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【北海道】アイヌ語由来が多い北海道の難読地名から見るアイヌ民族の生活と文化

【北海道】アイヌ語由来が多い北海道の難読地名から見るアイヌ民族の生活と文化

北海道にある変わった地名は、ほとんどがアイヌ語に漢字を当てたもの。それぞれの地名がアイヌ語で何を意味するのか、読み解いてみましょう。   アイヌ語由来のものが多い北海道の難読地名 地名の由来となった地形や特徴が残っている場所もたくさん。アイヌ語地名からは、アイヌの人々がかつてその土地をどう見ていたか、何をしていたかを垣間見ることができます。   北海道の地図を眺めていると、「内」や「別」がつく地名が多いことに気がつきます。 実は、これらはアイヌ語で「川」を表す言葉「ナイ」「ペッ」に由来します。アイヌの人々は川と密接にかかわる暮らしをしていたため、川にまつわる地名が多いと考えられます。 アイヌ語由来の北海道難読地名:「幌内」の語源とは 「ナイ」のつく地名のうち、道内各地でとくによく見られるのが「幌内(ほろない)」です。 「ホロ」は「大きい」を意味するアイヌ語「ポロ」に由来し、「ホロナイ」は「大きい川」です。「ホロナイ」と名がつく川は、実際には小さいことも多いのですが、近辺にあるほかの川と比較して大きいほうの川、という意味でも「ホロナイ」が用いられるようです。 アイヌ語由来の北海道難読地名:「登別」「札幌」の語源とは 温泉で有名な「登別(のぼりべつ)」は「水の色の濃い川」の意。かつて、白濁した源泉が川にも流れ込んでいた様子が伝わってきます。 「札幌」の語源は諸説あって確かではありませんが、「乾く大きい川」を意味する「サッポロペッ」が省略されたものだという説があります。豊平川(とよひらがわ)が札幌扇状地に広がり、乾季には砂利河原となる様子を表しています。 アイヌ語由来の地名で地形を表すもの 地形を表すアイヌ語は、ほかにも 「ト」(湖)、「ソ」(滝)、「オタ」(砂浜)、「ピラ」(崖)、「シリ」(島、峰)などがあります。「利尻」は「リシリ(高い島)」が由来です。 アイヌ語由来の北海道難読地名はほかにも! また、アイヌ語で「~が多い」「いつも~する」を表す言葉に「ウシ(ウス)」があります。これには「牛」「臼」「石」などの漢字がよく当てられます。 たとえば「浦臼(うらうす)」は、「魚を獲る罠が多い川」という意味の「ウライウシペッ」が由来。「カツラの木が多いところ」を表す「ランコウシ」から「蘭越(らんこし)」、「クルミの木が多いところ」を表す「ネシコウシ」から「根志越(ねしこし)」といったパターンもあります。   アイヌ語地名と狩猟採集生活の深い関わり こうして見ていくと、アイヌ語地名は狩猟採集生活と深く結びついていることがわかります。アイヌの人々は、地形や植物、動物の習性を熟知していました。 暖かい時期は山菜を採り、秋にはサケ漁をします。冬には、弓矢や罠を用いたり、海や川に追い込んだりして、エゾシカやウサギ、キツネ、タヌキなどの動物を狩りました。トリカブトからつくった強力な矢毒で、ヒグマも仕留めることができました。 アイヌ語由来の北海道難読地名から学ぶアイヌ文化 アイヌの人々は、あらゆるものをカムイ(神)の化身またはカムイからの贈りものと考えました。狩りで獲れる動物のなかでも、クマは「キムンカムイ」(山の神)と呼ばれる特別な存在でした。子グマを生け捕りにした場合は、2~3年間大切に育てたあと「イヨマンテ」という儀式をして丁重にカムイモシリ(神の国)へ送りします。カムイに再び人間界へいきたいと思ってもらい、肉や毛皮をもたらしてもらうためです。 アイヌの人々と自然とのかかわり方は、現代から見ても学ぶところがたくさんあります。アイヌ文化を知る第一歩として、まずは地名の由来を調べてみてはいかがでしょうか。   『北海道のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から北海道を分析!地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。北海道の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載です!

【北海道】アイヌ語由来が多い北海道の難読地名から見るアイヌ民族の生活と文化

北海道にある変わった地名は、ほとんどがアイヌ語に漢字を当てたもの。それぞれの地名がアイヌ語で何を意味するのか、読み解いてみましょう。   アイヌ語由来のものが多い北海道の難読地名 地名の由来となった地形や特徴が残っている場所もたくさん。アイヌ語地名からは、アイヌの人々がかつてその土地をどう見ていたか、何をしていたかを垣間見ることができます。   北海道の地図を眺めていると、「内」や「別」がつく地名が多いことに気がつきます。 実は、これらはアイヌ語で「川」を表す言葉「ナイ」「ペッ」に由来します。アイヌの人々は川と密接にかかわる暮らしをしていたため、川にまつわる地名が多いと考えられます。 アイヌ語由来の北海道難読地名:「幌内」の語源とは 「ナイ」のつく地名のうち、道内各地でとくによく見られるのが「幌内(ほろない)」です。 「ホロ」は「大きい」を意味するアイヌ語「ポロ」に由来し、「ホロナイ」は「大きい川」です。「ホロナイ」と名がつく川は、実際には小さいことも多いのですが、近辺にあるほかの川と比較して大きいほうの川、という意味でも「ホロナイ」が用いられるようです。 アイヌ語由来の北海道難読地名:「登別」「札幌」の語源とは 温泉で有名な「登別(のぼりべつ)」は「水の色の濃い川」の意。かつて、白濁した源泉が川にも流れ込んでいた様子が伝わってきます。 「札幌」の語源は諸説あって確かではありませんが、「乾く大きい川」を意味する「サッポロペッ」が省略されたものだという説があります。豊平川(とよひらがわ)が札幌扇状地に広がり、乾季には砂利河原となる様子を表しています。 アイヌ語由来の地名で地形を表すもの 地形を表すアイヌ語は、ほかにも 「ト」(湖)、「ソ」(滝)、「オタ」(砂浜)、「ピラ」(崖)、「シリ」(島、峰)などがあります。「利尻」は「リシリ(高い島)」が由来です。 アイヌ語由来の北海道難読地名はほかにも! また、アイヌ語で「~が多い」「いつも~する」を表す言葉に「ウシ(ウス)」があります。これには「牛」「臼」「石」などの漢字がよく当てられます。 たとえば「浦臼(うらうす)」は、「魚を獲る罠が多い川」という意味の「ウライウシペッ」が由来。「カツラの木が多いところ」を表す「ランコウシ」から「蘭越(らんこし)」、「クルミの木が多いところ」を表す「ネシコウシ」から「根志越(ねしこし)」といったパターンもあります。   アイヌ語地名と狩猟採集生活の深い関わり こうして見ていくと、アイヌ語地名は狩猟採集生活と深く結びついていることがわかります。アイヌの人々は、地形や植物、動物の習性を熟知していました。 暖かい時期は山菜を採り、秋にはサケ漁をします。冬には、弓矢や罠を用いたり、海や川に追い込んだりして、エゾシカやウサギ、キツネ、タヌキなどの動物を狩りました。トリカブトからつくった強力な矢毒で、ヒグマも仕留めることができました。 アイヌ語由来の北海道難読地名から学ぶアイヌ文化 アイヌの人々は、あらゆるものをカムイ(神)の化身またはカムイからの贈りものと考えました。狩りで獲れる動物のなかでも、クマは「キムンカムイ」(山の神)と呼ばれる特別な存在でした。子グマを生け捕りにした場合は、2~3年間大切に育てたあと「イヨマンテ」という儀式をして丁重にカムイモシリ(神の国)へ送りします。カムイに再び人間界へいきたいと思ってもらい、肉や毛皮をもたらしてもらうためです。 アイヌの人々と自然とのかかわり方は、現代から見ても学ぶところがたくさんあります。アイヌ文化を知る第一歩として、まずは地名の由来を調べてみてはいかがでしょうか。   『北海道のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から北海道を分析!地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。北海道の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載です!

【埼玉県】秩父鉱山の実力と歴史~戦国時代に始まった金属鉱山~

【埼玉県】秩父鉱山の実力と歴史~戦国時代に始まった金属鉱山~

秩父市は、総面積577.8㎢と埼玉県の面積の約15%を占めます。その秩父市の西部、荒川上流部の支流のひとつである中津川上流に秩父鉱山があります。 秩父市西部に複数の鉱床がある秩父鉱山は、かつて金、鉄、鉛、亜鉛などを産出する国内有数の金属鉱山でした。そして今でも石灰岩を産しています。   秩父鉱山に鉱物が多様なわけ 秩父鉱山では現在、良質な石灰岩が採掘されていますが、かつては、金や銀、鉄、銅、鉛、亜鉛など140種類もの鉱物を産する日本有数の鉱山でした。鉱物が多様な理由は、秩父鉱山に「スカルン鉱床(こうしょう)」と呼ばれる独特の鉱床が存在することにあります。 地下から上昇してきたマグマが秩父山地に広がる石灰岩と接触することで、アルミナ、鉄、マグネシウムなどを含む熱水と石灰岩の主成分である炭酸カルシウムが反応し、スカルンと呼ばれる岩体がつくられます。この岩体中には鉄、銅、鉛、亜鉛といった有用金属の濃集が見られるのが特徴で、これを人間が鉱床として開発してきたわけです。   なお、豊富な種類の鉱物をともなう秩父のスカルン鉱床は、比較的温度の高いマグマが、地下の浅い部分まで急激に上昇して固結、形成されたと考えられています。 秩父鉱山の歴史 ところで、秩父鉱山がいつ開かれたのかは、はっきりとはわかっていません。しかし、中津川流域に残された状況証拠や地元の伝承などによれば、その歴史は戦国時代にまでさかのぼるといわれています。 【秩父鉱山の歴史】秩父の鉱山業のはじまり 1575(天正3)年、甲斐武田氏が滅亡すると、武田氏配下の金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる鉱山技能者集団が秩父へ移り住み、荒川源流域で金の採取を行いました。秩父の鉱山業はここから始まったと見られています。 【秩父鉱山の歴史】江戸時代初期に桃の久保で金を採掘 明確な史料に秩父鉱山が登場するのは、江戸初期の1608〜1609(慶長13〜14)年。中津川集落付近の「桃の久保」と呼ばれる場所で金の採掘が行われ、金を豊富に含む富鉱体(ふこうたい)に当たったと記録されています。 【秩父鉱山の歴史】桃の久保金山の閉山 その後、桃の久保金山は、鉱床に水が入り込んでしまい、採掘は短期間で終わってしまいました。その後、何度か再興が試みられましたが、金の富鉱体に当たることはなく失敗。1768(明和5)年には閉山しました。 チャレンジした人のなかには、エレキテルの発明で有名な平賀源内(ひらがげんない)もいました。 【秩父鉱山の歴史】江戸時代後期の鉱山開発 江戸後期の1780年代になると、中津川集落や秩父地域出身者を中心に、鉱山開発が行われています。実際に鉄、銅、金、銀、鉛などが産出されましたが、1850年代あたりには採掘を終えています。   秩父鉱山が再び脚光!明治時代末期から大正時代 秩父鉱山が再び脚光を浴びたのは明治末期。優良な金鉱床が発見されたことで、1912(明治45)年から近代的な金鉱山開発が本格化しました。しかし、1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発すると鉄の価格が急騰。これを機に、秩父鉱山は金から鉄採掘(おもな鉱床は和那波(わなば)・道伸窪(どうしんくぼ))へと舵を切り生産量を上げました。 ですが、第一次世界大戦終結とともに経営が悪化し、1920年代には休山状態となってしまいました。   秩父鉱山の昭和時代から現在 昭和に入り秩父鉱山は再び活気を取り戻し、金、銀、銅、鉛、亜鉛、鉄などが採掘されるようになりました。太平洋戦争後には鉛、亜鉛、マンガンなどの優良な鉱床が相次いで発見され、1965(昭和40)年前後に最盛期を迎え日本屈指の大鉱山となります。 この頃の鉱山町には2000人超が暮らし、秩父市街よりも華やいでいたといいます。その後、鉄鉱石などの金属鉱石は、安い輸入鉱石に押され、産出を中止。現在は、良質な石灰岩のみが産出されています。   『埼玉のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。埼玉県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【埼玉県】秩父鉱山の実力と歴史~戦国時代に始まった金属鉱山~

