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【海外】中東・レバノンってどんな国?~ニュースを騒がすベイルートが首都、消えた古い良きレバノン

【海外】中東・レバノンってどんな国?~ニュースを騒がすベイルートが首都、消えた古い良きレバノン

レバノンの国旗中央のレバノン杉は、強さと富の象徴です。フランス統治時代には、トリコロール中央に杉が描かれていました。 紅白は、レバノンの古代人を連想させる色です。度々ニュースを騒がしているベイルートは、レバノンの首都。ベイルートは、かつて中東のパリと呼ばれるほどヒトとモノが集まる都市でした。   レバノンのかんたん概要 レバノンは、もうあの頃には戻れない。長い内戦を経て国と人は変わり、仲良く暮らす方法を忘れてしまっています。 政体:共和制人口:676万9000人(福岡県+鹿児島県くらい)面積:1万230㎢(岐阜県くらい)首都:ベイルート大都市:ベイルート、トリポリ、サイダ通貨:レバノン・ポンド言語:アラビア語、フランス語、英語宗教:イスラム教とキリスト教の各派石油:ほとんど出ない 1人あたりのGDP:――USドル内戦でレバノンの国内産業が崩壊してしまいました。その後復興が進みますが、シリア危機と膨大な累積債務で思うように発展できません。 国名の由来:「レバノン山脈」雪をかぶった山をフェニキア人は白い山と呼びました。フェニキア語で「白」は「レバン」。後にオスマン帝国がこの地をレバノンと呼びました。 国民性トリビア:タバコが大好き。喫煙率の高さは、世界のなかでもトップクラスを誇っています。   消えた古き良きレバノン 18の宗派があるレバノンでは、宗教と政治が密接に関係しています。キリスト教徒とムスリムが、それぞれ国会議席の半数ずつを占めるルールがあり、この手のバランスは他の公職でも加味されています。大統領はキリスト教マロン派、首相はスンナ派、国民議会議長はシーア派という具合です。 レバノンの歴史 マロン派がこの国に来たのは7世紀からで、シリア北部を追われた彼らはレバノン山脈北部に定住しました。同時代にイスラム教が南部で広がり、彼らは11世紀に神秘主義的なドゥルーズ派に改宗しました。 その後十字軍、イスラム王朝時代、オスマン支配を経て、19世紀に西洋が進出します。オスマン支配末期にはマロン派とドゥルーズ派の勢力争いが激化し、マロン派虐殺事件が発生しました。これがキリスト教保護を名目とするフランスの介入を招き、第一次世界大戦後のレバノンは、シリアの一地域としてフランスに統治されます。程なくキリスト教徒が多いレバノンはシリアから分離、やがて1943年に独立したのです。 独立してからのレバノン しかし、レバノンの本当の戦いはこれからが本番でした。ヨルダンを追われたパレスチナ難民が流入すると、キリスト教徒とムスリムの均衡が崩れ、1975年に内戦へと発展します。これにシリアとイスラエルなどが介入。南部はイスラエルに占領され、レバノンのシーア派は、過激派組織ヒズボラを結成しイスラエルと戦いました。泥沼の内戦は、キリスト教の政治力を減らすターイフ合意後の1990年まで15年間も続きました。 内戦でレバノンの国は変わりました。インフラは破壊され、復興で格差が生じ、同じ街に住んでいた人々は、宗教や民族ごとに個別のコミュニティを作るようになりました。かつて信仰が違っていても、仲良く同じ街で暮らしたことを忘れてしまったかのように。   レバノンを知るキーワード キリスト教マロン派 キリスト教の傍流でレバノン山岳地帯に守られ生き残り、現在は政治の中枢にいます。この国は18の宗派が公的に認められ、存在しています。 レバノン杉 レバノンの国の象徴。フェニキア人はこれで軍船を造り、キリスト教徒は神が植えたと考えます。世界遺産カディーシャ渓谷の神の森の大木が、有名です。 レバノン内戦 1975年から1990年まで長い内戦を経験したレバノン。停戦後もキリスト教徒とムスリムの対立が残り、政治経済が不安定で、指導者暗殺が起きています。 バールベック遺跡 レバノンの世界遺産。元はフェニキア人がバアル神を祀った地で、後にローマ人が神殿を数多く建てました。当時の形がよく残っていることに驚きます。 ベイルート・ アメリカン大学...

【海外】中東・レバノンってどんな国?~ニュースを騒がすベイルートが首都、消えた古い良きレバノン

レバノンの国旗中央のレバノン杉は、強さと富の象徴です。フランス統治時代には、トリコロール中央に杉が描かれていました。 紅白は、レバノンの古代人を連想させる色です。度々ニュースを騒がしているベイルートは、レバノンの首都。ベイルートは、かつて中東のパリと呼ばれるほどヒトとモノが集まる都市でした。   レバノンのかんたん概要 レバノンは、もうあの頃には戻れない。長い内戦を経て国と人は変わり、仲良く暮らす方法を忘れてしまっています。 政体:共和制人口:676万9000人(福岡県+鹿児島県くらい)面積:1万230㎢(岐阜県くらい)首都:ベイルート大都市:ベイルート、トリポリ、サイダ通貨:レバノン・ポンド言語:アラビア語、フランス語、英語宗教:イスラム教とキリスト教の各派石油:ほとんど出ない 1人あたりのGDP:――USドル内戦でレバノンの国内産業が崩壊してしまいました。その後復興が進みますが、シリア危機と膨大な累積債務で思うように発展できません。 国名の由来:「レバノン山脈」雪をかぶった山をフェニキア人は白い山と呼びました。フェニキア語で「白」は「レバン」。後にオスマン帝国がこの地をレバノンと呼びました。 国民性トリビア:タバコが大好き。喫煙率の高さは、世界のなかでもトップクラスを誇っています。   消えた古き良きレバノン 18の宗派があるレバノンでは、宗教と政治が密接に関係しています。キリスト教徒とムスリムが、それぞれ国会議席の半数ずつを占めるルールがあり、この手のバランスは他の公職でも加味されています。大統領はキリスト教マロン派、首相はスンナ派、国民議会議長はシーア派という具合です。 レバノンの歴史 マロン派がこの国に来たのは7世紀からで、シリア北部を追われた彼らはレバノン山脈北部に定住しました。同時代にイスラム教が南部で広がり、彼らは11世紀に神秘主義的なドゥルーズ派に改宗しました。 その後十字軍、イスラム王朝時代、オスマン支配を経て、19世紀に西洋が進出します。オスマン支配末期にはマロン派とドゥルーズ派の勢力争いが激化し、マロン派虐殺事件が発生しました。これがキリスト教保護を名目とするフランスの介入を招き、第一次世界大戦後のレバノンは、シリアの一地域としてフランスに統治されます。程なくキリスト教徒が多いレバノンはシリアから分離、やがて1943年に独立したのです。 独立してからのレバノン しかし、レバノンの本当の戦いはこれからが本番でした。ヨルダンを追われたパレスチナ難民が流入すると、キリスト教徒とムスリムの均衡が崩れ、1975年に内戦へと発展します。これにシリアとイスラエルなどが介入。南部はイスラエルに占領され、レバノンのシーア派は、過激派組織ヒズボラを結成しイスラエルと戦いました。泥沼の内戦は、キリスト教の政治力を減らすターイフ合意後の1990年まで15年間も続きました。 内戦でレバノンの国は変わりました。インフラは破壊され、復興で格差が生じ、同じ街に住んでいた人々は、宗教や民族ごとに個別のコミュニティを作るようになりました。かつて信仰が違っていても、仲良く同じ街で暮らしたことを忘れてしまったかのように。   レバノンを知るキーワード キリスト教マロン派 キリスト教の傍流でレバノン山岳地帯に守られ生き残り、現在は政治の中枢にいます。この国は18の宗派が公的に認められ、存在しています。 レバノン杉 レバノンの国の象徴。フェニキア人はこれで軍船を造り、キリスト教徒は神が植えたと考えます。世界遺産カディーシャ渓谷の神の森の大木が、有名です。 レバノン内戦 1975年から1990年まで長い内戦を経験したレバノン。停戦後もキリスト教徒とムスリムの対立が残り、政治経済が不安定で、指導者暗殺が起きています。 バールベック遺跡 レバノンの世界遺産。元はフェニキア人がバアル神を祀った地で、後にローマ人が神殿を数多く建てました。当時の形がよく残っていることに驚きます。 ベイルート・ アメリカン大学...

【高知県】ジョン万次郎が辿った航路と波乱万丈の生涯~土佐から北アメリカ大陸へ!

【高知県】ジョン万次郎が辿った航路と波乱万丈の生涯~土佐から北アメリカ大陸へ!

2028年のNHK大河ドラマが『ジョン万』に決定し、「ジョン万次郎」に注目が集まっています。ここでは、今話題の「ジョン万次郎」の波乱の人生と、彼が辿った航路を地図でご紹介します。   ジョン万次郎誕生は漂流から始まった ジョン万次郎は1827(文政10)年、中浜(なかのはま)(現在の土佐清水市中浜)で貧しい漁師の次男として生まれました。9歳から家計を助けて働き、14歳で宇佐(うさ)(現在の土佐市(とさし))の延縄漁船にかしき(魚を針から外したり食事の世話をしたりする見習い)として雇われました。1841(天保12)年1月5日、ジョン万次郎は初めての漁に出ます。船は宇佐の西浜(にしはま)(現在の土佐市宇佐町)を出漁し、足摺岬の東の沖合に到着。そこで漁をしていたのですが、「あなせ」と呼ばれる北西の風に押され南東方面に流されてしまいます。 ジョン万次郎を乗せた船は土佐から750km離れた離島へ漂着 やがて船は黒潮に乗って大海原を漂流し始め、足摺岬から約750km離れた伊豆諸島の最南端に位置する火山島・鳥島(とりしま)に漂着。ジョン万次郎たちは飢えと渇きに苦しみながら、助けが来るのを待つこととなりました。通常の黒潮に乗った場合、八丈島より南にある鳥島には漂着しません。ジョン万次郎たちの乗った船は、黒潮大蛇行に捕まったのではないかという説もあります。 ジョン万次郎を救ったアメリカ人 島に漂着してから143日目の明け方、ジョン万次郎たちは食料調達のためにたまたま鳥島に立ち寄ったアメリカの捕鯨船、ジョン・ハウランド号に救出されます。仲間たちはハワイ王国のホノルルで下船しますが、ジョン万次郎は船長のホイットフィールドに才能を見いだされ、アメリカに渡ることを決心。 船長の故郷であるフェアヘーブンの学校で英語・数学・測量・航海術・測量術などを学びます。19歳で捕鯨船・フランクリン号に給仕係として乗り込み、21歳で一等航海士に昇進しています。 ホノルルで万次郎の仲間を降ろしたジョン・ハウランド号はグアム経由で伊豆諸島周辺まで移動し、さらにホノルル、タヒチ、フィジー、グアムと捕鯨を続けながらフェアヘーブンに帰航しました。   ジョン万次郎は日本への帰国を決意 もしジョン万次郎がアメリカに残っていたら、捕鯨船の航海士として活躍していたかもしれません。しかしジョン万次郎はアメリカでの栄光ではなく帰国の道を選びます。帰国資金を作るため捕鯨船を降り、ゴールドラッシュに参加。70日あまりで600ドル(約200万円)を稼ぎ、仲間が待つホノルルへ向かいました。ホノルルでは上海に向かう船と交渉。航路の途中にある琉球の沖まで乗せてもらうことになります。 ジョン万次郎たちは琉球の沖・摩文仁(まぶに)の浜の沖合5kmのあたりで下船。ホノルルで購入したジョリーボートを漕いで、摩文仁の浜に上陸しました。上陸が許されなかったら中浜まで船を漕ぐつもりだったようですが、琉球政府はジョン万次郎たちの上陸を許可。薩摩藩や長崎奉行所を経て、1852(嘉永5)年に土佐に帰国しました。 ジョン万次郎の漂流と海外生活が記された書物 土佐藩では70日にわたってジョン万次郎たちから聞き取り調査を行っており、藩の聞き取り調査として記されたのが『漂客談奇(ひょうかくだんき)』で、藩主・山内容堂(やまうちようどう)の命によって河田小龍(かわだしょうりょう)が記したのが『漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)』です。 『漂客談奇』は土佐藩の公式記録として用いられることが多く、『漂巽紀畧』は漂流してから海外生活を経て帰国するまでの経緯が挿絵入りで描かれています。『漂巽紀畧』は幕末の志士たちも目にしたといわれ、鎖国下にあった日本人の目を海外に向けさせるきっかけとなりました。   ジョン万次郎は八面六臂の活躍を見せ、日本の発展に寄与 この時代、欧米諸国の事情を知っている人間は非常に貴重でした。ジョン万次郎は武士の身分を与えられ、土佐藩の藩校「教授館(こうじゅかん)」の教授となります。また幕府はジョン万次郎に直参旗本の身分を与え、招聘しました。ペリーの浦賀来航以降ジョン万次郎はひっぱりだことなり、幕府の通訳を務める傍ら航海技術や造船技術の指導のため、国内を東奔西走します。 1860(万延元)年には幕府の遣米使節団の通訳兼航海士として、咸臨丸(かんりんまる)にも乗船。1864(元治元)年には薩摩藩開成所(かいせいじょ)教授に赴任し、薩摩藩士に航海・造船・測量・英語を指導しています。また、薩摩藩と土佐藩の外国船購入にも尽力。当時の日本には外国船の性能や価格を把握している人材がおらず、他藩では商人の言い値で購入するケースも多くありました。しかしジョン万次郎は、船の性能と価格の妥当性を知っています。彼の仲介により、薩摩藩と土佐藩は性能の良い外国船を相応の値段で手に入れることができたようです。 1870(明治3)年、晋仏(ふふつ)戦争視察団としてヨーロッパに派遣されますが、病を得て帰国。44歳で公職から退き、その後は穏やかに暮らしたとされます。   『高知のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から高知県を分析! 高知県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。高知の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【高知県】ジョン万次郎が辿った航路と波乱万丈の生涯~土佐から北アメリカ大陸へ!

