松永久秀は信貴山城(しぎさんじょう)を居城として大和に侵攻した後、永禄3(1560)年、東大寺の北側、佐保山(さほやま)に多聞山城を築きました。その名は信仰していた北の守護神・多聞天(毘沙門天)にちなんだものです。
城は興福寺などの宗教勢力を一望できる高台にあり、東に京街道が通る交通の要衝にも位置し、奈良支配への絶好の拠点となりました。
多聞山城の特徴
城郭は城壁で囲まれ日本初の天守閣にあたる4層の櫓を備えていました。壁は鉄砲の弾が貫通しないよう漆喰塗りで、屋根は火矢の攻撃に強い瓦葺き。周囲には大規模な横堀をめぐらし防御に秀でていました。白い漆喰塗りの壁は寺院様式を応用し、寺院専門の瓦工人が城用に瓦を焼くなど、古都の特性が生かされました。
多聞山城は豪華絢爛!美しさも際立っていた
多聞山城は美しさも際立っていました。城内には会所・主殿があり、柱には彫刻や真鍮製の飾りが付いていました。引手などの調度品は京都の錺金具(かざりかなぐ)師・躰阿弥(たいあみ)に、絵は狩野派(かのう)派の絵師に依頼したといいます。
茶室(茶亭)が2つあり茶会も催されました。豪華絢爛な城の様子をイエズス会宣教師アルメイダは「世界中この城のごとく善かつ美なるものはなし」と記しました。
松永久秀から織田信長へ空け渡された多聞山城
しかし、城は長くは続きませんでした。元亀2(1571)年、松永久秀は長慶亡き後、養子の三好義継(みよしよしつぐ)らと組んで信長を裏切りましたが追い詰められ、その後多聞山城を信長に空け渡しました。信長は松永久秀と敵対していた筒井順慶に大和の支配権を与え、天正4(1576)年、城郭の取り壊しを命じました。
松永久秀の最期
松永久秀は翌年、本願寺攻めを離脱して再び信長に背き、信貴山城で籠城し自害しました。このとき信長は「名器『平蜘蛛茶釜』を差し出せば助命する」と伝えましたが、松永久秀は「平蜘蛛の釜とわれらの首と2つは、信長公のお目に掛けない」と答え、釜をたたき割り、みずから爆死したとされます。
松永久秀の2度の裏切りについては諸説あり、信長が松永久秀を軽くあしらったのが原因ともいわれます。義輝暗殺や大仏放火については、松永久秀の関与を否定する説もあり、「梟雄」の実像が明らかになってきました。
多聞山城は近世城郭の先駆け!織田信長の安土城天守のモデルとなった
多聞山城の堅牢で美しい造りは、近世城郭の先駆けとなり、4層の櫓はのちに信長が安土城天守のモデルにしたとされています。信長は進取的な構造を備えた多聞山城を妬み、ことごとく破壊したといいます。
多聞山城は松永久秀と信長、2人の武将の命運とともに語り継がれています。
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