秩父市は、総面積577.8㎢と埼玉県の面積の約15%を占めます。その秩父市の西部、荒川上流部の支流のひとつである中津川上流に秩父鉱山があります。 秩父市西部に複数の鉱床がある秩父鉱山は、かつて金、鉄、鉛、亜鉛などを産出する国内有数の金属鉱山でした。そして今でも石灰岩を産しています。   秩父鉱山に鉱物が多様なわけ 秩父鉱山では現在、良質な石灰岩が採掘されていますが、かつては、金や銀、鉄、銅、鉛、亜鉛など140種類もの鉱物を産する日本有数の鉱山でした。鉱物が多様な理由は、秩父鉱山に「スカルン鉱床(こうしょう)」と呼ばれる独特の鉱床が存在することにあります。 地下から上昇してきたマグマが秩父山地に広がる石灰岩と接触することで、アルミナ、鉄、マグネシウムなどを含む熱水と石灰岩の主成分である炭酸カルシウムが反応し、スカルンと呼ばれる岩体がつくられます。この岩体中には鉄、銅、鉛、亜鉛といった有用金属の濃集が見られるのが特徴で、これを人間が鉱床として開発してきたわけです。   なお、豊富な種類の鉱物をともなう秩父のスカルン鉱床は、比較的温度の高いマグマが、地下の浅い部分まで急激に上昇して固結、形成されたと考えられています。 秩父鉱山の歴史 ところで、秩父鉱山がいつ開かれたのかは、はっきりとはわかっていません。しかし、中津川流域に残された状況証拠や地元の伝承などによれば、その歴史は戦国時代にまでさかのぼるといわれています。 【秩父鉱山の歴史】秩父の鉱山業のはじまり 1575(天正3)年、甲斐武田氏が滅亡すると、武田氏配下の金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる鉱山技能者集団が秩父へ移り住み、荒川源流域で金の採取を行いました。秩父の鉱山業はここから始まったと見られています。 【秩父鉱山の歴史】江戸時代初期に桃の久保で金を採掘 明確な史料に秩父鉱山が登場するのは、江戸初期の1608〜1609(慶長13〜14)年。中津川集落付近の「桃の久保」と呼ばれる場所で金の採掘が行われ、金を豊富に含む富鉱体(ふこうたい)に当たったと記録されています。 【秩父鉱山の歴史】桃の久保金山の閉山 その後、桃の久保金山は、鉱床に水が入り込んでしまい、採掘は短期間で終わってしまいました。その後、何度か再興が試みられましたが、金の富鉱体に当たることはなく失敗。1768(明和5)年には閉山しました。 チャレンジした人のなかには、エレキテルの発明で有名な平賀源内(ひらがげんない)もいました。 【秩父鉱山の歴史】江戸時代後期の鉱山開発 江戸後期の1780年代になると、中津川集落や秩父地域出身者を中心に、鉱山開発が行われています。実際に鉄、銅、金、銀、鉛などが産出されましたが、1850年代あたりには採掘を終えています。   秩父鉱山が再び脚光!明治時代末期から大正時代 秩父鉱山が再び脚光を浴びたのは明治末期。優良な金鉱床が発見されたことで、1912(明治45)年から近代的な金鉱山開発が本格化しました。しかし、1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発すると鉄の価格が急騰。これを機に、秩父鉱山は金から鉄採掘(おもな鉱床は和那波(わなば)・道伸窪(どうしんくぼ))へと舵を切り生産量を上げました。 ですが、第一次世界大戦終結とともに経営が悪化し、1920年代には休山状態となってしまいました。   秩父鉱山の昭和時代から現在 昭和に入り秩父鉱山は再び活気を取り戻し、金、銀、銅、鉛、亜鉛、鉄などが採掘されるようになりました。太平洋戦争後には鉛、亜鉛、マンガンなどの優良な鉱床が相次いで発見され、1965(昭和40)年前後に最盛期を迎え日本屈指の大鉱山となります。 この頃の鉱山町には2000人超が暮らし、秩父市街よりも華やいでいたといいます。その後、鉄鉱石などの金属鉱石は、安い輸入鉱石に押され、産出を中止。現在は、良質な石灰岩のみが産出されています。   『埼玉のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。埼玉県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【京都府】「洛中」「洛外」とは?京都市内中心部と外を区分するために築かれた「おどい」

【京都府】「洛中」「洛外」とは?京都市内中心部と外を区分するために築かれた「おどい」

京都市の中心部と周辺部を区分する「洛中」「洛外」という呼び名。その境界を明確にするため、豊臣秀吉によって「おどい」は築かれました。   「洛中」「洛外」とは 現在の上京区、中京区、下京区にあたる京都市の中心部は、かつて「洛中」と呼ばれました。その周辺部は「洛外」で、洛外はさらに「洛北」「洛南」「洛東」「洛西」に区分されています。 洛中・洛外の境界線と「洛」の由来 「洛」の由来は、古代中国で何度も都となった「洛陽」から。平安京はこの洛陽と、やはり中国で都が置かれた長安を参考につくられ、当初は御所から見て右側の地域を「長安城」、左側を「洛陽城」と呼んでいました。 やがて地盤の悪さなどから長安城は寂れ、平安時代中期ごろから京都市中を「洛陽」と呼ぶようになり、洛中や洛北などの区分ができたのは鎌倉時代以降とされます。 ただ、城壁を持たない平安京は完成当初から境界があいまいで、唯一左右に壁を持った南端の「羅城門(らじょうもん)」も平安時代後期に倒壊。そのため洛中・洛外の境界線は明確でなく、現代の区割りと同じではありませんでした。 主要道路である朱雀大路は現在の千本通に該当。南端の羅城門をはさんで東寺と西寺が建立されましたが、西寺は鎌倉時代に廃れたと考えられています。   洛中・洛外の現在の境界線は豊臣秀吉が形づくった! とくに1467年からの応仁の乱で都は荒廃し、洛中洛外の区別すらなくなりつつありました。こうした都の衰退にメスを入れ、現在の洛中洛外を形づくったのが豊臣秀吉です。 「おどい」とは 1590年、天下を統一した秀吉は、都を復興させるために大規模な都市計画を実行に移します。洛中外の再構築もその一環であり、領域を明確化するための城壁も築かせました。それこそが「おどい(御土居)」です。 おどいという呼び名は江戸時代以降に定着したもので、建造当時の名称は「土居堀」です。また城壁といっても石垣のような堅牢なものではなく、土を固めた土塁と堀でした。 秀吉による「おどい」の建設 秀吉は高さ約3mのおどいを北は鷹ヶ峯(たかがみね)、西は紙屋川、南は九条通、東は鴨川西岸にまで建設し、さらに幅約20mの堀を張りめぐらせていました。土塁の全長は約23㎞におよび、当時の都市部を丸ごと覆う広さでした。このおどいで都を外部から守るとともに、洛外と洛中の区分を明確化したのです。 「おどいの袖」の謎 秀吉が築いた土居堀の西側は、紙屋川(天神川)の流れにそっていますが、中京区の北野中学校のあたりからJR円町駅の南あたりまでがはみ出していました。この部分は、「おどいの袖」と呼ばれます。なぜこのような形状になったのかは謎のまま。一説には、当時すでに家が立ち並んでおり、これを「洛中」に取り込むためといいます。 国土地理院標準地図を元に作成/北野中学校は校内におどいの遺構があります。   洛中・洛外の境界線「おどい」の大部分は幕末まで残っていた 江戸時代に入ると、1670年の「寛文新堤(かんぶんしんてい)」の完成で東部分の一部が公家などに譲渡されましたが、大部分は幕末まで残されていました。1864年の蛤御門(はまぐりごもん)(禁門)の変では小田原藩などが防備に利用したという話も残っています。   洛中・洛外の境界線「おどい」は9カ所が国の史跡となって残る しかし土地の私有が本格化した1877年を境に買収が進み、明治時代末の都市域拡大で「おどい」は次々に崩されていきました。その後、大正時代の保護運動により1930年に8カ所が国史跡に指定。現在でもおどいの内と外で高低差が存在し、9カ所が国の史跡となっています。なかでも北野天満宮のおどい跡は紅葉の名所としても有名で、毎年秋には大勢の参拝客でにぎわっています。   洛中・洛外の境界線「おどい」は年々数を減らしている また大宮交通公園のように史跡指定外のおどいも残ってはいますが、宅地工事などで壊され、年々数を減らしているといいます。 このほか、鞍馬口や丹波口などの地名や京都市内各所に残る土居町の町名も、かつてその地におどいと都への出入り口があった名残とされています。...

【京都府】「洛中」「洛外」とは?京都市内中心部と外を区分するために築かれた「おどい」

京都市の中心部と周辺部を区分する「洛中」「洛外」という呼び名。その境界を明確にするため、豊臣秀吉によって「おどい」は築かれました。   「洛中」「洛外」とは 現在の上京区、中京区、下京区にあたる京都市の中心部は、かつて「洛中」と呼ばれました。その周辺部は「洛外」で、洛外はさらに「洛北」「洛南」「洛東」「洛西」に区分されています。 洛中・洛外の境界線と「洛」の由来 「洛」の由来は、古代中国で何度も都となった「洛陽」から。平安京はこの洛陽と、やはり中国で都が置かれた長安を参考につくられ、当初は御所から見て右側の地域を「長安城」、左側を「洛陽城」と呼んでいました。 やがて地盤の悪さなどから長安城は寂れ、平安時代中期ごろから京都市中を「洛陽」と呼ぶようになり、洛中や洛北などの区分ができたのは鎌倉時代以降とされます。 ただ、城壁を持たない平安京は完成当初から境界があいまいで、唯一左右に壁を持った南端の「羅城門(らじょうもん)」も平安時代後期に倒壊。そのため洛中・洛外の境界線は明確でなく、現代の区割りと同じではありませんでした。 主要道路である朱雀大路は現在の千本通に該当。南端の羅城門をはさんで東寺と西寺が建立されましたが、西寺は鎌倉時代に廃れたと考えられています。   洛中・洛外の現在の境界線は豊臣秀吉が形づくった! とくに1467年からの応仁の乱で都は荒廃し、洛中洛外の区別すらなくなりつつありました。こうした都の衰退にメスを入れ、現在の洛中洛外を形づくったのが豊臣秀吉です。 「おどい」とは 1590年、天下を統一した秀吉は、都を復興させるために大規模な都市計画を実行に移します。洛中外の再構築もその一環であり、領域を明確化するための城壁も築かせました。それこそが「おどい(御土居)」です。 おどいという呼び名は江戸時代以降に定着したもので、建造当時の名称は「土居堀」です。また城壁といっても石垣のような堅牢なものではなく、土を固めた土塁と堀でした。 秀吉による「おどい」の建設 秀吉は高さ約3mのおどいを北は鷹ヶ峯(たかがみね)、西は紙屋川、南は九条通、東は鴨川西岸にまで建設し、さらに幅約20mの堀を張りめぐらせていました。土塁の全長は約23㎞におよび、当時の都市部を丸ごと覆う広さでした。このおどいで都を外部から守るとともに、洛外と洛中の区分を明確化したのです。 「おどいの袖」の謎 秀吉が築いた土居堀の西側は、紙屋川(天神川)の流れにそっていますが、中京区の北野中学校のあたりからJR円町駅の南あたりまでがはみ出していました。この部分は、「おどいの袖」と呼ばれます。なぜこのような形状になったのかは謎のまま。一説には、当時すでに家が立ち並んでおり、これを「洛中」に取り込むためといいます。 国土地理院標準地図を元に作成/北野中学校は校内におどいの遺構があります。   洛中・洛外の境界線「おどい」の大部分は幕末まで残っていた 江戸時代に入ると、1670年の「寛文新堤(かんぶんしんてい)」の完成で東部分の一部が公家などに譲渡されましたが、大部分は幕末まで残されていました。1864年の蛤御門(はまぐりごもん)(禁門)の変では小田原藩などが防備に利用したという話も残っています。   洛中・洛外の境界線「おどい」は9カ所が国の史跡となって残る しかし土地の私有が本格化した1877年を境に買収が進み、明治時代末の都市域拡大で「おどい」は次々に崩されていきました。その後、大正時代の保護運動により1930年に8カ所が国史跡に指定。現在でもおどいの内と外で高低差が存在し、9カ所が国の史跡となっています。なかでも北野天満宮のおどい跡は紅葉の名所としても有名で、毎年秋には大勢の参拝客でにぎわっています。   洛中・洛外の境界線「おどい」は年々数を減らしている また大宮交通公園のように史跡指定外のおどいも残ってはいますが、宅地工事などで壊され、年々数を減らしているといいます。 このほか、鞍馬口や丹波口などの地名や京都市内各所に残る土居町の町名も、かつてその地におどいと都への出入り口があった名残とされています。...