2028年のNHK大河ドラマが『ジョン万』に決定し、「ジョン万次郎」に注目が集まっています。ここでは、今話題の「ジョン万次郎」の波乱の人生と、彼が辿った航路を地図でご紹介します。   ジョン万次郎誕生は漂流から始まった ジョン万次郎は1827(文政10)年、中浜(なかのはま)(現在の土佐清水市中浜)で貧しい漁師の次男として生まれました。9歳から家計を助けて働き、14歳で宇佐(うさ)(現在の土佐市(とさし))の延縄漁船にかしき(魚を針から外したり食事の世話をしたりする見習い)として雇われました。1841(天保12)年1月5日、ジョン万次郎は初めての漁に出ます。船は宇佐の西浜(にしはま)(現在の土佐市宇佐町)を出漁し、足摺岬の東の沖合に到着。そこで漁をしていたのですが、「あなせ」と呼ばれる北西の風に押され南東方面に流されてしまいます。 ジョン万次郎を乗せた船は土佐から750km離れた離島へ漂着 やがて船は黒潮に乗って大海原を漂流し始め、足摺岬から約750km離れた伊豆諸島の最南端に位置する火山島・鳥島(とりしま)に漂着。ジョン万次郎たちは飢えと渇きに苦しみながら、助けが来るのを待つこととなりました。通常の黒潮に乗った場合、八丈島より南にある鳥島には漂着しません。ジョン万次郎たちの乗った船は、黒潮大蛇行に捕まったのではないかという説もあります。 ジョン万次郎を救ったアメリカ人 島に漂着してから143日目の明け方、ジョン万次郎たちは食料調達のためにたまたま鳥島に立ち寄ったアメリカの捕鯨船、ジョン・ハウランド号に救出されます。仲間たちはハワイ王国のホノルルで下船しますが、ジョン万次郎は船長のホイットフィールドに才能を見いだされ、アメリカに渡ることを決心。 船長の故郷であるフェアヘーブンの学校で英語・数学・測量・航海術・測量術などを学びます。19歳で捕鯨船・フランクリン号に給仕係として乗り込み、21歳で一等航海士に昇進しています。 ホノルルで万次郎の仲間を降ろしたジョン・ハウランド号はグアム経由で伊豆諸島周辺まで移動し、さらにホノルル、タヒチ、フィジー、グアムと捕鯨を続けながらフェアヘーブンに帰航しました。   ジョン万次郎は日本への帰国を決意 もしジョン万次郎がアメリカに残っていたら、捕鯨船の航海士として活躍していたかもしれません。しかしジョン万次郎はアメリカでの栄光ではなく帰国の道を選びます。帰国資金を作るため捕鯨船を降り、ゴールドラッシュに参加。70日あまりで600ドル(約200万円)を稼ぎ、仲間が待つホノルルへ向かいました。ホノルルでは上海に向かう船と交渉。航路の途中にある琉球の沖まで乗せてもらうことになります。 ジョン万次郎たちは琉球の沖・摩文仁(まぶに)の浜の沖合5kmのあたりで下船。ホノルルで購入したジョリーボートを漕いで、摩文仁の浜に上陸しました。上陸が許されなかったら中浜まで船を漕ぐつもりだったようですが、琉球政府はジョン万次郎たちの上陸を許可。薩摩藩や長崎奉行所を経て、1852(嘉永5)年に土佐に帰国しました。 ジョン万次郎の漂流と海外生活が記された書物 土佐藩では70日にわたってジョン万次郎たちから聞き取り調査を行っており、藩の聞き取り調査として記されたのが『漂客談奇(ひょうかくだんき)』で、藩主・山内容堂(やまうちようどう)の命によって河田小龍(かわだしょうりょう)が記したのが『漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)』です。 『漂客談奇』は土佐藩の公式記録として用いられることが多く、『漂巽紀畧』は漂流してから海外生活を経て帰国するまでの経緯が挿絵入りで描かれています。『漂巽紀畧』は幕末の志士たちも目にしたといわれ、鎖国下にあった日本人の目を海外に向けさせるきっかけとなりました。   ジョン万次郎は八面六臂の活躍を見せ、日本の発展に寄与 この時代、欧米諸国の事情を知っている人間は非常に貴重でした。ジョン万次郎は武士の身分を与えられ、土佐藩の藩校「教授館(こうじゅかん)」の教授となります。また幕府はジョン万次郎に直参旗本の身分を与え、招聘しました。ペリーの浦賀来航以降ジョン万次郎はひっぱりだことなり、幕府の通訳を務める傍ら航海技術や造船技術の指導のため、国内を東奔西走します。 1860(万延元)年には幕府の遣米使節団の通訳兼航海士として、咸臨丸(かんりんまる)にも乗船。1864(元治元)年には薩摩藩開成所(かいせいじょ)教授に赴任し、薩摩藩士に航海・造船・測量・英語を指導しています。また、薩摩藩と土佐藩の外国船購入にも尽力。当時の日本には外国船の性能や価格を把握している人材がおらず、他藩では商人の言い値で購入するケースも多くありました。しかしジョン万次郎は、船の性能と価格の妥当性を知っています。彼の仲介により、薩摩藩と土佐藩は性能の良い外国船を相応の値段で手に入れることができたようです。 1870(明治3)年、晋仏(ふふつ)戦争視察団としてヨーロッパに派遣されますが、病を得て帰国。44歳で公職から退き、その後は穏やかに暮らしたとされます。   『高知のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から高知県を分析! 高知県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。高知の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【海外】ロシア経済の鍵をにぎる地下資源~世界情勢に揺れるも安泰 !?~

【海外】ロシア経済の鍵をにぎる地下資源~世界情勢に揺れるも安泰 !?~

ロシアは広大な国土に眠る豊富な地下資源を経済の大黒柱としています 。世界有数の産出量を誇る石油・天然ガスに加え、パラジウムやレアメタルといった戦略的鉱物資源も豊富で、世界経済に大きな影響力を保持しています 。   資源による近代化と経済成長 鉄と石炭は近代工業の根幹。ロシアは世界有数の石炭産出国で、ソ連解体後の混乱を抜け出し、世界市場へのアクセスが軌道に乗った2020年前後には過去最高の生産量を誇りました。 20世紀初頭、世界最大の油田はカスピ海沿岸のバクー(現在はアゼルバイジャン領)で、世界の石油の半分以上をロシア(ソ連)が生産していました。その後、主要な採掘地はヴォルガ・ウラル地域(通称第2のバクー)、西シベリア(第3のバクー)に移りましたが、現在も世界3位にあたる年間5億トン以上を産出しています。また、ロシアは世界最大の天然ガス埋蔵量を誇り、2000年代初頭には世界の天然ガスの20%以上を生産していました。シェール革命などの結果、米国に抜かれた現在も世界2位の天然ガス生産国です。   石油と天然ガスによる復活 西ヨーロッパ向けの石油・天然ガス輸出はソ連時代に始まり、政治体制の違いを超えて拡大してきました。ソ連解体後の1990年代には、民営化の過程で新興財閥(オリガルヒ)が資源利権を手にして影響力を強めましたが、原油価格は低迷し国家財政は不安定でした。2000年代に入り原油価格が上昇すると、資源収入はロシア経済立て直しの原動力となり、同時に国家が資源部門への統制を強めることでプーチン体制の基盤が固められていきました。しかしウクライナ侵攻に対する経済制裁で、その構図が大きく変わり、ロシアは東方(アジア方面)に販路を求めざるを得なくなりました。ロシアの化石燃料輸送は、原油ではパイプラインに加えバルト海・黒海・極東港からの海上輸送が広く利用されます。一方、天然ガスは大部分が欧州向けパイプラインに依存してきました。ウクライナ侵攻開始後の欧州による制裁を受け、パイプラインで運ぶ他はない気体ガスは販路に窮することとなりました。   豊富な非鉄金属・貴金属 広大な国土を有すロシアは鉱物資源の宝庫で、クルスク磁気異常に代表される鉄鉱石埋蔵量は世界第3位。ソ連時代から鉄鋼生産は経済発展の要と見なされ、中心地であるウラル地域以外にも多くの生産拠点があります。輸出や輸送が困難な状況はエネルギー資源と共通しますが、鉄鋼産業は外貨獲得の手段だけでなく国内需要が大きいのです。脱炭素の潮流は化石燃料の経済的・政治的な重要性を低下させたと同時に、新たな需要を生み出しました。ロシアはパラジウムの世界最大級の生産国で、世界供給の約4割を占めます。ニッケル、コバルト、タングステン、バナジウムの供給国としても有力。これらのレアメタルは生産国が少数に限られ、供給が偏在していることから、世界経済や国際政治に与える影響は小さくありません。   戦略的に重要な鉱物 ロシアは多様な重要鉱物資源を有します。リチウムやニオブなどのいわゆるレアメタル、レアアースは戦略物資と位置付けられ、将来の開発が期待されています。一方、ニッケルやパラジウム、銅、チタンなどの非鉄金属でも世界有数の生産国であり、金やダイヤモンド、ウランといった資源も重要な輸出品です。伝統的な鉱業の中心はウラルでしたが、現在は北極圏のノリリスク(ニッケル、パラジウム)やサハ共和国のトムトール鉱床(レアアース)、バイカル湖東方のウドカン鉱床(銅)など、新たな資源拠点の開発が進みます。レアアースは埋蔵量で中国などに次ぐ世界4位の規模とされますが、開発に必要なインフラの整備などは立ち遅れており、生産体制の構築は途上にあります。   『地図でスッと頭に入るロシア』好評発売中! 本書では政治・軍事的な対立から一歩引いた客観的な視点で、地理、文化、産業、歴史、ロシアの人々の生活や暮らしについて地図と図解でわかりやすく紹介し、ロシアのありのままの日常を知ることができます。

