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【東京都】北条氏照が築いた八王子城!地形を巧みに利用した山城の落城と戦国時代の終焉!
織田信長亡き後、天下人となった豊臣秀吉。全国統一のため関東の支配者・北条の小田原城に進軍します。その北条のもうひとつの砦が八王子城でした。 豊臣秀吉の全国統一を阻んだ北条氏 天正13(1585)年、羽柴秀吉は関白となり、翌年には太政大臣となり豊臣の姓を賜り豊臣秀吉となりました。天正15(1587)年には九州を平定、全国統一のために残されたのは小田原城の北条だけでした。 小田原北条は鎌倉時代の北条と関係はなく、明応2(1493)年に伊豆を占領したのが伊勢盛時(北条早雲を名乗る)で、鎌倉幕府の北条にあやかり北条姓を名乗りました。鎌倉幕府の北条と区別するため後北条と称されます。2代目・氏綱の時代になると領土を拡張し、4代目・氏政の時代には、関東のほぼ全域を制圧します。 居城は関東全体から見ると西端に位置する小田原城。3代目・氏康の三男として生まれた氏照(うじてる)は軍事部門で大いに活躍し、それまで大石氏が城主だった八王子の滝山城を居城としました。 北条は大永4(1524)年江戸城に入り、続いて天文7(1538)年には下総国国府台にも進出し、関八州といわれた関東地区を制しました。 北条氏照が築いた八王子城 しかし永禄12(1569)年、武田信玄が大軍を率いて北条領に攻め込みました。北条氏照の居城だった滝山城は包囲され、落城寸前でしたが、武田軍は撤退。これを機に、北条氏照は標高約 170mの低い山に築かれた滝山城に見切りをつけ、標高約445mの山城・八王子城を築きました。 関東屈指の山城といわれた八王子城は複雑な山の地形を利用した戦闘重視の城です。麓から山頂の本丸にいたるには、垂直の土壁である土塁、屋根を平に削り取って作った陣地・曲輪、侵入者が渡る前にすぐに取り壊せる曳橋、高くそびえる石垣など、少人数でも守ることが可能な、難攻不落の城といわれました。 八王子城は小田原よりは東にあり、関八州を見渡すことができたといわれています。 北条氏照らの降伏と八王子城の落城 秀吉は全国統一のため小田原城に迫るところに拠点を置いて持久戦に持ち込み、本営のために天守閣まで備えた城郭をつくりました。一方、北条氏照ら要人は精鋭を率いて小田原城に入って、戦闘態勢を整えていました。 ところが、天正18(1590)年6月、秀吉は小田原城の北条への見せしめとして、八王子城に上杉景勝と前田利家を向かわせ、全滅を命じました。人数は1万5000人に対して、城には3000人ほどがいたといいますが、農民、職人、山伏を中心とする留守部隊でした。 秀吉の命を受け、上杉景勝と前田利家は朝霧にまぎれて急襲し、半日で陥落させました。北条方の戦死者は1000人を超えたといわれ、戦国時代の戦闘としても惨烈な戦いのひとつといわれています。滝に身を投げる者もおり、滝の水は3日3晩赤く染まったといわれるほどでした。 この敗戦により同年7月、北条氏照は氏政とともに降伏、秀吉に切腹を命じられ、後北条氏は滅亡しました。秀吉はここに、天下統一をなし遂げ、戦国時代が終わりました。 八王子城は落城時に未完成だった? 八王子城は、落城時には未完成だったとの説があります。石垣で固めた城は織田信長の安土城を手本にしていました。その後の発掘調査では、御主殿では、大型の礎石建物2棟、西側に11間×6間の庭園をもつ建物が、その東側にも主殿と見られる建物があったことが判明しています。陶磁器類、焼けた米・麦・大豆、ベネチア産レースガラス器など多様な出土品も発見されています。 『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。東京の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!
【東京都】北条氏照が築いた八王子城!地形を巧みに利用した山城の落城と戦国時代の終焉!
織田信長亡き後、天下人となった豊臣秀吉。全国統一のため関東の支配者・北条の小田原城に進軍します。その北条のもうひとつの砦が八王子城でした。 豊臣秀吉の全国統一を阻んだ北条氏 天正13(1585)年、羽柴秀吉は関白となり、翌年には太政大臣となり豊臣の姓を賜り豊臣秀吉となりました。天正15(1587)年には九州を平定、全国統一のために残されたのは小田原城の北条だけでした。 小田原北条は鎌倉時代の北条と関係はなく、明応2(1493)年に伊豆を占領したのが伊勢盛時(北条早雲を名乗る)で、鎌倉幕府の北条にあやかり北条姓を名乗りました。鎌倉幕府の北条と区別するため後北条と称されます。2代目・氏綱の時代になると領土を拡張し、4代目・氏政の時代には、関東のほぼ全域を制圧します。 居城は関東全体から見ると西端に位置する小田原城。3代目・氏康の三男として生まれた氏照(うじてる)は軍事部門で大いに活躍し、それまで大石氏が城主だった八王子の滝山城を居城としました。 北条は大永4(1524)年江戸城に入り、続いて天文7(1538)年には下総国国府台にも進出し、関八州といわれた関東地区を制しました。 北条氏照が築いた八王子城 しかし永禄12(1569)年、武田信玄が大軍を率いて北条領に攻め込みました。北条氏照の居城だった滝山城は包囲され、落城寸前でしたが、武田軍は撤退。これを機に、北条氏照は標高約 170mの低い山に築かれた滝山城に見切りをつけ、標高約445mの山城・八王子城を築きました。 関東屈指の山城といわれた八王子城は複雑な山の地形を利用した戦闘重視の城です。麓から山頂の本丸にいたるには、垂直の土壁である土塁、屋根を平に削り取って作った陣地・曲輪、侵入者が渡る前にすぐに取り壊せる曳橋、高くそびえる石垣など、少人数でも守ることが可能な、難攻不落の城といわれました。 八王子城は小田原よりは東にあり、関八州を見渡すことができたといわれています。 北条氏照らの降伏と八王子城の落城 秀吉は全国統一のため小田原城に迫るところに拠点を置いて持久戦に持ち込み、本営のために天守閣まで備えた城郭をつくりました。一方、北条氏照ら要人は精鋭を率いて小田原城に入って、戦闘態勢を整えていました。 ところが、天正18(1590)年6月、秀吉は小田原城の北条への見せしめとして、八王子城に上杉景勝と前田利家を向かわせ、全滅を命じました。人数は1万5000人に対して、城には3000人ほどがいたといいますが、農民、職人、山伏を中心とする留守部隊でした。 秀吉の命を受け、上杉景勝と前田利家は朝霧にまぎれて急襲し、半日で陥落させました。北条方の戦死者は1000人を超えたといわれ、戦国時代の戦闘としても惨烈な戦いのひとつといわれています。滝に身を投げる者もおり、滝の水は3日3晩赤く染まったといわれるほどでした。 この敗戦により同年7月、北条氏照は氏政とともに降伏、秀吉に切腹を命じられ、後北条氏は滅亡しました。秀吉はここに、天下統一をなし遂げ、戦国時代が終わりました。 八王子城は落城時に未完成だった? 八王子城は、落城時には未完成だったとの説があります。石垣で固めた城は織田信長の安土城を手本にしていました。その後の発掘調査では、御主殿では、大型の礎石建物2棟、西側に11間×6間の庭園をもつ建物が、その東側にも主殿と見られる建物があったことが判明しています。陶磁器類、焼けた米・麦・大豆、ベネチア産レースガラス器など多様な出土品も発見されています。 『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。東京の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!
【東京都】日原鍾乳洞は地下の大宮殿!?関東随一のスケールで幻想的な空間が広がる
数億年前の海底で生み出された石灰岩の地層が、長い年月をかけて侵食され、育まれて生まれた神秘の景観。関東最大級の「日原鍾乳洞」とはどんなところなのでしょうか? 日原鍾乳洞はどこにあるどんな鍾乳洞? 東京都の最北西端に位置する奥多摩町は、水と緑に囲まれた「東京の奥庭」。この地域は秩父多摩甲斐国立公園に含まれ、山岳や渓谷の景観は変化に富んでいます。この景観を作る山々は、恐竜の時代と呼ばれる中生代に深海に沈積した堆積物が、長い時間の造山運動を経て形成されたもの。石灰岩やチャートなどの堆積岩を多く含むことで、滝や渓谷の多い複雑な景観が生まれ、倉沢・小袖(こそで)・養沢(ようざわ)・大岳沢(おおたけさわ)など、多くの場所で鍾乳洞が見られます。 こうした鍾乳洞のなかでも総延長1270m、高低差134mと、関東最大級の規模を誇るのが「日原鍾乳洞(にっぱらしょうにゅうどう)」です。その大きさはもちろん、豊富な鍾乳石が生み出す独特の景観から、東京都指定天然記念物にも指定されています。このうち約800mが公開されており、立体迷路のような洞窟に足を踏み入れると、大自然が創り出した神秘的な世界を体験できます。 日原鍾乳洞は悠久の歴史を刻んで育まれた 鍾乳洞は、雨や地下水が地層の割れ目に沿って流れ込み、二酸化炭素を含んだ水によって石灰岩が溶かされて生まれた洞窟です。鍾乳洞では、天井から落ちる水滴に含まれる炭酸カルシウムが固まることで、さまざまな奇景が生み出されます。 洞内で垂れて氷柱状になったものを「鍾乳石」、雫が垂れて地上に積み重なったものを「石笥(せきじゅん)」、上下が発達してつながったものを「石柱(せきちゅう)」と呼びます。 日原鍾乳洞の鍾乳石は1cm成長するのに約70年、石筍は約130年かかるとされ、大きな石笥は数十万年かけて成長してきたことになります。自然の神秘的な営みを身近に感じられる貴重な観光スポットと言えるでしょう。 日原鍾乳洞の形成:1cm伸びるのに70~130年! 水滴に含まれる炭酸カルシウムが固まることによって成長する、「鍾乳石」や「石筍」は、その場所の地質構造、洞内気象などの条件によって成長スピードが異なります。 一般的に、天井から垂れる「鍾乳石」は、1cm成長するには数十年~100年、床に固まり積もる「石筍」は100~数百年かかるとされます。何百年、何千年という年月をかけて成長した石筍を見ると、日原鍾乳洞の歴史の長さに驚かされることでしょう。 日原鍾乳洞の見どころ 白衣観音(びゃくいかんのん)並び立つ石筍のなかでも、ひときわ大きい一体。白衣観音を思わせる神々しさが名の由来です。 金剛杖およそ2.5mもの細長い石筍。3万年以上という気の遠くなる年月を経て成長しました。 死出(しで)の山鍾乳洞内のもっとも大きな空間が、レインボーカラーでライトアップされて幻想的。ガマ岩、あみだの原なども見られます。 水琴窟(すいきんくつ)地中に埋めた水を張った瓶に手水鉢の水が滴り落ちることで音を作りだしています。 日原鍾乳洞で見られる地質的特徴 鍾乳石以外にも見どころはたくさんあります。 旧洞内の壁には、何段も残る水平のくぼみが見られますが、これは「ノッチ」と呼ばれ、ここに水流があったことの証。また、特徴的な地質構造である節理(せつり)」や「断層」も随所で見られます。 日原鍾乳洞は古くから信仰の対象でもあった 洞内各所に宗教的な名称がついているのは、ここが江戸時代まで山岳信仰の聖地として栄えた場所であったためです。「一石山大権現(いっせきさんだいごんげん)」と呼ばれ、鍾乳洞そのものを神と崇めて、多くの修験者が訪れたといわれます。 周辺の御岳山や三峰山も古くから山岳信仰の対象となっていることから、日原鍾乳洞の周辺には多くの神社があり、厳かな雰囲気に満ちています。 東京都多摩西部、いわゆる奥多摩は、その大部分が秩父多摩甲斐国立公園、明治の森高尾国定公園に指定された地域です。奥多摩湖や雲取山をはじめ、鳩ノ巣渓谷や秋川渓谷などのダイナミックな渓谷、鍾乳洞、滝も多く、その豊かな自然が人々に愛されています。 『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析!...