【海外】中東ってどこ?中東=イスラム教?中東=アラブ?コレだけわかるとダイブちがう。中東ってどこQ&A!

【海外】中東ってどこ?中東=イスラム教?中東=アラブ?コレだけわかるとダイブちがう。中東ってど...

中東と聞いて思い浮かぶイメージは人によって違います。日本から遠い国、中東ってどこ?がまず最初に浮かぶ人も多いでしょう。 イスラム教?アラブ?中東世界の基本のき。おさらいしていきましょう。   【中東ってどこ?Q&A】中東ってどのあたり? 「中東」は西洋人が自分たちの距離感覚で名付けた地名です。自分に近いバルカン半島が近東で、日本などは遠いので極東となります。その間なので中東です。 中東は、ソ連の崩壊で拡大している 「中東」はそもそも地中海の東岸と南岸、アラビア半島などを漠然と示しました。バルカン半島と合わせ中近東とも言います。 20世紀末にソ連が崩壊してコーカサスと中央アジアの国々が独立すると、この両地域を中東に含める議論が出ました。中央アジアはイスラム教徒が多い地域で、歴史的にアフガニスタン、イラン、イラク、エジプトなどと関係が深いからです。また中東は北アフリカとのつながりも強めています。現地の人々は自分たちが「中」心なので、中東という言葉が気に入っています。   【中東ってどこ?Q&A】中東=イスラム教? ざっくりいうとそうだが… イスラム教が多数派、もしくはイスラム教の影響が強い国々がほとんどです。礼拝を大切にし、お酒を好まない所と大まかに考えてよいでしょう(例外もあります)。 とはいえ宗派がたくさんあり、各国に個性があって国によってどの宗派が多いかは異なります。サウジアラビアとイランの対比が特徴的ですが、レバノンのように18の宗教と宗派が存在する例もあるのです。 また国によって世俗化を許容している度合いも違います。サウジアラビアではお酒は厳禁ですが、隣国のバーレーンでは外国人にお酒を売っても良いなど、国の成り立ちによって戒律の強弱が異なります。   【中東ってどこ?Q&A】中東=アラブ? ノー、非アラブもある! アラブとはアラビア語を話す人々が暮らす地域のことです。アラビア語の書き言葉は共通ですが、口語には方言のようなものがあって、通じないこともあります。 イスラム教の聖典、コーランはアラビア語で読み、発声することが原点かつ至高とされます。イスラムが広がるとともに、その支配地でアラビア語も広まりました。しかしアラビア語に染まらず、自分たちの言語を守る人々もいたのです。ペルシャ語やトルコ系言語を話す人々がそうで、彼らはアラビア語が母語ではないので非アラブの国となります。トルコはトルコ語、イランはペルシャ語が母語なのでアラブではありません。同じ中東でもアラブと非アラブで、文化の色合いが違います。     『地図でスッと頭に入る中東&イスラム30の国と地域』好評発売中! ヒット商品『地図でスッと頭に入る』海外シリーズの第4弾。宗教・民族対立、石油資源競争・・でつねに紛争の絶えない中東は、昔から日本人にとって遠い存在の地域であり続けた。 しかしながら、日本がもっとも石油資源を依存している地域でもあり、われわれ日本人はこの地域に無関心ではいられないはずである。また、中東および中央アジア、北アフリカはイスラム教が最も普及しており、イスラム教なくしてこの地域を語ることはできないほどである。本書は、これら中東・中央アジアの国々について、他の関連図書よりもわかりやすく解説する入門書となることを目指します。

【海外】中東ってどこ?中東=イスラム教?中東=アラブ?コレだけわかるとダイブちがう。中東ってど...

中東と聞いて思い浮かぶイメージは人によって違います。日本から遠い国、中東ってどこ?がまず最初に浮かぶ人も多いでしょう。 イスラム教?アラブ?中東世界の基本のき。おさらいしていきましょう。   【中東ってどこ?Q&A】中東ってどのあたり? 「中東」は西洋人が自分たちの距離感覚で名付けた地名です。自分に近いバルカン半島が近東で、日本などは遠いので極東となります。その間なので中東です。 中東は、ソ連の崩壊で拡大している 「中東」はそもそも地中海の東岸と南岸、アラビア半島などを漠然と示しました。バルカン半島と合わせ中近東とも言います。 20世紀末にソ連が崩壊してコーカサスと中央アジアの国々が独立すると、この両地域を中東に含める議論が出ました。中央アジアはイスラム教徒が多い地域で、歴史的にアフガニスタン、イラン、イラク、エジプトなどと関係が深いからです。また中東は北アフリカとのつながりも強めています。現地の人々は自分たちが「中」心なので、中東という言葉が気に入っています。   【中東ってどこ?Q&A】中東=イスラム教? ざっくりいうとそうだが… イスラム教が多数派、もしくはイスラム教の影響が強い国々がほとんどです。礼拝を大切にし、お酒を好まない所と大まかに考えてよいでしょう(例外もあります)。 とはいえ宗派がたくさんあり、各国に個性があって国によってどの宗派が多いかは異なります。サウジアラビアとイランの対比が特徴的ですが、レバノンのように18の宗教と宗派が存在する例もあるのです。 また国によって世俗化を許容している度合いも違います。サウジアラビアではお酒は厳禁ですが、隣国のバーレーンでは外国人にお酒を売っても良いなど、国の成り立ちによって戒律の強弱が異なります。   【中東ってどこ?Q&A】中東=アラブ? ノー、非アラブもある! アラブとはアラビア語を話す人々が暮らす地域のことです。アラビア語の書き言葉は共通ですが、口語には方言のようなものがあって、通じないこともあります。 イスラム教の聖典、コーランはアラビア語で読み、発声することが原点かつ至高とされます。イスラムが広がるとともに、その支配地でアラビア語も広まりました。しかしアラビア語に染まらず、自分たちの言語を守る人々もいたのです。ペルシャ語やトルコ系言語を話す人々がそうで、彼らはアラビア語が母語ではないので非アラブの国となります。トルコはトルコ語、イランはペルシャ語が母語なのでアラブではありません。同じ中東でもアラブと非アラブで、文化の色合いが違います。     『地図でスッと頭に入る中東&イスラム30の国と地域』好評発売中! ヒット商品『地図でスッと頭に入る』海外シリーズの第4弾。宗教・民族対立、石油資源競争・・でつねに紛争の絶えない中東は、昔から日本人にとって遠い存在の地域であり続けた。 しかしながら、日本がもっとも石油資源を依存している地域でもあり、われわれ日本人はこの地域に無関心ではいられないはずである。また、中東および中央アジア、北アフリカはイスラム教が最も普及しており、イスラム教なくしてこの地域を語ることはできないほどである。本書は、これら中東・中央アジアの国々について、他の関連図書よりもわかりやすく解説する入門書となることを目指します。

【愛知県】伊勢湾台風にみる高潮など大被害のメカニズム

【愛知県】伊勢湾台風にみる高潮など大被害のメカニズム

伊勢湾台風にともなう死者・行方不明者は、日本の台風史上最大となりました。その主因は、伊勢湾沿岸を飲み込んだ大規模な高潮によるものでした。   伊勢湾台風はどんな台風だった? 1959(昭和34)年9月21日21時、マリアナ諸島の東海上で台風15号が発生しました。発生時の中心気圧は1012hPaでしたが、23日15時には895hPa、最大風速70m/s以上と猛烈な勢力になりました。とくに22日9時から23日9時にかけた24時間は、中心気圧が91hPaも下がるという記録的な急発達を遂げました。 台風はそのまま北上し、26日18時頃に潮岬(和歌山県)の西に上陸。その後は日本列島を足早に縦断し27日朝までには太平洋へと抜けました。上陸時の中心気圧は929.5hPaで、日本に上陸した台風では記録のある範囲で枕崎台風(1945年上陸時911.6hPa)、室戸台風(1934年上陸時912hPa)に次ぐ3番目の強さでした。 気象庁の公開データを元に作成 1959(昭和34)年の台風15号は、9月21日にマリアナ諸島の東海上で発生。26日18 時頃和歌山県潮岬の西に上陸し、約6時間で本州を縦断しました。   伊勢湾台風の被害が愛知県と三重県に集中 台風の接近にともない伊勢湾沿岸などで大規模な高潮が発生し、名古屋では平常時の潮位よりも3.5m高くなりました。その結果、伊勢湾・知多湾・渥美湾では海水がほとんどの防潮堤を乗り越え、広域で浸水被害をもたらしました。名古屋、桑名、津では海岸から10㎞以上離れた場所にも海水が到達。 この台風による死者・行方不明者は、最終的に5098名を数え、記録に残る台風被害としては最悪な数字となりました。しかもその9割が愛知県と三重県に集中しました。   伊勢湾台風の被害の原因と災害対策基本法 死者・行方不明者数の被害をここまで大きくした原因は高潮です。高潮は「気象津波」の異名をもつほど破壊力が強い現象です。 この台風は被災地名から「伊勢湾台風」と命名され、日本の防災計画の礎となる「災害対策基本法」という法律が制定されるきっかけとなりました。伊勢湾台風は今なお災害対策の指標として用いられています。 国民の生命・財産を脅かすような危機的な事態が差し迫っているときに「最大級の警戒」を呼びかけるために発表されるものが特別警報で、2013(平成25)年8月より提供が開始されました。台風に関するものとしては大雨、暴風、高潮、波浪が考えられますが、発表の目安として「伊勢湾台風クラス」が例示されています。   伊勢湾台風で高潮被害が甚大になった理由 では改めて、伊勢湾台風ではどうしてここまで高潮被害が甚大になったのでしょうか。 これには気象学的要因に加え地形も関係しています。まず、台風接近時は平常時よりも気圧が大きく低下します。すると、海水が上へと吸い上げられる「吸い上げ効果」が起こります。一般に、気圧が1hPa下がると海水面が1㎝上がります。 また、海面を強い風が吹き抜けると、風の力によって海水が吹き寄せられます。これを「吹き寄せ効果」といいます。台風の中心に近い伊勢湾周辺では最大風速40~50m/sの猛烈な風が吹きました。「吹き寄せ効果」の影響もかなり大きなものであったでしょう。 また、伊勢湾のような南側に面していて、さらに内陸側へ深く入り込んでいるような湾は、大規模な高潮が発生しやすい傾向にあります。伊勢湾台風のときも、台風の中心の東側に位置した伊勢湾では外海から湾内に向かって南寄りの猛烈な風が吹き込み、風とともに湾の奥に向かって大量の海水が流れ込んでいったため、より激しい高潮になったのです。   伊勢湾台風から考える災害への備え 近年では、2018(平成30)年の台風21号による顕著な高潮(大阪で最高潮位329㎝など)により、関西国際空港が浸水しました。 気象災害の激甚化が叫ばれる昨今、伊勢湾台風、あるいはそれを上回る規模の台風がいつ来襲してもおかしくありません。いざというときに慌てないよう平時からハザードマップを確認し、災害への備えを怠らないようにしたいものです。   『愛知のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。愛知県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【愛知県】伊勢湾台風にみる高潮など大被害のメカニズム

