【兵庫県】竹田城の歴史~最後の城主となった赤松広秀によって築かれた石垣

【兵庫県】竹田城の歴史~最後の城主となった赤松広秀によって築かれた石垣

標高353.7mの古城山山頂にある竹田城跡。現在は、山上に浮かぶ「天空の城」として人気となっていますが、かつては但馬と播磨の国境に位置する要衝でした。

そして、築城に欠かせない大量の石は現地調達したものでした。

 

竹田城の象徴の石垣は赤松広秀が築いた

竹田城は1443年ころ、当時の但馬守護の山名持豊(宗全)が配下の太田垣光景(おおたがきみつかげ)に命じて築かせたのがはじまりです。

古城山(こじょうざん)は、但馬と播磨の国境に位置する要衝であったために選ばれました。

当時、山名氏は播磨守護赤松氏との間で戦が頻発していました。そこで赤松軍の侵攻を監視できる山城を築きます。ただし当初の城は土塁で守られていました。今に残る総石垣造の城に改修したのは、最後の城主となった赤松広秀(ひろひで)です。

竹田城最後の城主、赤松広秀はどうやって石垣を築いた?

石垣群は南北400m、東西100mにおよび、本丸の石垣の高さは10.6mもあります。重機のない時代に大量の石を山頂まで運び上げることができたのは、山頂の至るところにある石取り場から滑車(かっしゃ)を使って人力で石を引っ張り上げたからです。

 

竹田城の城主を6代にわたって治めた太田垣氏

竹田城は、山名氏の重臣である太田垣氏が6代にわたって城主を務めました。1540年ころには、竹田城から約15kmの距離にある生野銀山での採鉱(さいこう)が本格化し、山名氏が銀山を支配しました。そこで竹田城は生野銀山を管理する役割も担うことになります。

竹田城の城主は太田垣氏から豊臣秀長ののち赤松広秀に

毛利軍が出雲や伯耆に進軍し、但馬へ迫りました。すると太田垣氏は毛利軍に降伏します。その後、丹波の豪族で「赤鬼」と呼ばれた赤井直正に竹田城を占拠された際には、明智光秀の丹波制圧に加わり城を奪取します。ところが、太田垣氏は毛利軍と和睦し、信長勢に対抗したのでした。

怒った信長は秀吉に但馬攻めを命じ、秀吉の実弟・秀長(ひでなが)が侵攻してきます。太田垣氏はまたしても降伏し、秀吉は秀長を竹田城主に据えました。秀吉の狙いは、但馬制圧と生野銀山の支配にありました。その秀吉の死後、播磨龍野城主の赤松広秀が竹田城主となります。

 

竹田城最後の城主の自決後は廃城に

赤松広秀は関ケ原の戦いで西軍につき、東軍の丹後田辺城を攻めました。ところが、西軍の敗戦を知ると東軍に寝返り、今度は西軍の鳥取城を攻めます。このとき、城下町への焼き討ちにより鳥取城を落城させたものの、「自分が命じていない焼き討ちを決行した」として家康の不興(ふきょう)を買い、赤松広秀は切腹を命じられました。

こうして城主を失った竹田城は石垣のみを残して廃城となり、以降、竹田城が歴史の表舞台に登場することはありませんでした。

 

竹田城は城主を持つことなく観光地へ

竹田城跡が脚光をあびるきっかけは、1990年に公開された角川映画『天と地と』のロケ地に選ばれたことです。その後も2003年公開の『魔界転生(まかいてんしょう)』や、2012年公開の高倉健主演映画『あなたへ』のロケ地にも選ばれました。

また、2006年には「日本100名城」に選定されました。こうして知名度が上がり、観光客数も一気に伸びました。高所に見事に築かれた石垣の壮観さから「日本のマチュピチュ」とも呼ばれて人気を博しています。

周囲は山に囲まれ、比較的低い場所を播但線が走っています。雲海に浮かぶ竹田城が見られるのは、城の南東にある朝来山の立雲峡です。
国土地理院標準地図を元に作成

兵庫のトリセツ

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まっぷる 豊臣秀長

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地図でスッと頭に入る豊臣一族の戦国時代

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地図でスッと頭に入る戦国時代

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地図でスッと頭に入る戦国の合戦

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