【東京都】日原鍾乳洞は地下の大宮殿!?関東随一のスケールで幻想的な空間が広がる
数億年前の海底で生み出された石灰岩の地層が、長い年月をかけて侵食され、育まれて生まれた神秘の景観。関東最大級の「日原鍾乳洞」とはどんなところなのでしょうか? 日原鍾乳洞はどこにあるどんな鍾乳洞? 東京都の最北西端に位置する奥多摩町は、水と緑に囲まれた「東京の奥庭」。この地域は秩父多摩甲斐国立公園に含まれ、山岳や渓谷の景観は変化に富んでいます。この景観を作る山々は、恐竜の時代と呼ばれる中生代に深海に沈積した堆積物が、長い時間の造山運動を経て形成されたもの。石灰岩やチャートなどの堆積岩を多く含むことで、滝や渓谷の多い複雑な景観が生まれ、倉沢・小袖(こそで)・養沢(ようざわ)・大岳沢(おおたけさわ)など、多くの場所で鍾乳洞が見られます。 こうした鍾乳洞のなかでも総延長1270m、高低差134mと、関東最大級の規模を誇るのが「日原鍾乳洞(にっぱらしょうにゅうどう)」です。その大きさはもちろん、豊富な鍾乳石が生み出す独特の景観から、東京都指定天然記念物にも指定されています。このうち約800mが公開されており、立体迷路のような洞窟に足を踏み入れると、大自然が創り出した神秘的な世界を体験できます。 日原鍾乳洞は悠久の歴史を刻んで育まれた 鍾乳洞は、雨や地下水が地層の割れ目に沿って流れ込み、二酸化炭素を含んだ水によって石灰岩が溶かされて生まれた洞窟です。鍾乳洞では、天井から落ちる水滴に含まれる炭酸カルシウムが固まることで、さまざまな奇景が生み出されます。 洞内で垂れて氷柱状になったものを「鍾乳石」、雫が垂れて地上に積み重なったものを「石笥(せきじゅん)」、上下が発達してつながったものを「石柱(せきちゅう)」と呼びます。 日原鍾乳洞の鍾乳石は1cm成長するのに約70年、石筍は約130年かかるとされ、大きな石笥は数十万年かけて成長してきたことになります。自然の神秘的な営みを身近に感じられる貴重な観光スポットと言えるでしょう。 日原鍾乳洞の形成:1cm伸びるのに70~130年! 水滴に含まれる炭酸カルシウムが固まることによって成長する、「鍾乳石」や「石筍」は、その場所の地質構造、洞内気象などの条件によって成長スピードが異なります。 一般的に、天井から垂れる「鍾乳石」は、1cm成長するには数十年~100年、床に固まり積もる「石筍」は100~数百年かかるとされます。何百年、何千年という年月をかけて成長した石筍を見ると、日原鍾乳洞の歴史の長さに驚かされることでしょう。 日原鍾乳洞の見どころ 白衣観音(びゃくいかんのん)並び立つ石筍のなかでも、ひときわ大きい一体。白衣観音を思わせる神々しさが名の由来です。 金剛杖およそ2.5mもの細長い石筍。3万年以上という気の遠くなる年月を経て成長しました。 死出(しで)の山鍾乳洞内のもっとも大きな空間が、レインボーカラーでライトアップされて幻想的。ガマ岩、あみだの原なども見られます。 水琴窟(すいきんくつ)地中に埋めた水を張った瓶に手水鉢の水が滴り落ちることで音を作りだしています。 日原鍾乳洞で見られる地質的特徴 鍾乳石以外にも見どころはたくさんあります。 旧洞内の壁には、何段も残る水平のくぼみが見られますが、これは「ノッチ」と呼ばれ、ここに水流があったことの証。また、特徴的な地質構造である節理(せつり)」や「断層」も随所で見られます。 日原鍾乳洞は古くから信仰の対象でもあった 洞内各所に宗教的な名称がついているのは、ここが江戸時代まで山岳信仰の聖地として栄えた場所であったためです。「一石山大権現(いっせきさんだいごんげん)」と呼ばれ、鍾乳洞そのものを神と崇めて、多くの修験者が訪れたといわれます。 周辺の御岳山や三峰山も古くから山岳信仰の対象となっていることから、日原鍾乳洞の周辺には多くの神社があり、厳かな雰囲気に満ちています。 東京都多摩西部、いわゆる奥多摩は、その大部分が秩父多摩甲斐国立公園、明治の森高尾国定公園に指定された地域です。奥多摩湖や雲取山をはじめ、鳩ノ巣渓谷や秋川渓谷などのダイナミックな渓谷、鍾乳洞、滝も多く、その豊かな自然が人々に愛されています。 『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析!...
【京都府】比叡山・鞍馬山の信仰と大文字山の伝統~京都盆地を取り囲む名山~
千年の都を見守り続けた比叡山や鞍馬山(くらまやま)には、今も多くの自然が残されています。ここでは、そんな名山に伝わる逸話と地形的な特徴を紹介します。 比叡山は延暦寺建立以来の霊山 京都盆地の三方を囲む東山・西山・北山のうち、東山の主峰となるのが比叡山です。 比叡山は、京都市左京区と滋賀県大津市にまたがり、大比叡(848m)と四明岳(839m)の2峰からなります。788年に伝教大師最澄(さいちょう)が延暦寺を建立して以来、霊山として信仰を集めてきました。 延暦寺横川中堂 比叡山の豊かな自然 古くから保護されてきた寺域であるため、自然環境は良好です。山内にはスギやヒノキなどの針葉樹が豊かに生い茂り、多種多様な鳥類も棲息しています。1930年には寺院一帯の約830ha(東京ドーム180個分相当)が「比叡山鳥類繁殖地」として天然記念物に指定され、現在でも山頂付近の沢地ではオオルリやヤブサメなどの野鳥を見ることができます。 鞍馬山は比叡山と並ぶ霊山 比叡山と同じく霊山として崇(あが)められているのが、京都盆地の北に位置する鞍馬山(584m)です。 この山は海底火山の隆起によって約2億5000万年前に誕生したと考えられており、麓には東に鞍馬川、西に貴船川(きふねがわ)が流れています。 鞍馬山の伝説と景観 650万年前に天狗の総帥である護法魔王尊(ごほうまおうそん)が金星から降り立ったという伝説が残り、尊天信仰の中心になったのが鞍馬寺。この鞍馬寺は牛若丸(源義経)が修行をした地としても有名で、770年の開創以来多くの修行僧が鞍馬山を目指し、その信仰は皇族や公家、武家、町民の間にも広がっていきました。 山の中腹にある本殿金堂から奥の院にかけての道は現在もほぼ無舗装で、木の根が地面を這う神秘的な光景が広がっています。これは地盤が固く、木の根が地中深くまで入り込めないために生まれた、鞍馬山の独特の景観です。 鞍馬山仁王門 鞍馬山で発見された生き物 また山に棲息するニシキマイマイやモリアオガエルなどは、鞍馬で最初に発見された生き物とされます。このことからも鞍馬山の自然の豊かさをうかがい知ることができます。 大文字山と「五山の送り火」 左京区の大文字山(如意ヶ嶽・465m)は、京都の伝統行事「五山の送り火」が行われる山として知られます。 この「大」の字は計75の火床で表され、一画目が80m、二画目が160m、三画目が120mとまさに桁違いの“大きさ”です。送り火の由来や起源は不詳ですが、1665年に刊行された『扶桑京華志(ふそうけいかし)』に記述があり、江戸時代前期には行われていたようです。 京都の景観を守る市の政策 また山腹の火床からは京都の町の大パノラマが広がり、その眺望は抜群。京都市の景観政策には「建築物等は大文字山から見下ろすときの景観を阻害してはならない」という文言があります。こうした市の取り組みもあって観光都市・京都は守られ続けているのです。 京都府にある唯一の火山 福知山市と兵庫県朝来市(あさごし)の境にある田倉山(たくらやま)は標高349.7m。きれいな円錐形をしていることから宝山とも呼ばれ、京都府唯一の火山でもあります。 麓に広がる夜久野高原(やくのこうげん)は噴火の際、流れ出た溶岩が冷え固まってできあがった溶岩台地で、玄武岩が基岩となっています。これまでに3回以上の大噴火があったとされ、流れ出した溶岩には「小倉溶岩」「衣摺(きぬずり)溶岩」「田倉山溶岩」の名がつけられています。 国土地理院標準地図を元に作成等高線からも円錐形であることがわかる田倉山。 『京都のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。京都の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!
【京都府】比叡山・鞍馬山の信仰と大文字山の伝統~京都盆地を取り囲む名山~
千年の都を見守り続けた比叡山や鞍馬山(くらまやま)には、今も多くの自然が残されています。ここでは、そんな名山に伝わる逸話と地形的な特徴を紹介します。 比叡山は延暦寺建立以来の霊山 京都盆地の三方を囲む東山・西山・北山のうち、東山の主峰となるのが比叡山です。 比叡山は、京都市左京区と滋賀県大津市にまたがり、大比叡(848m)と四明岳(839m)の2峰からなります。788年に伝教大師最澄(さいちょう)が延暦寺を建立して以来、霊山として信仰を集めてきました。 延暦寺横川中堂 比叡山の豊かな自然 古くから保護されてきた寺域であるため、自然環境は良好です。山内にはスギやヒノキなどの針葉樹が豊かに生い茂り、多種多様な鳥類も棲息しています。1930年には寺院一帯の約830ha(東京ドーム180個分相当)が「比叡山鳥類繁殖地」として天然記念物に指定され、現在でも山頂付近の沢地ではオオルリやヤブサメなどの野鳥を見ることができます。 鞍馬山は比叡山と並ぶ霊山 比叡山と同じく霊山として崇(あが)められているのが、京都盆地の北に位置する鞍馬山(584m)です。 この山は海底火山の隆起によって約2億5000万年前に誕生したと考えられており、麓には東に鞍馬川、西に貴船川(きふねがわ)が流れています。 鞍馬山の伝説と景観 650万年前に天狗の総帥である護法魔王尊(ごほうまおうそん)が金星から降り立ったという伝説が残り、尊天信仰の中心になったのが鞍馬寺。この鞍馬寺は牛若丸(源義経)が修行をした地としても有名で、770年の開創以来多くの修行僧が鞍馬山を目指し、その信仰は皇族や公家、武家、町民の間にも広がっていきました。 山の中腹にある本殿金堂から奥の院にかけての道は現在もほぼ無舗装で、木の根が地面を這う神秘的な光景が広がっています。これは地盤が固く、木の根が地中深くまで入り込めないために生まれた、鞍馬山の独特の景観です。 鞍馬山仁王門 鞍馬山で発見された生き物 また山に棲息するニシキマイマイやモリアオガエルなどは、鞍馬で最初に発見された生き物とされます。このことからも鞍馬山の自然の豊かさをうかがい知ることができます。 大文字山と「五山の送り火」 左京区の大文字山(如意ヶ嶽・465m)は、京都の伝統行事「五山の送り火」が行われる山として知られます。 この「大」の字は計75の火床で表され、一画目が80m、二画目が160m、三画目が120mとまさに桁違いの“大きさ”です。送り火の由来や起源は不詳ですが、1665年に刊行された『扶桑京華志(ふそうけいかし)』に記述があり、江戸時代前期には行われていたようです。 京都の景観を守る市の政策 また山腹の火床からは京都の町の大パノラマが広がり、その眺望は抜群。京都市の景観政策には「建築物等は大文字山から見下ろすときの景観を阻害してはならない」という文言があります。こうした市の取り組みもあって観光都市・京都は守られ続けているのです。 京都府にある唯一の火山 福知山市と兵庫県朝来市(あさごし)の境にある田倉山(たくらやま)は標高349.7m。きれいな円錐形をしていることから宝山とも呼ばれ、京都府唯一の火山でもあります。 麓に広がる夜久野高原(やくのこうげん)は噴火の際、流れ出た溶岩が冷え固まってできあがった溶岩台地で、玄武岩が基岩となっています。これまでに3回以上の大噴火があったとされ、流れ出した溶岩には「小倉溶岩」「衣摺(きぬずり)溶岩」「田倉山溶岩」の名がつけられています。 国土地理院標準地図を元に作成等高線からも円錐形であることがわかる田倉山。 『京都のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。京都の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!