【海外】ロシア経済の鍵をにぎる地下資源~世界情勢に揺れるも安泰 !?~

ロシアは広大な国土に眠る豊富な地下資源を経済の大黒柱としています 。世界有数の産出量を誇る石油・天然ガスに加え、パラジウムやレアメタルといった戦略的鉱物資源も豊富で、世界経済に大きな影響力を保持しています 。   資源による近代化と経済成長 鉄と石炭は近代工業の根幹。ロシアは世界有数の石炭産出国で、ソ連解体後の混乱を抜け出し、世界市場へのアクセスが軌道に乗った2020年前後には過去最高の生産量を誇りました。 20世紀初頭、世界最大の油田はカスピ海沿岸のバクー(現在はアゼルバイジャン領)で、世界の石油の半分以上をロシア(ソ連)が生産していました。その後、主要な採掘地はヴォルガ・ウラル地域(通称第2のバクー)、西シベリア(第3のバクー)に移りましたが、現在も世界3位にあたる年間5億トン以上を産出しています。また、ロシアは世界最大の天然ガス埋蔵量を誇り、2000年代初頭には世界の天然ガスの20%以上を生産していました。シェール革命などの結果、米国に抜かれた現在も世界2位の天然ガス生産国です。   石油と天然ガスによる復活 西ヨーロッパ向けの石油・天然ガス輸出はソ連時代に始まり、政治体制の違いを超えて拡大してきました。ソ連解体後の1990年代には、民営化の過程で新興財閥(オリガルヒ)が資源利権を手にして影響力を強めましたが、原油価格は低迷し国家財政は不安定でした。2000年代に入り原油価格が上昇すると、資源収入はロシア経済立て直しの原動力となり、同時に国家が資源部門への統制を強めることでプーチン体制の基盤が固められていきました。しかしウクライナ侵攻に対する経済制裁で、その構図が大きく変わり、ロシアは東方(アジア方面)に販路を求めざるを得なくなりました。ロシアの化石燃料輸送は、原油ではパイプラインに加えバルト海・黒海・極東港からの海上輸送が広く利用されます。一方、天然ガスは大部分が欧州向けパイプラインに依存してきました。ウクライナ侵攻開始後の欧州による制裁を受け、パイプラインで運ぶ他はない気体ガスは販路に窮することとなりました。   豊富な非鉄金属・貴金属 広大な国土を有すロシアは鉱物資源の宝庫で、クルスク磁気異常に代表される鉄鉱石埋蔵量は世界第3位。ソ連時代から鉄鋼生産は経済発展の要と見なされ、中心地であるウラル地域以外にも多くの生産拠点があります。輸出や輸送が困難な状況はエネルギー資源と共通しますが、鉄鋼産業は外貨獲得の手段だけでなく国内需要が大きいのです。脱炭素の潮流は化石燃料の経済的・政治的な重要性を低下させたと同時に、新たな需要を生み出しました。ロシアはパラジウムの世界最大級の生産国で、世界供給の約4割を占めます。ニッケル、コバルト、タングステン、バナジウムの供給国としても有力。これらのレアメタルは生産国が少数に限られ、供給が偏在していることから、世界経済や国際政治に与える影響は小さくありません。   戦略的に重要な鉱物 ロシアは多様な重要鉱物資源を有します。リチウムやニオブなどのいわゆるレアメタル、レアアースは戦略物資と位置付けられ、将来の開発が期待されています。一方、ニッケルやパラジウム、銅、チタンなどの非鉄金属でも世界有数の生産国であり、金やダイヤモンド、ウランといった資源も重要な輸出品です。伝統的な鉱業の中心はウラルでしたが、現在は北極圏のノリリスク(ニッケル、パラジウム)やサハ共和国のトムトール鉱床(レアアース)、バイカル湖東方のウドカン鉱床(銅)など、新たな資源拠点の開発が進みます。レアアースは埋蔵量で中国などに次ぐ世界4位の規模とされますが、開発に必要なインフラの整備などは立ち遅れており、生産体制の構築は途上にあります。   『地図でスッと頭に入るロシア』好評発売中! 本書では政治・軍事的な対立から一歩引いた客観的な視点で、地理、文化、産業、歴史、ロシアの人々の生活や暮らしについて地図と図解でわかりやすく紹介し、ロシアのありのままの日常を知ることができます。

【静岡県】相良油田は太平洋岸で唯一「琥珀色の宝水」が採れる場所

【静岡県】相良油田は太平洋岸で唯一「琥珀色の宝水」が採れる場所

中東からの原油供給が大幅に減少し、エネルギー問題が取りざたされる昨今。政府は中東の原油依存度を下げる方向で調整を進めているようですが、かつて静岡県に高水準な原油が採掘できる油田があったのをご存じですか? 明治初期に発見された相良油田。太平洋岸では唯一石油が発掘され地域の主要産業になっていました。公園として整備された今もなお、当時の面影を垣間見ることができます。   相良油田は太平洋岸唯一石油が採掘できる石油坑 発電の燃料やガソリン、プラスチックの原料など、私たちの生活に欠くことのできない石油は、ほぼ100%海外からの輸入品で賄われていますが、実は静岡県内にも採掘できる場所があることをご存じでしょうか。 それが、牧之原市西部の相良地区にある、太平洋岸唯一の石油坑「相良油田(さがらゆでん)」です。   相良油田の歴史 この油田は、1872(明治5)年2月、谷間で「油くさい水が出る」と聞いた元徳川藩士の村上正局(むらかみまさちか)によって発見されました。 同年3月には、静岡学問所の外国人教師エドワード・ウォーレン・クラークにより、その液体が石油であると判定。翌年5月には、手掘りによる採油が始まりました。 1874(明治7)年になると日本石油(現在のENEOS)の前身である長野石炭油会社による日本で初の機械掘りがスタート。最盛期の1884(明治17年)年頃は、従業員約600人、年間で721キロリットルもの石油が産出されていました。 相良油田を有する地層と産出していた石油の品質 相良油田の石油は深さ310m、岩と砂岩などが交互に積み重なる第三紀中新世紀の相良層という地層から採取されていました。非常に軽質で低粘度、ウイスキーやブランデーのような透き通った琥珀色の液体で、精製せずにそのままでも自動車が動くほど高品質だったと言われています。 参考:牧之原市ホームページ 石油坑と機械堀井は1950(昭和25)年に開抗されたもので、深さは310m。泥岩と砂岩が交互に積み重なった岩盤を堀り石油を採掘していました。   相良油田採掘停止のその後 そんな相良油田も、産油量の激減や国外からの安い原油の輸入により1955(昭和30)年には採掘停止に。その後、1980(昭和55)年には相良油田石油坑が静岡県指定文化財(天然記念物)となり、現在、その跡地は油田の名残をとどめる「相良油田油井」として、観光と研究用に残されています。 油井では数年に一度、採掘試験が行われており、少し離れた場所にある油田跡を整備した「油田の里公園」で開催されるイベントにあわせて一般に公開され、汲みたての原油からゴミを瀘(こ)した精製前の原油を使い、原動機付自転車などのガソリンエンジンや農業用発電機の始動実演が行われています。油田の里公園の公園内にある「油田資料館」では採掘の様子を知ることができます。 油田の里公園の公園内にある油田資料館   『静岡のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。静岡の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【静岡県】相良油田は太平洋岸で唯一「琥珀色の宝水」が採れる場所

中東からの原油供給が大幅に減少し、エネルギー問題が取りざたされる昨今。政府は中東の原油依存度を下げる方向で調整を進めているようですが、かつて静岡県に高水準な原油が採掘できる油田があったのをご存じですか? 明治初期に発見された相良油田。太平洋岸では唯一石油が発掘され地域の主要産業になっていました。公園として整備された今もなお、当時の面影を垣間見ることができます。   相良油田は太平洋岸唯一石油が採掘できる石油坑 発電の燃料やガソリン、プラスチックの原料など、私たちの生活に欠くことのできない石油は、ほぼ100%海外からの輸入品で賄われていますが、実は静岡県内にも採掘できる場所があることをご存じでしょうか。 それが、牧之原市西部の相良地区にある、太平洋岸唯一の石油坑「相良油田(さがらゆでん)」です。   相良油田の歴史 この油田は、1872(明治5)年2月、谷間で「油くさい水が出る」と聞いた元徳川藩士の村上正局(むらかみまさちか)によって発見されました。 同年3月には、静岡学問所の外国人教師エドワード・ウォーレン・クラークにより、その液体が石油であると判定。翌年5月には、手掘りによる採油が始まりました。 1874(明治7)年になると日本石油(現在のENEOS)の前身である長野石炭油会社による日本で初の機械掘りがスタート。最盛期の1884(明治17年)年頃は、従業員約600人、年間で721キロリットルもの石油が産出されていました。 相良油田を有する地層と産出していた石油の品質 相良油田の石油は深さ310m、岩と砂岩などが交互に積み重なる第三紀中新世紀の相良層という地層から採取されていました。非常に軽質で低粘度、ウイスキーやブランデーのような透き通った琥珀色の液体で、精製せずにそのままでも自動車が動くほど高品質だったと言われています。 参考:牧之原市ホームページ 石油坑と機械堀井は1950(昭和25)年に開抗されたもので、深さは310m。泥岩と砂岩が交互に積み重なった岩盤を堀り石油を採掘していました。   相良油田採掘停止のその後 そんな相良油田も、産油量の激減や国外からの安い原油の輸入により1955(昭和30)年には採掘停止に。その後、1980(昭和55)年には相良油田石油坑が静岡県指定文化財(天然記念物)となり、現在、その跡地は油田の名残をとどめる「相良油田油井」として、観光と研究用に残されています。 油井では数年に一度、採掘試験が行われており、少し離れた場所にある油田跡を整備した「油田の里公園」で開催されるイベントにあわせて一般に公開され、汲みたての原油からゴミを瀘(こ)した精製前の原油を使い、原動機付自転車などのガソリンエンジンや農業用発電機の始動実演が行われています。油田の里公園の公園内にある「油田資料館」では採掘の様子を知ることができます。 油田の里公園の公園内にある油田資料館   『静岡のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。静岡の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【群馬県】谷川岳は遭難者を世界一多く出した山としてギネス記録を持つ!

【群馬県】谷川岳は遭難者を世界一多く出した山としてギネス記録を持つ!