伊勢湾台風にともなう死者・行方不明者は、日本の台風史上最大となりました。その主因は、伊勢湾沿岸を飲み込んだ大規模な高潮によるものでした。   伊勢湾台風はどんな台風だった? 1959(昭和34)年9月21日21時、マリアナ諸島の東海上で台風15号が発生しました。発生時の中心気圧は1012hPaでしたが、23日15時には895hPa、最大風速70m/s以上と猛烈な勢力になりました。とくに22日9時から23日9時にかけた24時間は、中心気圧が91hPaも下がるという記録的な急発達を遂げました。 台風はそのまま北上し、26日18時頃に潮岬(和歌山県)の西に上陸。その後は日本列島を足早に縦断し27日朝までには太平洋へと抜けました。上陸時の中心気圧は929.5hPaで、日本に上陸した台風では記録のある範囲で枕崎台風(1945年上陸時911.6hPa)、室戸台風(1934年上陸時912hPa)に次ぐ3番目の強さでした。 気象庁の公開データを元に作成 1959(昭和34)年の台風15号は、9月21日にマリアナ諸島の東海上で発生。26日18 時頃和歌山県潮岬の西に上陸し、約6時間で本州を縦断しました。   伊勢湾台風の被害が愛知県と三重県に集中 台風の接近にともない伊勢湾沿岸などで大規模な高潮が発生し、名古屋では平常時の潮位よりも3.5m高くなりました。その結果、伊勢湾・知多湾・渥美湾では海水がほとんどの防潮堤を乗り越え、広域で浸水被害をもたらしました。名古屋、桑名、津では海岸から10㎞以上離れた場所にも海水が到達。 この台風による死者・行方不明者は、最終的に5098名を数え、記録に残る台風被害としては最悪な数字となりました。しかもその9割が愛知県と三重県に集中しました。   伊勢湾台風の被害の原因と災害対策基本法 死者・行方不明者数の被害をここまで大きくした原因は高潮です。高潮は「気象津波」の異名をもつほど破壊力が強い現象です。 この台風は被災地名から「伊勢湾台風」と命名され、日本の防災計画の礎となる「災害対策基本法」という法律が制定されるきっかけとなりました。伊勢湾台風は今なお災害対策の指標として用いられています。 国民の生命・財産を脅かすような危機的な事態が差し迫っているときに「最大級の警戒」を呼びかけるために発表されるものが特別警報で、2013(平成25)年8月より提供が開始されました。台風に関するものとしては大雨、暴風、高潮、波浪が考えられますが、発表の目安として「伊勢湾台風クラス」が例示されています。   伊勢湾台風で高潮被害が甚大になった理由 では改めて、伊勢湾台風ではどうしてここまで高潮被害が甚大になったのでしょうか。 これには気象学的要因に加え地形も関係しています。まず、台風接近時は平常時よりも気圧が大きく低下します。すると、海水が上へと吸い上げられる「吸い上げ効果」が起こります。一般に、気圧が1hPa下がると海水面が1㎝上がります。 また、海面を強い風が吹き抜けると、風の力によって海水が吹き寄せられます。これを「吹き寄せ効果」といいます。台風の中心に近い伊勢湾周辺では最大風速40~50m/sの猛烈な風が吹きました。「吹き寄せ効果」の影響もかなり大きなものであったでしょう。 また、伊勢湾のような南側に面していて、さらに内陸側へ深く入り込んでいるような湾は、大規模な高潮が発生しやすい傾向にあります。伊勢湾台風のときも、台風の中心の東側に位置した伊勢湾では外海から湾内に向かって南寄りの猛烈な風が吹き込み、風とともに湾の奥に向かって大量の海水が流れ込んでいったため、より激しい高潮になったのです。   伊勢湾台風から考える災害への備え 近年では、2018(平成30)年の台風21号による顕著な高潮(大阪で最高潮位329㎝など)により、関西国際空港が浸水しました。 気象災害の激甚化が叫ばれる昨今、伊勢湾台風、あるいはそれを上回る規模の台風がいつ来襲してもおかしくありません。いざというときに慌てないよう平時からハザードマップを確認し、災害への備えを怠らないようにしたいものです。   『愛知のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。愛知県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【静岡県】東海道本線の歴史~急こう配が連続するルートは御殿場線となってローカル線に降格~

【静岡県】東海道本線の歴史~急こう配が連続するルートは御殿場線となってローカル線に降格~

国府津駅~沼津駅間を、箱根外輪山の北側をたどって結ぶ御殿場線。全線単線で列車は1時間に2本程度とローカルムード漂う路線ですが、かつては東西を結ぶ大動脈、東海道本線の一部でした。   東海道本線の成り立ち 明治維新後まもなく持ち上がった、東京~大阪間の鉄道敷設計画。そのルートの検討にあたって、神奈川・静岡の県境を挟む区間については、箱根から天城にかけての丹那(たんな)盆地を貫通するトンネルを掘るか、国府津~山北~御殿場~沼津のルートで線路を敷設するかの、二つの案がありました。ですが、当時の土木技術で全長8㎞近くに及ぶトンネルを掘削することは困難であったため、県境越えのルートは最終的に御殿場回りに決定しました。   東海道本線は東西を結ぶ大動脈に 1889(明治22)年7月、新橋駅(のちの汐留、現在は廃止)~名古屋駅~大阪駅~神戸駅を結ぶ官設鉄道が全通しました。1909(明治42)年には東海道本線と呼ばれるようになったこの路線は、日本で最も重要な鉄道と位置付けられ、1913(大正2)年8月1日に新橋駅~神戸駅間の全線、約600㎞の複線化が完了するなど、東西を結ぶ大動脈としての機能を高めていきました。   東海道本線のルートを変更 このように東海道本線の重要度が増すなか、国府津駅から沼津駅までの御殿場回りルートは、急勾配(最大25‰)が連続するうえ遠回りでもあることから、輸送確保の上で大きなボトルネックとなっていました。そこで、この問 題の抜本的な解決を図るべく、明治初期の構想にあった丹那盆地のトンネルを掘り、東海道本線のルートを変更することとなったのです。   東海道本線から御殿場線へ 1933(昭和8)年6月19日、15年にわたる難工事の末「丹那トンネル」が貫通。翌1934(昭和9)年12月1日、東海道本線は丹那トンネルを通る現在のルートに切り替わり、国府津駅~沼津駅間の御殿場回りルートは、「御殿場線」と線名をあらため再出発しました。 ローカル線に転落し列車の本数も減った御殿場線は、幹線の証しでもあった複線を維持する必要性が乏しくなり、1944(昭和19)年には全線が単線に戻されました。なお、このとき撤去されたレールや橋桁は、ほかの路線の建設や複線化を行うための資材として転用されています。 東海道本線だった歴史を今に伝える御殿場線 戦後になると小田急線直通列車の運転開始(1955年)、電化(1968年)、特急列車の復活(1991年)などの動きを経て、地域の生活路線、あるいは首都圏近郊の観光路線のイメージがすっかり板についた御殿場線ですが、線路に沿って続く空き地、載せるべき橋桁を失った橋脚や橋台、2つ並んで口を開けているのに片側が使われていないトンネルなど、「複線だった」名残があちこちに散在しています。 ほかにも、富士岡駅、岩波駅にスイッチバックの跡が残っていることや、下土狩駅がかつて「三島駅」を名乗り、修善寺までの駿豆(すんず)鉄道(現在の伊豆箱根鉄道駿豆線)が分岐していた史実などにも、御殿場線がかつて東西を結ぶ大動脈であったことの由緒が感じられます。   『静岡のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。静岡の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【静岡県】東海道本線の歴史~急こう配が連続するルートは御殿場線となってローカル線に降格~

国府津駅~沼津駅間を、箱根外輪山の北側をたどって結ぶ御殿場線。全線単線で列車は1時間に2本程度とローカルムード漂う路線ですが、かつては東西を結ぶ大動脈、東海道本線の一部でした。   東海道本線の成り立ち 明治維新後まもなく持ち上がった、東京~大阪間の鉄道敷設計画。そのルートの検討にあたって、神奈川・静岡の県境を挟む区間については、箱根から天城にかけての丹那(たんな)盆地を貫通するトンネルを掘るか、国府津~山北~御殿場~沼津のルートで線路を敷設するかの、二つの案がありました。ですが、当時の土木技術で全長8㎞近くに及ぶトンネルを掘削することは困難であったため、県境越えのルートは最終的に御殿場回りに決定しました。   東海道本線は東西を結ぶ大動脈に 1889(明治22)年7月、新橋駅(のちの汐留、現在は廃止)~名古屋駅~大阪駅~神戸駅を結ぶ官設鉄道が全通しました。1909(明治42)年には東海道本線と呼ばれるようになったこの路線は、日本で最も重要な鉄道と位置付けられ、1913(大正2)年8月1日に新橋駅~神戸駅間の全線、約600㎞の複線化が完了するなど、東西を結ぶ大動脈としての機能を高めていきました。   東海道本線のルートを変更 このように東海道本線の重要度が増すなか、国府津駅から沼津駅までの御殿場回りルートは、急勾配(最大25‰)が連続するうえ遠回りでもあることから、輸送確保の上で大きなボトルネックとなっていました。そこで、この問 題の抜本的な解決を図るべく、明治初期の構想にあった丹那盆地のトンネルを掘り、東海道本線のルートを変更することとなったのです。   東海道本線から御殿場線へ 1933(昭和8)年6月19日、15年にわたる難工事の末「丹那トンネル」が貫通。翌1934(昭和9)年12月1日、東海道本線は丹那トンネルを通る現在のルートに切り替わり、国府津駅~沼津駅間の御殿場回りルートは、「御殿場線」と線名をあらため再出発しました。 ローカル線に転落し列車の本数も減った御殿場線は、幹線の証しでもあった複線を維持する必要性が乏しくなり、1944(昭和19)年には全線が単線に戻されました。なお、このとき撤去されたレールや橋桁は、ほかの路線の建設や複線化を行うための資材として転用されています。 東海道本線だった歴史を今に伝える御殿場線 戦後になると小田急線直通列車の運転開始(1955年)、電化(1968年)、特急列車の復活(1991年)などの動きを経て、地域の生活路線、あるいは首都圏近郊の観光路線のイメージがすっかり板についた御殿場線ですが、線路に沿って続く空き地、載せるべき橋桁を失った橋脚や橋台、2つ並んで口を開けているのに片側が使われていないトンネルなど、「複線だった」名残があちこちに散在しています。 ほかにも、富士岡駅、岩波駅にスイッチバックの跡が残っていることや、下土狩駅がかつて「三島駅」を名乗り、修善寺までの駿豆(すんず)鉄道(現在の伊豆箱根鉄道駿豆線)が分岐していた史実などにも、御殿場線がかつて東西を結ぶ大動脈であったことの由緒が感じられます。   『静岡のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。静岡の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【兵庫県】竹田城の歴史~最後の城主となった赤松広秀によって築かれた石垣

