下赤坂城との間に複数の連絡網を構築して幕府軍を迎えます。楠木正成は山中の地形を効果的に利用したのです。
楠木正成の赤坂城降伏と千早城の守り
各城は、数万の敵兵を森に人形を置いておびき出し、山中からの奇襲攻撃を加えます。城に接近した敵には大木や岩を落とし、はしごで登ってきた兵には熱湯や油をかけるなど、高低差を活かしたあの手・この手をくり出し、幕府軍を大いに翻弄しました。
赤坂城は奮戦むなしく1333年閏2月に降伏しますが、千早城の守りは固く、幕府軍は自然の地形を利用した奇襲戦法に苦しめられました。
楠木正成の最期と城跡の現在
やがて全国各地で討幕軍が蜂起すると、反乱鎮圧のために幕府軍は千早城から撤退します。こうして楠木正成は、山岳を利用した籠城戦で何倍もの敵に勝利したのです。
ちなみに、鎌倉幕府が朝廷の軍に攻め落とされるのは、この勝利から約2週間後のことでした。楠木正成の奮闘もあって、「今こそ鎌倉幕府を倒すべし」と後醍醐天皇に味方する勢力が拡大したわけです。
その後、赤坂城と千早城は南北朝の動乱で焼け落ちてしまい、正成も1336年の湊川(みなとがわ)の戦いで足利尊氏に敗れて自害しました。しかし、城跡は今も残っており、国の史跡に指定されています。

南朝の貴公子・北畠顕家(きたばたけあきいえ)の墓所
大阪市阿倍野区の北畠公園にある墓は、南北朝時代の最初期に活躍した北畠顕家の墓石とされています。貴族の出身ながら、武略にすぐれ、わずか16歳で陸奥守として東北の安定化を果たします。1335 年に蜂起した足利尊氏の軍を2度も敗走させました。
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