群馬と新潟の県境で、大自然の雄大な風景が広がる谷川岳。現在は登山者やスキーヤーをはじめ、たくさんの観光客が訪れる人気の名峰ですが、なぜ「魔の山」と呼ばれるのでしょうか。   谷川岳は「遭難による死亡者が世界一多い山」としてギネス認定された「魔の山」 日本百名山のひとつでもある谷川岳。初心者から上級者まで楽しめると、多くの登山者やスキー客を招いています。しかし人気の一方で、「世界一遭難者が多い山」としてギネス認定され、喜ばしくないワースト記録を打ち立てました。昭和6(1931)年から2020年6月現在までで、死者818名、行方不明者6名という数字が、その恐ろしさを物語っており、最も危険な「魔の山」と呼ばれています。 谷川岳は標高1977mと、日本の北アルプス・南アルプスの3000m級の山々と比べてもさほど高い山ではありません。それなのに、エベレストなど世界の8000m級の14山の死亡者および遭難者数の合計を、谷川岳だけで上回っているのです。なぜ遭難が多発する危険な山といわれるのでしょうか。 谷川岳は、剱岳(つるぎだけ)(富山県)、穂高岳(ほたかだけ)(長野県・岐阜県)と並び、「日本三大岩場」といわれています。標高1963mの「トマの耳」と、標高1977mの「オキの耳」という2つの山頂があり、遠くから見ると猫の耳のように見えるのも特徴です。ちなみにトマ=手前、オキ=奥を意味します。季節を問わずロープウェイが運行しています。   谷川岳で遭難による死亡が多発する理由とは その理由のひとつに考えられているのは、天候の変化が激しいこと。谷川連峰は本州の中央部に位置し、日本列島を太平洋側と日本海側に分ける中央分水嶺(ぶんすいれい)です。ちょうど日本の両側の気候が接する地点となるため急な天候の変化が多く、少しの油断が事故につながってしまいます。また、冬の時期は日本海から吹く季節風をまともに受けることも悪条件になる一因です。   遭難による死亡者がひときわ多い谷川岳「一ノ倉沢」の特徴 なかでも、ロッククライマーから聖地と呼ばれる「一ノ倉沢(いちのくらさわ)」は、遭難者がひときわ多い場所です。急な岩壁が続く険しい地形で、登り切ると谷川岳の頂上に出ることができますが、積雪が50mを超えることもある、世界的にも珍しい場所です。新潟県側の傾斜が比較的ゆるやかで、風で吹き飛ばされた雪が簡単に上昇するため、一ノ倉沢の岩壁の下に落ちてたまります。さらに雪崩によってその上に雪が積み重なるので、途方もない積雪量になるのだといいます。 さらに、谷川岳の標高の高い部分は蛇紋岩(じゃもんがん)・玄武岩(げんぶがん)などでできており、蛇紋岩は滑りやすい性質があります。クライマーの滑落による事故が多いのも、そのためだと考えられます。   谷川岳での遭難死亡者は登山ブームに沸く昭和初期に多発していた これだけ聞くとかなり恐ろしい場所のように感じますが、ここ数年の死者数は年1~2人と、特別多いわけではありません。死因も、バックカントリーでのスキーヤーの事故や雪崩、夏季は熱中症、転倒、心不全などと、ほかの山と比べて特筆すべきことはありません。登山ブームが起きた昭和初期の事故数が多いことを考えると、地形の問題だけでなく、当時の登山知識や道具性能なども遭難者を増やした一因ではないかと推測できます。 かるたの札でも紹介されるように、谷川岳は本来魅力いっぱいの観光スポット。登山やスキーだけでなく、谷川岳のあるみなかみ町にはいくつもの温泉が湧き、群馬県内最大の温泉地がある町としても人気です。大自然を満喫するために、過信や油断はせず、事前に準備をして出かけたいものです。   谷川岳以外の情報も盛りだくさん!『群馬のトリセツ』好評発売中 群馬県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。群馬県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【群馬県】谷川岳は遭難者を世界一多く出した山としてギネス記録を持つ!

群馬と新潟の県境で、大自然の雄大な風景が広がる谷川岳。現在は登山者やスキーヤーをはじめ、たくさんの観光客が訪れる人気の名峰ですが、なぜ「魔の山」と呼ばれるのでしょうか。   谷川岳は「遭難による死亡者が世界一多い山」としてギネス認定された「魔の山」 日本百名山のひとつでもある谷川岳。初心者から上級者まで楽しめると、多くの登山者やスキー客を招いています。しかし人気の一方で、「世界一遭難者が多い山」としてギネス認定され、喜ばしくないワースト記録を打ち立てました。昭和6(1931)年から2020年6月現在までで、死者818名、行方不明者6名という数字が、その恐ろしさを物語っており、最も危険な「魔の山」と呼ばれています。 谷川岳は標高1977mと、日本の北アルプス・南アルプスの3000m級の山々と比べてもさほど高い山ではありません。それなのに、エベレストなど世界の8000m級の14山の死亡者および遭難者数の合計を、谷川岳だけで上回っているのです。なぜ遭難が多発する危険な山といわれるのでしょうか。 谷川岳は、剱岳(つるぎだけ)(富山県)、穂高岳(ほたかだけ)(長野県・岐阜県)と並び、「日本三大岩場」といわれています。標高1963mの「トマの耳」と、標高1977mの「オキの耳」という2つの山頂があり、遠くから見ると猫の耳のように見えるのも特徴です。ちなみにトマ=手前、オキ=奥を意味します。季節を問わずロープウェイが運行しています。   谷川岳で遭難による死亡が多発する理由とは その理由のひとつに考えられているのは、天候の変化が激しいこと。谷川連峰は本州の中央部に位置し、日本列島を太平洋側と日本海側に分ける中央分水嶺(ぶんすいれい)です。ちょうど日本の両側の気候が接する地点となるため急な天候の変化が多く、少しの油断が事故につながってしまいます。また、冬の時期は日本海から吹く季節風をまともに受けることも悪条件になる一因です。   遭難による死亡者がひときわ多い谷川岳「一ノ倉沢」の特徴 なかでも、ロッククライマーから聖地と呼ばれる「一ノ倉沢(いちのくらさわ)」は、遭難者がひときわ多い場所です。急な岩壁が続く険しい地形で、登り切ると谷川岳の頂上に出ることができますが、積雪が50mを超えることもある、世界的にも珍しい場所です。新潟県側の傾斜が比較的ゆるやかで、風で吹き飛ばされた雪が簡単に上昇するため、一ノ倉沢の岩壁の下に落ちてたまります。さらに雪崩によってその上に雪が積み重なるので、途方もない積雪量になるのだといいます。 さらに、谷川岳の標高の高い部分は蛇紋岩(じゃもんがん)・玄武岩(げんぶがん)などでできており、蛇紋岩は滑りやすい性質があります。クライマーの滑落による事故が多いのも、そのためだと考えられます。   谷川岳での遭難死亡者は登山ブームに沸く昭和初期に多発していた これだけ聞くとかなり恐ろしい場所のように感じますが、ここ数年の死者数は年1~2人と、特別多いわけではありません。死因も、バックカントリーでのスキーヤーの事故や雪崩、夏季は熱中症、転倒、心不全などと、ほかの山と比べて特筆すべきことはありません。登山ブームが起きた昭和初期の事故数が多いことを考えると、地形の問題だけでなく、当時の登山知識や道具性能なども遭難者を増やした一因ではないかと推測できます。 かるたの札でも紹介されるように、谷川岳は本来魅力いっぱいの観光スポット。登山やスキーだけでなく、谷川岳のあるみなかみ町にはいくつもの温泉が湧き、群馬県内最大の温泉地がある町としても人気です。大自然を満喫するために、過信や油断はせず、事前に準備をして出かけたいものです。   谷川岳以外の情報も盛りだくさん!『群馬のトリセツ』好評発売中 群馬県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。群馬県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【東京都】江戸の町はこうして作られた!~徳川家康が開拓し江戸幕府が開かれるまで~

【東京都】江戸の町はこうして作られた!~徳川家康が開拓し江戸幕府が開かれるまで~

世界一の人口を誇る東京は、徳川家康が江戸に入って町づくりを始めたときに遡る新しい町。家康の町づくりの跡を追うと現在の東京が見えてきます。   江戸の町づくりを早々に命じた徳川家康 天正18(1590)年、豊臣秀吉は後北条氏の小田原城を陥落させ、天下統一に成功しました。秀吉は、小田原城攻めに功労のあった徳川家康に、それまで後北条氏の所領だった関東8か国を与え、家康は領地替えに応じました。 家康は早速江戸城に入り、江戸城で政治を司ることを見越して、町づくりの基礎をつくるよう家臣に命じました。   江戸の町が作られる前の環境 当時の江戸城は、太田道灌が支配していた頃の地形と変わらず、江戸城の近くまで日比谷の入江が入り込み、現在の皇居外苑のあたりまで海でした。道灌が築いた江戸城は、家康が移り住むまでは小さな城にしかすぎず、江戸湾沿いには多くの汐入地が点在し、満潮になると海水が入り込みました。 一方、城の背後の土地は原野が広がり、平坦な土地も少なかったのですが、逆に家康は土地改造の余地が大きく、開発によっては広大な領地を手にすることになると考えたのか、壮大な都市計画を描いて江戸の町づくりに着手しました。   江戸の町づくりに欠かせなかった河川工事 家康が江戸に入る前に家臣に命じたのは、飲料水の確保でした。文禄元(1592)年、江戸城の飲料水確保のため、麹町方面から流れていた自然の河川を堰き止め、貯水池を造ることを命じています。これが現在の千鳥ヶ淵です。 江戸城内の水は塩分が抜けきらず、飲料水としては不適だったため、次に着手したのは、数々の河川工事でした。江戸は低地ゆえに、水害に弱く、たびたび洪水に悩まされました。 そこで、平川と小石川をひとつにまとめ、道三堀を造り、隅田川と結ぶことで江戸への生活物資の輸送路を確保しました。道三堀の起点は現在の和田倉門近くで、ここから道三堀を経由し平川(現在の日本橋川)に合流します。 生活物資を千葉方面から江戸に運ぶルートとして開発したのが小名木川です。小名木川を通って行徳(ぎょうとく)から塩を運びました。 これら運河は城を中心とした右渦巻き状の構造とも符号していました。運河は外に向かって広がり、濠を築くことで敵からの攻撃を防ぐ役割も果たしました。 現在は桜の名所として知られる千鳥ヶ淵 江戸の町は河川工事による埋め立てで作られた 江戸城建設のため、大量の物資を外から調達しなくてはなりません。そのためには、江戸湾に面して広がっていた湿地帯を埋め立て、海岸線を整え船着き場を建設する必要があったため、人工河川の開削で得た大量の土砂は湾の埋め立てに利用されました。 江戸城石垣の石は伊豆半島から舟で運ばれました。神田山(神田駿河台)を切り崩した土砂を利用して日比谷入江を埋め立てて町を海側に拡大する工事も行い、これは家康亡き後の歴代の徳川将軍に引き継がれます。 出典:『江戸の川 東京の川』(鈴木理生著 発行:井上書院)を元に作成 家康入城以前の江戸城は太田道灌が築いたもので、北東に平川が流れ、前面に日比谷入江を望むところでした。神田山を切り崩した土砂を日比谷入江の埋め立てに利用し、道三堀を開削しました。 日比谷入江は埋め立てられ、櫛形の埠頭が建設されました。   江戸の町づくりの都市計画 家康が慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍となり江戸幕府を開いたのは慶長8(1603)年。以後、天下普請(ぶしん)といわれる、全国の大名に大がかりな工事を課して、城を中心にした江戸の町が短時間で完成します。 屋敷配分では、江戸城の北西側の高台の多くは家臣に配分し、城の東南側の低地を町人地としました。この棲み分けは現在の山の手、下町の原型につながっています。 江戸の都市計画は家康によってなされ、3代将軍・家光の時代にほぼ完成したといわれます。...