【兵庫県】竹田城の歴史~最後の城主となった赤松広秀によって築かれた石垣

標高353.7mの古城山山頂にある竹田城跡。現在は、山上に浮かぶ「天空の城」として人気となっていますが、かつては但馬と播磨の国境に位置する要衝でした。 そして、築城に欠かせない大量の石は現地調達したものでした。   竹田城の象徴の石垣は赤松広秀が築いた 竹田城は1443年ころ、当時の但馬守護の山名持豊(宗全)が配下の太田垣光景(おおたがきみつかげ)に命じて築かせたのがはじまりです。 古城山(こじょうざん)は、但馬と播磨の国境に位置する要衝であったために選ばれました。 当時、山名氏は播磨守護赤松氏との間で戦が頻発していました。そこで赤松軍の侵攻を監視できる山城を築きます。ただし当初の城は土塁で守られていました。今に残る総石垣造の城に改修したのは、最後の城主となった赤松広秀(ひろひで)です。 竹田城最後の城主、赤松広秀はどうやって石垣を築いた? 石垣群は南北400m、東西100mにおよび、本丸の石垣の高さは10.6mもあります。重機のない時代に大量の石を山頂まで運び上げることができたのは、山頂の至るところにある石取り場から滑車(かっしゃ)を使って人力で石を引っ張り上げたからです。   竹田城の城主を6代にわたって治めた太田垣氏 竹田城は、山名氏の重臣である太田垣氏が6代にわたって城主を務めました。1540年ころには、竹田城から約15kmの距離にある生野銀山での採鉱(さいこう)が本格化し、山名氏が銀山を支配しました。そこで竹田城は生野銀山を管理する役割も担うことになります。 竹田城の城主は太田垣氏から豊臣秀長ののち赤松広秀に 毛利軍が出雲や伯耆に進軍し、但馬へ迫りました。すると太田垣氏は毛利軍に降伏します。その後、丹波の豪族で「赤鬼」と呼ばれた赤井直正に竹田城を占拠された際には、明智光秀の丹波制圧に加わり城を奪取します。ところが、太田垣氏は毛利軍と和睦し、信長勢に対抗したのでした。 怒った信長は秀吉に但馬攻めを命じ、秀吉の実弟・秀長(ひでなが)が侵攻してきます。太田垣氏はまたしても降伏し、秀吉は秀長を竹田城主に据えました。秀吉の狙いは、但馬制圧と生野銀山の支配にありました。その秀吉の死後、播磨龍野城主の赤松広秀が竹田城主となります。   竹田城最後の城主の自決後は廃城に 赤松広秀は関ケ原の戦いで西軍につき、東軍の丹後田辺城を攻めました。ところが、西軍の敗戦を知ると東軍に寝返り、今度は西軍の鳥取城を攻めます。このとき、城下町への焼き討ちにより鳥取城を落城させたものの、「自分が命じていない焼き討ちを決行した」として家康の不興(ふきょう)を買い、赤松広秀は切腹を命じられました。 こうして城主を失った竹田城は石垣のみを残して廃城となり、以降、竹田城が歴史の表舞台に登場することはありませんでした。   竹田城は城主を持つことなく観光地へ 竹田城跡が脚光をあびるきっかけは、1990年に公開された角川映画『天と地と』のロケ地に選ばれたことです。その後も2003年公開の『魔界転生(まかいてんしょう)』や、2012年公開の高倉健主演映画『あなたへ』のロケ地にも選ばれました。 また、2006年には「日本100名城」に選定されました。こうして知名度が上がり、観光客数も一気に伸びました。高所に見事に築かれた石垣の壮観さから「日本のマチュピチュ」とも呼ばれて人気を博しています。 周囲は山に囲まれ、比較的低い場所を播但線が走っています。雲海に浮かぶ竹田城が見られるのは、城の南東にある朝来山の立雲峡です。国土地理院標準地図を元に作成

【兵庫県】竹田城の歴史~最後の城主となった赤松広秀によって築かれた石垣

標高353.7mの古城山山頂にある竹田城跡。現在は、山上に浮かぶ「天空の城」として人気となっていますが、かつては但馬と播磨の国境に位置する要衝でした。 そして、築城に欠かせない大量の石は現地調達したものでした。   竹田城の象徴の石垣は赤松広秀が築いた 竹田城は1443年ころ、当時の但馬守護の山名持豊(宗全)が配下の太田垣光景(おおたがきみつかげ)に命じて築かせたのがはじまりです。 古城山(こじょうざん)は、但馬と播磨の国境に位置する要衝であったために選ばれました。 当時、山名氏は播磨守護赤松氏との間で戦が頻発していました。そこで赤松軍の侵攻を監視できる山城を築きます。ただし当初の城は土塁で守られていました。今に残る総石垣造の城に改修したのは、最後の城主となった赤松広秀(ひろひで)です。 竹田城最後の城主、赤松広秀はどうやって石垣を築いた? 石垣群は南北400m、東西100mにおよび、本丸の石垣の高さは10.6mもあります。重機のない時代に大量の石を山頂まで運び上げることができたのは、山頂の至るところにある石取り場から滑車(かっしゃ)を使って人力で石を引っ張り上げたからです。   竹田城の城主を6代にわたって治めた太田垣氏 竹田城は、山名氏の重臣である太田垣氏が6代にわたって城主を務めました。1540年ころには、竹田城から約15kmの距離にある生野銀山での採鉱(さいこう)が本格化し、山名氏が銀山を支配しました。そこで竹田城は生野銀山を管理する役割も担うことになります。 竹田城の城主は太田垣氏から豊臣秀長ののち赤松広秀に 毛利軍が出雲や伯耆に進軍し、但馬へ迫りました。すると太田垣氏は毛利軍に降伏します。その後、丹波の豪族で「赤鬼」と呼ばれた赤井直正に竹田城を占拠された際には、明智光秀の丹波制圧に加わり城を奪取します。ところが、太田垣氏は毛利軍と和睦し、信長勢に対抗したのでした。 怒った信長は秀吉に但馬攻めを命じ、秀吉の実弟・秀長(ひでなが)が侵攻してきます。太田垣氏はまたしても降伏し、秀吉は秀長を竹田城主に据えました。秀吉の狙いは、但馬制圧と生野銀山の支配にありました。その秀吉の死後、播磨龍野城主の赤松広秀が竹田城主となります。   竹田城最後の城主の自決後は廃城に 赤松広秀は関ケ原の戦いで西軍につき、東軍の丹後田辺城を攻めました。ところが、西軍の敗戦を知ると東軍に寝返り、今度は西軍の鳥取城を攻めます。このとき、城下町への焼き討ちにより鳥取城を落城させたものの、「自分が命じていない焼き討ちを決行した」として家康の不興(ふきょう)を買い、赤松広秀は切腹を命じられました。 こうして城主を失った竹田城は石垣のみを残して廃城となり、以降、竹田城が歴史の表舞台に登場することはありませんでした。   竹田城は城主を持つことなく観光地へ 竹田城跡が脚光をあびるきっかけは、1990年に公開された角川映画『天と地と』のロケ地に選ばれたことです。その後も2003年公開の『魔界転生(まかいてんしょう)』や、2012年公開の高倉健主演映画『あなたへ』のロケ地にも選ばれました。 また、2006年には「日本100名城」に選定されました。こうして知名度が上がり、観光客数も一気に伸びました。高所に見事に築かれた石垣の壮観さから「日本のマチュピチュ」とも呼ばれて人気を博しています。 周囲は山に囲まれ、比較的低い場所を播但線が走っています。雲海に浮かぶ竹田城が見られるのは、城の南東にある朝来山の立雲峡です。国土地理院標準地図を元に作成

【東京都】現代の東京の礎となった都市計画とは?関東大震災による壊滅からの復興と理想都市の形成

【東京都】現代の東京の礎となった都市計画とは?関東大震災による壊滅からの復興と理想都市の形成

世界屈指の大都市「東京」の現在の骨格を作ったのは、関東大震災と東京大空襲がもたらした破壊と、そこからの復興を期した理想的都市計画でした。   関東大震災後の復興事業によって生まれ変わった東京 東京は、大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災によって壊滅的な打撃を受けました。3日間続いた火災により、東京市域の42%が焼失。江戸の遺構の上に無秩序に広がっていた都心部と下町の多くが灰燼に帰しました。 その復興事業を指揮したのは、「都市計画の父」とも呼ばれる後藤新平です。直前まで東京市長を務めていた後藤は、震災直後に組閣された内閣で内務大臣に就任し、帝都復興院を設立して、自ら総裁を兼務して復興計画の立案に携わりました。   都市計画の父・後藤新平が築いた理想都市が現在の東京の骨格に 後藤は、「理想的帝都建設のため絶好の機会」と語り、帝都復興計画案において、復旧ではなく根本的で理想的な都市改造を目指して、国家予算の2倍もの事業費を計上しました。 これは予算会議などを経て4分の1に縮小され、事業内容も大幅に縮小されたものの、このときに整備された道路や橋梁、公園などは、現在の東京の街の骨格となっています。 現存する帝都復興計画案の成果 現在の東京に残る事業の成果としては、まず道路があげられます。東西の幹線の大正通り(現・靖国通り)、南北の幹線の昭和通りのほか、日比谷通りなど、22の幹線道路が作られ、歩道・車道の分離も、車道の舗装も進みました。 また、区画整理が進められ、各所に公園が整備されたほか、懸案であった日本橋魚河岸の築地移転も実現しています。 東京大空襲後には東京戦災復興都市計画がスタート しかし、東京は震災から20年余りで再び都市機能を大幅に失うことになります。米軍による首都爆撃です。特に昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲では、12万人以上の死傷者を出し、その後、数回の大空襲で東京は焼け野原となりました。 終戦後の昭和20(1945)年11月、政府は戦災復興院を設置。水準の高い都市づくりの理念と意欲が示された「戦災地復興計画基本方針」を決定し、これを受けて東京都は翌年、「東京戦災復興都市計画」を決定して、戦災復興に着手しました。 東京戦災復興都市計画の方針 基本方針では、街路・緑地・港湾などの整備について、具体的な方針が示されました。街路については、将来の自動車交通への適応とともに、防災、保健、美観に資することをめざし、大都市の主要幹線は幅員50m以上、中小都市では幅員36m以上とすることなどが指示されました。 緑地についても、市街地面積の1割以上とし、市街地外周に緑地帯(グリーンベルト)を設けることなどが示され、その内容は理想的で高水準なものでした。   出典:国土交通省『平成12年建設白書』(https://www.mlit.go.jp/hakusyo/kensetu/h12_2/h12/html/C1Z01000.htm)を元に作成 昭和14(1939)年の東京緑地計画の区域。東京府から、神奈川、埼玉、千葉、茨城、山梨の各県にわたる広範で広大な緑地計画を決定していました。   東京の高度成長を支えた戦災復興都市計画のインフラ整備 しかしその後、国も地方も予算確保が困難となり、また、戦災による資材・人材の不足、GHQからの反対やドッジ・ライン(GHQ経済顧問の財政金融引き締め政策)による緊縮財政の影響を受け、復興計画は変更・縮小を余儀なくされました。 当初計画より縮小されたとはいえ、戦災復興事業は近世に建設された日本の都市形態を一新し、戦後の高度成長を支える中心市街地のインフラを造り上げました。このときに整備されたインフラが、現代東京の都市機能の基礎となっています。   『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。東京の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【東京都】現代の東京の礎となった都市計画とは?関東大震災による壊滅からの復興と理想都市の形成

