当時の江戸城は、太田道灌が支配していた頃の地形と変わらず、江戸城の近くまで日比谷の入江が入り込み、現在の皇居外苑のあたりまで海でした。道灌が築いた江戸城は、家康が移り住むまでは小さな城にしかすぎず、江戸湾沿いには多くの汐入地が点在し、満潮になると海水が入り込みました。
家康が江戸に入る前に家臣に命じたのは、飲料水の確保でした。文禄元(1592)年、江戸城の飲料水確保のため、麹町方面から流れていた自然の河川を堰き止め、貯水池を造ることを命じています。これが現在の千鳥ヶ淵です。
江戸城内の水は塩分が抜けきらず、飲料水としては不適だったため、次に着手したのは、数々の河川工事でした。江戸は低地ゆえに、水害に弱く、たびたび洪水に悩まされました。
そこで、平川と小石川をひとつにまとめ、道三堀を造り、隅田川と結ぶことで江戸への生活物資の輸送路を確保しました。道三堀の起点は現在の和田倉門近くで、ここから道三堀を経由し平川(現在の日本橋川)に合流します。
生活物資を千葉方面から江戸に運ぶルートとして開発したのが小名木川です。小名木川を通って行徳(ぎょうとく)から塩を運びました。
これら運河は城を中心とした右渦巻き状の構造とも符号していました。運河は外に向かって広がり、濠を築くことで敵からの攻撃を防ぐ役割も果たしました。
現在は桜の名所として知られる千鳥ヶ淵
江戸の町は河川工事による埋め立てで作られた
江戸城建設のため、大量の物資を外から調達しなくてはなりません。そのためには、江戸湾に面して広がっていた湿地帯を埋め立て、海岸線を整え船着き場を建設する必要があったため、人工河川の開削で得た大量の土砂は湾の埋め立てに利用されました。
江戸城石垣の石は伊豆半島から舟で運ばれました。神田山(神田駿河台)を切り崩した土砂を利用して日比谷入江を埋め立てて町を海側に拡大する工事も行い、これは家康亡き後の歴代の徳川将軍に引き継がれます。
出典:『江戸の川 東京の川』(鈴木理生著 発行:井上書院)を元に作成
家康入城以前の江戸城は太田道灌が築いたもので、北東に平川が流れ、前面に日比谷入江を望むところでした。神田山を切り崩した土砂を日比谷入江の埋め立てに利用し、道三堀を開削しました。
日比谷入江は埋め立てられ、櫛形の埠頭が建設されました。
江戸の町づくりの都市計画
家康が慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍となり江戸幕府を開いたのは慶長8(1603)年。以後、天下普請(ぶしん)といわれる、全国の大名に大がかりな工事を課して、城を中心にした江戸の町が短時間で完成します。
屋敷配分では、江戸城の北西側の高台の多くは家臣に配分し、城の東南側の低地を町人地としました。この棲み分けは現在の山の手、下町の原型につながっています。
江戸の都市計画は家康によってなされ、3代将軍・家光の時代にほぼ完成したといわれます。
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