【東京都】江戸の町はこうして作られた!~徳川家康が開拓し江戸幕府が開かれるまで~

世界一の人口を誇る東京は、徳川家康が江戸に入って町づくりを始めたときに遡る新しい町。家康の町づくりの跡を追うと現在の東京が見えてきます。   江戸の町づくりを早々に命じた徳川家康 天正18(1590)年、豊臣秀吉は後北条氏の小田原城を陥落させ、天下統一に成功しました。秀吉は、小田原城攻めに功労のあった徳川家康に、それまで後北条氏の所領だった関東8か国を与え、家康は領地替えに応じました。 家康は早速江戸城に入り、江戸城で政治を司ることを見越して、町づくりの基礎をつくるよう家臣に命じました。   江戸の町が作られる前の環境 当時の江戸城は、太田道灌が支配していた頃の地形と変わらず、江戸城の近くまで日比谷の入江が入り込み、現在の皇居外苑のあたりまで海でした。道灌が築いた江戸城は、家康が移り住むまでは小さな城にしかすぎず、江戸湾沿いには多くの汐入地が点在し、満潮になると海水が入り込みました。 一方、城の背後の土地は原野が広がり、平坦な土地も少なかったのですが、逆に家康は土地改造の余地が大きく、開発によっては広大な領地を手にすることになると考えたのか、壮大な都市計画を描いて江戸の町づくりに着手しました。   江戸の町づくりに欠かせなかった河川工事 家康が江戸に入る前に家臣に命じたのは、飲料水の確保でした。文禄元(1592)年、江戸城の飲料水確保のため、麹町方面から流れていた自然の河川を堰き止め、貯水池を造ることを命じています。これが現在の千鳥ヶ淵です。 江戸城内の水は塩分が抜けきらず、飲料水としては不適だったため、次に着手したのは、数々の河川工事でした。江戸は低地ゆえに、水害に弱く、たびたび洪水に悩まされました。 そこで、平川と小石川をひとつにまとめ、道三堀を造り、隅田川と結ぶことで江戸への生活物資の輸送路を確保しました。道三堀の起点は現在の和田倉門近くで、ここから道三堀を経由し平川(現在の日本橋川)に合流します。 生活物資を千葉方面から江戸に運ぶルートとして開発したのが小名木川です。小名木川を通って行徳(ぎょうとく)から塩を運びました。 これら運河は城を中心とした右渦巻き状の構造とも符号していました。運河は外に向かって広がり、濠を築くことで敵からの攻撃を防ぐ役割も果たしました。 現在は桜の名所として知られる千鳥ヶ淵 江戸の町は河川工事による埋め立てで作られた 江戸城建設のため、大量の物資を外から調達しなくてはなりません。そのためには、江戸湾に面して広がっていた湿地帯を埋め立て、海岸線を整え船着き場を建設する必要があったため、人工河川の開削で得た大量の土砂は湾の埋め立てに利用されました。 江戸城石垣の石は伊豆半島から舟で運ばれました。神田山(神田駿河台)を切り崩した土砂を利用して日比谷入江を埋め立てて町を海側に拡大する工事も行い、これは家康亡き後の歴代の徳川将軍に引き継がれます。 出典:『江戸の川 東京の川』(鈴木理生著 発行:井上書院)を元に作成 家康入城以前の江戸城は太田道灌が築いたもので、北東に平川が流れ、前面に日比谷入江を望むところでした。神田山を切り崩した土砂を日比谷入江の埋め立てに利用し、道三堀を開削しました。 日比谷入江は埋め立てられ、櫛形の埠頭が建設されました。   江戸の町づくりの都市計画 家康が慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍となり江戸幕府を開いたのは慶長8(1603)年。以後、天下普請(ぶしん)といわれる、全国の大名に大がかりな工事を課して、城を中心にした江戸の町が短時間で完成します。 屋敷配分では、江戸城の北西側の高台の多くは家臣に配分し、城の東南側の低地を町人地としました。この棲み分けは現在の山の手、下町の原型につながっています。 江戸の都市計画は家康によってなされ、3代将軍・家光の時代にほぼ完成したといわれます。...

【東京都・千葉県】京葉線は貨物幹線の東京外環状線計画に始まった

【東京都・千葉県】京葉線は貨物幹線の東京外環状線計画に始まった

東京~蘇我間を結ぶ京葉線は、比較的新しい通勤&観光路線ですが、そのルーツは昭和30年代に計画された壮大な貨物線にあったのです。   京葉線と東京外環状線 京葉線はベイエリアを走る通勤路線であり、東京駅と東京ディズニーリゾートなどを結ぶ観光路線として知られます。しかし当初は、東京外環状線と呼ばれる貨物幹線の一部として完成する予定でした。 東京外環状線とは、旧国鉄の貨物輸送力が飽和状態になっていた昭和30年代に計画された、山手貨物線の外側およそ20㎞圏に、東海道・中央・東北・常磐・総武の5幹線を環状に結んだ延長約200㎞に及ぶ貨物幹線の総称です。具体的には武蔵野線、小金線、京葉線で構成され、一部は実際に着工。京葉線は、川崎市塩浜と千葉県木更津市を結ぶ計画でした。 京葉線はもともと、塩浜(川崎市)から東京湾沿いに木更津に至る東京外環状線の一部として計画されました。その後、貨物需要の落ち込みから旅客化、1990(平成2)年に東京駅~蘇我間が全通しました。 なお、東京外環状線はほかに、西船橋~北馬橋(新松戸)の小金線、北馬橋~新鶴見の武蔵野線で構成する計画でした。   京葉線は貨物幹線から旅客化へ ところが、昭和40年代に入ると肝心の国鉄貨物輸送量が急速に落ち込み、旅客線化への見直しが行われます。京葉線については、羽田空港付近の海底トンネルや現在の東京貨物ターミナルから新木場までの地下トンネルなどが建設されていましたが、1983(昭和58)年7月に工事を凍結され、旅客化が決まりました。これにより、新木場からは東京駅へ乗り入れる現在ルートへ大幅に変更され、旅客線化工事も始まったのです。 京葉線の開業と東京外環状線としての面影 それより前に京葉線は、1975(昭和50)年5月、千葉貨物ターミナル(のちに廃止)~蘇我間が貨物線として先行開業。1986(昭和61)年3月に西船橋~千葉みなと間が開業し、1990(平成2)年3月に東京~新木場間が完成し、蘇我まで全通しました。東京~西船橋間は旅客線として開業しましたが、東京外環状線としての京葉線の面影は多数残っています。 また、塩浜~新木場ルートは、東海道貨物線と臨海高速鉄道りんかい線に転用されました。りんかい線の車両基地が東京貨物ターミナルに隣接しているのはこのためで、旧京葉線のルートは同線の回送線として活用されています。 京葉線の貨物駅建設予定地はショッピングセンターなどに転用 県内でも、車両基地である京葉車両センターと隣接するショッピングセンターは、鷺沼貨物駅の建設予定地を転用したものです。市川塩浜駅の海側にある広い用地も、やはり行徳貨物駅が建設されるはずだったスペース。 貨物列車が運転されない新木場~西船橋間も含め、線路は貨物列車も走れる高規格で建設され、各駅は最大15両編成に対応した設計で、構内も長くゆったりしています。優等列車の運転も想定され、待避設備も多く設けられています。   京葉線のルートの今後 近年の羽田アクセス線構想では、羽田空港と東京ディズニーリゾートのある舞浜駅を結ぶ予定ですが、これにも、りんかい線とその回送線、つまり昭和30年代に計画された京葉線ルートが活用されることになります。   『千葉のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。本書では千葉県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【東京都・千葉県】京葉線は貨物幹線の東京外環状線計画に始まった

東京~蘇我間を結ぶ京葉線は、比較的新しい通勤&観光路線ですが、そのルーツは昭和30年代に計画された壮大な貨物線にあったのです。   京葉線と東京外環状線 京葉線はベイエリアを走る通勤路線であり、東京駅と東京ディズニーリゾートなどを結ぶ観光路線として知られます。しかし当初は、東京外環状線と呼ばれる貨物幹線の一部として完成する予定でした。 東京外環状線とは、旧国鉄の貨物輸送力が飽和状態になっていた昭和30年代に計画された、山手貨物線の外側およそ20㎞圏に、東海道・中央・東北・常磐・総武の5幹線を環状に結んだ延長約200㎞に及ぶ貨物幹線の総称です。具体的には武蔵野線、小金線、京葉線で構成され、一部は実際に着工。京葉線は、川崎市塩浜と千葉県木更津市を結ぶ計画でした。 京葉線はもともと、塩浜(川崎市)から東京湾沿いに木更津に至る東京外環状線の一部として計画されました。その後、貨物需要の落ち込みから旅客化、1990(平成2)年に東京駅~蘇我間が全通しました。 なお、東京外環状線はほかに、西船橋~北馬橋(新松戸)の小金線、北馬橋~新鶴見の武蔵野線で構成する計画でした。   京葉線は貨物幹線から旅客化へ ところが、昭和40年代に入ると肝心の国鉄貨物輸送量が急速に落ち込み、旅客線化への見直しが行われます。京葉線については、羽田空港付近の海底トンネルや現在の東京貨物ターミナルから新木場までの地下トンネルなどが建設されていましたが、1983(昭和58)年7月に工事を凍結され、旅客化が決まりました。これにより、新木場からは東京駅へ乗り入れる現在ルートへ大幅に変更され、旅客線化工事も始まったのです。 京葉線の開業と東京外環状線としての面影 それより前に京葉線は、1975(昭和50)年5月、千葉貨物ターミナル(のちに廃止)~蘇我間が貨物線として先行開業。1986(昭和61)年3月に西船橋~千葉みなと間が開業し、1990(平成2)年3月に東京~新木場間が完成し、蘇我まで全通しました。東京~西船橋間は旅客線として開業しましたが、東京外環状線としての京葉線の面影は多数残っています。 また、塩浜~新木場ルートは、東海道貨物線と臨海高速鉄道りんかい線に転用されました。りんかい線の車両基地が東京貨物ターミナルに隣接しているのはこのためで、旧京葉線のルートは同線の回送線として活用されています。 京葉線の貨物駅建設予定地はショッピングセンターなどに転用 県内でも、車両基地である京葉車両センターと隣接するショッピングセンターは、鷺沼貨物駅の建設予定地を転用したものです。市川塩浜駅の海側にある広い用地も、やはり行徳貨物駅が建設されるはずだったスペース。 貨物列車が運転されない新木場~西船橋間も含め、線路は貨物列車も走れる高規格で建設され、各駅は最大15両編成に対応した設計で、構内も長くゆったりしています。優等列車の運転も想定され、待避設備も多く設けられています。   京葉線のルートの今後 近年の羽田アクセス線構想では、羽田空港と東京ディズニーリゾートのある舞浜駅を結ぶ予定ですが、これにも、りんかい線とその回送線、つまり昭和30年代に計画された京葉線ルートが活用されることになります。   『千葉のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。本書では千葉県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【北海道】開業から10年!北海道新幹線と道南いさりび鉄道の札幌延伸までの流れと今後