世界屈指の大都市「東京」の現在の骨格を作ったのは、関東大震災と東京大空襲がもたらした破壊と、そこからの復興を期した理想的都市計画でした。   関東大震災後の復興事業によって生まれ変わった東京 東京は、大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災によって壊滅的な打撃を受けました。3日間続いた火災により、東京市域の42%が焼失。江戸の遺構の上に無秩序に広がっていた都心部と下町の多くが灰燼に帰しました。 その復興事業を指揮したのは、「都市計画の父」とも呼ばれる後藤新平です。直前まで東京市長を務めていた後藤は、震災直後に組閣された内閣で内務大臣に就任し、帝都復興院を設立して、自ら総裁を兼務して復興計画の立案に携わりました。   都市計画の父・後藤新平が築いた理想都市が現在の東京の骨格に 後藤は、「理想的帝都建設のため絶好の機会」と語り、帝都復興計画案において、復旧ではなく根本的で理想的な都市改造を目指して、国家予算の2倍もの事業費を計上しました。 これは予算会議などを経て4分の1に縮小され、事業内容も大幅に縮小されたものの、このときに整備された道路や橋梁、公園などは、現在の東京の街の骨格となっています。 現存する帝都復興計画案の成果 現在の東京に残る事業の成果としては、まず道路があげられます。東西の幹線の大正通り(現・靖国通り)、南北の幹線の昭和通りのほか、日比谷通りなど、22の幹線道路が作られ、歩道・車道の分離も、車道の舗装も進みました。 また、区画整理が進められ、各所に公園が整備されたほか、懸案であった日本橋魚河岸の築地移転も実現しています。 東京大空襲後には東京戦災復興都市計画がスタート しかし、東京は震災から20年余りで再び都市機能を大幅に失うことになります。米軍による首都爆撃です。特に昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲では、12万人以上の死傷者を出し、その後、数回の大空襲で東京は焼け野原となりました。 終戦後の昭和20(1945)年11月、政府は戦災復興院を設置。水準の高い都市づくりの理念と意欲が示された「戦災地復興計画基本方針」を決定し、これを受けて東京都は翌年、「東京戦災復興都市計画」を決定して、戦災復興に着手しました。 東京戦災復興都市計画の方針 基本方針では、街路・緑地・港湾などの整備について、具体的な方針が示されました。街路については、将来の自動車交通への適応とともに、防災、保健、美観に資することをめざし、大都市の主要幹線は幅員50m以上、中小都市では幅員36m以上とすることなどが指示されました。 緑地についても、市街地面積の1割以上とし、市街地外周に緑地帯(グリーンベルト)を設けることなどが示され、その内容は理想的で高水準なものでした。   出典:国土交通省『平成12年建設白書』(https://www.mlit.go.jp/hakusyo/kensetu/h12_2/h12/html/C1Z01000.htm)を元に作成 昭和14(1939)年の東京緑地計画の区域。東京府から、神奈川、埼玉、千葉、茨城、山梨の各県にわたる広範で広大な緑地計画を決定していました。   東京の高度成長を支えた戦災復興都市計画のインフラ整備 しかしその後、国も地方も予算確保が困難となり、また、戦災による資材・人材の不足、GHQからの反対やドッジ・ライン(GHQ経済顧問の財政金融引き締め政策)による緊縮財政の影響を受け、復興計画は変更・縮小を余儀なくされました。 当初計画より縮小されたとはいえ、戦災復興事業は近世に建設された日本の都市形態を一新し、戦後の高度成長を支える中心市街地のインフラを造り上げました。このときに整備されたインフラが、現代東京の都市機能の基礎となっています。   『東京のトリセツ』好評発売中! 地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から東京都を分析! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。東京の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【京都府】京都市営地下鉄の歴史と延伸計画~路線がなかなか延伸できないのはなぜ?

【京都府】京都市営地下鉄の歴史と延伸計画~路線がなかなか延伸できないのはなぜ?

1960〜70年代、市電に代わる新たな中心部の交通網として誕生した京都市営地下鉄。しかし、拡張工事には京都ならではの困難が待っていました。   京都市営地下鉄の歴史 昭和40年代初頭、モータリゼーションによる道路交通量の増加で渋滞や京都市電の運行遅延が頻繁に起こっていました。市電は利用者減少と赤字を解消できなかったため、新たに京都市営地下鉄が計画されました。 建設工事は1974年からはじまりました。これに合わせて市営バス路線の拡大も進められ、工事開始から約6年後に京都市営地下鉄は開通します。 ちなみに、京都市営地下鉄の条例上の名称は「京都市高速鉄道」。2008年までは京都市や京阪電気鉄道などが出資する第三セクターの京都高速鉄道が路線や施設を所有し、京都市交通局に貸し出していました。しかし、京都市が全線を直営することとなり、京都高速鉄道は解散。名称を若干変更して受継いだ形となっています。   京都市営地下鉄は京都市内の主要交通手段 開業初期の烏丸(からすま)線は北大路(きたおおじ)〜京都の約6.6㎞でしたが、1988年には竹田駅までの路線開設と近鉄京都線の直通が実現。 1990年には北大路〜北山間が開通しました。さらに1997年には、北山〜国際会館の路線と、醍醐(だいご)〜二条の約12.7㎞をつなぐ東西線が開通しました。 その後も路線の延伸が続き、西京区を除いた京都市全域を走る主要交通手段となっています。   京都市営地下鉄の延伸計画 現在の東西線は六地蔵(ろくじぞう)~太秦天神川(うずまさてんじんがわ)で運行され、烏丸線は竹田~国際会館を結びます。いずれの路線も拡張が計画されています。東西線は太秦天神川駅から上桂(かみかつら)や洛西ニュータウン周辺を経由し、JR長岡京駅まで延伸予定です。 一方の烏丸線は竹田駅から大手筋を通り、横大路方面につなげるという計画です。これらの案は近畿地方交通審議会で答申されており、さらには国際会館と岩倉をつなげる構想もかつて存在しました。   京都市営地下鉄延伸計画が難航する理由 しかし、こうした延伸計画はまだ実行されていません。京都市交通局の財政難が最大の理由ですが、もうひとつは「遺跡」です。 地面を掘ると必ずといっていいほど遺跡が発見される京都市内では、学術調査が終わるまで工事を進められません。貴重な遺跡ともなれば、保存方法をめぐって多くの意見が出され、決定するまで時間がかかるわけです。 実際、烏丸線ができる前の遺跡調査において、烏丸通の出水~丸太町間で旧二条城の石垣や堀が発見されました。 開業前であっても文化財保護法に基づいた埋蔵文化財発掘調査が義務づけられ、経費と期間が増大しています。なかなか計画が進まないのは、京都ならではの理由もあるのです。 国土地理院標準地図を元に作成 東西線の延伸計画は財政難のために40年以上も実現していません。とくに洛西ニュータウンの交通網をめぐっては、京都市長選挙の立候補者がそれぞれにマニュフェストを発表するなどして、たびたび議論となっています。   幻のLRT構想 平成になって二酸化酸素排出量の削減やバリアフリー化の要請がなされるようになると、京都市は地下鉄やバスに加え、新しい公共交通システムの検討をはじめました。 そこで注目されたのが、LRT(おもに専用軌道を走るライトレール)構想です。複数の路線が検討されたものの、結局は事業費がネックとなり、沿線住民の反対などもあって頓挫したままになっています。   『京都のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。京都の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【京都府】京都市営地下鉄の歴史と延伸計画~路線がなかなか延伸できないのはなぜ?

1960〜70年代、市電に代わる新たな中心部の交通網として誕生した京都市営地下鉄。しかし、拡張工事には京都ならではの困難が待っていました。   京都市営地下鉄の歴史 昭和40年代初頭、モータリゼーションによる道路交通量の増加で渋滞や京都市電の運行遅延が頻繁に起こっていました。市電は利用者減少と赤字を解消できなかったため、新たに京都市営地下鉄が計画されました。 建設工事は1974年からはじまりました。これに合わせて市営バス路線の拡大も進められ、工事開始から約6年後に京都市営地下鉄は開通します。 ちなみに、京都市営地下鉄の条例上の名称は「京都市高速鉄道」。2008年までは京都市や京阪電気鉄道などが出資する第三セクターの京都高速鉄道が路線や施設を所有し、京都市交通局に貸し出していました。しかし、京都市が全線を直営することとなり、京都高速鉄道は解散。名称を若干変更して受継いだ形となっています。   京都市営地下鉄は京都市内の主要交通手段 開業初期の烏丸(からすま)線は北大路(きたおおじ)〜京都の約6.6㎞でしたが、1988年には竹田駅までの路線開設と近鉄京都線の直通が実現。 1990年には北大路〜北山間が開通しました。さらに1997年には、北山〜国際会館の路線と、醍醐(だいご)〜二条の約12.7㎞をつなぐ東西線が開通しました。 その後も路線の延伸が続き、西京区を除いた京都市全域を走る主要交通手段となっています。   京都市営地下鉄の延伸計画 現在の東西線は六地蔵(ろくじぞう)~太秦天神川(うずまさてんじんがわ)で運行され、烏丸線は竹田~国際会館を結びます。いずれの路線も拡張が計画されています。東西線は太秦天神川駅から上桂(かみかつら)や洛西ニュータウン周辺を経由し、JR長岡京駅まで延伸予定です。 一方の烏丸線は竹田駅から大手筋を通り、横大路方面につなげるという計画です。これらの案は近畿地方交通審議会で答申されており、さらには国際会館と岩倉をつなげる構想もかつて存在しました。   京都市営地下鉄延伸計画が難航する理由 しかし、こうした延伸計画はまだ実行されていません。京都市交通局の財政難が最大の理由ですが、もうひとつは「遺跡」です。 地面を掘ると必ずといっていいほど遺跡が発見される京都市内では、学術調査が終わるまで工事を進められません。貴重な遺跡ともなれば、保存方法をめぐって多くの意見が出され、決定するまで時間がかかるわけです。 実際、烏丸線ができる前の遺跡調査において、烏丸通の出水~丸太町間で旧二条城の石垣や堀が発見されました。 開業前であっても文化財保護法に基づいた埋蔵文化財発掘調査が義務づけられ、経費と期間が増大しています。なかなか計画が進まないのは、京都ならではの理由もあるのです。 国土地理院標準地図を元に作成 東西線の延伸計画は財政難のために40年以上も実現していません。とくに洛西ニュータウンの交通網をめぐっては、京都市長選挙の立候補者がそれぞれにマニュフェストを発表するなどして、たびたび議論となっています。   幻のLRT構想 平成になって二酸化酸素排出量の削減やバリアフリー化の要請がなされるようになると、京都市は地下鉄やバスに加え、新しい公共交通システムの検討をはじめました。 そこで注目されたのが、LRT(おもに専用軌道を走るライトレール)構想です。複数の路線が検討されたものの、結局は事業費がネックとなり、沿線住民の反対などもあって頓挫したままになっています。   『京都のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。京都の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【福岡県】福岡市の歴史は市名の決定にも影響?~なぜ「博多市」にならなかったか~

【福岡県】福岡市の歴史は市名の決定にも影響?~なぜ「博多市」にならなかったか~

博多駅、博多ラーメン、博多祇園山笠、博多人形…。「博多」と名の付くものが多いのに、なぜ博多市ではなく福岡市なのでしょうか?   福岡市の歴史は2つの都市がルーツとなっている 福岡市は、中世の港町を発祥とする町人(商人・職人)の都市・博多と、黒田家によって建設された城下町を発祥とする武士の都市・福岡の2つの都市をルーツとしています。よって明治22(1889)年に市名が福岡に決まった後も、「博多市」を希望する声は残り、何度か改称運動が起こることになりました。   福岡市の歴史に欠かせない「博多市」への改称運動 最初に起こったのは、福岡に市が置かれることが決まった明治21(1888)年。当時の福岡と博多は「福岡区」という行政区に含まれており、そこで市名も順当に「福岡市」になると思われていました。これに対し博多派は、法律に「歴史的著名の名称はなるべく保存するように」という但し書きがついていたので、「博多市」を推す運動を始めます。しかし運動は広い支持を集めることができず、翌年3月に福岡県の定めによって、市名は「福岡」に決まりました。 「博多市」への市名変更議案が提出されるもまさかの否決 有名な「市名変更問題」が起こるのは、その翌年の明治23(1890)年2月でした。6日の市会(当時の市議会)に、博多選出議員から市名を変更する議案が提出されました。当時の市内の人口は博多がおよそ2万5600人、福岡は2万400人ほどで、議員数は博多が17名、福岡は13名で博多が優勢かと思われていました。議論紛糾のなかで14日に採決が行われますが、結果は26票中賛成13で正半数。休憩後の二度目の採決でも同じ結果となったので、福岡選出の議長が反対意見を表明したことから、それを根拠に否決となり、「福岡市」が続くことになったのです。 福岡市の歴史が改称案否決の根拠に?! この結末について「福岡派が博多派議員をトイレに閉じ込めたので敗れた」という説が有名ですが、前日まで出席していた博多選出議員が当日欠席したことから出た風聞であると思われます。むしろ博多選出議員15人のうち2票が反対に回っていることから、「旧武士の福岡による圧迫に、旧町人の博多が屈した」と感じる人が多かったようです。博多出身の元市長・河内卯兵衛も、議員時代に先輩からそのように聞いたと回想しています。河内は大正から昭和にかけて、市名改称運動を行いましたが実現には至りませんでした。   福岡市の歴史は町人の都市・博多とともに このようにして市名は福岡となりますが、駅名は明治22(1889)年末に博多駅と決まります。経緯は明らかではありませんが、当時の駅が承天寺の南側(現・駅前1丁目)という博多の南端にあったことから、「博多駅」のおさまりがよかったものと考えられます。また、同年の市名決定を受けて、博多に対する配慮があったことも想像に難くありません。さいたま市ができるまで、福岡市は県庁所在地でありながらJRで唯一市名の駅を持たない県だったのです。 なお、福岡部の天神にある西日本鉄道の駅は「西鉄福岡(天神)駅」であり、福岡市には今も博多駅と福岡駅の2つが存在しています。その後、昭和50(1975)年の新幹線開業によって、博多は全国的な知名度を獲得していきます。博多祇園山笠、博多織、博多人形など、祭り、物産は、町人の都市として栄えた博多の歴史を名に冠して、全国に知られていきました。   福岡のトリセツ』好評発売中! 福岡県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。福岡県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【福岡県】福岡市の歴史は市名の決定にも影響?~なぜ「博多市」にならなかったか~