【熊本県】阿蘇山噴火が九州形成に関係している?!南北に分断された九州が ひとつになった理由とは?
200万年前、九州は地殻変動により分断されます。それを再びひとつにしたのは阿蘇山の巨大噴火だったのでしょうか? 日本列島周辺の4つのプレート 日本列島周辺の地下深くでは、北アメリカプレート、ユーラシアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートがぶつかり合っており、東日本では太平洋プレートが北アメリカプレートの下に、西日本ではユーラシアプレートの下にフィリピン海プレートが沈み込んでいます。 地殻変動で九州が南北に分断! しかし、今から約200万年前、大きな変化がありました。それまでフィリピン海プレートはほぼ真北に向かっていたのですが、東から向かってくる太平洋プレートの勢いに押されて、北西方向に沈み込むようになったのです。 その結果、西南日本を西に引きずる力が生じ、地盤の弱いところに巨大な「横ずれ断層」が生じました。総延長1000㎞にも及ぶ「中央構造線」がそうです。そしてそのとき生じた巨大な断層に海水が流れ込んで、瀬戸内海が形成されました。また、その延長線上に位置する九州の地下では、地球内部からマントルが上昇してきて、フィリピン海プレートを押したため、九州は南北に引き伸ばされ、中央部が陥没・分断されて、ここも海になりました。現在、「別府−島原地溝帯」と呼ばれているところがそうです。 阿蘇山噴火によって二つに分かれた九州今の九州に そのままなら、九州は2つの島になっていたはずでした。しかし、その後、もうひとつのできごとが起きます。上昇してきたマントルによって、マグマをつくるエネルギーが増大し、大量のマグマが地上に噴出して多くの火山が形成され、その火山が噴き出す大量の灰や溶岩によって、海となった部分が埋められ、隆起するとともに陸地となっていったのです。 中でも阿蘇山から流れ出た火砕流の一部は海を越えて天草下島や山口県の秋吉台にまで分布しているほどでした。 阿蘇山の噴火による成長の過程 約27万年前、阿蘇火山が活動を開始し、最初の火砕流が発生。その後、約14万年前と約12万年前にも大噴火が発生 ⇓ 約9万年前の4回目の巨大噴火で大火砕流が発生し、周辺に広大な火砕流台地がつくられた。この噴火で巨大カルデラが形成され、カルデラ内には雨水がたまり、湖を形成。その後、立野火口瀬の形成によって湖が消失。 ⇓ 数千年前までに現在の姿となった。 『熊本のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から熊本県を分析! 熊本県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。熊本の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!
【熊本県】阿蘇山噴火が九州形成に関係している?!南北に分断された九州が ひとつになった理由とは?
200万年前、九州は地殻変動により分断されます。それを再びひとつにしたのは阿蘇山の巨大噴火だったのでしょうか? 日本列島周辺の4つのプレート 日本列島周辺の地下深くでは、北アメリカプレート、ユーラシアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートがぶつかり合っており、東日本では太平洋プレートが北アメリカプレートの下に、西日本ではユーラシアプレートの下にフィリピン海プレートが沈み込んでいます。 地殻変動で九州が南北に分断! しかし、今から約200万年前、大きな変化がありました。それまでフィリピン海プレートはほぼ真北に向かっていたのですが、東から向かってくる太平洋プレートの勢いに押されて、北西方向に沈み込むようになったのです。 その結果、西南日本を西に引きずる力が生じ、地盤の弱いところに巨大な「横ずれ断層」が生じました。総延長1000㎞にも及ぶ「中央構造線」がそうです。そしてそのとき生じた巨大な断層に海水が流れ込んで、瀬戸内海が形成されました。また、その延長線上に位置する九州の地下では、地球内部からマントルが上昇してきて、フィリピン海プレートを押したため、九州は南北に引き伸ばされ、中央部が陥没・分断されて、ここも海になりました。現在、「別府−島原地溝帯」と呼ばれているところがそうです。 阿蘇山噴火によって二つに分かれた九州今の九州に そのままなら、九州は2つの島になっていたはずでした。しかし、その後、もうひとつのできごとが起きます。上昇してきたマントルによって、マグマをつくるエネルギーが増大し、大量のマグマが地上に噴出して多くの火山が形成され、その火山が噴き出す大量の灰や溶岩によって、海となった部分が埋められ、隆起するとともに陸地となっていったのです。 中でも阿蘇山から流れ出た火砕流の一部は海を越えて天草下島や山口県の秋吉台にまで分布しているほどでした。 阿蘇山の噴火による成長の過程 約27万年前、阿蘇火山が活動を開始し、最初の火砕流が発生。その後、約14万年前と約12万年前にも大噴火が発生 ⇓ 約9万年前の4回目の巨大噴火で大火砕流が発生し、周辺に広大な火砕流台地がつくられた。この噴火で巨大カルデラが形成され、カルデラ内には雨水がたまり、湖を形成。その後、立野火口瀬の形成によって湖が消失。 ⇓ 数千年前までに現在の姿となった。 『熊本のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から熊本県を分析! 熊本県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。熊本の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!
【山梨県・長野県】八ヶ岳の黒曜石と縄文遺跡~「星降る里」といわれたいにしえの八ヶ岳周辺
日本の中心に位置する中部高地は、掘り出された黒曜石のかけらが輝く様から、「星降る里」と言い伝えられてきました。そこから伝わる縄文人の思いに迫ってみましょう。 八ヶ岳の黒曜石 山梨県と長野県にまたがる八ヶ岳の山麓、中部高地には、黒曜石(こくようせき)の採掘に関する本州最大の遺跡があります。黒曜石は火山が生み出した天然ガラスで、狩猟採集民族であった縄文の人たちの暮らしには欠かせないものでした。 日本列島で黒曜石が採掘される場所は北海道から九州まで100カ所以上ありますが、八ヶ岳周辺で採れる黒曜石は純度が高く高品質であり、割れ口が鋭く加工しやすかったのです。そのため、矢じりやナイフをはじめとする多彩な石器づくりの材料として広く利用されていました。 八ヶ岳周辺のおもの黒曜石原産地と代表的な遺跡 安道寺遺跡出土品大きな水煙文の把手があり、特別な祭礼に使われたと思われます。 殿林遺跡出土品中部高地の縄文文化を代表する、重要文化財の深鉢形土器。 一の沢遺跡出土品出土品の土器は、大きな中空の把手が特徴的です。 酒呑場遺跡出土品八ヶ岳南麓を代表する大規模な集落遺跡からの出土品。 八ヶ岳の黒曜石からついた星がつく地名 中部高地で黒曜石が出土する場所には「星糞峠(ほしくそとうげ)」「星ヶ塔」「星ヶ台」など、「星」がつく地名がたくさんあります。これは、足元でキラキラ光る黒曜石のかけらを、人々が空から降ってきた星のかけらだと信じたことが由来であるといわれています。 星糞峠の黒曜石鉱山では、ドーナツ形の土手の中央部にクレーター状の窪みがあり、縄文人が黒曜石を掘り出していた痕跡を見ることができます。 八ヶ岳の黒曜石の広域流通 掘り出された黒曜石は、麓の村から村へと運ばれていき、村を結ぶ道は「黒曜石の道」となっていきました。この地で採れた黒曜石は、遠く離れた北海道の遺跡からも見つかっており、良質な黒曜石を求めて遠くの地域から他の縄文人が訪れていたようです。 現在のような運搬手段がなかった時代に、いったいどのように運んでいたのかは謎に包まれていますが、産地限定の黒曜石が大量に、しかも広域に流通していたという事実は、この石がいかにハイブランドで人気が高かったのかを物語っています。 この黒曜石の交易を通して、人や物、情報などがこの山麓に集まった結果、芸術性が高く当時の人々の精神性がよくわかる資料が多く作られたと考えられます。 八ヶ岳周辺の縄文土器の特徴 また、八ヶ岳周辺の縄文遺跡からは黒曜石のほかにも多くの土器や土偶が見つかっています。縄文中期の土器は、華やかさや芸術性の高さが特徴です。土器には水の流れや森の草木、そして人や動物の姿がいきいきと立体的に描かれており、ここでは国内外でも類まれなる土器文化が発達していたといえます。 鋳物師屋前遺跡(いもじやまえいせき)や津金御所前遺跡などの出土品には、母から生まれようとする子どもの顔や歌い踊るような人の姿も描かれており、まるで当時の生活の一部をそのままに伝えているようです。 女性、とりわけ妊婦を表現しているものが多いことも特徴的で、棚畑遺跡から出土した「縄文のヴィーナス」は、縄文時代の遺物として初めて国宝に指定されました。この地が生み出す縄文土器のその特有な文様やデザインには、この地の人々の死生観や精神世界などが、 強くこめられているのかもしれません。 国宝「土偶」(縄文のビーナス) 八ヶ岳山麓の土偶の特徴と造形美を合わせ持ち、当時の精神文化を考えるためにも貴重な学術資料であることから、縄文時代の遺跡から見つかったものの中で初めて国宝に指定されました。 『山梨のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から山梨県を分析! 山梨の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。山梨の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報満載!...