【北海道】開業から10年!北海道新幹線と道南いさりび鉄道の札幌延伸までの流れと今後

日本一のトンネルを掘削して2016年3月に開業した北海道新幹線。開業からちょうど10年という節目で、これまでの道のりと当初予定からの変化を見ていきましょう。   北海道新幹線の誕生 北海道新幹線は、新青森~新函館北斗間の約148.8㎞を結んでいます。これは、1970(昭和45)年制定の「全国新幹線鉄道整備法」による青森と旭川を結ぶ計画が始まりで、1973(昭和48)年に整備新幹線として計画決定したものの、財政難により工事が凍結されました。 その後、2005(平成17)年にようやく着工され、2016(平成28)年3月に開業。青函トンネルを通り、最速の 「はやぶさ」がJR 北海道のH5系、JR東日本のE5系により、東京~新函館北斗間を約4時間で結びました。新幹線が北海道に上陸したのです。   青函連絡船からトンネルへ 函館市青函連絡船記念館の摩周丸。青函連絡船最後の日まで運航していた摩周丸を実際の乗り場であった旧函館第二岸壁に係留・保存して公開している 青森~函館間の青函航路に1908(明治 41)年から運行された青函連絡船。本州と北海道を結ぶ要路で多くの優等列車に接続したほか、貨物列車の貨車も運び1988(昭和63)年に運行を終了しました。 代わる青函トンネルは1920 年代から構想のあった全長53.85 ㎞の鉄道トンネルで、1954(昭和29)年の青函連絡船「洞爺丸事故」を機に建設が急がれ1961(昭和36)年に着工。新幹線計画により在来線規格を新幹線規格に変更し1985(昭和60)年に貫通、2 年後に完成しました。   北海道新幹線の特徴とアクセス 氷点下となる厳冬の地をいく初めての新幹線であり、本州側の新青森駅付近を除き、分岐器(ポイント)部はスノーシェルターで覆われ、さらに電気融雪器を設置。空気で氷雪を吹き飛ばす「エアジェット」も備えられています。 新函館北斗駅では、函館本線に接続し、特急「北斗」に連絡。函館駅までは、「はこだてライナー」 でアクセスされています。   北海道新幹線の今後 当初、札幌までの約211.5㎞が延伸建設中で、2030(令和12)年度末に開業予定とされていましたが、2030年度内での開業は困難と公式に発表されました。大幅遅延の理由は、トンネル工事で巨大な岩石や地質の悪化によるものとされています。 札幌へは小樽経由で結ばれ、新八雲(仮称)、長万部、倶知安、新小樽(仮称)、札幌の5 駅が設けられ、新八雲~新函館北斗間には日本最長の山岳トンネルとなる全長32.675mの渡島(おしま)トンネルが貫通予定です。 北海道新幹線の路線図および計画線   北海道新幹線と並行する在来線「道南いさりび鉄道」 江差線五稜郭駅と新幹線停車駅の木古内駅間の約37.8㎞を12の旅客駅で結んでいます。...

【北海道】開業から10年!北海道新幹線と道南いさりび鉄道の札幌延伸までの流れと今後

日本一のトンネルを掘削して2016年3月に開業した北海道新幹線。開業からちょうど10年という節目で、これまでの道のりと当初予定からの変化を見ていきましょう。   北海道新幹線の誕生 北海道新幹線は、新青森~新函館北斗間の約148.8㎞を結んでいます。これは、1970(昭和45)年制定の「全国新幹線鉄道整備法」による青森と旭川を結ぶ計画が始まりで、1973(昭和48)年に整備新幹線として計画決定したものの、財政難により工事が凍結されました。 その後、2005(平成17)年にようやく着工され、2016(平成28)年3月に開業。青函トンネルを通り、最速の 「はやぶさ」がJR 北海道のH5系、JR東日本のE5系により、東京~新函館北斗間を約4時間で結びました。新幹線が北海道に上陸したのです。   青函連絡船からトンネルへ 函館市青函連絡船記念館の摩周丸。青函連絡船最後の日まで運航していた摩周丸を実際の乗り場であった旧函館第二岸壁に係留・保存して公開している 青森~函館間の青函航路に1908(明治 41)年から運行された青函連絡船。本州と北海道を結ぶ要路で多くの優等列車に接続したほか、貨物列車の貨車も運び1988(昭和63)年に運行を終了しました。 代わる青函トンネルは1920 年代から構想のあった全長53.85 ㎞の鉄道トンネルで、1954(昭和29)年の青函連絡船「洞爺丸事故」を機に建設が急がれ1961(昭和36)年に着工。新幹線計画により在来線規格を新幹線規格に変更し1985(昭和60)年に貫通、2 年後に完成しました。   北海道新幹線の特徴とアクセス 氷点下となる厳冬の地をいく初めての新幹線であり、本州側の新青森駅付近を除き、分岐器(ポイント)部はスノーシェルターで覆われ、さらに電気融雪器を設置。空気で氷雪を吹き飛ばす「エアジェット」も備えられています。 新函館北斗駅では、函館本線に接続し、特急「北斗」に連絡。函館駅までは、「はこだてライナー」 でアクセスされています。   北海道新幹線の今後 当初、札幌までの約211.5㎞が延伸建設中で、2030(令和12)年度末に開業予定とされていましたが、2030年度内での開業は困難と公式に発表されました。大幅遅延の理由は、トンネル工事で巨大な岩石や地質の悪化によるものとされています。 札幌へは小樽経由で結ばれ、新八雲(仮称)、長万部、倶知安、新小樽(仮称)、札幌の5 駅が設けられ、新八雲~新函館北斗間には日本最長の山岳トンネルとなる全長32.675mの渡島(おしま)トンネルが貫通予定です。 北海道新幹線の路線図および計画線   北海道新幹線と並行する在来線「道南いさりび鉄道」 江差線五稜郭駅と新幹線停車駅の木古内駅間の約37.8㎞を12の旅客駅で結んでいます。...

【鹿児島県】国家石油備蓄基地はどこにある?~志布志湾に浮かぶ人工島~

【鹿児島県】国家石油備蓄基地はどこにある?~志布志湾に浮かぶ人工島~

アメリカ・イスラエルのイラン攻撃によって、事実上の封鎖となっているホルムズ海峡。それに伴い、原油タンカーが海峡を通過することができず、原油が国内に届かず輸入原油が大幅減少という事態となり、早くも国家備蓄の石油放出になるもようです。 日本の国家備蓄の石油は146日分、民間備蓄は101日分といわれますが、その大量の石油が備蓄されてる基地のひとつが、志布志湾の西側にぽっかりと浮かぶ四角形の島・志布志国家石油備蓄基地です。   国家石油備蓄基地とは 一次エネルギー供給源として石油への依存度が高く、また輸入依存度も高い日本にとって、石油備蓄は重要な課題のひとつです。その課題解決のために備えられているのが、国家石油備蓄基地です。1978(昭和53)年に石油公団(現・独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構)が国からの委託により石油備蓄を開始し、現在は全国に10カ所の基地があります。   志布志に国家石油備蓄基地ができるまで 1967(昭和42)年、通産省(現・経産省)が志布志(しぶし)湾を共同原油輸入基地建設候補地のひとつとして名前を上げたことをきっかけに、鹿児島県のなかで、志布志湾を含む大隅半島全域を工業地帯とする開発計画が持ち上がります。翌1968(昭和43)年、志布志湾の埋め立て造成と石油備蓄基地、石油コンビナート、軽金属工業などの臨海工業群を形成する計画が鹿児島県から発表されました。 志布志国家石油備蓄基地建設計画は第一次石油危機を契機に本格始動 このような状況のなか、1973(昭和48)年に起こった第一次石油危機により、1975(昭和50)年に民間石油会社の「九十日間備蓄増強計画」、1978(昭和53)年に石油の国家備蓄が始まるなど、国内の石油備蓄体制強化の機運が高まっていきました。 1981(昭和56)年、志布志湾に建設可能か判断する調査が始まり、いよいよ備蓄基地建設計画が動き出すこととなります。 志布志国家石油備蓄基地の建設工事着工 建設実現への道のりは困難もたくさんありました。 とくに地域住民などの反対運動は長期間にわたって続きました。鹿児島県が日南(にちなん)海岸国定公園のうち、開発予定地の指定解除要請を出したことから、1971(昭和46)年には「柏原地区石油コンビナート絶対反対期成同盟」、「志布志湾公害反対連絡協議会」が結成されました。 基地計画を含む予算案可決の際には反対派約1000人が鹿児島県の議会議事堂の通路に座り込み、警官隊が出動する騒ぎになりました。その後、国定公園の指定解除をしないことなど、反対派住民の意向を考慮した内容に変化していきました。 漁協へは、志布志湾内にあった東串良漁協、高山町漁協への漁業補償交渉も行われました。 また、埋め立て工事、埋め立て地の存在について、大気や水質、騒音・振動など影響はほとんどない、あるいは軽微であるという環境アセスメントも公表されました。 これらを経て、1984(昭和59)年に石油公団が志布志湾地区への立地を決定し、1985(昭和60)年1月に着工されました。同じタイミングで、志布志石油備蓄株式会社も設立されました。 沖合500mの場所に建設された基地。大型タンカーが入港する様子は見ものです。敷地に緑が豊かなため陸側からタンクははっきりと見えません。   志布志国家石油備蓄基地は自然環境との調和を図りながら操業中 1992(平成4)年、原油タンク20基で操業を開始。翌年にはさらに原油タンク23基(合計43基)が完成しました。出島方式の人工島で196ヘクタールの敷地面積を有し、最大500万㎘、国内消費量約9日分の原油を貯められる施設が全面操業を始めました。 基地は周囲の自然環境との調和を図るため、大規模な植栽を実施。総敷地面積の約24%が、クロマツなどが植えられた緑地で、景観保持にも配慮されています。 2004(平成16)年に基地事業は国の直轄事業となり、独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構が管理運営を行っています。 現在、鹿児島県内には志布志(東串良町)のほか、いちき串木野市にも備蓄基地があります。県に2カ所の国家石油備蓄基地があるのは、鹿児島県だけです。   鹿児島県内に国家石油備蓄基地は2カ所、民間の石油備蓄基地として735万㎘の貯油能力のENEOS喜入基地があります。   『鹿児島のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から鹿児島県を分析!鹿児島県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。鹿児島の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【鹿児島県】国家石油備蓄基地はどこにある?~志布志湾に浮かぶ人工島~

