伊能忠敬の実測によって完成した近代日本地図

伊能忠敬の実測によって完成した近代日本地図

江戸時代に千葉県域が生んだ偉人といえば、もちろん伊能忠敬(いのうただたか)を忘れてはなりません。
江戸時代後期、忠敬はみずからの足で日本全国をくまなく歩き回り、実測に基づく日本地図を作成しました。
日本最初の近代地図は、忠敬の死後に完成することになりますが、いうなれば忠敬は「日本地図の父」。
忠敬がどのようにして偉業を成し遂げたのか、その足跡を追ってみましょう。

伊能忠敬の商人・名主としての手腕

1745(延享2)年、伊能忠敬は上総国山辺郡小関村(やまのべぐんこせきむら)(九十九里町小関)に生を受けました。長じて17歳になると、香取郡佐原村(香取市佐原)の豪商・伊能家の婿養子になります。伊能家は佐原で地主、酒造、米相場、運搬業、金融業など多角的な経営をしていましたが、伊能忠敬はそこで商才を発揮。伊能家を資産3万両(約45億円)の大豪商へと押し上げました。

1781(天明元)年、伊能忠敬は名主(なぬし)となると、その直後に天明の大飢饉が起こります。すると、窮民救済のために民政に力を注ぎ、また、利根川の築堤普請でも工費を安くまとめるなど手腕を発揮しました。この頃、伊能忠敬は名字帯刀が許され、村方後見にも任じられていました。

38歳のときに妻ミチを亡くした伊能忠敬は、後妻にも先立たれ、49歳にして隠居を決意。家督を長男に譲るのでした。

「下総の小江戸」佐原

佐原は利根川の支流・小野川の河口部に開かれた小さな村でしたが、江戸時代に幕府の天領(直轄地)となりました。利根川東遷事業やそれにともなう新田開発では物資集積場として注目され、さらに、九十九里浜から利根川へと河川が接続され物資の運搬ルートが確立すると、流通拠点として大きく発展。1768(明和5)年には戸数1322軒、人口5085人と「下総の小江戸」と称されるほどの繁栄を見せました。

こうした富裕な村で財を成した伊能家のような豪商が、豊かな経済力を背景に地域文化を育んだことも、伊能忠敬のような人材を出す素地となったと考えられます。

千葉県香取市佐倉にある伊能忠敬旧居

伊能忠敬50歳の転機

ここで伊能忠敬にとっての転機が訪れます。50歳になった伊能忠敬は、幼少時より興味を抱いていた暦学を学ぶため、江戸に出て幕府天文方の高橋至時(たかはしよしとき)に弟子入りしたのです。このとき至時は31歳。伊能忠敬は19歳年下の師匠に礼を尽くし、暦学や天体観測を学び始めました。

近年、伊能忠敬を「中高年の星」とセカンドキャリアの面で賞賛する気運があるのは、彼が50歳になってから学問の道に入ったことを評価してのことです。

伊能忠敬が正確な暦のために志した測量と地図作成

師匠の至時は1797(寛政9)年に「寛政暦」を完成させましたが、その完成度に満足していませんでした。正確な暦をつくるには地球の大きさや日本各地の緯度や経度を知る必要があり、そのためには「江戸と蝦夷地(えぞち)(北海道)の緯度差と距離を測ればいい」という結論に至ります。

かくして伊能忠敬は、子午線一度の正確な実測値(緯度)を割り出すため、測量と地図作成を志すようになります。

伊能忠敬が蝦夷地測量を志した当時の北方情勢とは

ちょうどこの頃、蝦夷地にはロシア船が来航するようになっていました。日本の貨物船が襲われる事案が続き、幕府は危機感を募らせていた最中でした。それまで幕府は、蝦夷地の管理を松前藩に委ねていたが直轄地にすることを決定。こうした北方情勢の緊張から、幕府も蝦夷地の正確な地図を求めるようになっていました。

かくして、「地図作成」という名目を掲げつつ、子午線一度の実測値をつかむ野望を秘め、至時は蝦夷地の海岸線の測量を幕府に願い出て、伊能忠敬を推薦するのでした。

伊能忠敬は55歳で測量の旅へ!

しかし、幕府からはすんなりと許可は下りませんでした。商人上がりで実績がなく、さらに高齢の伊能忠敬は、適任であると思われなかったのです。

測量にかかる実費を伊能忠敬が負担するなどを条件に、ようやく幕府から許可が下り、伊能忠敬が江戸の深川黒江町(東京都江東区門前仲町)の自宅を発って測量の旅に出たのは 1800(寛政12)年閏4月のこと。伊能忠敬は55歳になっていました。

千葉県香取市佐倉にある伊能忠敬記念館では実際に使われた貴重な測量器具を見ることができる

伊能忠敬の第1次測量:蝦夷地と東北の測量

この測量は180日以上にもおよび、そこで得られたデータをもとに蝦夷地と東北の地図22 枚が作成され、子午線一度を27里と計算しました。

ちなみに伊能忠敬は、この旅で幕府からの手当てが20両出たとはいえ、道具代や支度代を除いて約80両も負担しています。

 

伊能忠敬の第2次測量:測量は驚異の正確さだった!

翌年の第2次測量は242日間におよびました。場所は、伊豆以北の関東・東北の東海岸と東北道で、今度は子午線一度を28.2里(約110㎞)と実測。これは現在のメートル法に換算しても、誤差0.2%程度という驚異の正確さでした。

いっぽう、幕府からの手当ては3割増となったものの、伊能忠敬は今回も60両ほどを負担しています。

伊能忠敬の第3次測量:忠敬の地図が評判に!

伊能忠敬の作成した地図はたちまち評判になり、第3次測量での手当ては60両、人足5名に馬5匹などが与えられ、幕府の御用に準ずる扱いを受けるようになりました。

伊能忠敬が測量した距離は地球1周分!日本地図「伊能図」の完成

かくして伊能忠敬は、足かけ17年、71歳までに合計10次におよぶ測量を行いました。伊能忠敬の踏破した距離は約4万㎞に達し、それは地球1周分に相当します。全測量を終えた忠敬は、1818(文政元)年、73年間の生涯を終えました。

忠敬自身、地図の完成を見ることはありませんでしたが、この一大プロジェクトは師・高橋至時の子である景保(かげやす)に引き継がれ、やがて「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」(通称・伊能図)が完成しました。

この「伊能図」は「大図」(3万6000分の1)214枚、「中図」(21万6000分の1)8枚、「小図」(43万2000分の1)3枚と、それぞれ異なる縮尺で用意され、このうち「大図」が実測図となっていました。

 

伊能忠敬の日本地図が国内外に及ぼした影響

のちに、オランダ医師シーボルトが「伊能図」を国外に持ち出そうとして追放処分となり、シーボルトに地図を渡した景保は捕縛されて獄死しました(シーボルト事件)。

シーボルトは帰国後に著書『日本』のなかに「伊能図」を掲載し、その読者のひとりには、のちに浦賀沖に黒船を率いて来航するペリーがいました。「伊能図」は、多方面に影響を及ぼすのでした。

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