【山梨県・長野県】八ヶ岳の黒曜石と縄文遺跡~「星降る里」といわれたいにしえの八ヶ岳周辺
日本の中心に位置する中部高地は、掘り出された黒曜石のかけらが輝く様から、「星降る里」と言い伝えられてきました。そこから伝わる縄文人の思いに迫ってみましょう。 八ヶ岳の黒曜石 山梨県と長野県にまたがる八ヶ岳の山麓、中部高地には、黒曜石(こくようせき)の採掘に関する本州最大の遺跡があります。黒曜石は火山が生み出した天然ガラスで、狩猟採集民族であった縄文の人たちの暮らしには欠かせないものでした。 日本列島で黒曜石が採掘される場所は北海道から九州まで100カ所以上ありますが、八ヶ岳周辺で採れる黒曜石は純度が高く高品質であり、割れ口が鋭く加工しやすかったのです。そのため、矢じりやナイフをはじめとする多彩な石器づくりの材料として広く利用されていました。 八ヶ岳周辺のおもの黒曜石原産地と代表的な遺跡 安道寺遺跡出土品大きな水煙文の把手があり、特別な祭礼に使われたと思われます。 殿林遺跡出土品中部高地の縄文文化を代表する、重要文化財の深鉢形土器。 一の沢遺跡出土品出土品の土器は、大きな中空の把手が特徴的です。 酒呑場遺跡出土品八ヶ岳南麓を代表する大規模な集落遺跡からの出土品。 八ヶ岳の黒曜石からついた星がつく地名 中部高地で黒曜石が出土する場所には「星糞峠(ほしくそとうげ)」「星ヶ塔」「星ヶ台」など、「星」がつく地名がたくさんあります。これは、足元でキラキラ光る黒曜石のかけらを、人々が空から降ってきた星のかけらだと信じたことが由来であるといわれています。 星糞峠の黒曜石鉱山では、ドーナツ形の土手の中央部にクレーター状の窪みがあり、縄文人が黒曜石を掘り出していた痕跡を見ることができます。 八ヶ岳の黒曜石の広域流通 掘り出された黒曜石は、麓の村から村へと運ばれていき、村を結ぶ道は「黒曜石の道」となっていきました。この地で採れた黒曜石は、遠く離れた北海道の遺跡からも見つかっており、良質な黒曜石を求めて遠くの地域から他の縄文人が訪れていたようです。 現在のような運搬手段がなかった時代に、いったいどのように運んでいたのかは謎に包まれていますが、産地限定の黒曜石が大量に、しかも広域に流通していたという事実は、この石がいかにハイブランドで人気が高かったのかを物語っています。 この黒曜石の交易を通して、人や物、情報などがこの山麓に集まった結果、芸術性が高く当時の人々の精神性がよくわかる資料が多く作られたと考えられます。 八ヶ岳周辺の縄文土器の特徴 また、八ヶ岳周辺の縄文遺跡からは黒曜石のほかにも多くの土器や土偶が見つかっています。縄文中期の土器は、華やかさや芸術性の高さが特徴です。土器には水の流れや森の草木、そして人や動物の姿がいきいきと立体的に描かれており、ここでは国内外でも類まれなる土器文化が発達していたといえます。 鋳物師屋前遺跡(いもじやまえいせき)や津金御所前遺跡などの出土品には、母から生まれようとする子どもの顔や歌い踊るような人の姿も描かれており、まるで当時の生活の一部をそのままに伝えているようです。 女性、とりわけ妊婦を表現しているものが多いことも特徴的で、棚畑遺跡から出土した「縄文のヴィーナス」は、縄文時代の遺物として初めて国宝に指定されました。この地が生み出す縄文土器のその特有な文様やデザインには、この地の人々の死生観や精神世界などが、 強くこめられているのかもしれません。 国宝「土偶」(縄文のビーナス) 八ヶ岳山麓の土偶の特徴と造形美を合わせ持ち、当時の精神文化を考えるためにも貴重な学術資料であることから、縄文時代の遺跡から見つかったものの中で初めて国宝に指定されました。 『山梨のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から山梨県を分析! 山梨の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。山梨の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報満載!...
【石川県】能登半島の地形は左手の親指みたい!?伊能忠敬を苦しめた外浦・内浦
日本海に突き出た能登半島は、荒々しい断崖の続く外浦と入り組んだ内浦のそれぞれ複雑な海岸線が特徴。伊能忠敬が測量の際に苦労したといわれます。 能登半島の地形の特徴 地元の人々は、能登の場所を説明する際によく左手の親指を使います。関節を少し曲げると、能登半島の形と似ているからです。日本列島のほぼ真ん中に位置し、海に突き出た形が印象的なので、日本海側の地域としては比較的分かりやすい場所です。 石川県の海岸線の総延長は約583kmで、全国では23位の長さ。加賀の海岸線が直線的である一方、能登の海岸は岩礁や磯が断続的に続いて入り組んでいます。 隆起と沈降活動を繰り返して、陸地と浅海を形成してきた能登半島は、最終的には100万年前の地殻変動で現在の形に至ったといわれます。 能登半島の地形は外浦と内浦で特徴が異なる 能登のなかでもさらに地域は細かく分かれます。最北端の奥能登、能登国府がおかれていた中能登、そして能登の南部にあたる口能登です。半島の最先端である禄剛(ろっこう)崎を境に、西(日本海側)を外浦、東(七尾湾側)を内浦と呼びます。ひと続きの海岸線とはいえ、外浦と内浦とで対照的な表情を見せるのが能登半島周辺の海の特徴です。 能登半島・外浦の地形の特徴 外浦は、海水準変動と地盤隆起の組み合わせにより形成された海岸段丘(階段状の地形)が各所で見られます。日本海に面しているため波浪浸食が著しく、特に冬は季節風の影響で荒波が打ち付けるのです。ゴツゴツとした断崖絶壁や奇岩が多いため、その景観は男性的です。 能登金剛 代表的な断崖は、松本清張の小説を原作とした映画『ゼロの焦点』で脚光を浴びた能登金剛。北朝鮮の金剛山の奇岩が林立する 様子に似ていることから名づけられ、豪快な岩礁美が際立ちます。この一帯は巨岩が海中に突き出ていますが、なかでも「巌門(がんもん)」といわれる場所は特に豪快な景観です。海に突き出た岩盤の中央部分には、幅6m、高さ15m、奥行き60mにわたる巨大な穴がぽっかりとあいています。凝灰岩の岩盤が数千年にわたる波の浸食を受けてできた貫通洞門で、海のすさまじさを物語ります。巌門 ほかにも機具(はたご)岩、ゴジラ岩など、特徴的な形の奇岩や断崖がたくさんあります。機具岩 ゴジラ岩 輪島から北上した位置にある曽々木海岸付近もかつての難所でした。流紋岩からなる断崖と、海食と隆起によってできた奇岩が続きます。トンネルが整備される前は、人々は断崖を伝って往来し、たびたび命を落とす者が出たことから、ついた地名は親不知(おやしらず) です。 能登半島・内浦の地形の特徴 一方、荒々しい外浦とは対照的に季節を問わず穏やかなのが内浦の特徴です。沈降性の入り組んだリアス式海岸が多いため、入り江が自然の防波堤のようになり、七尾湾にも面していることから海は静かで女性的といわれます。 しかし、入り江が多いぶん、海岸線は複雑です。たとえば九十九(つくも)湾は、東西1km、南北1.5kmの小さな湾ですが、その海岸線は13kmにも及びます。屈折が多く、大小の入り江が99を数えるという由来で名付けられました。小木(おぎ)や宇出津(うしつ)、穴水湾から七尾湾にかけてもリアス式海岸が形成されています。 能登半島内浦の地形の原因は珪藻土 内浦の海岸は地下資源に恵まれており、代表的なものが珪藻土(けいそうど)です。特に珠洲市の埋蔵は日本一といわれるほど豊富。珪藻土は多孔質で軽く、断熱性に優れた性質があります。それを活かして珠洲市では珪藻土の七輪やコンロを生み出し、特産品としています。 しかし、この性質のために海岸においては浸食を受けやすく、内浦の海岸地形が変化に富んでいる原因となっています。 能登半島の地形を測量した伊能忠敬 享和3(1803)年、伊能忠敬は石川県の海岸線の測量をおこないました。測量を効率化するため2班に分かれ、長く複雑な能登の海岸線に挑みましたが、それでも測量を終えるまでに1か月ほどを要したとされます。 能登の前には加賀沿岸の測量をおこなっていましたが、加賀藩の人間は伊能忠敬率いる測量隊に非協力的でした。加賀藩の海岸情報が明らかになることを警戒したといわれ、加賀藩に伝わる古文書には「伊能らは隠密のように思える」という記述が残っていることからも警戒心の強さが読み取れます。 このために加賀で神経をすり減らし、能登で体力を使い果たしたことが直接の原因なのかは定かではありませんが、能登を出て富山湾の測量のため越中に着いた途端、持病が悪化したといわれています。...
【石川県】能登半島の地形は左手の親指みたい!?伊能忠敬を苦しめた外浦・内浦
日本海に突き出た能登半島は、荒々しい断崖の続く外浦と入り組んだ内浦のそれぞれ複雑な海岸線が特徴。伊能忠敬が測量の際に苦労したといわれます。 能登半島の地形の特徴 地元の人々は、能登の場所を説明する際によく左手の親指を使います。関節を少し曲げると、能登半島の形と似ているからです。日本列島のほぼ真ん中に位置し、海に突き出た形が印象的なので、日本海側の地域としては比較的分かりやすい場所です。 石川県の海岸線の総延長は約583kmで、全国では23位の長さ。加賀の海岸線が直線的である一方、能登の海岸は岩礁や磯が断続的に続いて入り組んでいます。 隆起と沈降活動を繰り返して、陸地と浅海を形成してきた能登半島は、最終的には100万年前の地殻変動で現在の形に至ったといわれます。 能登半島の地形は外浦と内浦で特徴が異なる 能登のなかでもさらに地域は細かく分かれます。最北端の奥能登、能登国府がおかれていた中能登、そして能登の南部にあたる口能登です。半島の最先端である禄剛(ろっこう)崎を境に、西(日本海側)を外浦、東(七尾湾側)を内浦と呼びます。ひと続きの海岸線とはいえ、外浦と内浦とで対照的な表情を見せるのが能登半島周辺の海の特徴です。 能登半島・外浦の地形の特徴 外浦は、海水準変動と地盤隆起の組み合わせにより形成された海岸段丘(階段状の地形)が各所で見られます。日本海に面しているため波浪浸食が著しく、特に冬は季節風の影響で荒波が打ち付けるのです。ゴツゴツとした断崖絶壁や奇岩が多いため、その景観は男性的です。 能登金剛 代表的な断崖は、松本清張の小説を原作とした映画『ゼロの焦点』で脚光を浴びた能登金剛。北朝鮮の金剛山の奇岩が林立する 様子に似ていることから名づけられ、豪快な岩礁美が際立ちます。この一帯は巨岩が海中に突き出ていますが、なかでも「巌門(がんもん)」といわれる場所は特に豪快な景観です。海に突き出た岩盤の中央部分には、幅6m、高さ15m、奥行き60mにわたる巨大な穴がぽっかりとあいています。凝灰岩の岩盤が数千年にわたる波の浸食を受けてできた貫通洞門で、海のすさまじさを物語ります。巌門 ほかにも機具(はたご)岩、ゴジラ岩など、特徴的な形の奇岩や断崖がたくさんあります。機具岩 ゴジラ岩 輪島から北上した位置にある曽々木海岸付近もかつての難所でした。流紋岩からなる断崖と、海食と隆起によってできた奇岩が続きます。トンネルが整備される前は、人々は断崖を伝って往来し、たびたび命を落とす者が出たことから、ついた地名は親不知(おやしらず) です。 能登半島・内浦の地形の特徴 一方、荒々しい外浦とは対照的に季節を問わず穏やかなのが内浦の特徴です。沈降性の入り組んだリアス式海岸が多いため、入り江が自然の防波堤のようになり、七尾湾にも面していることから海は静かで女性的といわれます。 しかし、入り江が多いぶん、海岸線は複雑です。たとえば九十九(つくも)湾は、東西1km、南北1.5kmの小さな湾ですが、その海岸線は13kmにも及びます。屈折が多く、大小の入り江が99を数えるという由来で名付けられました。小木(おぎ)や宇出津(うしつ)、穴水湾から七尾湾にかけてもリアス式海岸が形成されています。 能登半島内浦の地形の原因は珪藻土 内浦の海岸は地下資源に恵まれており、代表的なものが珪藻土(けいそうど)です。特に珠洲市の埋蔵は日本一といわれるほど豊富。珪藻土は多孔質で軽く、断熱性に優れた性質があります。それを活かして珠洲市では珪藻土の七輪やコンロを生み出し、特産品としています。 しかし、この性質のために海岸においては浸食を受けやすく、内浦の海岸地形が変化に富んでいる原因となっています。 能登半島の地形を測量した伊能忠敬 享和3(1803)年、伊能忠敬は石川県の海岸線の測量をおこないました。測量を効率化するため2班に分かれ、長く複雑な能登の海岸線に挑みましたが、それでも測量を終えるまでに1か月ほどを要したとされます。 能登の前には加賀沿岸の測量をおこなっていましたが、加賀藩の人間は伊能忠敬率いる測量隊に非協力的でした。加賀藩の海岸情報が明らかになることを警戒したといわれ、加賀藩に伝わる古文書には「伊能らは隠密のように思える」という記述が残っていることからも警戒心の強さが読み取れます。 このために加賀で神経をすり減らし、能登で体力を使い果たしたことが直接の原因なのかは定かではありませんが、能登を出て富山湾の測量のため越中に着いた途端、持病が悪化したといわれています。...
