秩父鉱山では現在、良質な石灰岩が採掘されていますが、かつては、金や銀、鉄、銅、鉛、亜鉛など140種類もの鉱物を産する日本有数の鉱山でした。鉱物が多様な理由は、秩父鉱山に「スカルン鉱床(こうしょう)」と呼ばれる独特の鉱床が存在することにあります。
地下から上昇してきたマグマが秩父山地に広がる石灰岩と接触することで、アルミナ、鉄、マグネシウムなどを含む熱水と石灰岩の主成分である炭酸カルシウムが反応し、スカルンと呼ばれる岩体がつくられます。この岩体中には鉄、銅、鉛、亜鉛といった有用金属の濃集が見られるのが特徴で、これを人間が鉱床として開発してきたわけです。
なお、豊富な種類の鉱物をともなう秩父のスカルン鉱床は、比較的温度の高いマグマが、地下の浅い部分まで急激に上昇して固結、形成されたと考えられています。
秩父鉱山の歴史
ところで、秩父鉱山がいつ開かれたのかは、はっきりとはわかっていません。しかし、中津川流域に残された状況証拠や地元の伝承などによれば、その歴史は戦国時代にまでさかのぼるといわれています。
【秩父鉱山の歴史】秩父の鉱山業のはじまり
1575(天正3)年、甲斐武田氏が滅亡すると、武田氏配下の金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる鉱山技能者集団が秩父へ移り住み、荒川源流域で金の採取を行いました。秩父の鉱山業はここから始まったと見られています。
【秩父鉱山の歴史】江戸時代初期に桃の久保で金を採掘
明確な史料に秩父鉱山が登場するのは、江戸初期の1608〜1609(慶長13〜14)年。中津川集落付近の「桃の久保」と呼ばれる場所で金の採掘が行われ、金を豊富に含む富鉱体(ふこうたい)に当たったと記録されています。
【秩父鉱山の歴史】桃の久保金山の閉山
その後、桃の久保金山は、鉱床に水が入り込んでしまい、採掘は短期間で終わってしまいました。その後、何度か再興が試みられましたが、金の富鉱体に当たることはなく失敗。1768(明和5)年には閉山しました。
チャレンジした人のなかには、エレキテルの発明で有名な平賀源内(ひらがげんない)もいました。
【秩父鉱山の歴史】江戸時代後期の鉱山開発
江戸後期の1780年代になると、中津川集落や秩父地域出身者を中心に、鉱山開発が行われています。実際に鉄、銅、金、銀、鉛などが産出されましたが、1850年代あたりには採掘を終えています。
秩父鉱山が再び脚光!明治時代末期から大正時代
秩父鉱山が再び脚光を浴びたのは明治末期。優良な金鉱床が発見されたことで、1912(明治45)年から近代的な金鉱山開発が本格化しました。しかし、1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発すると鉄の価格が急騰。これを機に、秩父鉱山は金から鉄採掘(おもな鉱床は和那波(わなば)・道伸窪(どうしんくぼ))へと舵を切り生産量を上げました。
ですが、第一次世界大戦終結とともに経営が悪化し、1920年代には休山状態となってしまいました。
秩父鉱山の昭和時代から現在
昭和に入り秩父鉱山は再び活気を取り戻し、金、銀、銅、鉛、亜鉛、鉄などが採掘されるようになりました。太平洋戦争後には鉛、亜鉛、マンガンなどの優良な鉱床が相次いで発見され、1965(昭和40)年前後に最盛期を迎え日本屈指の大鉱山となります。
この頃の鉱山町には2000人超が暮らし、秩父市街よりも華やいでいたといいます。その後、鉄鉱石などの金属鉱石は、安い輸入鉱石に押され、産出を中止。
現在は、良質な石灰岩のみが産出されています。
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