アメリカ・イスラエルのイラン攻撃によって、事実上の封鎖となっているホルムズ海峡。それに伴い、原油タンカーが海峡を通過することができず、原油が国内に届かず輸入原油が大幅減少という事態となり、早くも国家備蓄の石油放出になるもようです。 日本の国家備蓄の石油は146日分、民間備蓄は101日分といわれますが、その大量の石油が備蓄されてる基地のひとつが、志布志湾の西側にぽっかりと浮かぶ四角形の島・志布志国家石油備蓄基地です。   国家石油備蓄基地とは 一次エネルギー供給源として石油への依存度が高く、また輸入依存度も高い日本にとって、石油備蓄は重要な課題のひとつです。その課題解決のために備えられているのが、国家石油備蓄基地です。1978(昭和53)年に石油公団(現・独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構)が国からの委託により石油備蓄を開始し、現在は全国に10カ所の基地があります。   志布志に国家石油備蓄基地ができるまで 1967(昭和42)年、通産省(現・経産省)が志布志(しぶし)湾を共同原油輸入基地建設候補地のひとつとして名前を上げたことをきっかけに、鹿児島県のなかで、志布志湾を含む大隅半島全域を工業地帯とする開発計画が持ち上がります。翌1968(昭和43)年、志布志湾の埋め立て造成と石油備蓄基地、石油コンビナート、軽金属工業などの臨海工業群を形成する計画が鹿児島県から発表されました。 志布志国家石油備蓄基地建設計画は第一次石油危機を契機に本格始動 このような状況のなか、1973(昭和48)年に起こった第一次石油危機により、1975(昭和50)年に民間石油会社の「九十日間備蓄増強計画」、1978(昭和53)年に石油の国家備蓄が始まるなど、国内の石油備蓄体制強化の機運が高まっていきました。 1981(昭和56)年、志布志湾に建設可能か判断する調査が始まり、いよいよ備蓄基地建設計画が動き出すこととなります。 志布志国家石油備蓄基地の建設工事着工 建設実現への道のりは困難もたくさんありました。 とくに地域住民などの反対運動は長期間にわたって続きました。鹿児島県が日南(にちなん)海岸国定公園のうち、開発予定地の指定解除要請を出したことから、1971(昭和46)年には「柏原地区石油コンビナート絶対反対期成同盟」、「志布志湾公害反対連絡協議会」が結成されました。 基地計画を含む予算案可決の際には反対派約1000人が鹿児島県の議会議事堂の通路に座り込み、警官隊が出動する騒ぎになりました。その後、国定公園の指定解除をしないことなど、反対派住民の意向を考慮した内容に変化していきました。 漁協へは、志布志湾内にあった東串良漁協、高山町漁協への漁業補償交渉も行われました。 また、埋め立て工事、埋め立て地の存在について、大気や水質、騒音・振動など影響はほとんどない、あるいは軽微であるという環境アセスメントも公表されました。 これらを経て、1984(昭和59)年に石油公団が志布志湾地区への立地を決定し、1985(昭和60)年1月に着工されました。同じタイミングで、志布志石油備蓄株式会社も設立されました。 沖合500mの場所に建設された基地。大型タンカーが入港する様子は見ものです。敷地に緑が豊かなため陸側からタンクははっきりと見えません。   志布志国家石油備蓄基地は自然環境との調和を図りながら操業中 1992(平成4)年、原油タンク20基で操業を開始。翌年にはさらに原油タンク23基(合計43基)が完成しました。出島方式の人工島で196ヘクタールの敷地面積を有し、最大500万㎘、国内消費量約9日分の原油を貯められる施設が全面操業を始めました。 基地は周囲の自然環境との調和を図るため、大規模な植栽を実施。総敷地面積の約24%が、クロマツなどが植えられた緑地で、景観保持にも配慮されています。 2004(平成16)年に基地事業は国の直轄事業となり、独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構が管理運営を行っています。 現在、鹿児島県内には志布志(東串良町)のほか、いちき串木野市にも備蓄基地があります。県に2カ所の国家石油備蓄基地があるのは、鹿児島県だけです。   鹿児島県内に国家石油備蓄基地は2カ所、民間の石油備蓄基地として735万㎘の貯油能力のENEOS喜入基地があります。   『鹿児島のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から鹿児島県を分析!鹿児島県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。鹿児島の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【海外】中東の石油はどれほど多いのか~中東と世界を比べる石油(原油)埋蔵量マップ

【海外】中東の石油はどれほど多いのか~中東と世界を比べる石油(原油)埋蔵量マップ

中東の石油埋蔵量は、どれほど多いのか。世界の中で石油埋蔵量の上位を占めるのはどこなのか。人類が活用し始めてからまだ200年にも満たない石油と中東の歴史とともに、見ていきましょう。   中東の石油埋蔵量は、こんなに多い 中東がどれほどの石油を持っているかというと、世界で石油埋蔵量が多い国トップ10のうち、6カ国が中東です。近年アメリカがシェールオイルの採掘を始めてエネルギー革命が起きましたが、それでも依然として中東の重要性は高いのです。石油を産出する国は他にもありますが、量を見るとその差は歴然です。 中東と世界の石油埋蔵量ランキング ※順位前の黒い印は中東の国々を示す【出典】bp Statistical Review of World Energy 2021(2020年値)   上位に名を連ねる中東以外の国はベネズエラを除くと、カナダ、ロシア、アメリカで、いずれも広大な領土を持つ国です。その意味で中東には狭い範囲に石油が集まっているといえます。今や石油のない社会は考えられませんが、人類が長い歴史のなかで石油を本格的に利用し始めてから、まだ150年くらいしか経っていません。   中東の石油の歴史~中東の石油と欧米の関係~ 人類が石油を用いた内燃機関を大規模に使い始めたのは、19世紀後半です。この臭い燃える水の活用に乗り出したのはアメリカとヨーロッパで、アメリカと現在のアゼルバイジャンで石油を盛んに掘って輸送し、重工業が発展する第二次産業革命の下地を作りました。 20世紀に入るとフォードが自動車の大量生産を始め、第一次世界大戦で内燃機関兵器の重要性が知られるようになります。この時点ですでに中東に石油があることに欧米が感づいており、1901年にはイギリス人投資家のダーシーが、イランでの石油開発権をイラン王から取得していました。以後も欧米が湾岸地域で、石油に関する権利を王族から安く譲り受ける動きが続きました。 20世紀の中東の石油は、各国の政権・軍事と複雑に絡み合う 1927年にはイラクでヨーロッパ企業が大油田を発見します。その7年後にはアメリカ企業の協力の下、サウジアラビアで巨大油田が発見されました。この時にサウジアラビア王は、アメリカに石油の権利を与え、その見返りとして政権維持のため軍事的な保護を受ける合意を結びました。合意は現在も継続中です。 1990年のイラクのクウェート侵攻は、両国にまたがる油田の問題が背景にありました。アメリカが2003年に始めたイラク戦争にも石油への野心が絡んでいたとの議論が流布しています。石油は中東をめぐる紛争の火種でもあるのです。   中東と世界の石油埋蔵量マップ 【出典】bp Statistical Review of World Energy 2021(2020年値)...

【海外】中東の石油はどれほど多いのか~中東と世界を比べる石油(原油)埋蔵量マップ

中東の石油埋蔵量は、どれほど多いのか。世界の中で石油埋蔵量の上位を占めるのはどこなのか。人類が活用し始めてからまだ200年にも満たない石油と中東の歴史とともに、見ていきましょう。   中東の石油埋蔵量は、こんなに多い 中東がどれほどの石油を持っているかというと、世界で石油埋蔵量が多い国トップ10のうち、6カ国が中東です。近年アメリカがシェールオイルの採掘を始めてエネルギー革命が起きましたが、それでも依然として中東の重要性は高いのです。石油を産出する国は他にもありますが、量を見るとその差は歴然です。 中東と世界の石油埋蔵量ランキング ※順位前の黒い印は中東の国々を示す【出典】bp Statistical Review of World Energy 2021(2020年値)   上位に名を連ねる中東以外の国はベネズエラを除くと、カナダ、ロシア、アメリカで、いずれも広大な領土を持つ国です。その意味で中東には狭い範囲に石油が集まっているといえます。今や石油のない社会は考えられませんが、人類が長い歴史のなかで石油を本格的に利用し始めてから、まだ150年くらいしか経っていません。   中東の石油の歴史~中東の石油と欧米の関係~ 人類が石油を用いた内燃機関を大規模に使い始めたのは、19世紀後半です。この臭い燃える水の活用に乗り出したのはアメリカとヨーロッパで、アメリカと現在のアゼルバイジャンで石油を盛んに掘って輸送し、重工業が発展する第二次産業革命の下地を作りました。 20世紀に入るとフォードが自動車の大量生産を始め、第一次世界大戦で内燃機関兵器の重要性が知られるようになります。この時点ですでに中東に石油があることに欧米が感づいており、1901年にはイギリス人投資家のダーシーが、イランでの石油開発権をイラン王から取得していました。以後も欧米が湾岸地域で、石油に関する権利を王族から安く譲り受ける動きが続きました。 20世紀の中東の石油は、各国の政権・軍事と複雑に絡み合う 1927年にはイラクでヨーロッパ企業が大油田を発見します。その7年後にはアメリカ企業の協力の下、サウジアラビアで巨大油田が発見されました。この時にサウジアラビア王は、アメリカに石油の権利を与え、その見返りとして政権維持のため軍事的な保護を受ける合意を結びました。合意は現在も継続中です。 1990年のイラクのクウェート侵攻は、両国にまたがる油田の問題が背景にありました。アメリカが2003年に始めたイラク戦争にも石油への野心が絡んでいたとの議論が流布しています。石油は中東をめぐる紛争の火種でもあるのです。   中東と世界の石油埋蔵量マップ 【出典】bp Statistical Review of World Energy 2021(2020年値)...

【新潟県】新潟県には油田・ガス田が多いのはなぜ?産出量は文句なしの全国1位!

【新潟県】新潟県には油田・ガス田が多いのはなぜ?産出量は文句なしの全国1位!

石油・天然ガスともに国内産出量日本一を誇る新潟県。油ガス田ができるには、いくつかの条件が必要です。新潟に油田が形成された理由とは?   新潟の油田・ガス田は日本一の産出量! 新潟県は、日本一の原油・天然ガス産出県です。2020(令和2)年の原油生産量は32万8746キロリットルで国内生産の64.2%、天然ガス生産量は17億4750万立方メートルで国内生産の76.1%を占めています。 ではなぜ、新潟県のほか秋田県などの日本海側に油ガス田が集中しているのでしょうか。 新潟の油ガス田は、おもに中越地方から下越地方を経て日本海に至るまで、ほぼ直線状に分布しています。<新潟県作成「天然ガスと石油開発の現況」2020年データ( 2021年4月発刊)を参考に作成。   油田・ガス田はどうやってできるのか? 油ガス田ができるには、いくつかの条件がそろっていなくてはなりません。石油のもとになっているのは、おもに海洋プランクトンなどの水生の微生物です。微生物の死骸は泥や砂とともに水底に堆積していきますが、ふつうはほとんどが分解されてしまいます。しかし、何らかの理由で水底付近に酸素濃度が低い場所があると分解が進まず、有機物を大量に含む泥の地層ができます。 有機物に富む泥層の上に堆積物が溜まっていき、とくに地盤が沈降する場所では、堆積物が厚く積み重なり、その圧力によって有機物に富む泥の層は頁岩(けつがん)(油母(ゆぼ)頁岩、根源岩)になります。頁岩が地中深さ数kmに達し、温度が100℃前後になると、頁岩中に含まれる有機物が化学反応を起こし、ケロジェン(油母)という物質に変わります。地下深くに堆積したケロジェンは、さらに高い圧力や温度によって原油や天然ガスに変化していくのです。   油田はどのようなところにあるのか? 原油は水より密度が小さく軽いので、おもに砂岩などの岩石中の粗い粒に含まれている地下水の間隙を、浮力によって上へと移動していきます。原油が移動していく経路上に、液体を多く含むことのできる隙間の多い岩石(貯留岩)を、液体を通しにくい地層(シール)がフタをしたように覆っている地形があると、そこに原油が溜まっていきます。 原油は地下の洞窟や穴などに池のように溜まっているわけではなく、水といっしょに貯留岩の隙間を満たしているのです。このように、フタの役割をする地層を帽岩(ぼうがん)といい、原油がほかに移動しないように閉じ込めるような地質構造をトラップといいます。 原油が貯蔵さてる場所 原油やガスが貯蔵されている場所は、地層が褶曲(しゅうきょく)し、背斜(はいしゃ)構造になっています。褶曲とは、プレート運動による圧縮力が地下で長時間にわたって加わることで、地層が波のように変形する現象です。そして、褶曲した地層の谷になった部分を向斜(こうしゃ)、山になった部分を背斜といいます。 褶曲の背斜部に帽岩がフタ状の構造をつくると(背斜トラップ)、その下に原油が集積していくのです。世界の主要な油ガス田の大部分はこの構造になっています。背斜構造での原油は、貯留岩の中に、下から密度の大きい順に、水、原油、ガスと、ほぼ水平に貯留しています。   新潟県に油田・ガス田が多いわけ 日本列島は、海洋プレートの運動によって東西に圧縮され続けているため、新第三紀や第四紀といった新しい時代の地層が北北東から南南西に伸びる大きな褶曲構造をなしています。その結果、新潟の中越地方から上越地方を中心とした日本海にかけての地域で褶曲構造が発達し、油ガス田地帯が形成されているのです。

【新潟県】新潟県には油田・ガス田が多いのはなぜ?産出量は文句なしの全国1位!