博多駅、博多ラーメン、博多祇園山笠、博多人形…。「博多」と名の付くものが多いのに、なぜ博多市ではなく福岡市なのでしょうか?   福岡市の歴史は2つの都市がルーツとなっている 福岡市は、中世の港町を発祥とする町人(商人・職人)の都市・博多と、黒田家によって建設された城下町を発祥とする武士の都市・福岡の2つの都市をルーツとしています。よって明治22(1889)年に市名が福岡に決まった後も、「博多市」を希望する声は残り、何度か改称運動が起こることになりました。   福岡市の歴史に欠かせない「博多市」への改称運動 最初に起こったのは、福岡に市が置かれることが決まった明治21(1888)年。当時の福岡と博多は「福岡区」という行政区に含まれており、そこで市名も順当に「福岡市」になると思われていました。これに対し博多派は、法律に「歴史的著名の名称はなるべく保存するように」という但し書きがついていたので、「博多市」を推す運動を始めます。しかし運動は広い支持を集めることができず、翌年3月に福岡県の定めによって、市名は「福岡」に決まりました。 「博多市」への市名変更議案が提出されるもまさかの否決 有名な「市名変更問題」が起こるのは、その翌年の明治23(1890)年2月でした。6日の市会(当時の市議会)に、博多選出議員から市名を変更する議案が提出されました。当時の市内の人口は博多がおよそ2万5600人、福岡は2万400人ほどで、議員数は博多が17名、福岡は13名で博多が優勢かと思われていました。議論紛糾のなかで14日に採決が行われますが、結果は26票中賛成13で正半数。休憩後の二度目の採決でも同じ結果となったので、福岡選出の議長が反対意見を表明したことから、それを根拠に否決となり、「福岡市」が続くことになったのです。 福岡市の歴史が改称案否決の根拠に?! この結末について「福岡派が博多派議員をトイレに閉じ込めたので敗れた」という説が有名ですが、前日まで出席していた博多選出議員が当日欠席したことから出た風聞であると思われます。むしろ博多選出議員15人のうち2票が反対に回っていることから、「旧武士の福岡による圧迫に、旧町人の博多が屈した」と感じる人が多かったようです。博多出身の元市長・河内卯兵衛も、議員時代に先輩からそのように聞いたと回想しています。河内は大正から昭和にかけて、市名改称運動を行いましたが実現には至りませんでした。   福岡市の歴史は町人の都市・博多とともに このようにして市名は福岡となりますが、駅名は明治22(1889)年末に博多駅と決まります。経緯は明らかではありませんが、当時の駅が承天寺の南側(現・駅前1丁目)という博多の南端にあったことから、「博多駅」のおさまりがよかったものと考えられます。また、同年の市名決定を受けて、博多に対する配慮があったことも想像に難くありません。さいたま市ができるまで、福岡市は県庁所在地でありながらJRで唯一市名の駅を持たない県だったのです。 なお、福岡部の天神にある西日本鉄道の駅は「西鉄福岡(天神)駅」であり、福岡市には今も博多駅と福岡駅の2つが存在しています。その後、昭和50(1975)年の新幹線開業によって、博多は全国的な知名度を獲得していきます。博多祇園山笠、博多織、博多人形など、祭り、物産は、町人の都市として栄えた博多の歴史を名に冠して、全国に知られていきました。   福岡のトリセツ』好評発売中! 福岡県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。福岡県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【奈良県】地図上から奈良県が消えた空白期間がある!?奈良県はかつて大阪府の一部だった!

【奈良県】地図上から奈良県が消えた空白期間がある!?奈良県はかつて大阪府の一部だった!

廃藩置県でいったん奈良県となった大和国ですが、府県統合で大阪府に吸収されました。大和より摂津・河内・和泉を優先する府政に憤った県民は、奈良県再設置運動を起こしました。   奈良県は廃藩置県で設置された 江戸幕府崩壊直後、奈良県の行政上の名称や管轄はめまぐるしく変化しました。 明治新政府は大和にあった幕府直轄地を接収し、慶応4(1868)年1月、奈良に大和鎮台を設置し統治しました。同年5月、奈良県を設置し、十津川郷を除く旧幕府領と寺社領を管轄。同じ幕府直轄地の堺も港湾都市として重要視され堺県となりました。大和の宇智郡、吉野郡はその後奈良県から分離し、河内と紀伊の一部地域を加えた五條県が誕生しました。 明治4(1871)年7月、廃藩置県で、幕府領以外の大和各藩はそれぞれ県を名乗るようになりましたが、同年11月、明治政府による府県統合の結果、大和国内の五條県を含む各県が廃止され、それら全域を所管する奈良県があらためて誕生しました。県庁は興福寺一乗院に設置され、元五條県知事、四条隆平(しじょうたかとし)が県令(現在の知事)に任命されました。   奈良県は府県統合で大阪府の支配下に ところが明治9(1876)年になると、各府県の財政難を解消するため、政府は統合75府県を3府35県に再編しました。奈良県は同年4月、太政官布告により堺県(現在の大阪府堺市)に合併され、大和全域を管轄していた奈良県は地図から姿を消してしまいました。さらにその5年後の明治14(1881)年2月には、堺県が大阪府に合併されると、奈良県は自動的に大阪府の支配下になりました。 堺県が大阪府と合併すると各地域が抱える課題の違いから不公平が生じました。府の地方税の支出が旧摂津・河内・和泉の河川や港湾の改修に多くあてられ、大和が求める道路の新設・改修、産業振興、学校施設の改善などは後回しになりました。税の不公平に不満を抱く大和の人々は、奈良県復活を求める声をあげました。   奈良県再設置を求める運動「分置県請願」 明治14(1881)年12月、旧奈良県出身の大阪府議会議員、今村勤三(いまむらきんぞう)や恒岡直史(つねおかなおふみ)らは奈良県再設置を求める「分置県請願(ぶんちけんけいがん)」と呼ばれる運動を起こしました。 自由民権運動が盛んだった当時、運動は農民らの地租軽減要求と結びついて大いに盛り上がりました。明治16(1883)年8月、866町村から2万人以上の署名が集まり、議員らは何度も上京し奈良県再配置を請願しました。 しかし、政府からは回答を得ることはできず、運動は次第に沈滞しました。 奈良県再設置の立役者・今村勤三 今村勤三(1852~1924)は、大阪府から奈良県を独立させ再設置へと導いた中心的人物。再設置後の初代奈良県議会議長を務め、明治23(1890)年、第1回衆議院選挙に当選し国会議員を務めました。 明治21(1888)年には、奈良県初の日刊紙『養徳(やまと)新聞』を創刊し、郡山紡績の社長や現在のJR奈良線、桜井線の奈良駅~桜井駅を付設した奈良鉄道の社長を務めるなど産業振興にも貢献しました。 今村勤三や、息子で大阪帝国大学(現在の大阪大学)第5代総長・文化功労者の今村荒男(あらお)(1887~1967)の生家は、安堵町の安堵町歴史民俗資料館として保存・公開されています。   奈良県再設置が伊藤博文首相に認められる 転機が訪れたのは明治20(1887)年。大阪府下の摂津・河内・和泉で地価改正が実現されるのに対し、県内の農民らから地租軽減要求の機運が高まり、恒岡直史らは奈良県再設置と地租軽減請願、2つの要望を携え、上京しました。 地租軽減請願は認められませんでしたが、同年10月には、地方税配分の不均衡解消を最大の理由として伊藤博文首相は奈良県再設置を約束しました。   奈良県民の悲願の「奈良県再設置」は紆余曲折しながら実現 明治20(1887)年11月、ついに奈良県再設置の勅令が出され、県庁所在地は奈良に、管轄範囲は大和一円となりました。初代知事には、薩摩藩出身で元老院議官や堺県知事を歴任した税所篤(さいしょあつし)が就任しました。 知事を出迎えるため多くの県民が大阪府国分村まで赴き、知事が乗る人力車に長い列をなして随伴したといいます。県民の悲願の「奈良県再設置」は、紆余曲折しながら実現しました。   『奈良のトリセツ』好評発売中! 奈良県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。奈良県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【奈良県】地図上から奈良県が消えた空白期間がある!?奈良県はかつて大阪府の一部だった!

廃藩置県でいったん奈良県となった大和国ですが、府県統合で大阪府に吸収されました。大和より摂津・河内・和泉を優先する府政に憤った県民は、奈良県再設置運動を起こしました。   奈良県は廃藩置県で設置された 江戸幕府崩壊直後、奈良県の行政上の名称や管轄はめまぐるしく変化しました。 明治新政府は大和にあった幕府直轄地を接収し、慶応4(1868)年1月、奈良に大和鎮台を設置し統治しました。同年5月、奈良県を設置し、十津川郷を除く旧幕府領と寺社領を管轄。同じ幕府直轄地の堺も港湾都市として重要視され堺県となりました。大和の宇智郡、吉野郡はその後奈良県から分離し、河内と紀伊の一部地域を加えた五條県が誕生しました。 明治4(1871)年7月、廃藩置県で、幕府領以外の大和各藩はそれぞれ県を名乗るようになりましたが、同年11月、明治政府による府県統合の結果、大和国内の五條県を含む各県が廃止され、それら全域を所管する奈良県があらためて誕生しました。県庁は興福寺一乗院に設置され、元五條県知事、四条隆平(しじょうたかとし)が県令(現在の知事)に任命されました。   奈良県は府県統合で大阪府の支配下に ところが明治9(1876)年になると、各府県の財政難を解消するため、政府は統合75府県を3府35県に再編しました。奈良県は同年4月、太政官布告により堺県(現在の大阪府堺市)に合併され、大和全域を管轄していた奈良県は地図から姿を消してしまいました。さらにその5年後の明治14(1881)年2月には、堺県が大阪府に合併されると、奈良県は自動的に大阪府の支配下になりました。 堺県が大阪府と合併すると各地域が抱える課題の違いから不公平が生じました。府の地方税の支出が旧摂津・河内・和泉の河川や港湾の改修に多くあてられ、大和が求める道路の新設・改修、産業振興、学校施設の改善などは後回しになりました。税の不公平に不満を抱く大和の人々は、奈良県復活を求める声をあげました。   奈良県再設置を求める運動「分置県請願」 明治14(1881)年12月、旧奈良県出身の大阪府議会議員、今村勤三(いまむらきんぞう)や恒岡直史(つねおかなおふみ)らは奈良県再設置を求める「分置県請願(ぶんちけんけいがん)」と呼ばれる運動を起こしました。 自由民権運動が盛んだった当時、運動は農民らの地租軽減要求と結びついて大いに盛り上がりました。明治16(1883)年8月、866町村から2万人以上の署名が集まり、議員らは何度も上京し奈良県再配置を請願しました。 しかし、政府からは回答を得ることはできず、運動は次第に沈滞しました。 奈良県再設置の立役者・今村勤三 今村勤三(1852~1924)は、大阪府から奈良県を独立させ再設置へと導いた中心的人物。再設置後の初代奈良県議会議長を務め、明治23(1890)年、第1回衆議院選挙に当選し国会議員を務めました。 明治21(1888)年には、奈良県初の日刊紙『養徳(やまと)新聞』を創刊し、郡山紡績の社長や現在のJR奈良線、桜井線の奈良駅~桜井駅を付設した奈良鉄道の社長を務めるなど産業振興にも貢献しました。 今村勤三や、息子で大阪帝国大学(現在の大阪大学)第5代総長・文化功労者の今村荒男(あらお)(1887~1967)の生家は、安堵町の安堵町歴史民俗資料館として保存・公開されています。   奈良県再設置が伊藤博文首相に認められる 転機が訪れたのは明治20(1887)年。大阪府下の摂津・河内・和泉で地価改正が実現されるのに対し、県内の農民らから地租軽減要求の機運が高まり、恒岡直史らは奈良県再設置と地租軽減請願、2つの要望を携え、上京しました。 地租軽減請願は認められませんでしたが、同年10月には、地方税配分の不均衡解消を最大の理由として伊藤博文首相は奈良県再設置を約束しました。   奈良県民の悲願の「奈良県再設置」は紆余曲折しながら実現 明治20(1887)年11月、ついに奈良県再設置の勅令が出され、県庁所在地は奈良に、管轄範囲は大和一円となりました。初代知事には、薩摩藩出身で元老院議官や堺県知事を歴任した税所篤(さいしょあつし)が就任しました。 知事を出迎えるため多くの県民が大阪府国分村まで赴き、知事が乗る人力車に長い列をなして随伴したといいます。県民の悲願の「奈良県再設置」は、紆余曲折しながら実現しました。   『奈良のトリセツ』好評発売中! 奈良県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。奈良県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【静岡県】富士山と駿河湾の形成の歴史~標高と深海の日本一を持つ静岡県~