【沖縄県】沖縄本土復帰のシンボル 730バスとはどのようなバス?~復帰前日深夜に実施された交通...
戦後27年間、右側通行だった沖縄の道路は一夜にして左側通行になり、バスも左ハンドルから右ハンドル車に切り替えられました。その際のバスの交代劇を追います。 沖縄の本土復帰前の路線バス事情 沖縄の路線バスは、1917(大正6)年に那覇~名護間を結んだのが始まりで、那覇~首里間などの便も数社が運行していましたが、沖縄戦により施設は破壊され、会社も消滅しました。戦後は米軍政府が運営する公営バスが運行を開始。車両は、米軍払い下げの軍用トラックの改造車でした。公営バスは1950(昭和25)年に民営化されて沖縄バスとなり、同年から相次いでバス会社が設立されました。 最盛期には14社に及びましたが、1974(昭和49)年までに4社に整理されました。終戦によってアメリカの統治下に置かれた沖縄では、クルマがアメリカと同じ右側通行で、バスも左ハンドル車、運賃もドルで支払っていました。1972(昭和47)年の本土復帰にあたり、アメリカ型の生活様式が改められ、クルマも本土と同じ左側通行に戻すことになり、6年後の1978(昭和53)年7月30日午前6時に実施されることになりました。それが、実施日の7月30日にちなんで「730(ナナサンマル)」と呼ばれる交通方法変更事業でした。 沖縄の本土復帰にあたり準備された730バス ここで大きな問題となったのは、左ハンドルのバスの存在でした。左ハンドルの乗用車は、左側通行でも何とか運転はできます。しかしバスは別です。左ハンドルのバスの乗降口は、右側にしかないからです。 沖縄島には左ハンドルのバス(通称「729車」)が当時1207台も在籍しており、全車を短時間で右ハンドル、左側乗降口に改造することは不可能でした。そこで、右ハンドルの新車を944台投入し、164台を右ハンドル、左側乗降口に改造して対処したのでした。この際に大量に導入された右ハンドルのバスのことを「730車」または「730バス」と通称しています。 新車のバスは事業者によりメーカーが異なり、琉球バスが日産ディーゼル工業および日野自動車、沖縄バスが三菱自動車工業、那覇交通(現・那覇バス)がいすゞ自動車、東陽バスが日野自動車で、米軍基地だったキャンプ・ブーン跡地に集結させました。 沖縄の本土復帰前日の深夜に行われた交通方法変更実施 そして7月30日を迎えます。前日の29日午後10時より30日午前6時まで、緊急自動車を除くすべての自動車の通行が禁止され、道路設備の変更がいっせいに行われました。事前に準備されていた標識や路面の車線表示などのカバーが外され、新標識に切り替えられました。バスは29日の運行終了と同時に729車から運賃・両替金などを抜き取り、キャンプ・ブーン跡地に車両を保管。代わって、730バスをパトカーの先導で各営業所へ回送させました。車庫では路線別、ダイヤ別に車両が並べられ、両替金の積み込みなどが行われました。変更時刻の6時になると、バスは無事に各バスターミナルから次々に出発していきました。それは沖縄の本土復帰の象徴的な光景でもありました。 沖縄本土復帰の生き証人730バスの現在 その後、歴史の生き証人でもある730バスは、経年とともに次々と引退していきました。現在は、沖縄バスと東陽バスにそれぞれ1台があるのみです。最後まで残った2台は、沖縄バスが三菱ふそうMP117K 、東陽バスが日野RE101で、どちらも昭和のバスを代表するモノコック構造(フレームとボディーが一体となり強度を増している)のバスで、丸みを帯びたレトロな車体です。どちらも、現在はイベント時や動態維持のための試運転など限られた運行となっており、今後の去就は未定です。沖縄の歴史を語るうえでなくてはならない730バスが末永く保存されることを願うばかりです。 『沖縄のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から沖縄県を分析! 沖縄県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。沖縄の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報を満載!
【沖縄県】沖縄本土復帰のシンボル 730バスとはどのようなバス?~復帰前日深夜に実施された交通...
戦後27年間、右側通行だった沖縄の道路は一夜にして左側通行になり、バスも左ハンドルから右ハンドル車に切り替えられました。その際のバスの交代劇を追います。 沖縄の本土復帰前の路線バス事情 沖縄の路線バスは、1917(大正6)年に那覇~名護間を結んだのが始まりで、那覇~首里間などの便も数社が運行していましたが、沖縄戦により施設は破壊され、会社も消滅しました。戦後は米軍政府が運営する公営バスが運行を開始。車両は、米軍払い下げの軍用トラックの改造車でした。公営バスは1950(昭和25)年に民営化されて沖縄バスとなり、同年から相次いでバス会社が設立されました。 最盛期には14社に及びましたが、1974(昭和49)年までに4社に整理されました。終戦によってアメリカの統治下に置かれた沖縄では、クルマがアメリカと同じ右側通行で、バスも左ハンドル車、運賃もドルで支払っていました。1972(昭和47)年の本土復帰にあたり、アメリカ型の生活様式が改められ、クルマも本土と同じ左側通行に戻すことになり、6年後の1978(昭和53)年7月30日午前6時に実施されることになりました。それが、実施日の7月30日にちなんで「730(ナナサンマル)」と呼ばれる交通方法変更事業でした。 沖縄の本土復帰にあたり準備された730バス ここで大きな問題となったのは、左ハンドルのバスの存在でした。左ハンドルの乗用車は、左側通行でも何とか運転はできます。しかしバスは別です。左ハンドルのバスの乗降口は、右側にしかないからです。 沖縄島には左ハンドルのバス(通称「729車」)が当時1207台も在籍しており、全車を短時間で右ハンドル、左側乗降口に改造することは不可能でした。そこで、右ハンドルの新車を944台投入し、164台を右ハンドル、左側乗降口に改造して対処したのでした。この際に大量に導入された右ハンドルのバスのことを「730車」または「730バス」と通称しています。 新車のバスは事業者によりメーカーが異なり、琉球バスが日産ディーゼル工業および日野自動車、沖縄バスが三菱自動車工業、那覇交通(現・那覇バス)がいすゞ自動車、東陽バスが日野自動車で、米軍基地だったキャンプ・ブーン跡地に集結させました。 沖縄の本土復帰前日の深夜に行われた交通方法変更実施 そして7月30日を迎えます。前日の29日午後10時より30日午前6時まで、緊急自動車を除くすべての自動車の通行が禁止され、道路設備の変更がいっせいに行われました。事前に準備されていた標識や路面の車線表示などのカバーが外され、新標識に切り替えられました。バスは29日の運行終了と同時に729車から運賃・両替金などを抜き取り、キャンプ・ブーン跡地に車両を保管。代わって、730バスをパトカーの先導で各営業所へ回送させました。車庫では路線別、ダイヤ別に車両が並べられ、両替金の積み込みなどが行われました。変更時刻の6時になると、バスは無事に各バスターミナルから次々に出発していきました。それは沖縄の本土復帰の象徴的な光景でもありました。 沖縄本土復帰の生き証人730バスの現在 その後、歴史の生き証人でもある730バスは、経年とともに次々と引退していきました。現在は、沖縄バスと東陽バスにそれぞれ1台があるのみです。最後まで残った2台は、沖縄バスが三菱ふそうMP117K 、東陽バスが日野RE101で、どちらも昭和のバスを代表するモノコック構造(フレームとボディーが一体となり強度を増している)のバスで、丸みを帯びたレトロな車体です。どちらも、現在はイベント時や動態維持のための試運転など限られた運行となっており、今後の去就は未定です。沖縄の歴史を語るうえでなくてはならない730バスが末永く保存されることを願うばかりです。 『沖縄のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から沖縄県を分析! 沖縄県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。沖縄の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報を満載!