石油・天然ガスともに国内産出量日本一を誇る新潟県。油ガス田ができるには、いくつかの条件が必要です。新潟に油田が形成された理由とは?   新潟の油田・ガス田は日本一の産出量! 新潟県は、日本一の原油・天然ガス産出県です。2020(令和2)年の原油生産量は32万8746キロリットルで国内生産の64.2%、天然ガス生産量は17億4750万立方メートルで国内生産の76.1%を占めています。 ではなぜ、新潟県のほか秋田県などの日本海側に油ガス田が集中しているのでしょうか。 新潟の油ガス田は、おもに中越地方から下越地方を経て日本海に至るまで、ほぼ直線状に分布しています。<新潟県作成「天然ガスと石油開発の現況」2020年データ( 2021年4月発刊)を参考に作成。   油田・ガス田はどうやってできるのか? 油ガス田ができるには、いくつかの条件がそろっていなくてはなりません。石油のもとになっているのは、おもに海洋プランクトンなどの水生の微生物です。微生物の死骸は泥や砂とともに水底に堆積していきますが、ふつうはほとんどが分解されてしまいます。しかし、何らかの理由で水底付近に酸素濃度が低い場所があると分解が進まず、有機物を大量に含む泥の地層ができます。 有機物に富む泥層の上に堆積物が溜まっていき、とくに地盤が沈降する場所では、堆積物が厚く積み重なり、その圧力によって有機物に富む泥の層は頁岩(けつがん)(油母(ゆぼ)頁岩、根源岩)になります。頁岩が地中深さ数kmに達し、温度が100℃前後になると、頁岩中に含まれる有機物が化学反応を起こし、ケロジェン(油母)という物質に変わります。地下深くに堆積したケロジェンは、さらに高い圧力や温度によって原油や天然ガスに変化していくのです。   油田はどのようなところにあるのか? 原油は水より密度が小さく軽いので、おもに砂岩などの岩石中の粗い粒に含まれている地下水の間隙を、浮力によって上へと移動していきます。原油が移動していく経路上に、液体を多く含むことのできる隙間の多い岩石(貯留岩)を、液体を通しにくい地層(シール)がフタをしたように覆っている地形があると、そこに原油が溜まっていきます。 原油は地下の洞窟や穴などに池のように溜まっているわけではなく、水といっしょに貯留岩の隙間を満たしているのです。このように、フタの役割をする地層を帽岩(ぼうがん)といい、原油がほかに移動しないように閉じ込めるような地質構造をトラップといいます。 原油が貯蔵さてる場所 原油やガスが貯蔵されている場所は、地層が褶曲(しゅうきょく)し、背斜(はいしゃ)構造になっています。褶曲とは、プレート運動による圧縮力が地下で長時間にわたって加わることで、地層が波のように変形する現象です。そして、褶曲した地層の谷になった部分を向斜(こうしゃ)、山になった部分を背斜といいます。 褶曲の背斜部に帽岩がフタ状の構造をつくると(背斜トラップ)、その下に原油が集積していくのです。世界の主要な油ガス田の大部分はこの構造になっています。背斜構造での原油は、貯留岩の中に、下から密度の大きい順に、水、原油、ガスと、ほぼ水平に貯留しています。   新潟県に油田・ガス田が多いわけ 日本列島は、海洋プレートの運動によって東西に圧縮され続けているため、新第三紀や第四紀といった新しい時代の地層が北北東から南南西に伸びる大きな褶曲構造をなしています。その結果、新潟の中越地方から上越地方を中心とした日本海にかけての地域で褶曲構造が発達し、油ガス田地帯が形成されているのです。

【神奈川県】御殿場線はかつて東海道本線だった?!~神奈川県の鉄道~

【神奈川県】御殿場線はかつて東海道本線だった?!~神奈川県の鉄道~

新幹線が開業する前、東海道本線が日本の最重要な幹線として君臨していた頃、現在の御殿場線には蒸気機関車が牽く超特急が走っていました。   御殿場線各駅にある長すぎるホームの謎 御殿場線は、どの駅も一様にホームが長くなっています。たとえば、小田急線と接続する松田駅では、小田急線との連絡階段がホームの国府津側の端にあるいっぽう、御殿場線の2両編成の短い列車は、はるか沼津側の前方に停車をするため乗換え客は長いホームで息を切らせて歩くことになります。 加えて、駅構内も広くゆったりとしていて、ローカル線とは思えない線路配置になっています。また、単線ですが、沿線には複線分の用地がありトンネルの入り口もふたつあります。 これはなぜなのでしょうか。御殿場線は、かつて大幹線の東海道本線だったのです。   殿場線はかつての東海道本線の難所「箱根八里」を担った 五街道のひとつ、東海道の難所といえば箱根八里。東海道本線は今、これを延長7804mの丹那トンネル(熱海の次の駅、来宮から西進)で克服しています。 国土地理院色別標高図を元に作成   かつて、箱根を越えて東西を結ぶ大幹線(東海道本線)だった御殿場線。標高図を見てのとおり、険しい山の連続に、その事実がにわかには信じがたいものがあります。現在の東海道本線は、ずっと南、熱海付近から丹那トンネルを経て西へ抜けています。 策をこらした箱根越え トンネル開通は1934(昭和9)年。それまでは、国府津から御殿場をサミットとし沼津へ抜ける箱根越え、つまり御殿場線のルートを通っていました。しかし、この箱根越えは25パーミルの急勾配が容赦なく連続する東海道本線最大の難路。当時、電化はされておらず、開業時から蒸気機関車が喘ぎ苦しみました。 国府津、山北、沼津には機関区が設けられ、補助機関車を最後部に連結しました。また、日本の大動脈である東海道本線には最新鋭機が導入され、1912(大正元)年にはシリンダが4つあるマレー式蒸気機関車がアメリカやドイツから輸入され、ボイラーの大きな国産のD50形、D52形なども投入されました。 活躍した超特急「燕」 1930(昭和5)年に運行を始めた超特急「燕」は、名古屋まで無停車、東京~神戸間を9時間で結びました。東京~国府津間はすでに電化されていましたが、国府津での機関車交換の時間を惜しみ、東京からC51形蒸気機関車が力走。わずか30秒停車の国府津で後部にC53形の補助機関車を連結し、箱根越えに挑みました。 給水のため、機関車の後ろには水槽車を連結。展望車や食堂車を従え、御殿場では補助機関車を走行中に開放して駆け抜けていました。 御殿場線は幹線鉄道の面影を残す そんな東海道本線も、丹那トンネルが開通すると熱海経由となり、箱根越えの同線は御殿場線となり、のちに線路も単線となりました。機関区があり鉄道の町として賑わった山北などはひっそりと静まりかえりましたが、長いホームや広い構内、複線分の用地、トンネル、鉄橋が往時を思わせ、幹線鉄道の栄華を今に伝えています。

【神奈川県】御殿場線はかつて東海道本線だった?!~神奈川県の鉄道~

新幹線が開業する前、東海道本線が日本の最重要な幹線として君臨していた頃、現在の御殿場線には蒸気機関車が牽く超特急が走っていました。   御殿場線各駅にある長すぎるホームの謎 御殿場線は、どの駅も一様にホームが長くなっています。たとえば、小田急線と接続する松田駅では、小田急線との連絡階段がホームの国府津側の端にあるいっぽう、御殿場線の2両編成の短い列車は、はるか沼津側の前方に停車をするため乗換え客は長いホームで息を切らせて歩くことになります。 加えて、駅構内も広くゆったりとしていて、ローカル線とは思えない線路配置になっています。また、単線ですが、沿線には複線分の用地がありトンネルの入り口もふたつあります。 これはなぜなのでしょうか。御殿場線は、かつて大幹線の東海道本線だったのです。   殿場線はかつての東海道本線の難所「箱根八里」を担った 五街道のひとつ、東海道の難所といえば箱根八里。東海道本線は今、これを延長7804mの丹那トンネル(熱海の次の駅、来宮から西進)で克服しています。 国土地理院色別標高図を元に作成   かつて、箱根を越えて東西を結ぶ大幹線(東海道本線)だった御殿場線。標高図を見てのとおり、険しい山の連続に、その事実がにわかには信じがたいものがあります。現在の東海道本線は、ずっと南、熱海付近から丹那トンネルを経て西へ抜けています。 策をこらした箱根越え トンネル開通は1934(昭和9)年。それまでは、国府津から御殿場をサミットとし沼津へ抜ける箱根越え、つまり御殿場線のルートを通っていました。しかし、この箱根越えは25パーミルの急勾配が容赦なく連続する東海道本線最大の難路。当時、電化はされておらず、開業時から蒸気機関車が喘ぎ苦しみました。 国府津、山北、沼津には機関区が設けられ、補助機関車を最後部に連結しました。また、日本の大動脈である東海道本線には最新鋭機が導入され、1912(大正元)年にはシリンダが4つあるマレー式蒸気機関車がアメリカやドイツから輸入され、ボイラーの大きな国産のD50形、D52形なども投入されました。 活躍した超特急「燕」 1930(昭和5)年に運行を始めた超特急「燕」は、名古屋まで無停車、東京~神戸間を9時間で結びました。東京~国府津間はすでに電化されていましたが、国府津での機関車交換の時間を惜しみ、東京からC51形蒸気機関車が力走。わずか30秒停車の国府津で後部にC53形の補助機関車を連結し、箱根越えに挑みました。 給水のため、機関車の後ろには水槽車を連結。展望車や食堂車を従え、御殿場では補助機関車を走行中に開放して駆け抜けていました。 御殿場線は幹線鉄道の面影を残す そんな東海道本線も、丹那トンネルが開通すると熱海経由となり、箱根越えの同線は御殿場線となり、のちに線路も単線となりました。機関区があり鉄道の町として賑わった山北などはひっそりと静まりかえりましたが、長いホームや広い構内、複線分の用地、トンネル、鉄橋が往時を思わせ、幹線鉄道の栄華を今に伝えています。