【静岡県】富士山と駿河湾の形成の歴史~標高と深海の日本一を持つ静岡県~

標高3776mを誇る富士山に、深さ約2500mとこちらも日本一の駿河湾。その落差は合わせて約6300mと圧倒的なスケール!それぞれの成り立ちや特徴を見ていきましょう。   富士山の歴史と成り立ち 標高が高い山の成り立ちには大きく2つのメカニズムがあります。 その一つは、大陸や島などの陸地と陸地が衝突してできるというもの。大陸や島は厚さ100mほどの巨大な岩盤のプレートに乗っており、プレートが移動して陸地同士が衝突すると、横方向から大きな力が加わります。そして陸地にシワが寄るようなかたちで、押し上げられた部分が山となります。世界的に見るとヒマラヤ山脈やアルプス山脈など、国内では“日本の屋根”と呼ばれる日本アルプスが代表的です。その一つ南アルプスには日本で2番目に高い北岳もそびえています。 もう一つのメカニズムは火山活動によるものです。噴火によって地表に吹き出した溶岩や噴石、火山灰が積み重なることで高い山ができます。富士山は数十万年もの間、噴火を繰り返し、1万年前にようやく今のような姿になりました。最初に「先小御岳(せんこみたけ)」という山ができ、その後に「小御岳(こみたけ)」と「愛鷹山(あしたかやま)」が、そして、10万年くらい前にこの2つの火山の間に、今の富士山のもとになる「古富士(こふじ)」ができました。古富士の火山活動は非常に活発で、大きく成長して小御岳を覆いこみ、1万年前には愛鷹山のふもとまですそ野が広がり今のような形になりました。4つの火山が積み重なっていることから、富士山は“4階建て構造”といわれています。 4つの火山が積み重なってできている富士山。2004(平成16)年、東京大学地震研究所のボーリング調査により小御岳火山の下に先小御岳火山があることが判明しました。   富士山形成の歴史:地下はどうなっている? 数十万年にもわたってこの地で火山活動が続いてきた理由は、プレートの活動が深く関係しています。富士山の地下では、ユーラシアプレートと北米プレート、フィリピン海プレートの3つが交差しており、プレートが接した場所ではマグマができやすく、火山活動が活発になりやすくなっています。さらに、富士山のほぼ真下には、フィリピン海プレートが東西に大きく裂けており、このすき間を埋めるように地下で発生したマグマがのぼってくることから、火山活動が長く続いてきたとも考えられています。   富士山形成の歴史:美しい形になった理由 また、富士山が美しい円錐形をしているのは、溶岩の粘り気の質にあります。富士山と、国内では富士山に次いで標高の高い火山の御岳山(おんたけさん:長野県)は、ともにほぼ同一の火口から複数回の噴火を繰り返す成層火山です。この2つを比べてみると、溶岩の粘り気の強い御岳山は表面がゴツゴツとした形状になったのに対し、溶岩の粘り気が弱く流れやすかった富士山は、美しい円錐形になりました。   駿河湾は伊豆半島が本州に衝突してできた! 駿河湾は奥行き約60km、御前崎と石廊崎を結ぶ湾の間口が約55㎞、表面積は約2300㎢で、今からおよそ60万年前、火山島だった伊豆半島がフィリピン海プレートに載って南から移動し、本州に衝突したことで湾となりました。 湾の中央部にはフィリピン海プレートとユーラシアプレートを境界とする溝が南北に伸び、東西を二分しています。この溝は「駿河トラフ」呼ばれ、大地震の想定震源域とされる「南海トラフ」と連続し、その北端部分にあたっています。 駿河湾の最深部は2500mに及ぶ世界有数の深海 駿河湾は、日本はもとより世界でも有数の急峻な海底地形として知られており、湾奥地の富士川河口部では、海岸からわずか2km地点で水深500mにも及びます。駿河トラフでは本州が載っているユーラシアプレートの下に、フィリピン海プレートと太平洋プレートが潜り込み続けていることから、このように急峻で最深部が2500mにも及ぶ深海を作り出したと考えられています。 また、湾南西域には水深平均100m、最浅部32mの「石花海(せのうみ)」と呼ばれる台地が存在し、好漁場となっています。 駿河湾は魚の天国! 日本の魚類は淡水魚を含めて約2300種確認されていますが、駿河湾内には、そのおよそ半分にあたる約1000種もの魚類が生息していると言われています。魚が生息しやすい複雑な地形や、湾内への黒潮の還流など、恵まれた環境が石花海をはじめ絶好の漁場を作り出しています。 水揚げされるのはアジ、サバ、イワシ、カツオ、シラスをはじめ、駿河湾で唯一水揚げされるサクラエビ、大きいものは体長3mにもなる世界最大のカニ・タカアシガニ、ところてんなどの原料になるテングサなど、多岐にわたります。こうした海の幸が静岡県の食文化や漁業を支えてきました。   富士山の湧水が駿河湾に注ぎ込むことで静岡の地形を形作った 富士山の湧水は、年間約25億トンとも言われる富士山に降る雨や雪が大地に染み込み、濾過されながら地下水となり、これが地表に現れたものです。駿河湾の沿岸には湧水の名所が数多くあり、川や岸壁から駿河湾に注ぎ込み、海の恵みを育んでいます。また、湧水は駿河湾の海底でも確認されており、現在その研究が進められています。 富士山頂から駿河湾の海底まで、高低差6300mに及ぶダイナミックな地形は湧水でつながり、美しいグラデーションを描いているのです。   『静岡のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。静岡の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...

【静岡県】富士山と駿河湾の形成の歴史~標高と深海の日本一を持つ静岡県~

標高3776mを誇る富士山に、深さ約2500mとこちらも日本一の駿河湾。その落差は合わせて約6300mと圧倒的なスケール!それぞれの成り立ちや特徴を見ていきましょう。   富士山の歴史と成り立ち 標高が高い山の成り立ちには大きく2つのメカニズムがあります。 その一つは、大陸や島などの陸地と陸地が衝突してできるというもの。大陸や島は厚さ100mほどの巨大な岩盤のプレートに乗っており、プレートが移動して陸地同士が衝突すると、横方向から大きな力が加わります。そして陸地にシワが寄るようなかたちで、押し上げられた部分が山となります。世界的に見るとヒマラヤ山脈やアルプス山脈など、国内では“日本の屋根”と呼ばれる日本アルプスが代表的です。その一つ南アルプスには日本で2番目に高い北岳もそびえています。 もう一つのメカニズムは火山活動によるものです。噴火によって地表に吹き出した溶岩や噴石、火山灰が積み重なることで高い山ができます。富士山は数十万年もの間、噴火を繰り返し、1万年前にようやく今のような姿になりました。最初に「先小御岳(せんこみたけ)」という山ができ、その後に「小御岳(こみたけ)」と「愛鷹山(あしたかやま)」が、そして、10万年くらい前にこの2つの火山の間に、今の富士山のもとになる「古富士(こふじ)」ができました。古富士の火山活動は非常に活発で、大きく成長して小御岳を覆いこみ、1万年前には愛鷹山のふもとまですそ野が広がり今のような形になりました。4つの火山が積み重なっていることから、富士山は“4階建て構造”といわれています。 4つの火山が積み重なってできている富士山。2004(平成16)年、東京大学地震研究所のボーリング調査により小御岳火山の下に先小御岳火山があることが判明しました。   富士山形成の歴史:地下はどうなっている? 数十万年にもわたってこの地で火山活動が続いてきた理由は、プレートの活動が深く関係しています。富士山の地下では、ユーラシアプレートと北米プレート、フィリピン海プレートの3つが交差しており、プレートが接した場所ではマグマができやすく、火山活動が活発になりやすくなっています。さらに、富士山のほぼ真下には、フィリピン海プレートが東西に大きく裂けており、このすき間を埋めるように地下で発生したマグマがのぼってくることから、火山活動が長く続いてきたとも考えられています。   富士山形成の歴史:美しい形になった理由 また、富士山が美しい円錐形をしているのは、溶岩の粘り気の質にあります。富士山と、国内では富士山に次いで標高の高い火山の御岳山(おんたけさん:長野県)は、ともにほぼ同一の火口から複数回の噴火を繰り返す成層火山です。この2つを比べてみると、溶岩の粘り気の強い御岳山は表面がゴツゴツとした形状になったのに対し、溶岩の粘り気が弱く流れやすかった富士山は、美しい円錐形になりました。   駿河湾は伊豆半島が本州に衝突してできた! 駿河湾は奥行き約60km、御前崎と石廊崎を結ぶ湾の間口が約55㎞、表面積は約2300㎢で、今からおよそ60万年前、火山島だった伊豆半島がフィリピン海プレートに載って南から移動し、本州に衝突したことで湾となりました。 湾の中央部にはフィリピン海プレートとユーラシアプレートを境界とする溝が南北に伸び、東西を二分しています。この溝は「駿河トラフ」呼ばれ、大地震の想定震源域とされる「南海トラフ」と連続し、その北端部分にあたっています。 駿河湾の最深部は2500mに及ぶ世界有数の深海 駿河湾は、日本はもとより世界でも有数の急峻な海底地形として知られており、湾奥地の富士川河口部では、海岸からわずか2km地点で水深500mにも及びます。駿河トラフでは本州が載っているユーラシアプレートの下に、フィリピン海プレートと太平洋プレートが潜り込み続けていることから、このように急峻で最深部が2500mにも及ぶ深海を作り出したと考えられています。 また、湾南西域には水深平均100m、最浅部32mの「石花海(せのうみ)」と呼ばれる台地が存在し、好漁場となっています。 駿河湾は魚の天国! 日本の魚類は淡水魚を含めて約2300種確認されていますが、駿河湾内には、そのおよそ半分にあたる約1000種もの魚類が生息していると言われています。魚が生息しやすい複雑な地形や、湾内への黒潮の還流など、恵まれた環境が石花海をはじめ絶好の漁場を作り出しています。 水揚げされるのはアジ、サバ、イワシ、カツオ、シラスをはじめ、駿河湾で唯一水揚げされるサクラエビ、大きいものは体長3mにもなる世界最大のカニ・タカアシガニ、ところてんなどの原料になるテングサなど、多岐にわたります。こうした海の幸が静岡県の食文化や漁業を支えてきました。   富士山の湧水が駿河湾に注ぎ込むことで静岡の地形を形作った 富士山の湧水は、年間約25億トンとも言われる富士山に降る雨や雪が大地に染み込み、濾過されながら地下水となり、これが地表に現れたものです。駿河湾の沿岸には湧水の名所が数多くあり、川や岸壁から駿河湾に注ぎ込み、海の恵みを育んでいます。また、湧水は駿河湾の海底でも確認されており、現在その研究が進められています。 富士山頂から駿河湾の海底まで、高低差6300mに及ぶダイナミックな地形は湧水でつながり、美しいグラデーションを描いているのです。   『静岡のトリセツ』好評発売中! 日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。静岡の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!...