【奈良県】藤原京廃都の裏に参考資料のミス!?~日本初の条坊制の都~
2026年7月、「飛鳥・藤原の宮都」として世界遺産に認定された藤原京。日本初の本格的な都城として誕生しながら、わずか16年で幕を閉じたのはなぜでしょうか。 廃都の裏にある意外な真相に迫ります。 藤原京は日本初の本格的な都城! 藤原京は、律令国家を目指す天武天皇とその皇后であるのちの持統天皇によって整備されました。中国の条坊制を採用した日本で初めての本格的な都城です。 持統8(694)年に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)から遷都。大宝律令が制定され従来とは異なる新たな国家体制が整いつつありましたが、わずか16年で幕を閉じ平城京へ都を移すことになりました。 藤原京は中国の歴史書が手本!平城京をしのぐ規模だった その理由は都に住む役人が増えて手狭になったためといわれていましたが、近年の発掘調査により藤原京は平城京をしのぐ規模だったことが分かりました。京域は約5 km四方のほぼ正方形。十条十坊の道が通り、都の中央に藤原宮が置かれているのが大きな特徴です。中国の歴史書『周礼(しゅらい)』に記された理想的な首都を参考にして造られたとされます。 天皇の住まいである内裏をはじめ大極殿や朝堂院などがあった藤原宮跡。季節の花と大和三山が美しい。 藤原京と平城京を比較して分かる遷都の理由 では一体なぜ遷都されることになったのでしょうか。 その契機となったのは、大宝2(702)年、30年以上ぶりに再開した遣唐使による報告でした。中国の理念をもとに造った藤原京は、当時最先端だった唐の長安とは全く異なっていたということが分かったのです。藤原京の造営は遣唐使が中断していた時期と重なり、最新の都城について知ることができませんでした。藤原京と、その後遷都された平城京の構造を比較すると違いが見えてきます。 平城京のモデルは唐の長安!その構造とは 長安をモデルにした平城京は、都の北に平城宮が置かれていました。都を南北に貫く朱雀大路(すざくおおじ)は、長さ約3.8km、幅約74m。平城京のメインストリートであるだけでなく、儀礼を行い朝廷の威信を示す場でもありました。南の羅城門から平城宮の正門である朱雀門まで上りになっており、その先に大極殿がそびえる構造になっていました。 平城京跡の朱雀門 藤原京の構造や立地は難点だらけだった これに対して藤原京の朱雀大路は長さ約500mと短く、道幅は約24mでほかの条坊道とあまり変わらないため、平城京のような役割を担うには不十分と考えられます。 また藤原京は北が低くなっており、中央にある藤原宮は南側の臣下の建物から見下ろされる形になっていて、威厳が損われていたのも大きかったでしょう。低地だったため大内裏に汚水が流れ込むこともあり、衛生状態も良くなかったようです。 このような立地的な欠点も、遷都の理由のひとつとして考えられています。いずれにせよ、これでは難点だらけで朝廷の威信を示すことは難しいでしょう。 遣唐使によって唐の実情を知った朝廷は、真の律令国家にふさわしい高度な都にするために、早々に藤原京を捨てて新しい都を造ろうとしたと推測されます。 藤原京から平城京へは約19km。かつては右図の破線部分が藤原京の全域とされていました。しかし現在は、大和三山を内包し平城京より規模が大きい、いわゆる「大藤原京」説が有力となっています。 藤原京から平城京に遷都された理由は諸説ある 平城京遷都には、藤原不比等(ふじわらのふひと)が権力を掌握するために飛鳥の豪族から離れて、新たな地盤を固めたいという思惑があったという説もあります。遷都の理由は諸説あり、複数の要因が絡み合ってなされたのでしょうが、藤原京を造る手本となった『周礼』という参考資料の存在は、伏線として無視できないと考えられます。 平城京の役人たちの暮らし 大内裏で働く役人の出勤は早く、朝6時半。太鼓の音で朱雀門が開門。朝堂院の各省庁で5時間程度実務をこなし、正午には退勤しました。 給与は位階や官職により異なります。正一位(しょういちい)~正三位の貴族は位田(いでん)と呼ばれる水田や位封(いふう)(農民が納める税など)が与えられ、春と秋には季禄(きろく)として絁(あしぎぬ)や綿も支給されました。一方、六位以下は季禄のみで出勤日数に応じて米や魚などの月料が支給されたといいます。給与が低いと、退勤後に東大寺でアルバイトをする者もいたことが『正倉院文書』に記されています。...
【奈良県】藤原京廃都の裏に参考資料のミス!?~日本初の条坊制の都~
2026年7月、「飛鳥・藤原の宮都」として世界遺産に認定された藤原京。日本初の本格的な都城として誕生しながら、わずか16年で幕を閉じたのはなぜでしょうか。 廃都の裏にある意外な真相に迫ります。 藤原京は日本初の本格的な都城! 藤原京は、律令国家を目指す天武天皇とその皇后であるのちの持統天皇によって整備されました。中国の条坊制を採用した日本で初めての本格的な都城です。 持統8(694)年に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)から遷都。大宝律令が制定され従来とは異なる新たな国家体制が整いつつありましたが、わずか16年で幕を閉じ平城京へ都を移すことになりました。 藤原京は中国の歴史書が手本!平城京をしのぐ規模だった その理由は都に住む役人が増えて手狭になったためといわれていましたが、近年の発掘調査により藤原京は平城京をしのぐ規模だったことが分かりました。京域は約5 km四方のほぼ正方形。十条十坊の道が通り、都の中央に藤原宮が置かれているのが大きな特徴です。中国の歴史書『周礼(しゅらい)』に記された理想的な首都を参考にして造られたとされます。 天皇の住まいである内裏をはじめ大極殿や朝堂院などがあった藤原宮跡。季節の花と大和三山が美しい。 藤原京と平城京を比較して分かる遷都の理由 では一体なぜ遷都されることになったのでしょうか。 その契機となったのは、大宝2(702)年、30年以上ぶりに再開した遣唐使による報告でした。中国の理念をもとに造った藤原京は、当時最先端だった唐の長安とは全く異なっていたということが分かったのです。藤原京の造営は遣唐使が中断していた時期と重なり、最新の都城について知ることができませんでした。藤原京と、その後遷都された平城京の構造を比較すると違いが見えてきます。 平城京のモデルは唐の長安!その構造とは 長安をモデルにした平城京は、都の北に平城宮が置かれていました。都を南北に貫く朱雀大路(すざくおおじ)は、長さ約3.8km、幅約74m。平城京のメインストリートであるだけでなく、儀礼を行い朝廷の威信を示す場でもありました。南の羅城門から平城宮の正門である朱雀門まで上りになっており、その先に大極殿がそびえる構造になっていました。 平城京跡の朱雀門 藤原京の構造や立地は難点だらけだった これに対して藤原京の朱雀大路は長さ約500mと短く、道幅は約24mでほかの条坊道とあまり変わらないため、平城京のような役割を担うには不十分と考えられます。 また藤原京は北が低くなっており、中央にある藤原宮は南側の臣下の建物から見下ろされる形になっていて、威厳が損われていたのも大きかったでしょう。低地だったため大内裏に汚水が流れ込むこともあり、衛生状態も良くなかったようです。 このような立地的な欠点も、遷都の理由のひとつとして考えられています。いずれにせよ、これでは難点だらけで朝廷の威信を示すことは難しいでしょう。 遣唐使によって唐の実情を知った朝廷は、真の律令国家にふさわしい高度な都にするために、早々に藤原京を捨てて新しい都を造ろうとしたと推測されます。 藤原京から平城京へは約19km。かつては右図の破線部分が藤原京の全域とされていました。しかし現在は、大和三山を内包し平城京より規模が大きい、いわゆる「大藤原京」説が有力となっています。 藤原京から平城京に遷都された理由は諸説ある 平城京遷都には、藤原不比等(ふじわらのふひと)が権力を掌握するために飛鳥の豪族から離れて、新たな地盤を固めたいという思惑があったという説もあります。遷都の理由は諸説あり、複数の要因が絡み合ってなされたのでしょうが、藤原京を造る手本となった『周礼』という参考資料の存在は、伏線として無視できないと考えられます。 平城京の役人たちの暮らし 大内裏で働く役人の出勤は早く、朝6時半。太鼓の音で朱雀門が開門。朝堂院の各省庁で5時間程度実務をこなし、正午には退勤しました。 給与は位階や官職により異なります。正一位(しょういちい)~正三位の貴族は位田(いでん)と呼ばれる水田や位封(いふう)(農民が納める税など)が与えられ、春と秋には季禄(きろく)として絁(あしぎぬ)や綿も支給されました。一方、六位以下は季禄のみで出勤日数に応じて米や魚などの月料が支給されたといいます。給与が低いと、退勤後に東大寺でアルバイトをする者もいたことが『正倉院文書』に記されています。...
【京都府】京都駅の歴史とホームの謎!0番があって1番がない!?
日本有数の観光都市・京都。その玄関口は幾度の変遷を経て不思議な構造だらけとなっています。なぜそうなったのか、実態を追ってみましょう。 京都駅の歴史 JR各線と近鉄、市営地下鉄が乗り入れる日本有数の巨大ターミナル・京都駅。 現在の京都駅は4代目で、1997年に改築されたものです。初代京都駅が建設されたのは、西南戦争が起こった1877年のこと。現在の駅ビルよりやや北の駅前広場あたりにあり、七条停車場(七条ステンショ)と呼ばれました。 その後、利用者が増えたことで改築となり、2代目が1914年に登場。1950年に火事で焼失したため、1952年に3代目の駅舎が建てられました。 さらに新幹線の開通などもあって1980年代から改築計画が進み、平安建都1200年事業として建造されました。 京都駅に1番ホームがないわけ そんな歴史のある京都駅には、ほかでは見られない特徴があります。「0番ホームがあるのに1番ホームがない」のです。 この経緯は1992年にさかのぼります。当時、京都駅では駅ビル工事に合わせた大規模な改修工事が行われており、運転番線の改訂も実施されました。運転番線とは、ホームの有無にかかわらず線路ごとにつけられる番号のことです。 その改訂の際、11本あるJR西日本の在来線には10番までの運転番線しか割り当てられませんでした。11番~14番がJR東海の管轄であったためです。そこで10番までに収めるために0番が用いられることになりました。 京都駅の0番ホーム誕生と1番ホームの行方 ホームの番号は運転番線と違い1番から表示されていたため、1番ホームに0番線が通るというズレが生じてしまいます。その状態が10年続き、2002年になってようやく、1番ホームが0番ホームに改められたのです。 では1番線はどこへいったのでしょうか? じつは0番線と2番線の間にあります。貨物列車や回送列車の専用通過線路で、そもそもホームが必要でない線路でした。それゆえ、ホームの番号が変更されても支障をきたすことはなかったのです。 京都駅の0番ホームは日本一長い 京都駅の0番ホームは日本一の長さで知られています。 ただし、構造上は関西国際空港行きの特急「はるか」が発着する30番ホームとつながっており、前者が323m、後者が235mで、合わせて558m。これは在来線の列車28両分の長さに相当します。 0番ホームは京都駅以外にもある 京都駅の0番ホームには、東海道本線の上り列車が停車します。なお、長崎駅や盛岡駅など0番ホームのある駅は、京都駅以外にも全国で40ほど存在します。 京都駅は日本最大のホーム番号を持つ また京都駅は15番~29番のホームもまるまる欠番となっています。JR山陰本線のホームを、“山”陰と「3」の語呂合わせによって31~34 番にしたためです。 いわばJRの遊び心で生まれたわけですが、その結果、京都駅は34番という日本で最大のホーム番号を持つ駅となったのです(実際のホームの数は19本)。 京都駅の運転番線 11~14番線は、東海道新幹線の運転番線となっています。京都駅には近鉄や地下鉄も乗り入れていて、初めて訪れる観光客は乗り換える際に迷ってしまいがちです。15〜29 番線は欠番となっています。...
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【東京都】千鳥ヶ淵と牛ヶ淵は飲料水用ダムだった!?東京のど真ん中にある皇居外苑濠
江戸城を囲む濠の中に、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵という2つの淵があります。濠とはどこが違うのでしょうか。なぜ、淵と呼ばれてきたのか、その歴史をひも解いていきましょう。 皇居は江戸城の名残で数多くの濠に囲まれる 皇居は、いうまでもなく江戸城の跡です。地形的には、武蔵野台地の東端に位置し、江戸城は台地と東京低地をつなぐ所にあります。城が外敵からの侵入を防ぐ重要なものに濠がありますが、現在も残る内濠は皇居を取り囲み、それぞれ違った役目を担っていました。 濠を見ながら歩くと、水面の高さが濠により違っていることに気づきます。数ある濠の水面は一定ではありません。濠同士がつながっている濠もあれば、独立している濠もあります。水面の高い濠と低い水面では10mを越す違いがあります。 そのなかに、淵がついた千鳥ヶ淵(ちどりがふち)と牛ヶ淵(うしがふち)があります。 千鳥ヶ淵と牛ヶ淵が「濠」と名付けられなかった理由 淵というのはもともとダム湖を意味しています。 千鳥ヶ淵と牛ヶ淵の2つは徳川家康が江戸に入った文禄元(1592)年、江戸城の飲料水確保のため、麹町(こうじまち)方面から流れていた自然の河川を堰き止め、貯水池を造ったことに遡ります。濠ではなく、淵と名づけたのはダムを意味していたからなのです。 ダムの目的は江戸城の飲料水の確保にありました。江戸城内の低地は井戸を掘っても塩分が混じり飲料水には不適で、飲料水の確保は早急の課題となっていたのです。 千鳥ヶ淵は小川を堰止めて水源を確保 麹町方面から流れていた小川は現在の東郷元帥記念公園(千代田区三番町)あたりから江戸城の方に流れていました。今は小川の明確な痕跡はありませんが、公園自体が斜面になっており、公園そばの道は東郷坂といい、小川が流れていれば、標高の低い江戸城の方に流れ、乾門付近から江戸城内に流れていました。 この乾門に土手を築いて小川の流れを堰止めたのが千鳥ヶ淵です。こうして千鳥ヶ淵、半蔵壕など1300mにわたるお堀ができあがったのです。 承応2(1653)年に玉川上水が建設されると、上水からの水も半蔵門付近から千鳥ヶ淵に供給されるようになりました。 千鳥ヶ淵は半蔵濠と水路でつながっている 内濠全体のことを見てみると、内濠とは、一般人が入れない地区や立ち入りできる皇居前広場や皇居東御苑、北の丸公園を囲む濠の総称で、日比谷濠、馬場先濠、和田倉濠、千鳥ヶ淵など約20の個別の濠で構成されています。 内濠の西端にあるのが半蔵門です。半蔵門の北にあるのが半蔵濠で半蔵門の南にある桜田濠とは水面の標高が違い、半蔵濠の方が約15mも高くなっています。千鳥ヶ淵は半蔵濠の北にありますが、千鳥ヶ淵と半蔵濠は同じ標高で、土手で区切られてはいますが、実は水路でつながっているのです。 千鳥ヶ淵が満杯になると牛ヶ淵へ流れた 江戸城は地形的にも谷がない西の守りが弱いとされてきました。服部半蔵を半蔵門に住まわせ、防衛を強化したのもその対策のひとつです。 千鳥ヶ淵の水は満杯になると、田安門地点から隣の牛ヶ淵方面に流れました。牛ヶ淵も堰止めて約500mの淵として利用されました。牛ヶ淵は千鳥ヶ淵よりも標高が低く、北の丸公園からの湧水も流れ込み、千鳥ヶ淵と牛ヶ淵の水は江戸城の飲料水として利用されたのです。 『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。東京の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!
【東京都】千鳥ヶ淵と牛ヶ淵は飲料水用ダムだった!?東京のど真ん中にある皇居外苑濠
江戸城を囲む濠の中に、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵という2つの淵があります。濠とはどこが違うのでしょうか。なぜ、淵と呼ばれてきたのか、その歴史をひも解いていきましょう。 皇居は江戸城の名残で数多くの濠に囲まれる 皇居は、いうまでもなく江戸城の跡です。地形的には、武蔵野台地の東端に位置し、江戸城は台地と東京低地をつなぐ所にあります。城が外敵からの侵入を防ぐ重要なものに濠がありますが、現在も残る内濠は皇居を取り囲み、それぞれ違った役目を担っていました。 濠を見ながら歩くと、水面の高さが濠により違っていることに気づきます。数ある濠の水面は一定ではありません。濠同士がつながっている濠もあれば、独立している濠もあります。水面の高い濠と低い水面では10mを越す違いがあります。 そのなかに、淵がついた千鳥ヶ淵(ちどりがふち)と牛ヶ淵(うしがふち)があります。 千鳥ヶ淵と牛ヶ淵が「濠」と名付けられなかった理由 淵というのはもともとダム湖を意味しています。 千鳥ヶ淵と牛ヶ淵の2つは徳川家康が江戸に入った文禄元(1592)年、江戸城の飲料水確保のため、麹町(こうじまち)方面から流れていた自然の河川を堰き止め、貯水池を造ったことに遡ります。濠ではなく、淵と名づけたのはダムを意味していたからなのです。 ダムの目的は江戸城の飲料水の確保にありました。江戸城内の低地は井戸を掘っても塩分が混じり飲料水には不適で、飲料水の確保は早急の課題となっていたのです。 千鳥ヶ淵は小川を堰止めて水源を確保 麹町方面から流れていた小川は現在の東郷元帥記念公園(千代田区三番町)あたりから江戸城の方に流れていました。今は小川の明確な痕跡はありませんが、公園自体が斜面になっており、公園そばの道は東郷坂といい、小川が流れていれば、標高の低い江戸城の方に流れ、乾門付近から江戸城内に流れていました。 この乾門に土手を築いて小川の流れを堰止めたのが千鳥ヶ淵です。こうして千鳥ヶ淵、半蔵壕など1300mにわたるお堀ができあがったのです。 承応2(1653)年に玉川上水が建設されると、上水からの水も半蔵門付近から千鳥ヶ淵に供給されるようになりました。 千鳥ヶ淵は半蔵濠と水路でつながっている 内濠全体のことを見てみると、内濠とは、一般人が入れない地区や立ち入りできる皇居前広場や皇居東御苑、北の丸公園を囲む濠の総称で、日比谷濠、馬場先濠、和田倉濠、千鳥ヶ淵など約20の個別の濠で構成されています。 内濠の西端にあるのが半蔵門です。半蔵門の北にあるのが半蔵濠で半蔵門の南にある桜田濠とは水面の標高が違い、半蔵濠の方が約15mも高くなっています。千鳥ヶ淵は半蔵濠の北にありますが、千鳥ヶ淵と半蔵濠は同じ標高で、土手で区切られてはいますが、実は水路でつながっているのです。 千鳥ヶ淵が満杯になると牛ヶ淵へ流れた 江戸城は地形的にも谷がない西の守りが弱いとされてきました。服部半蔵を半蔵門に住まわせ、防衛を強化したのもその対策のひとつです。 千鳥ヶ淵の水は満杯になると、田安門地点から隣の牛ヶ淵方面に流れました。牛ヶ淵も堰止めて約500mの淵として利用されました。牛ヶ淵は千鳥ヶ淵よりも標高が低く、北の丸公園からの湧水も流れ込み、千鳥ヶ淵と牛ヶ淵の水は江戸城の飲料水として利用されたのです。 『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。東京の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!
中央本線の歴史~東京と名古屋を結ぶ山岳地帯を駆け抜ける大幹線~
塩尻駅を境に中央東線と中央西線に分かれる中央本線は、全長約400㎞の大幹線です。東線、西線とも車窓の山岳風景が美しく、西線は木曽11宿を巡ります。 中央本線はどんな路線? 中央本線は、東京~名古屋間を塩尻(しおじり)駅経由で結ぶ長大な幹線です。全長は396.9㎞に及び、これに岡谷~辰野(たつの)~塩尻に敷かれた支線の27.7㎞が加わります。 塩尻駅を境に運転系統が分かれ、東が中央東線、西が中央西線と呼称されています。おもに新宿~松本間を特急「あずさ」が、名古屋~長野間を特急「しなの」が運行する特急街道でもあります。 中央本線の歴史は甲武鉄道にさかのぼる 中央本線の歴史は、明治期に御茶ノ水~八王子間を建設した私鉄の甲武(こうぶ)鉄道にさかのぼりますが、八王子以西は官設鉄道により建設が行われました。中央本線のルートにも該当していた中山道幹線は東海道線経由に変更されましたが、1892(明治25)年に公布された鉄道敷設法により中部山岳地帯を縦貫する中央本線として具体化し、次々と着工されました。 まず、1906(明治39)年6月に中央東線の八王子~塩尻間が開通します。中央西線は名古屋方面から工事が進められ、1911(明治44)年5月に昌平橋(しょうへいばし)(のちに廃止)~名古屋間が全通。1919(大正8)年3月には東京~万世橋(まんせいばし)(のちに廃止)間が開業し、東京~名古屋間の中央本線が形成されました。 中央本線の歴史は旧・立場川橋梁や支線にも見ることができる 長野県内を含め、中央本線はひたすら山間部を走るのが特徴です(東京都内など一部区間は除く)。中央東線は山梨県内で、八ヶ岳噴火でできた溶岩台地である七里岩(しちりいわ)の上に登り詰めます。ここまでは昭和40年代までスイッチバックの連続でした。山梨と長野の県境付近は、さながら高原列車の風情で塩尻へ向かいます。信濃境(しなのさかい)~富士見間は1980(昭和55)年に新線に切り替えられましたが、廃線となった旧線には1904(明治37)年開業時に建設された旧・立場川(たつばがわ)橋梁が現存し、見どころとなっています。 旧・立場川橋梁は、アメリカンブリッジ社製のボルチモアトラス橋と呼ばれる美しい構造で、文化財クラスの貴重な鉄橋です。宮崎駿監督のアニメ映画『風立ちぬ』に描かれたことでも知られ、新線の車窓からも眺めることができます。 岡谷~辰野~塩尻の支線は、元々は本線だった区間で、その線形から「大八廻り」と呼ばれています。1983(昭和58)年に同区間を、新設のみどり湖駅経由でショートカットする、全長5994mの塩嶺(えんれい)トンネルが開通したことにより支線となりました。 中央本線の中央西線は歴史的雰囲気が残る宿場町を走る 塩尻からの中央西線は中山道に沿った山間部で、贄川(にえかわ)、奈良井(ならい)、薮原(やぶはら)、宮ノ越(みやのこし)、福島、上松(あげまつ)、須原(すはら)、野尻(のじり)と木曽11宿を巡るように線路が延びています。島崎藤村の小説『夜明け前』の書き出しのとおり、中央西線は「すべて山の中」の木曽路を走り、車窓には、宿場町の面影が残る古い町並みが続いています。また、奈良井~薮原間には、江戸時代から旅人が苦しんだ険しい鳥居峠(とりいとうげ)があります。中央西線も同所で最急20パーミルの勾配が連続する峠越えを強いられます。鳥居峠は日本海側、太平洋側の分水嶺でもあり、ここから木曽川に沿って列車は谷筋を南進しますが、沿線はどこまでも山深いです。 中央本線の長野県内路線図 東京方面から山梨の山間部を抜け長野県に入った中央本線は、諏訪盆地に入って諏訪湖北岸を走り、岡谷の先で塩尻へ短絡する本線と辰野を経由する支線に分岐します。塩尻からは山間部の谷筋を南進し、南木曽町の田立駅が長野県内最後の駅となります。 『長野のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から長野県を分析! 長野県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。長野の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報満載!
中央本線の歴史~東京と名古屋を結ぶ山岳地帯を駆け抜ける大幹線~
塩尻駅を境に中央東線と中央西線に分かれる中央本線は、全長約400㎞の大幹線です。東線、西線とも車窓の山岳風景が美しく、西線は木曽11宿を巡ります。 中央本線はどんな路線? 中央本線は、東京~名古屋間を塩尻(しおじり)駅経由で結ぶ長大な幹線です。全長は396.9㎞に及び、これに岡谷~辰野(たつの)~塩尻に敷かれた支線の27.7㎞が加わります。 塩尻駅を境に運転系統が分かれ、東が中央東線、西が中央西線と呼称されています。おもに新宿~松本間を特急「あずさ」が、名古屋~長野間を特急「しなの」が運行する特急街道でもあります。 中央本線の歴史は甲武鉄道にさかのぼる 中央本線の歴史は、明治期に御茶ノ水~八王子間を建設した私鉄の甲武(こうぶ)鉄道にさかのぼりますが、八王子以西は官設鉄道により建設が行われました。中央本線のルートにも該当していた中山道幹線は東海道線経由に変更されましたが、1892(明治25)年に公布された鉄道敷設法により中部山岳地帯を縦貫する中央本線として具体化し、次々と着工されました。 まず、1906(明治39)年6月に中央東線の八王子~塩尻間が開通します。中央西線は名古屋方面から工事が進められ、1911(明治44)年5月に昌平橋(しょうへいばし)(のちに廃止)~名古屋間が全通。1919(大正8)年3月には東京~万世橋(まんせいばし)(のちに廃止)間が開業し、東京~名古屋間の中央本線が形成されました。 中央本線の歴史は旧・立場川橋梁や支線にも見ることができる 長野県内を含め、中央本線はひたすら山間部を走るのが特徴です(東京都内など一部区間は除く)。中央東線は山梨県内で、八ヶ岳噴火でできた溶岩台地である七里岩(しちりいわ)の上に登り詰めます。ここまでは昭和40年代までスイッチバックの連続でした。山梨と長野の県境付近は、さながら高原列車の風情で塩尻へ向かいます。信濃境(しなのさかい)~富士見間は1980(昭和55)年に新線に切り替えられましたが、廃線となった旧線には1904(明治37)年開業時に建設された旧・立場川(たつばがわ)橋梁が現存し、見どころとなっています。 旧・立場川橋梁は、アメリカンブリッジ社製のボルチモアトラス橋と呼ばれる美しい構造で、文化財クラスの貴重な鉄橋です。宮崎駿監督のアニメ映画『風立ちぬ』に描かれたことでも知られ、新線の車窓からも眺めることができます。 岡谷~辰野~塩尻の支線は、元々は本線だった区間で、その線形から「大八廻り」と呼ばれています。1983(昭和58)年に同区間を、新設のみどり湖駅経由でショートカットする、全長5994mの塩嶺(えんれい)トンネルが開通したことにより支線となりました。 中央本線の中央西線は歴史的雰囲気が残る宿場町を走る 塩尻からの中央西線は中山道に沿った山間部で、贄川(にえかわ)、奈良井(ならい)、薮原(やぶはら)、宮ノ越(みやのこし)、福島、上松(あげまつ)、須原(すはら)、野尻(のじり)と木曽11宿を巡るように線路が延びています。島崎藤村の小説『夜明け前』の書き出しのとおり、中央西線は「すべて山の中」の木曽路を走り、車窓には、宿場町の面影が残る古い町並みが続いています。また、奈良井~薮原間には、江戸時代から旅人が苦しんだ険しい鳥居峠(とりいとうげ)があります。中央西線も同所で最急20パーミルの勾配が連続する峠越えを強いられます。鳥居峠は日本海側、太平洋側の分水嶺でもあり、ここから木曽川に沿って列車は谷筋を南進しますが、沿線はどこまでも山深いです。 中央本線の長野県内路線図 東京方面から山梨の山間部を抜け長野県に入った中央本線は、諏訪盆地に入って諏訪湖北岸を走り、岡谷の先で塩尻へ短絡する本線と辰野を経由する支線に分岐します。塩尻からは山間部の谷筋を南進し、南木曽町の田立駅が長野県内最後の駅となります。 『長野のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から長野県を分析! 長野県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。長野の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報満載!
【東京都】「幻の新橋駅」ってなに?「幻の駅」「幻のホーム」と呼ばれる車窓から見える駅の歴史
東京の地下には、「幻の駅」や「幻のホーム」があります。いずれもかつては鉄道施設としての役割を担った場所。消えた背景にはそれぞれの事情がありました。 幻の駅やホームは東京の地下には眠っている!? 2019年12月27日。81年にわたって利用されてきた東京メトロ銀座線の渋谷駅ホームが、移転のためにその役割を終えました。日本最初の地下鉄路線となった銀座線には、同じように移転のために廃止されたホームや、駅そのものが廃止されたケースが渋谷駅ホーム以前に3例あります。 昭和2(1927)年に開業した日本最古の地下鉄路線である銀座線。現在と同様の、渋谷~浅草の直通運転が始まったのは、昭和14(1939)年。地下鉄の創成期で建設技術が今ほど発達しておらず、次々と路線が増える過程では、ホームの移設や駅の廃止は、避けられない通過点だったのかもしれません。 【幻の駅①】旧東京高速鉄道・新橋駅 「幻のホーム」「幻の新橋駅」と呼ばれて、メディアで時折取り上げられるのが、旧東京高速鉄道の新橋駅。現在の銀座線新橋駅の虎ノ門寄りの場所にあります。 銀座線は、浅草~新橋は東京地下鉄道、新橋~渋谷は東京高速鉄道のそれぞれが建設し、個別に運営していたのですが、昭和14(1939)年に統合されて直通運転を開始。そのため、東京高速鉄道側のホームがわずか8か月で廃止となったのです。 イベント時には見学が可能 跡地は、銀座線車両の留置線(翌日の運転などに備えて、車両を車両基地に戻さずに留めておくための線路)のほか、職員の会議室や休憩室などに利用されています。一般の人は立ち入れませんが、東京メトロのイベントで「幻の駅」が公開されることはあります。 10年ぶりに一般向けイベントで公開! 長らくバリアフリー化や駅周辺の改良工事に伴い一般公開が途絶えていましたが、2026年5月、東京メトロの特別イベント列車「夢の冒険列車 ルート銀丸」の企画によって、約10年ぶりに事前抽選の一般参加者を乗せた列車がこの幻のホームへと乗り入れました。 【幻の駅②】銀座線・表参道駅 銀座線表参道駅は、開業当初は「青山六丁目」の名称で、現在より180m渋谷寄りにありました。昭和14(1939)年に「神宮前」へと改称しましたが、昭和47(1972)年、銀座線と十字に交わる千代田線が開業し、千代田線に明治神宮により近い明治神宮前駅ができたため、神宮前から「表参道」に改称しました。 現在は資材置き場などに利用 昭和53(1978)年には、銀座線と並行して走る半蔵門線の表参道駅もでき、乗り換えの利便性を考慮して、もともとあった銀座線のホームを廃止することとなりました。旧ホームは、資材置き場などに利用されています。 【幻の駅③】銀座線・万世橋駅 ホームだけでなく駅がまるごとなくなったのが、昭和5(1930)年に、銀座線の末広町~神田に設けられた「万世橋」駅。 この駅は、神田川の下をくぐるトンネルを掘削する工事期間の仮設駅で、万世橋~神田が開通すると、神田駅に役割を渡す形で、わずか2年足らずで廃駅となっています。 駅の遺構は、一部現存しており、万世橋付近にある階段の痕跡は通気口の役割を果たしています。 【幻の駅④】京成本線・博物館動物園駅 銀座線以外にも廃駅になった駅があります。それは京成本線の京成上野~日暮里にかつてあった「博物館動物園」駅です。 昭和8(1933)年に上野恩賜公園北側の地下に設けられ、帝室博物館(現在の東京国立博物館)、上野恩賜動物園の最寄り駅でした。しかしながら、ホームの長さが車両4両分しかなかったために、6両編成の列車に対応できず通過措置が取られるように。利用は年々減少。1997年に営業を休止し、2004年に廃駅となりました。 駅舎は残され、イベントや展示会に利用されています。 アニメの舞台として奇跡の一般公開...
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東京の地下には、「幻の駅」や「幻のホーム」があります。いずれもかつては鉄道施設としての役割を担った場所。消えた背景にはそれぞれの事情がありました。 幻の駅やホームは東京の地下には眠っている!? 2019年12月27日。81年にわたって利用されてきた東京メトロ銀座線の渋谷駅ホームが、移転のためにその役割を終えました。日本最初の地下鉄路線となった銀座線には、同じように移転のために廃止されたホームや、駅そのものが廃止されたケースが渋谷駅ホーム以前に3例あります。 昭和2(1927)年に開業した日本最古の地下鉄路線である銀座線。現在と同様の、渋谷~浅草の直通運転が始まったのは、昭和14(1939)年。地下鉄の創成期で建設技術が今ほど発達しておらず、次々と路線が増える過程では、ホームの移設や駅の廃止は、避けられない通過点だったのかもしれません。 【幻の駅①】旧東京高速鉄道・新橋駅 「幻のホーム」「幻の新橋駅」と呼ばれて、メディアで時折取り上げられるのが、旧東京高速鉄道の新橋駅。現在の銀座線新橋駅の虎ノ門寄りの場所にあります。 銀座線は、浅草~新橋は東京地下鉄道、新橋~渋谷は東京高速鉄道のそれぞれが建設し、個別に運営していたのですが、昭和14(1939)年に統合されて直通運転を開始。そのため、東京高速鉄道側のホームがわずか8か月で廃止となったのです。 イベント時には見学が可能 跡地は、銀座線車両の留置線(翌日の運転などに備えて、車両を車両基地に戻さずに留めておくための線路)のほか、職員の会議室や休憩室などに利用されています。一般の人は立ち入れませんが、東京メトロのイベントで「幻の駅」が公開されることはあります。 10年ぶりに一般向けイベントで公開! 長らくバリアフリー化や駅周辺の改良工事に伴い一般公開が途絶えていましたが、2026年5月、東京メトロの特別イベント列車「夢の冒険列車 ルート銀丸」の企画によって、約10年ぶりに事前抽選の一般参加者を乗せた列車がこの幻のホームへと乗り入れました。 【幻の駅②】銀座線・表参道駅 銀座線表参道駅は、開業当初は「青山六丁目」の名称で、現在より180m渋谷寄りにありました。昭和14(1939)年に「神宮前」へと改称しましたが、昭和47(1972)年、銀座線と十字に交わる千代田線が開業し、千代田線に明治神宮により近い明治神宮前駅ができたため、神宮前から「表参道」に改称しました。 現在は資材置き場などに利用 昭和53(1978)年には、銀座線と並行して走る半蔵門線の表参道駅もでき、乗り換えの利便性を考慮して、もともとあった銀座線のホームを廃止することとなりました。旧ホームは、資材置き場などに利用されています。 【幻の駅③】銀座線・万世橋駅 ホームだけでなく駅がまるごとなくなったのが、昭和5(1930)年に、銀座線の末広町~神田に設けられた「万世橋」駅。 この駅は、神田川の下をくぐるトンネルを掘削する工事期間の仮設駅で、万世橋~神田が開通すると、神田駅に役割を渡す形で、わずか2年足らずで廃駅となっています。 駅の遺構は、一部現存しており、万世橋付近にある階段の痕跡は通気口の役割を果たしています。 【幻の駅④】京成本線・博物館動物園駅 銀座線以外にも廃駅になった駅があります。それは京成本線の京成上野~日暮里にかつてあった「博物館動物園」駅です。 昭和8(1933)年に上野恩賜公園北側の地下に設けられ、帝室博物館(現在の東京国立博物館)、上野恩賜動物園の最寄り駅でした。しかしながら、ホームの長さが車両4両分しかなかったために、6両編成の列車に対応できず通過措置が取られるように。利用は年々減少。1997年に営業を休止し、2004年に廃駅となりました。 駅舎は残され、イベントや展示会に利用されています。 アニメの舞台として奇跡の一般公開...
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